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黒いスウェットに包んだ人物はそっと被っていたベレー帽を取った。
板倉の思った通り人物だった。10年ぶりの再会だ。顔立ちは高校生時代と変わらない。いや、じっと見つめる黒い瞳から放つオーラにただならぬ気配を感じる。
なんだ……
自分が関わった事件を解決に導かなかった板倉への恨みでもない
「香西沙良だな? 警備員に化けていたとは。盲点だった」
「囮を使っておいて正解だったわ。あなたは腕利きの刑事さんだから。あなたのチェックをかい潜るのが大変だったわ」
「ようやくご対面というわけだな?」
「板倉勉刑事ね。頂いた名刺に書かれた御名前はそうでしたかしら? 私はきちんと日付まで覚えているわ」
「ああ。病室で名刺を渡したな」
「今でも昨日ことのように覚えているわ。あなたが言ったことは脳裏に焼き付いている。警察なんて信用できない」
「俺はあんたの両親を殺した犯人を捕まえることはできなかった」
「別にあなたを恨んじゃいないわ。相手が悪すぎたもの。私には分かっているの、仇の名前がね」
ふふ、と含んだ笑いをする。男を虜にするだけの力がある。一瞬たりとも気が抜けない。
「俺は昔話をしたいわけじゃない。確かめに来た」
「何を?」
「事件の真相だよ」
「何だかどうでもいい話ね。私からすればただの過去形の話だから。でも刑事さんは事件を解明するのが仕事だから仕方ないわ。あまり時間がないから手身近に行きましょう」
「尾坂詩織、尾坂誠を殺したのはあんたでいいな?」
「他に誰がいるの?」
沙良は静かにつぶやいた。人殺しなんてなんて大した問題ではないかのように流す。この女にとって人の死は川の水が山から流れて海に入るのと同義なのだ。
「順を追って説明しよう。あんたは伯父と伯母と会社経営を巡って対決していた。邪魔になった伯父と伯母はあんたを殺す計画を立てた。交通課に聞いたら、ブレーキオイルが少なくなっていた痕跡があったぜ。2人が先に仕掛けてきたわけだ」
「色々と調べたのね。あのときは焦ったわ。夜中には野暮用であの方面にドライブによく行くけど。何とかガードレールにぶつけて衝撃を和らげたつもりだったけど当たり所が悪かったみたい」
沙良は事故の日を思い出した。組織は大きくなった。47の都道府県に支部長がいる。さらに細かく市区町村単位で部下がいる。それらすべての上に沙良がいた。
伯父と伯母は沙良が幼いころから後見人として面倒を見ていた。
沙良が大人になって卓越した経営力を見せると、2人は沙良と距離置くようになった。2人は協力して組織のメンバーを造反させた。
あとは邪魔になった沙良を殺すだけ。車の細工は部下に命じた者だろう。車のブレーキが効かなくなることに気づいたのは夜遅くだ。
スピードを落とそうと沙良は必死にハンドルを切った。このとき自身の運転スキルの低さを呪った。ちょうど下り坂付近を走っていたのだ。スピードは落ちなかった。
車は多摩地域に差し掛かり、見知らぬ公園付近で横転した。沙良はうまく護身術で体の衝撃を回避した。落ち着いたとき、車から脱出しようとした時、ガンっと頭に衝撃が走り意識を失った。
目覚めたとき沙良は記憶を失っていた。伯父と伯母の死に際の告白で担当医と看護婦を買収して、沙良を別人に仕立て上げようとしたのだ。
2人の発想は神がかっていた。いや、神というより悪魔的な発想だろう。なぜなら記憶喪失の姪を狂った夫妻に押しつけ経営権を握ろうとしたのだから。無能と侮ったのが良くなかった。さっさと殺しておけばよかった。
沙良は伯父と伯母の話に乗った尾坂夫妻により「尾坂理佐」として人生を過ごすことになった。
