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記憶なき女Ⅲ 名前
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どこからともなく吹いた風が理佐の周辺を通り過ぎていき二度と戻ってこなかった。退院後、尾坂夫妻に引き取られて二ヶ月が経った。
2022年11月10日15時46分。
秋は深まる。銀杏並木は黄金色に変えてグレーで塗り固められた味気ないアスファルトを染める。夕方になれば寒さを感じてくる。
理佐は尾坂夫妻に連れられて自分が暮らしていた世界。風は心地よかったが、どうにも肌感覚似合わない。
なだらかな坂道を下った先にロータリに出る。車が一台やってきて横を通り過ぎていく。中央の噴水がザーッと音を立てている永遠に続く相似形は嫌いじゃなかった。
夫妻は理佐に次の場所に連れて行く。少し歩いて拓けた場所は公園だった。「さきゆき公園」と書かれたその場所は木々が生い茂り、のんびり考える場所には最適かもしれない。
「ここがよく子どものころ遊んだ公園だ。あの象の滑り台を覚えていないかい?」
自分の両親を騙る夫妻は屈託のない顔で理佐を見つめていた。二人の表情に理佐は何とか取り繕う。
親を演じる二人は何の目的で自分を尾坂理佐として引き取ったのだろう。自分はどこの誰で何をしていたのか。
病院で搬送された自分を別の誰かに仕立て上げることなんて可能なのだろうか。もしそうなら理佐が入院していた病院も怪しかった。
あれほど優しくしてくれた看護婦も嘘をついていたのだろうか。
振り返ると幼い子どもが無邪気に滑り台で遊んでいる。消えた記憶の断片を思い起こすが、理佐の過去に思い出すものがなかった。でも、ああいう時代があったという幼童への感傷はあった。
視線を変えた先にブランコがあって、今は子どもたちも遊んでいないため、空いていた。
遊具で遊んだらわかるかもしれない。理佐の足は自然とブランコへと進む。座ってみた。無機質な固いザラザラとした感触がした。
ふいに記憶が蘇る。散りばめられた記憶の残渣が浮かび上がったのだ。庭、木、ブランコ……
ブランコは麻縄のようなもので木の枝から掛けられつり下がっている。幼い頃の記憶だろうか。ブランコに乗っているのは自分で、後ろを向いている。そこにあった顔を理佐は見ようとした。
記憶はそこで途絶えた。もう一度、頭に浮かんだ造形を見たかった。集中したい。自分は雑音が溢れかえったここが嫌いだ。
「ごめんなさい。一人にしてくれませんか」
理佐はぼんやりとしばらく座っていて呟く。
尾坂夫妻は互いの顔を見つめた。
「そう。理佐ちゃんがそうしたいなら……」
「ぜひそうさせてほしいわ」
「じゃあ私たちしばらくあっちにいるから」
理佐は風が吹きつけなびく前髪を整えながら言う。一人きりになり考える時間が欲しい。
目を閉じ記憶を呼び覚ます。どこまでたどれるか。
事故の遭った日。目覚めたとき車体が逆さまになっていて顔に砕けたガラスが振りかかっていた。起きて感じたのは前にも似たような経験をしていたということ。
知りたいのはその前。目覚める前の自分。尾坂理佐になる前の自分。思考を巡らせるとまばゆい光が邪魔して向こう側を見ることができない。
医師は無理に思い出す必要性はないと言っていた。
「ずいぶんと悩んでいるみたいだね?」
男は人懐っこい素顔で理佐を見つめていた。知らない顔だった。
「どちら様ですか?」
じっと理佐はにらんだ。
「ぞんざいな言い方だね。忘れてしまったのかい? 僕のことを知らないわけがないだろう」
理佐は見知らぬ男から距離を取る。男から発する何か大きな力に警戒していた。
「あなたなんか知りません。どこか行ってください。忙しいので」
どうして人が集中しているときほど邪魔が入るのだろう。
男は首を傾げて考え込むように様子をうかがう。
