記憶にない思い出

戸笠耕一

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記憶なき女Ⅳ 傀儡

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 十年前になる。本物の理佐の葬儀が記憶によぎる。あれは苦い思い出。理佐は家庭環境で悩んでいた。空と二人で聞いて、行き過ぎた教育は虐待といえる。手首の痕は肉体的に、過剰な管理は精神的に、理佐の心を蝕んでいた。

 人をいじめる側にはその自覚がない。今回もそのケースだろう。理佐は自身を閉じ込めていた家庭という名の檻で殺された。

 教育という鞭でねめつけられ、人格をゆがめられ尊厳を落とされた。理佐の痛みは自分の痛みだった。

「またやられたの?」

 理佐と空がひそひそと話しているのを聞いた。

「いいの。これぐらいどうってことないから」

 それが理佐の最期の言葉だった。

 最後にとった抵抗が自殺しかなかったのだ。

「私はあの家を出るよ。もう自分もいやだ」

 空が沙良に言いかける。つぶらな瞳に涙が零れ落ちる。

「辛いことがあったら、私を頼って。大丈夫、私たちは同じ境遇だから。乗り越えられる」

 そう約束した空も死んだ。物置部屋で狭いスーツケースに収められて。自分に見られたと分かったあと、どこかに遺棄されたのだ。

「どうして理佐が死んだのか、分かっていないようね」

「悲しい事故よ。でもどうでもいいわ。あなたがいるから」

 理佐は目の前に実の娘を失ってなお母を演じ続ける詩織の想像力の欠如というものを憐れんだ。

 この女は理佐の苦痛を知らない。

「哀れなものね」

「あなたこそどうなの? 実の伯母と伯父に殺されかけて、挙句別人として仕立て上げられる。同じ穴のムジナじゃないの」

 そういわれて返す言葉はない。人を殺めたという点においては何ら抗弁の余地はない。

 人を縛る鎖や檻はどこにでもある。それは家庭と呼ばれることあれば社会と呼ぶ。自分が生きたい社会は選べる。

「残念だけど、あなたの家族ごっこには付き合うことはできないから失礼させてもらうわ。やることがあったの」

「私を失望させるつもりなの? あの子みたいに」

「空はあなたたちが殺したのね」

「ええ、そうよ。あなたを迎え入れるために」

 病院であの子の個人情報を使うためだけにこの女は自分の姪を殺したわけだ。醜悪としか言いようがない。

「私たちがどれほど苦労してあなたを理佐として扱ってきた。分かって頂きたいものだわ。あなたの推理通り、記憶を失くしたあなたは理佐として生活を始めた」

「脆くもそうならないわね。私は理佐ではないもの。張りぼての思い出をつなぎ合わせても私の頭に理佐の記憶はない」

「あるわよ。ここで私たちと生活を続けなさい」

「お断りします」

「あなたも死にたくないでしょう? この家に他にあなたの居場所があるのかしら?」

 詩織は出刃包丁をちらつける。

 つくづく救えない女だ。

「道を開けてもらいたいけど」

 その気はないか。

「忠告しておくけど、死ぬわよ」

 詩織は勢い任せに飛び込んできた。相手は素人だ。まず後ろを取られないようにする。相手は右利き。つまり右から左にかけてナイフを振り下ろす。ならば逆を突けばいい。

 理佐は距離を詰めた。あとは手に持ったナイフを奪い取るだけだ。

 相手が握りしめている物を奪うために、関節技をかける。右手で押さえ、左手で相手の肘関節を締め上げる。

 急所を突かれ、詩織はナイフを落とした。

 一秒もかかっていないだろう。簡単なビジョンだった。

「覚悟はいい? そう悲観することはないわ。あなたと違って心得はあるのよ」

「理佐ちゃん! 私はあなたをそんな風に育てた覚えはないわ!」

 何度言ったら分かるのか。あきれた。

 腐りかかった蒙昧から解放するのは大義だと感じた。