「全くひどい話だと思わない?」
「あんたが背負ってきた人生は想像を絶するよ。風井空を殺したのは、尾坂夫妻だろう?」
「そうよ。空は何も悪くなかった……」
沙良からすれば尾坂夫妻の行動は吐き気が催すものだ。尾坂理佐、風井空。2人は数少ない沙良の友達だった。もう十年も昔。沙良が高校一年の話だ。
過去の情景がよぎる。
「名前がアナグラムって、どういうこと?」
「ほら、私の名前は尾坂理佐でしょ。で、彼女は風井空でしょ?」
沙良は首をひねった。だが、すぐに理佐の言っていることが分かった。
「ふーん、なるほどね。ローマ字にしたら三人ともがそれぞれのアナグラムなわけね」
「うちら気が合うし、お互いの悩みは共有し合おうよ」
理佐が得意げに言っていた。何が面白いのか沙良にはわからなかったが、別に面倒な相手ではなかったので、気軽に話をした。
印象としては理佐がクラスを引っ張っていくようなリーダタイプで、その後ろに空が付いていく。さしずめ沙良はリーダを裏でサポートする存在。
3人の関係は調和が取れていた。あのときが人生で一番楽しかったかもしれない。しかし、素晴らしい調和は理佐の死によって終わった。気丈な理佐は時々ナイーブになっていた。理佐は家庭環境でかなり悩んでいる様子だ。
「ごめん……」
理佐はポツリとつぶやいた。三人のお気に入りの海外アーティストのライブ。たまたま抽選で当たったチケットは3人分だった。
でも前日。理佐の親がチケットを見つけ出してしまった。事情は聞いた。従姉妹の空から聞いた話、理佐はずいぶん怒られたようだ。
理佐が自殺する数日前の話だった。理佐はあまり周りと打ち解けない沙良と距離を詰めようとしていた。でも、沙良への気遣いだけではなく、自身の悩みを共有したい仲間が欲しかったのかもしれなかった。事実、理佐は徐々に過保護な両親のこともあり孤立していった。
「理佐が死んだとき、この両親が殺したんだと思ったわ。娘の死すら演出に使ったの。娘を無くした悲劇の娘だと周りに認めてほしかったのよ。さてあなたにも解けていると思うけど、私の伯父と尾坂夫妻はつるんでいた。何が何でも私を消したい伯父は記憶を失くした私を理佐に仕立て上げた」
「手の込んだことだ。病院側も組んでのことだからな・本物の尾坂理佐は死んでいるから、理佐の名義は使えない。だから風井空だ。尾坂は空を殺し、あんたに空の名義の保険証や運転免許証を渡したわけだ」
「不思議だったわ。名前が2つあるなんて。まあ私が2人の娘じゃないことは調べて分かったけど」
板倉は淡々と話す沙良の素顔を見ていた。この女は全てを記憶している。自分のことだけではなく、関わった相手の経緯を全て記憶している。ただ記憶するだけではなく、恐らく相手の心情まで理解し再現している。
「大がかりな仕掛けは見えてきたが、動機だよ。友達の死だからってあんたが尾坂詩織と誠を殺す必要はねえだろ」
「2人は死ぬべきだったの。自分の周りのものを利用するだけ利用して自分たちの希望に合わなければ捨てる、そういう外道よ」
「そこを詳しく聞かせてもらおうか?」
板倉は話をなるべく伸ばそうとしていた。犯人から情報を引き出す時は、相手を饒舌にさせたほうがいい。香西沙良のように優等生タイプは語りたくて仕方ないことが多い。おまけにプライドが高いものだから。いかに話を聞く姿勢を取り時間を長引かせるか。
応援が来るまでの辛抱だ。
「ずいぶん知りたがりなのね」
「俺は知りたい。俺の刑事人生で未解決だったのはあんたの両親の事件だからね」
「親というものは、子どもを創作物だと思っている。私の親も、理佐の親もそうだった。理佐の両親はもっとひどかった」
よくしゃべる女だ。話せ、話せ……