「どうやら記憶がないというのは本当のようだね」
「なぜ私の記憶のことをどうして知っているの? あなたは誰?」
「僕が誰かだって? 失った記憶が取り戻されれば思い出せるよ」
男は言葉には出さないが自信にあふれた態度で沙良に語り掛ける。知りもしない人物から諭されるように言うのは何だか不快だった。まるで自分のことを知っている口ぶりである。
「名前は何ていうの?」
「尾坂理佐です」
男は名前を聞くとプッと吹き出して笑い出した。
「何がおかしいの?」
「いや、だって」
クククとくぐもった笑いをする男に理佐はいら立ちがあった。
「あなたは誰? 何しに来たの?」
「まあいいさ。今日は君の様子を見に来た。実は先日も長野で会ったのだが覚えていなそうだな」
「どういう意味ですか?」
理佐は眉間にしわを寄せる。無意識のうちに男を嫌いになっていた。ただどうにも男は出会っていると言った。
「違和感とかないのかい? 君は記憶を失っている。自分の人生を憶えていないわけだ。不思議な気分じゃないか?」
自分の正体を知っているだろう男が答えに通じるきっかけを持っているかもしれない。
「知っていることがあるなら、教えてください。私の記憶が戻ったらどんなお礼でもさせて頂きます」
「ずいぶんと必死だな。お礼は嬉しいが、君が僕にするお礼は決まっているから、気持ちだけにしておくよ」
「はぐらかさないで。あなたと会ったことがあるかもしれないけど。今の私は何も知らないの。向こうで待っているあの人たちは自分たちを両親だなんていうけど、嘘なのよ」
「答えを教えたら面白くないだろ。僕らは互いに競い合ってきた仲じゃないか。謎を出し合い、お互いが相手の謎を解く。そんな素敵な関係性だった」
男の微笑みには共感できない。どこか高い場所から見下ろして、人を弄んでいる。
「よくわからないけど。ヒントぐらいないと困るわね。思い出したらどんな素敵なことが待っているのかしら?」
「何だ、君がヒントをおねだりするなんて。珍しいね」
「言っておきますけど、今の私はあなたを知らないの。これいじょう絡むようなら人を呼びます」
「わかったよ。そうムキにならないでくれ。クールに行こう。一つ質問をさせてくれよ。君は自分の名前をどう思う?」
「名前がどうかですって?」
考えたこともなかった。世の中の人間は親から与えられた名前を何も疑うことなく人生を生きていく。
ここにいる理佐だけは違う。人が嵌らない穴に嵌っている。理佐には穴の抜け出し方がわからない。
「不思議な感じ。親から与えてもらったのに。何にも覚えていないの。記憶を無くしても断片的に情報があると思ったけど。何だかそうね。自分の名前がしっくりこないの」
「自分の名前が?」
男は興味深そうに理佐を見つめていた。
「まだ君が持つ鋭さは失われていないようだ」
「ヒントを教えて」
「名前がしっくりこない。君の言う通りさ。名前は正しい形になっていないのさ。ならば君ならどうする?」
「並び替えるとか。綺麗な形にするとか。家具の配置が正しくないなら置き場所を合った位置にするみたいなこと?」
「そう。しっくりこないなら正しい形に並び替えればいい。これが僕のヒントさ」
「並び替える?」
理佐は怪訝な顔つきで男を見ていた。男は立ち上がる。
「さあ、今は現在のご両親の下に帰るといい」
正面を向くと夫妻が心配そうに近寄ってきた。
「どういう意味なの」
男はすでにいなくなっていた。風のように現れて、またいなくなってしまった。
「理佐、誰かと話していたの?」
「ううん。何でもない。道を聞かれたのよ」
「まあいけないわ。変な人かもしれないじゃない。もう日もくれますし帰りましょう」
詩織は理佐の手を取って握りしめた。
「そうだな、戻ろう。今日はこれぐらいでいいだろう」
「今日は温かいタンシチューを作ろうと思うの。あなたの大好物」
「あ、そうなの。じゃあ楽しみだな」
