記憶にない思い出

戸笠耕一

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記憶なき女Ⅲ 名前

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 尾坂家に住んでから中々出られなかったが、段々と外出を許されるようになった。ただどこに何をするのかスマホを渡され、家から居場所を確認されていた。

 理佐には確かめたいことがある。自分の正体についてである。

 真夜中に詩織と誠が言っていた内容が事実なら、あの二人は何かを隠している。親を名乗り、記憶を失った自分を理佐と呼んでいる。物置部屋から消えたスーツケースは二人が処分したのだろう。あの中にあったのは間違いなく死体だ。

 間違いなくあの家は危険だ。スーツケースに収まっていた死体が詩織の言う出来損ないの娘ならば、もし自分が期待外れだと分かれば間違いなく殺される。

 確証はないが、持たされた運転免許証も偽装なのではないだろうか。可能性としてはあり得る。

 もらったお小遣いで喫茶店に入る。何回か来たがお気に入りの喫茶店だ。昔ながらの赤い椅子。長い歳月で汚れた壁はレトロな雰囲気を出している。

 喫茶店でくつろぐのが目的ではない。ここにいるのは単なるアリバイ作りである。本当の目的は自分が本当に尾坂夫妻の娘なのか確かめる。手っ取り早い方法がある。血液を採取し調べてもらう。

 目的を果たす前にその前に会いたい人物がいた。

 喫茶店の扉が開いた。扉の上部に取り付けてあった鈴が鳴ると客の来店を意味した。

「あ、いたー。元気?」

「千里さん、お久しぶりです」

「もう退院してから一か月は経つものね」

「その後、どう?」

「ああ、まだ……」

 千里は少しがっかりした顔をしたが、笑顔になった。全く誰もが笑って誤魔化そうとする。

「でも先生も体に異常はないからって言っていたから、すぐに退院できてよかったね」

 店主がそっとメニューを持ってきた。千里は理佐と同じコーヒーを頼んだ。

「千里さんはコーヒーが好き?」

「まあね。理佐さんも?」

「ええ、私はたっぷり砂糖を入れて甘くしたコーヒーが大好きです」

 理佐は角砂糖を瓶から取り出してカップに入れた。ポチャリと静かに音がした。

「あ、なくなっちゃいましたね」

「こんなに入れていたの?」

 千里は驚いた様子で理佐の顔を見つめた。

 小瓶には十個ほど角砂糖が入っていたが、空になっていた。

「ごめんなさい。使うはずなのに。頼みましょうか」

「自分はブラック派なの」

 理佐はフーンと適当に相槌を打つ。

「ここずいぶんレトロなところねー」

「お気に入りの店なので」

 理佐は恥ずかしそうに耳にかかった髪を触った。

「素敵なところね。おしゃれ、休みの日に来ようかなー」

「また定期的にお茶したいですね。何だか家に居たら煮詰まりそうで」

「外に出たほうがいいよ。もう落ち着いてきたところだし。あ、そうだ。合コンに行かない?」

「合コンですか?」

「友達が急用でさ、一席余っちゃって。来週の金曜日だけど、どう?来ない?」

「どうしようかな。あんまり行ったことがなくて。それに……」

「大丈夫、記憶のことは私が何とかフォローするから」

「親が門限とか厳しくて。少し考えさせてもらってもいいですか」

「何だか厳しそうだったものね。わかった、ⅬINEを教えて。来られるか連絡頂戴」

 理佐は千里のLINEを教えてもらった。

「あのトイレに行ってきます」

 そろそろ目的の場に行くことにした。

 問題はこのスマホで十中八九、尾坂夫妻は理佐の位置情報を確認している。対応策を考えた。理佐は密かにスマホをトイレに隠した。これで詩織には喫茶店にいると錯覚させられる。誰かに持ってかれないようトイレのタンクに入れた。防水用のカバーを付けてビニールのパッケージに入れておいた。

 地元の喫茶店のトイレは案の定古いタンク式のトイレだ。誰もタンクの中を漁ろうとはしない

 イトーヨーカ堂での詩織の買い物に付き合わされたとき、京王多摩センター駅前で見かけた献血バスが目にとまった。席に戻ると千里はいない。鞄は置いてあるし、外にいるのだろう。なら誰かに電話でもしているのだろうか。