板倉は時間を使った。応援はまだ来ない。それまでにどれほど時間を引き延ばせるかだ。
「両親が死んだとき、私は解放されたの。でも自分は未成年だったからつかの間の解放感だった。伯父と伯母が両親の代わりになった」
「あんたの伯父と伯母が後見人になったわけだが、グループの経営は傾き始めた。あんたはチャンスとばかりに表舞台に立った」
「両親がまだマシだったのは有能だったから」
「あんたは優れた経営力で会社を立て直した。伯父の正彦と伯母の佳子は気に入らなかったわけだ」
沙良は優雅に板倉を見つめている。どこか高従姉妹ろから見下ろす女に板倉は自然といら立ちを覚える。
「さっきから胸元を気にしているようだけど……」
ちっ、気づかれたか……
仕方がなかった。早く来い。
「なに、私を捕まえる気だったの?」
「当然だ。あんたは4人を殺した犯人だ。見逃すわけにはいかん」
「私はただ当然の権利を行使しただけよ」
「人を殺めていい権利なんてない」
「あるわ。社会ができる以前の昔より人は自らの権利を守るために他者を殺してきた。私は自分の伯父と伯母に殺されかけた。身を守るために殺して何が悪いの?」
沙良はもう笑っていなかった。燃え上がる瞳はじっと板倉をとらえていた。
「何が目的だ? 仲が良いとはいえ尾坂理佐と風井空の仇を討つ必要などないだろ。あんた自身で殺すなんて」
「リスクが高いことをした、そうね。でも私がやらないで、誰がやるの。あの子たちの無念を晴らすのは私しかいない」
これ以上、話しても意味はなさそうだ。応援が来ないなら一人でやるしかない。そのとき、胸に付けた無線が密かに鳴った。応援が近くまで来ている証拠だ。
「おしゃべりは終わりだ。香西沙良、あんたを尾坂誠、尾坂詩織、香西佳子、香西正彦を殺した容疑で逮捕する」
「意味のないことよ。刑事さん。いずれ社会なんてなくなるのに。誰も私を逮捕なんてできない。日本中のあらゆる人をしばらく社会の檻は解き放たれる。人はどう思うのか、気にならない?」
「続きは署で聞く、さあ行こうか?」
板倉は腰に付けていた手錠を取り出す。しかしその前に板倉は囲まれている事実を気づいた。何より自身に付きつけられた複数の銃口に手を上げた。板倉の周りには黒服の男が銃口を突き付けていた。
「わざわざあなたの話すために待っていたと思う? 何事も先は読む人間が勝つのよ。あなた一人を殺すのは造作もないのよ」
「なるほど。鬼ごっこに付き合ってくれたのは、そういうことかい?」
「ええ。でも、あなたを殺すつもりはないわ。あなたには私の思い描く世界を見てもらいたいから」
「どんな世界だ?」
いい加減、世迷言に付き合うのにはコリゴリだ。板倉は沙良を捕まえ表舞台から降りたかった。
「自然な状態。いわば、ありのままの世界よ。誰もが縛られず暮らせる世界って言えばわかる?」
「悪いが、あんたの言う世界の実現は罪を償ってからにしてもらいたいね」
「あら、どうして?」
ピカっと沙良の視界は明るくなった。
「警察だ! 銃を捨てて投降しろ!」
「こういうことだからさ。あんたが待ち伏せしているのはお見通しだってことさ」
伊崎から渡されたトランシーバには発信機が取り付かれていた。スマホで沙良の居場所を伊崎に伝え、発信機の場所を追うよう伝えたのだ。話を引き延ばしたのは逃げないようするためだ。
黒服の男たちは狼狽していた。しかし、沙良だけは何も動じることなく冷静だった。
「何だ、分かっていたのね。でも逃げられないわけじゃないし」
減らず口をと板倉は思っていたが、知らぬ間に手に持っていたものに身構えた。
沙良は手に小型の円筒形のものを叩きつけた。視界は真っ白になって目を覆った。
「見せてあげるわ。人が誰にも支配されず、独立して自由な存在であることをね」
