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年老いた狼Ⅳ 真実の追及
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土曜日。
上野の都立谷中霊園。無数の墓地が存在する日本最大の霊園である。風が冷たくただ立っているだけでも寒さを感じる。板倉は広大な霊園を歩く途中で秋山と話していた。
「墓参りか。ちょうどよかった。姉の墓参り行く予定だったので」
「そうだったのか。こんなところでお前と気が合っても仕方ないのに」
「いいじゃないですか。秋山さんの墓参りなんてどうして?」
「あいつはいい奴だった。俺みたいな異邦人を受け入れるだけの度量がアキにはあった」
「異邦人って何ですか?」
こいつはカミュを読んだことがないのか。小説に興味がなければ知らないだろう。
「アルベールカミュだ。今度調べて読んでみろ」
「とむさんが言うなら」
「勝手にしやがれ」
「じゃあ聞かせてくださいよ。秋山さんの話」
「ちょうどこの時期だ。あいつが殉職したのは」
板倉は立てこもり事件の犯人ともみ合いになり死んだ。最後のセリフも秋山に教えた。
「俺たちは立て籠もり犯と交渉していたのさ。犯人は借金まみれでよ、もうどうしようもなって、大して金もない老
夫婦の家に押し込んだわけだ」
永遠とやり取りをして数時間。もはや突入しかないという時だ。
秋山は持ち前の起点と無鉄砲さを発揮した。
秋山の作戦はシンプルだ。缶を窓ガラスに投げて注意を引き、秋山は窓から入り犯人を押さえる。板倉は玄関から
突入して人質の安全を確保する。
「行きますよ。板倉さんは玄関口で犯人の話を聞いてあげてください」
「俺は反対だ。俺もおっさんのお守りはごめんだぜ。リスクがありすぎる。相手は刃物を持っているから、もうSI
Tに任せておけばいい」
「僕らのヤマでしょ。なら一人で行きます」
秋山は手に持っていた缶を立て籠もり犯がいるアパートのベランダに向けて投げた。窓ガラスがガシャーンと音が
鳴り響いた。
立て籠もり犯が気になってベランダに向かう素振りを示す。大家から預かった合鍵で閉め切られた扉を開いた。
目の入った光景は最悪だった。ダイニングに二人の男が揉み合っている。床に倒れ込んでいる恰幅いい男は秋山だ
った。
「缶がもう一つか。元ピッチャーらしいセリフだなあ。なんか最後にかっこいい言葉を言ってみたいですね」
「あほか、お前くれぐれも突っ走って死ぬなよ」
浮ついた言葉を言うのでつい真顔になった。
「いや、本気にしないでください」
「刑事はいつだって本気だ。気を抜くな。周りのやつが油断しているときほど警戒しろ。人様の安全を守る立場な
ら、気をしっかり持て」
「すみません……」
「あと一人で動くな。何かあれば相談しろ。相手は何をするかわからねえやつかもしれない。それだけは守ってく
れ。頼む」
「わかりました」
「あのとき死ぬのは俺だったかもしれない。他の周りにいる奴だったかもしれない……」
板倉は言葉に詰まる。今更死んだ人間をどうのこうのと言っても取り返しは付かない。死は不可逆的なもの。だか
らこそ板倉は死を恐れたし、どんな理由があれ行使したものを許せない。
「着いたぞ、ここだ」
板倉は懐かしそうに墓を見つめていた。秋山家の墓と書かれた墓石は古くなり、ところどころ傷んでいた。隣に生
えた雑木が原因だろう。早く切らないと面倒なことになる。
「あいつピッチャーだった。逃げる犯人に缶を投げて捕まえたことがあるそうだ。頭もいいのさ、」
「優秀な人ですね」
「ああ、どこかの死体見てゲロ吐く奴と違って」
「もう大丈夫です。慣れたので」
「ばか野郎。それだけで刑事は務まるかよ」
「もう独り立ちは出来ているでしょ」
「全く、お前の思考にはあきれて何も言えんよ」
こいつのお調子癖は死ぬまで治らんだ。
「次はお前の話をしろよ。お袋さんの話だ」
「自分は生まれつき体が弱くて、いつも病院通いで、そんな時に、姉が飴をくれました。どこでもらったものなのか
しれませんが、いつも飴をくれて」
秋山が今度言葉に詰まる番だった。グスンと鼻をすする。
「死んだのは事故です。飴は隣町の駄菓子屋でしか売っていない限定品でした。飴が切らしていてもらいに行った帰
りです」
刑事になる理由はそれぞれだ。秋山の心を理解できた。
「ふうん。いい話じゃないか。お前には心の支えがある。そいつを大事にしろよ」
「とむさんにだって、心の支えはあるのでは?」
「俺はいい。あと二ヶ月程度の役割を終えた老兵だよ。お前は自分の職務を全うしろ。まずはお前の心の支えを大事
にしろ。それがあれば乗り切れる」
刑事には事件という死神がずっと付きまとう。連日のように死神は影のように刑事の後を追いまわし、あちら側に
連れて行こうとする。事実、秋山は連れて行かれてしまった。
死神を振り払うには確かな自信が必要なのだ。誰よりもタフでないといけない。秋山に辛らつに当たってきたのは古い考えだが、タフさが必要だからだ。
自分からもう言うことはない。おのれの過去をしっかりと記憶し、思い出にしている者は誰よりも強い。