 理佐は気になって外に出た。相手に感づかれないようそっと扉を押し開ける。

 辺りを見渡した。どこに行ったのだろう。

 理佐は目を閉じた。考え事をするときは静かに目を閉じると集中できる。

 聞こえてきた。千里のかすかな声がした。

 喫茶店の隣には花屋がある。さらにその隣は小さな脇道があった。

声はそこから聞こえてきた。

「あ、はい。もうすっかり元気みたいで」

 声が漏れないよう慎重にしゃべっている。聞こえない距離のはずだったが、理佐には口の動きで何を話しているかわかった。

「お金はちゃんと。ありがとうございます。これで本当に助かります。もちろん、きちんと見ておきますから」

 主治医の畠山も、看護婦の千里も、金を気にしている。みておくとは誰のことだろう。

 驚かせてやろう。理佐は自分のある特技に気づいていた。

「こんなところに? 千里さん?」

 千里は驚いてスマホを落としてしまった。

「私、相手に気づかれず間合いを詰めるのが上手いみたいです」

 理佐はせせら笑う。千里をギョッと丸みを帯びた瞳を
「そうなの……」

「合コン楽しみにしていますね。すみません。自分用事があります。コーヒー代はテーブルに置いておきました。一
緒に会計をお願いします」

 理佐は目的の場所へ向かう。

 無料で時間もあまりかからない。手っ取り早い方法である。今は二時だから三時前には終わって、夕食の手伝いには間に合う。理佐は付けられていないか確認する。

 平日だったのでスムーズに進んでいく。

「血液型を調べてもらえますか? 母子手帳にはB型と書いてありますが結構前なので」

 担当者は快く引き受けてくれた。問診を済まし、血液型検査を受ける。

「あなたは本当にB型?」

 担当者は首をかしげていた。

「B型と母子手帳には聞いていますが……」

「血液を調べたらA型よ。何かの間違えじゃない?」

「そうですか……」

「手帳にはB型って書いてあるわね。でもあなたの今の血液はA型よ。何か特別な理由がない限り血液型はね、変わ
らないのよ」

 理佐は目的を達成した。何だか怖くなったと理由を付けてけんけつをしなかった。

 はっきりした。A型の自分は尾坂夫妻の娘になることはあり得ない。尾坂夫妻は両親の振りをしているペテン師というわけだが、こんな手の込んだ細工をどうしてするのかわからない。

「あなたの名前は尾坂理佐。他の何者ではないわ」

 看護婦の言葉が脳裏に走った。あの人も、ならば医師も怪しい。

 名前に矛盾があったのは全員が仲間で理佐をだましていた。

 尾坂理佐ではないのなら、自分は果たして誰なのだろう。

 違和感は入院しているときからあった。理佐は病院では風井空として入院させられていたのだ。担当医と看護婦は尾坂理佐と呼ぶが、カルテや診断書は風井空の名前で書かれていることを見抜いていた。ベッドのネームプレートも風井空となっていたので聞いた。

「前の患者さんの名前がきっと残っていたのよ。後で変えておくわ」

 看護婦の言い訳は何の説明にもなっていなかった。あまりにも不自然すぎる。その後、名前は変わっていない。

 不自然といえばあのアルバムだ。高校時代の写真を全て貼り直している痕跡がある。元々貼っていたアルバムの写真をはがして付け足したのだ。新品のアルバムに写真を貼ってもいいが、疑われる恐れがあったから既存のアルバムに写真を貼り付ける。

 手の込んだ細工をしている。夫妻はどうしても自分を尾坂理佐として扱いたいのだ。でもどうして。問いかけてもわからない。本当の理佐はどこにいるのだろう。

 家を前にして足が止まる。

 親を騙る連中がいる家になど戻りたくないが、記憶が戻っていない状況では行く当てもない。何か一つ記憶の扉を開くきっかけが理佐には必要だった。

 名前がどうも引っかかる。

 尾坂理佐。

 風井空。

 二つはどことなく似ている。あと一つ名前があった。理佐は尾崎理佐と風井空の名前に覚えがあったが、違う。自分の名前ではない。

 もう一つある……

 真実の名前は歪められていて見えていなかった。理佐はまだ真実を覆う雲の中に取り残されていた。
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