待てと板倉は叫んだ。
逃がさないと思い、空を掴もうとした。香西沙良、お前は俺が捕まえる。必ず罰を受けさせる。お前の言っている御託は単なるへ理屈だと教えてやる。
煙幕が立ち込める中で、耳元でささやく声がした。
「あなたは逃げられないわよ。あなたを覆う闇は果てしなく広がって、あなたを食い殺す」
「逃げはしない。必ずお前を捕まえる。罪を償わせる。その前に言わせてくれ」
「何かしら?」
「お前の親御さんには悪いことをした。事件の真相を解明できなかったのは確かだ。事件を追っていた刑事の一人として謝罪したい」
「今さら無駄なことよ。私はあなたを殺す闇。あなたは死の間際まで脅える。何度でも私の存在を夜な夜な思い出すでしょう。それがあなたへの罰よ」
「お前は……」
板倉は語り掛けたが、沙良は答えなかった。
目の前の視界が晴れたとき、沙良の姿はすでにどこにもなかった。
「一体、何者だ!」
夜空に板倉の声が咆哮した。解けなかった事件が一つ。仕方のないことだ。刑事を三十八年もやっていれば、迷宮入りしてしまう事件はあるものだ。
お前の望んだ世界とは何だ。
板倉は問う。
自然な状態だと。お前の親も、友達も皆死んでしまった。支えになる者はいない。どこが自然な状態だというのか。
ふざけるな!
板倉は心の中で叫んだ。
俺と一緒だろうが。
ささやかな思い出を想起させて生きていくしかない。哀れな泡沫みたいなのが俺とお前だ。放っておけば消えてしまうのに、何かの大事を成そうとしている。
人々を社会の檻から出す。
自然な状態。
人は皆生まれながらにして社会を構成する要員として生きている。社会がなくなれば話は変わる。
そういうことか……
板倉は恐るべき時代の到来を理解した。ならば自分は身を隠して逃げなければならない。
日付は2023年2月28日。時刻は午後8時6分。
板倉の思った通り人物だった。10年ぶりの再会だ。顔立ちは高校生時代と変わらない。いや、じっと見つめる黒い瞳から放つオーラにただならぬ気配を感じる。
なんだ……
自分が関わった事件を解決に導かなかった板倉への恨みでもない
「香西沙良だな? 警備員に化けていたとは。盲点だった」
「囮を使っておいて正解だったわ。あなたは腕利きの刑事さんだから。あなたのチェックをかい潜るのが大変だったわ」
「ようやくご対面というわけだな?」
「板倉勉刑事ね。頂いた名刺に書かれた御名前はそうでしたかしら? 私はきちんと日付まで覚えているわ」
「ああ。病室で名刺を渡したな」
「今でも昨日ことのように覚えているわ。あなたが言ったことは脳裏に焼き付いている。警察なんて信用できない」
「俺はあんたの両親を殺した犯人を捕まえることはできなかった」
「別にあなたを恨んじゃいないわ。相手が悪すぎたもの。私には分かっているの、仇の名前がね」
ふふ、と含んだ笑いをする。男を虜にするだけの力がある。一瞬たりとも気が抜けない。
「俺は昔話をしたいわけじゃない。確かめに来た」
「何を?」
「事件の真相だよ」
「何だかどうでもいい話ね。私からすればただの過去形の話だから。でも刑事さんは事件を解明するのが仕事だから仕方ないわ。あまり時間がないから手身近に行きましょう」
「尾坂詩織、尾坂誠を殺したのはあんたでいいな?」
「他に誰がいるの?」
沙良は静かにつぶやいた。人殺しなんてなんて大した問題ではないかのように流す。この女にとって人の死は川の水が山から流れて海に入るのと同義なのだ。
「順を追って説明しよう。あんたは伯父と伯母と会社経営を巡って対決していた。邪魔になった伯父と伯母はあんたを殺す計画を立てた。交通課に聞いたら、ブレーキオイルが少なくなっていた痕跡があったぜ。2人が先に仕掛けてきたわけだ」