理佐はにこやかに場を取り繕う。頭上でバサバサと羽がすり合う音がして、目を向けると真っ黒な烏が向こう側の鉄棒に止まっていた。何か不吉な予兆がしていた。烏の黒い眼差しはじっと理佐を見つめていた。
2022年11月10日15時46分。
秋は深まる。銀杏並木は黄金色に変えてグレーで塗り固められた味気ないアスファルトを染める。夕方になれば寒さを感じてくる。
理佐は尾坂夫妻に連れられて自分が暮らしていた世界。風は心地よかったが、どうにも肌感覚似合わない。
なだらかな坂道を下った先にロータリに出る。車が一台やってきて横を通り過ぎていく。中央の噴水がザーッと音を立てている永遠に続く相似形は嫌いじゃなかった。
夫妻は理佐に次の場所に連れて行く。少し歩いて拓けた場所は公園だった。「さきゆき公園」と書かれたその場所は木々が生い茂り、のんびり考える場所には最適かもしれない。
「ここがよく子どものころ遊んだ公園だ。あの象の滑り台を覚えていないかい?」
自分の両親を騙る夫妻は屈託のない顔で理佐を見つめていた。二人の表情に理佐は何とか取り繕う。
親を演じる二人は何の目的で自分を尾坂理佐として引き取ったのだろう。自分はどこの誰で何をしていたのか。
病院で搬送された自分を別の誰かに仕立て上げることなんて可能なのだろうか。もしそうなら理佐が入院していた病院も怪しかった。
あれほど優しくしてくれた看護婦も嘘をついていたのだろうか。
振り返ると幼い子どもが無邪気に滑り台で遊んでいる。消えた記憶の断片を思い起こすが、理佐の過去に思い出すものがなかった。でも、ああいう時代があったという幼童への感傷はあった。
視線を変えた先にブランコがあって、今は子どもたちも遊んでいないため、空いていた。
遊具で遊んだらわかるかもしれない。理佐の足は自然とブランコへと進む。座ってみた。無機質な固いザラザラとした感触がした。
ふいに記憶が蘇る。散りばめられた記憶の残渣が浮かび上がったのだ。庭、木、ブランコ……
ブランコは麻縄のようなもので木の枝から掛けられつり下がっている。幼い頃の記憶だろうか。ブランコに乗っているのは自分で、後ろを向いている。そこにあった顔を理佐は見ようとした。
記憶はそこで途絶えた。もう一度、頭に浮かんだ造形を見たかった。集中したい。自分は雑音が溢れかえったここが嫌いだ。
「ごめんなさい。一人にしてくれませんか」
理佐はぼんやりとしばらく座っていて呟く。
尾坂夫妻は互いの顔を見つめた。
「そう。理佐ちゃんがそうしたいなら……」
「ぜひそうさせてほしいわ」
「じゃあ私たちしばらくあっちにいるから」
理佐は風が吹きつけなびく前髪を整えながら言う。一人きりになり考える時間が欲しい。
目を閉じ記憶を呼び覚ます。どこまでたどれるか。
事故の遭った日。目覚めたとき車体が逆さまになっていて顔に砕けたガラスが振りかかっていた。起きて感じたのは前にも似たような経験をしていたということ。
知りたいのはその前。目覚める前の自分。尾坂理佐になる前の自分。思考を巡らせるとまばゆい光が邪魔して向こう側を見ることができない。
医師は無理に思い出す必要性はないと言っていた。
「ずいぶんと悩んでいるみたいだね?」
男は人懐っこい素顔で理佐を見つめていた。知らない顔だった。
「どちら様ですか?」
じっと理佐はにらんだ。
「ぞんざいな言い方だね。忘れてしまったのかい? 僕のことを知らないわけがないだろう」
理佐は見知らぬ男から距離を取る。男から発する何か大きな力に警戒していた。
「あなたなんか知りません。どこか行ってください。忙しいので」
どうして人が集中しているときほど邪魔が入るのだろう。
男は首を傾げて考え込むように様子をうかがう。
「どうやら記憶がないというのは本当のようだね」
「なぜ私の記憶のことをどうして知っているの? あなたは誰?」
「僕が誰かだって? 失った記憶が取り戻されれば思い出せるよ」
男は言葉には出さないが自信にあふれた態度で沙良に語り掛ける。知りもしない人物から諭されるように言うのは何だか不快だった。まるで自分のことを知っている口ぶりである。