 理佐は詩織の心臓を一突きで刺した。

「あっちで理佐と空に今度こそは仲良くしてね、ママ」

 詩織の体が痙攣した。あまり愉快な光景ではなかったが、ものの十秒も経たないうちに絶命した。

「あ……あ……君は――な、に、も……」

 横たわる男の生命力に理佐は感銘を受けていた。不幸なのは尾坂誠もまた同じだ。

「あなたもこれ以上苦しむことはないわ。あなたも解放してあげるわ」

 二人が現世で生きることに執着する必要はないのだ。理佐は出刃包丁を振り上げ、誠の心臓を一刺しにした。パクパクと波打ち際に打ち上げられた魚のような顔が面白かった。動かなくなり死んだ。

 血だまりになったダイニングで理佐は少し休む。この後すべきことを整理したかった。

 事故に遭う前にやるべきことを整理する。組織の人員整理だった。切らねばならないのは自分の伯父と伯母だ。

 部下がヘタを打ち、組織の存在を知った二人を始末しなければならないはずだった。

「聞いたぞ。君が築き上げた組織は実に素晴らしい。香西が抱えている課題を処理できるじゃないか」

 正彦は両手を広げて主張をする。確かに香西家が持つ株や不動産は長男である正彦が握っている。沙良は社長の椅子に座っていたが、

 広告塔なところがある。もちろん実権は持っていたが、正彦の顔は立てなければいけない。

 裏までつかまれるのは少々厄介だ。表は実権も与えてもよい。この男には経営力はない。ただあらゆるものを所有しているのは面倒だ。

 沙良は銃を収める。

「裏家業で失敗は許されない。伯父さん、あなたも例外じゃないわ」

「取引成立かな」

 正彦を仲間に入れてから組織は一気に拡大した。資金が流入するようになる。持っていた力により正彦は組織内で高い地位を持っていた。

 殺しておけばよかった。悪態を付きたい気分だが、沙良はレディとしての気品を持っていたからそういうことはしない。

 事故が遭った日を思い出す。沙良は

 煙草でも吸おうか。

 沙良は尾坂夫妻の寝室に向かい引き出しを漁った。キッチンで吸っているところを見た。何をやるべきか沙良は考えた。

 まずは一服する。煙草は初めて吸ったが、癖になりそうだから、今は一本に留めておこう。

 煙草を吸い終わると脱衣室で血塗られたシャツやスカートを脱ぎ捨てた。沙良はシャワーを浴びる。鮮血が落ちていきさっぱりした。

 着替えは理佐の昔の服を拝借するしかないか。死んだ友の私物を漁るのは忍びない。沙良と理佐は背丈が同じぐらいだ。

 何だか小腹が空いてきた。雑事が続いたから消耗してしまった。大したことのない作業ほどストレスがたまるものだ。沙良は食べてストレスを晴らす。せっかくの御馳走も詩織がヒステリーを起こしたせいで無残な状態だ。

 冷蔵庫に何かないだろうか。少しでも空腹を満たせるものでいい。

 あった。沙良はにやりと口元に笑みをこぼす。いたずらっ子の顔を作っていた。

 サーティワンのバニラアイスにムシャムシャと食いついた。何だろうか。アイスクリームといった甘いものを子どものころから食べてはいけないと教わってきたから、あまり食べた経験がない。

 おいしい……

 沙良が味わったどんなご馳走も、何の変哲もない白色の塊がたまらなく舌鼓を鳴らした。

 ぺろりと食べたアイスクリームのパッケージを沙良は台所のごみ箱にポンと投げ捨てた。

 さてそろそろお別れの時間だ。お世話になった家にさよならを告げる。懐かしい思い出が走馬灯のように駆け抜けて、消えた。

「あなたの名前を勝手に借りてごめんね。そろそろ返すわ」

 沙良は死んだ友人の名前をようやく返した。一度だけ沙良はこの家に遊びに来たことがある。着替えが済むと沙良は特に片づけることもなく家を出た。あまり人気が無い場所がいい。集合場所は理佐が親と遊んだ公園にしよう。
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