「色々と調べたのね。あのときは焦ったわ。夜中には野暮用であの方面にドライブによく行くけど。何とかガードレールにぶつけて衝撃を和らげたつもりだったけど当たり所が悪かったみたい」
沙良は事故の日を思い出した。組織は大きくなった。47の都道府県に支部長がいる。さらに細かく市区町村単位で部下がいる。それらすべての上に沙良がいた。
伯父と伯母は沙良が幼いころから後見人として面倒を見ていた。
沙良が大人になって卓越した経営力を見せると、2人は沙良と距離置くようになった。2人は協力して組織のメンバーを造反させた。
あとは邪魔になった沙良を殺すだけ。車の細工は部下に命じた者だろう。車のブレーキが効かなくなることに気づいたのは夜遅くだ。
スピードを落とそうと沙良は必死にハンドルを切った。このとき自身の運転スキルの低さを呪った。ちょうど下り坂付近を走っていたのだ。スピードは落ちなかった。
車は多摩地域に差し掛かり、見知らぬ公園付近で横転した。沙良はうまく護身術で体の衝撃を回避した。落ち着いたとき、車から脱出しようとした時、ガンっと頭に衝撃が走り意識を失った。
目覚めたとき沙良は記憶を失っていた。伯父と伯母の死に際の告白で担当医と看護婦を買収して、沙良を別人に仕立て上げようとしたのだ。
2人の発想は神がかっていた。いや、神というより悪魔的な発想だろう。なぜなら記憶喪失の姪を狂った夫妻に押しつけ経営権を握ろうとしたのだから。無能と侮ったのが良くなかった。さっさと殺しておけばよかった。
沙良は伯父と伯母の話に乗った尾坂夫妻により「尾坂理佐」として人生を過ごすことになった。
「全くひどい話だと思わない?」
「あんたが背負ってきた人生は想像を絶するよ。風井空を殺したのは、尾坂夫妻だろう?」
「そうよ。空は何も悪くなかった……」
沙良からすれば尾坂夫妻の行動は吐き気が催すものだ。尾坂理佐、風井空。2人は数少ない沙良の友達だった。もう十年も昔。沙良が高校一年の話だ。
過去の情景がよぎる。
「名前がアナグラムって、どういうこと?」
「ほら、私の名前は尾坂理佐でしょ。で、彼女は風井空でしょ?」
沙良は首をひねった。だが、すぐに理佐の言っていることが分かった。
「ふーん、なるほどね。ローマ字にしたら三人ともがそれぞれのアナグラムなわけね」
「うちら気が合うし、お互いの悩みは共有し合おうよ」
理佐が得意げに言っていた。何が面白いのか沙良にはわからなかったが、別に面倒な相手ではなかったので、気軽に話をした。
印象としては理佐がクラスを引っ張っていくようなリーダタイプで、その後ろに空が付いていく。さしずめ沙良はリーダを裏でサポートする存在。
3人の関係は調和が取れていた。あのときが人生で一番楽しかったかもしれない。しかし、素晴らしい調和は理佐の死によって終わった。気丈な理佐は時々ナイーブになっていた。理佐は家庭環境でかなり悩んでいる様子だ。
「ごめん……」
理佐はポツリとつぶやいた。三人のお気に入りの海外アーティストのライブ。たまたま抽選で当たったチケットは3人分だった。
でも前日。理佐の親がチケットを見つけ出してしまった。事情は聞いた。従姉妹の空から聞いた話、理佐はずいぶん怒られたようだ。
理佐が自殺する数日前の話だった。理佐はあまり周りと打ち解けない沙良と距離を詰めようとしていた。でも、沙良への気遣いだけではなく、自身の悩みを共有したい仲間が欲しかったのかもしれなかった。事実、理佐は徐々に過保護な両親のこともあり孤立していった。