「名前は何ていうの?」
「尾坂理佐です」
男は名前を聞くとプッと吹き出して笑い出した。
「何がおかしいの?」
「いや、だって」
クククとくぐもった笑いをする男に理佐はいら立ちがあった。
「あなたは誰? 何しに来たの?」
「まあいいさ。今日は君の様子を見に来た。実は先日も長野で会ったのだが覚えていなそうだな」
「どういう意味ですか?」
理佐は眉間にしわを寄せる。無意識のうちに男を嫌いになっていた。ただどうにも男は出会っていると言った。
「違和感とかないのかい? 君は記憶を失っている。自分の人生を憶えていないわけだ。不思議な気分じゃないか?」
自分の正体を知っているだろう男が答えに通じるきっかけを持っているかもしれない。
「知っていることがあるなら、教えてください。私の記憶が戻ったらどんなお礼でもさせて頂きます」
「ずいぶんと必死だな。お礼は嬉しいが、君が僕にするお礼は決まっているから、気持ちだけにしておくよ」
「はぐらかさないで。あなたと会ったことがあるかもしれないけど。今の私は何も知らないの。向こうで待っているあの人たちは自分たちを両親だなんていうけど、嘘なのよ」
「答えを教えたら面白くないだろ。僕らは互いに競い合ってきた仲じゃないか。謎を出し合い、お互いが相手の謎を解く。そんな素敵な関係性だった」
男の微笑みには共感できない。どこか高い場所から見下ろして、人を弄んでいる。
「よくわからないけど。ヒントぐらいないと困るわね。思い出したらどんな素敵なことが待っているのかしら?」
「何だ、君がヒントをおねだりするなんて。珍しいね」
「言っておきますけど、今の私はあなたを知らないの。これいじょう絡むようなら人を呼びます」
「わかったよ。そうムキにならないでくれ。クールに行こう。一つ質問をさせてくれよ。君は自分の名前をどう思う?」
「名前がどうかですって?」
考えたこともなかった。世の中の人間は親から与えられた名前を何も疑うことなく人生を生きていく。
ここにいる理佐だけは違う。人が嵌らない穴に嵌っている。理佐には穴の抜け出し方がわからない。
「不思議な感じ。親から与えてもらったのに。何にも覚えていないの。記憶を無くしても断片的に情報があると思ったけど。何だかそうね。自分の名前がしっくりこないの」
「自分の名前が?」
男は興味深そうに理佐を見つめていた。
「まだ君が持つ鋭さは失われていないようだ」
「ヒントを教えて」
「名前がしっくりこない。君の言う通りさ。名前は正しい形になっていないのさ。ならば君ならどうする?」
「並び替えるとか。綺麗な形にするとか。家具の配置が正しくないなら置き場所を合った位置にするみたいなこと?」
「そう。しっくりこないなら正しい形に並び替えればいい。これが僕のヒントさ」
「並び替える?」
理佐は怪訝な顔つきで男を見ていた。男は立ち上がる。
「さあ、今は現在のご両親の下に帰るといい」
正面を向くと夫妻が心配そうに近寄ってきた。
「どういう意味なの」
男はすでにいなくなっていた。風のように現れて、またいなくなってしまった。
「理佐、誰かと話していたの?」
「ううん。何でもない。道を聞かれたのよ」
「まあいけないわ。変な人かもしれないじゃない。もう日もくれますし帰りましょう」
詩織は理佐の手を取って握りしめた。
「そうだな、戻ろう。今日はこれぐらいでいいだろう」
「今日は温かいタンシチューを作ろうと思うの。あなたの大好物」
「あ、そうなの。じゃあ楽しみだな」
理佐はにこやかに場を取り繕う。頭上でバサバサと羽がすり合う音がして、目を向けると真っ黒な烏が向こう側の鉄棒に止まっていた。何か不吉な予兆がしていた。烏の黒い眼差しはじっと理佐を見つめていた。
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