目の前の職務を果たすことこそが死者への餞となる。人が死ぬときはいつか。命を失った時ではない。人から感謝されなくなった時だ。
上野の都立谷中霊園。無数の墓地が存在する日本最大の霊園である。風が冷たくただ立っているだけでも寒さを感じる。板倉は広大な霊園を歩く途中で秋山と話していた。
「墓参りか。ちょうどよかった。姉の墓参り行く予定だったので」
「そうだったのか。こんなところでお前と気が合っても仕方ないのに」
「いいじゃないですか。秋山さんの墓参りなんてどうして?」
「あいつはいい奴だった。俺みたいな異邦人を受け入れるだけの度量がアキにはあった」
「異邦人って何ですか?」
こいつはカミュを読んだことがないのか。小説に興味がなければ知らないだろう。
「アルベールカミュだ。今度調べて読んでみろ」
「とむさんが言うなら」
「勝手にしやがれ」
「じゃあ聞かせてくださいよ。秋山さんの話」
「ちょうどこの時期だ。あいつが殉職したのは」
板倉は立てこもり事件の犯人ともみ合いになり死んだ。最後のセリフも秋山に教えた。
「俺たちは立て籠もり犯と交渉していたのさ。犯人は借金まみれでよ、もうどうしようもなって、大して金もない老
夫婦の家に押し込んだわけだ」
永遠とやり取りをして数時間。もはや突入しかないという時だ。
秋山は持ち前の起点と無鉄砲さを発揮した。
秋山の作戦はシンプルだ。缶を窓ガラスに投げて注意を引き、秋山は窓から入り犯人を押さえる。板倉は玄関から
突入して人質の安全を確保する。
「行きますよ。板倉さんは玄関口で犯人の話を聞いてあげてください」
「俺は反対だ。俺もおっさんのお守りはごめんだぜ。リスクがありすぎる。相手は刃物を持っているから、もうSI
Tに任せておけばいい」
「僕らのヤマでしょ。なら一人で行きます」
秋山は手に持っていた缶を立て籠もり犯がいるアパートのベランダに向けて投げた。窓ガラスがガシャーンと音が
鳴り響いた。
立て籠もり犯が気になってベランダに向かう素振りを示す。大家から預かった合鍵で閉め切られた扉を開いた。
目の入った光景は最悪だった。ダイニングに二人の男が揉み合っている。床に倒れ込んでいる恰幅いい男は秋山だ
った。
「缶がもう一つか。元ピッチャーらしいセリフだなあ。なんか最後にかっこいい言葉を言ってみたいですね」
「あほか、お前くれぐれも突っ走って死ぬなよ」
浮ついた言葉を言うのでつい真顔になった。
「いや、本気にしないでください」
「刑事はいつだって本気だ。気を抜くな。周りのやつが油断しているときほど警戒しろ。人様の安全を守る立場な
ら、気をしっかり持て」
「すみません……」
「あと一人で動くな。何かあれば相談しろ。相手は何をするかわからねえやつかもしれない。それだけは守ってく
れ。頼む」
「わかりました」
「あのとき死ぬのは俺だったかもしれない。他の周りにいる奴だったかもしれない……」
板倉は言葉に詰まる。今更死んだ人間をどうのこうのと言っても取り返しは付かない。死は不可逆的なもの。だか
らこそ板倉は死を恐れたし、どんな理由があれ行使したものを許せない。
「着いたぞ、ここだ」
板倉は懐かしそうに墓を見つめていた。秋山家の墓と書かれた墓石は古くなり、ところどころ傷んでいた。隣に生
えた雑木が原因だろう。早く切らないと面倒なことになる。
「あいつピッチャーだった。逃げる犯人に缶を投げて捕まえたことがあるそうだ。頭もいいのさ、」
「優秀な人ですね」
「ああ、どこかの死体見てゲロ吐く奴と違って」
「もう大丈夫です。慣れたので」
「ばか野郎。それだけで刑事は務まるかよ」
「もう独り立ちは出来ているでしょ」
「全く、お前の思考にはあきれて何も言えんよ」
こいつのお調子癖は死ぬまで治らんだ。
「次はお前の話をしろよ。お袋さんの話だ」
「自分は生まれつき体が弱くて、いつも病院通いで、そんな時に、姉が飴をくれました。どこでもらったものなのか
しれませんが、いつも飴をくれて」
秋山が今度言葉に詰まる番だった。グスンと鼻をすする。
「死んだのは事故です。飴は隣町の駄菓子屋でしか売っていない限定品でした。飴が切らしていてもらいに行った帰
りです」
刑事になる理由はそれぞれだ。秋山の心を理解できた。
「ふうん。いい話じゃないか。お前には心の支えがある。そいつを大事にしろよ」
「とむさんにだって、心の支えはあるのでは?」
「俺はいい。あと二ヶ月程度の役割を終えた老兵だよ。お前は自分の職務を全うしろ。まずはお前の心の支えを大事
にしろ。それがあれば乗り切れる」
刑事には事件という死神がずっと付きまとう。連日のように死神は影のように刑事の後を追いまわし、あちら側に
連れて行こうとする。事実、秋山は連れて行かれてしまった。
死神を振り払うには確かな自信が必要なのだ。誰よりもタフでないといけない。秋山に辛らつに当たってきたのは古い考えだが、タフさが必要だからだ。
自分からもう言うことはない。おのれの過去をしっかりと記憶し、思い出にしている者は誰よりも強い。
目の前の職務を果たすことこそが死者への餞となる。人が死ぬときはいつか。命を失った時ではない。人から感謝されなくなった時だ。
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