「理佐が死んだとき、この両親が殺したんだと思ったわ。娘の死すら演出に使ったの。娘を無くした悲劇の娘だと周りに認めてほしかったのよ。さてあなたにも解けていると思うけど、私の伯父と尾坂夫妻はつるんでいた。何が何でも私を消したい伯父は記憶を失くした私を理佐に仕立て上げた」
「手の込んだことだ。病院側も組んでのことだからな・本物の尾坂理佐は死んでいるから、理佐の名義は使えない。だから風井空だ。尾坂は空を殺し、あんたに空の名義の保険証や運転免許証を渡したわけだ」
「不思議だったわ。名前が2つあるなんて。まあ私が2人の娘じゃないことは調べて分かったけど」
板倉は淡々と話す沙良の素顔を見ていた。この女は全てを記憶している。自分のことだけではなく、関わった相手の経緯を全て記憶している。ただ記憶するだけではなく、恐らく相手の心情まで理解し再現している。
「大がかりな仕掛けは見えてきたが、動機だよ。友達の死だからってあんたが尾坂詩織と誠を殺す必要はねえだろ」
「2人は死ぬべきだったの。自分の周りのものを利用するだけ利用して自分たちの希望に合わなければ捨てる、そういう外道よ」
「そこを詳しく聞かせてもらおうか?」
板倉は話をなるべく伸ばそうとしていた。犯人から情報を引き出す時は、相手を饒舌にさせたほうがいい。香西沙良のように優等生タイプは語りたくて仕方ないことが多い。おまけにプライドが高いものだから。いかに話を聞く姿勢を取り時間を長引かせるか。
応援が来るまでの辛抱だ。
「ずいぶん知りたがりなのね」
「俺は知りたい。俺の刑事人生で未解決だったのはあんたの両親の事件だからね」
「親というものは、子どもを創作物だと思っている。私の親も、理佐の親もそうだった。理佐の両親はもっとひどかった」
よくしゃべる女だ。話せ、話せ……
板倉は時間を使った。応援はまだ来ない。それまでにどれほど時間を引き延ばせるかだ。
「両親が死んだとき、私は解放されたの。でも自分は未成年だったからつかの間の解放感だった。伯父と伯母が両親の代わりになった」
「あんたの伯父と伯母が後見人になったわけだが、グループの経営は傾き始めた。あんたはチャンスとばかりに表舞台に立った」
「両親がまだマシだったのは有能だったから」
「あんたは優れた経営力で会社を立て直した。伯父の正彦と伯母の佳子は気に入らなかったわけだ」
沙良は優雅に板倉を見つめている。どこか高従姉妹ろから見下ろす女に板倉は自然といら立ちを覚える。
「さっきから胸元を気にしているようだけど……」
ちっ、気づかれたか……
仕方がなかった。早く来い。
「なに、私を捕まえる気だったの?」
「当然だ。あんたは4人を殺した犯人だ。見逃すわけにはいかん」
「私はただ当然の権利を行使しただけよ」
「人を殺めていい権利なんてない」
「あるわ。社会ができる以前の昔より人は自らの権利を守るために他者を殺してきた。私は自分の伯父と伯母に殺されかけた。身を守るために殺して何が悪いの?」
沙良はもう笑っていなかった。燃え上がる瞳はじっと板倉をとらえていた。
「何が目的だ? 仲が良いとはいえ尾坂理佐と風井空の仇を討つ必要などないだろ。あんた自身で殺すなんて」
「リスクが高いことをした、そうね。でも私がやらないで、誰がやるの。あの子たちの無念を晴らすのは私しかいない」
これ以上、話しても意味はなさそうだ。応援が来ないなら一人でやるしかない。そのとき、胸に付けた無線が密かに鳴った。応援が近くまで来ている証拠だ。
「おしゃべりは終わりだ。香西沙良、あんたを尾坂誠、尾坂詩織、香西佳子、香西正彦を殺した容疑で逮捕する」
「意味のないことよ。刑事さん。いずれ社会なんてなくなるのに。誰も私を逮捕なんてできない。日本中のあらゆる人をしばらく社会の檻は解き放たれる。人はどう思うのか、気にならない?」
「続きは署で聞く、さあ行こうか?」
板倉は腰に付けていた手錠を取り出す。しかしその前に板倉は囲まれている事実を気づいた。何より自身に付きつけられた複数の銃口に手を上げた。板倉の周りには黒服の男が銃口を突き付けていた。
「わざわざあなたの話すために待っていたと思う? 何事も先は読む人間が勝つのよ。あなた一人を殺すのは造作もないのよ」
「なるほど。鬼ごっこに付き合ってくれたのは、そういうことかい?」
「ええ。でも、あなたを殺すつもりはないわ。あなたには私の思い描く世界を見てもらいたいから」
「どんな世界だ?」
いい加減、世迷言に付き合うのにはコリゴリだ。板倉は沙良を捕まえ表舞台から降りたかった。
「自然な状態。いわば、ありのままの世界よ。誰もが縛られず暮らせる世界って言えばわかる?」
「悪いが、あんたの言う世界の実現は罪を償ってからにしてもらいたいね」
「あら、どうして?」
ピカっと沙良の視界は明るくなった。
「警察だ! 銃を捨てて投降しろ!」
「こういうことだからさ。あんたが待ち伏せしているのはお見通しだってことさ」
伊崎から渡されたトランシーバには発信機が取り付かれていた。スマホで沙良の居場所を伊崎に伝え、発信機の場所を追うよう伝えたのだ。話を引き延ばしたのは逃げないようするためだ。
黒服の男たちは狼狽していた。しかし、沙良だけは何も動じることなく冷静だった。
「何だ、分かっていたのね。でも逃げられないわけじゃないし」
減らず口をと板倉は思っていたが、知らぬ間に手に持っていたものに身構えた。
沙良は手に小型の円筒形のものを叩きつけた。視界は真っ白になって目を覆った。
「見せてあげるわ。人が誰にも支配されず、独立して自由な存在であることをね」
待てと板倉は叫んだ。
逃がさないと思い、空を掴もうとした。香西沙良、お前は俺が捕まえる。必ず罰を受けさせる。お前の言っている御託は単なるへ理屈だと教えてやる。
煙幕が立ち込める中で、耳元でささやく声がした。
「あなたは逃げられないわよ。あなたを覆う闇は果てしなく広がって、あなたを食い殺す」
「逃げはしない。必ずお前を捕まえる。罪を償わせる。その前に言わせてくれ」
「何かしら?」
「お前の親御さんには悪いことをした。事件の真相を解明できなかったのは確かだ。事件を追っていた刑事の一人として謝罪したい」
「今さら無駄なことよ。私はあなたを殺す闇。あなたは死の間際まで脅える。何度でも私の存在を夜な夜な思い出すでしょう。それがあなたへの罰よ」
「お前は……」
板倉は語り掛けたが、沙良は答えなかった。
目の前の視界が晴れたとき、沙良の姿はすでにどこにもなかった。
「一体、何者だ!」
夜空に板倉の声が咆哮した。解けなかった事件が一つ。仕方のないことだ。刑事を三十八年もやっていれば、迷宮入りしてしまう事件はあるものだ。
お前の望んだ世界とは何だ。
板倉は問う。
自然な状態だと。お前の親も、友達も皆死んでしまった。支えになる者はいない。どこが自然な状態だというのか。
ふざけるな!
板倉は心の中で叫んだ。
俺と一緒だろうが。
ささやかな思い出を想起させて生きていくしかない。哀れな泡沫みたいなのが俺とお前だ。放っておけば消えてしまうのに、何かの大事を成そうとしている。
人々を社会の檻から出す。
自然な状態。
人は皆生まれながらにして社会を構成する要員として生きている。社会がなくなれば話は変わる。
そういうことか……
板倉は恐るべき時代の到来を理解した。ならば自分は身を隠して逃げなければならない。
日付は2023年2月28日。時刻は午後8時6分。
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