記憶にない思い出

戸笠耕一

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記憶なき女Ⅱ 帰還

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 奇妙な帰宅。理佐は立ちはだかる白く塗り固められた家を見ていた。ここが自分の家。雲がかった空から差し込む光が反射して理佐の瞳に差し込む。ちらつく光に理佐はいら立ちを覚える。

「ここが私の家なの?」

「ああ、そうだよ。理佐が生まれてからずっと住んでいた家だ。お前の部屋だってちゃんと残っている」

 尾坂夫妻は優しい顔つきで理佐を家の中に招き入れる。

 内装はとても落ち着きをもたらす二階建ての家だ。足元の床にはフローリングがかかり、ホコリ一つない奇麗な家だ。

「お邪魔します」

「大歓迎だわ」

「まずは家のことを覚えてもらおうかな」

 理佐は夫妻に連れられ家の中を案内してもらった。キッチン、ダイニング、浴室、といった部屋は教えてもらった。

「ここがあなたの部屋よ。ちゃんと掃除しておいたから安心して」

 理佐の部屋は二階にあった。螺旋状の階段を昇って一番手前の部屋である。部屋は三つあった。

「隣の部屋は?」

「空き部屋よ。親戚が来た時に用意してあるの」

 視線は三番目の部屋に向った。廊下は階段を上がると真っすぐ伸びていて三番目の部屋の扉で行き止まりになる。理佐の足は自然とそちらに向いた。

「待って。その部屋には入っても仕方ないわ。物置部屋なの」

「何か置いてあるの?」

「あなたが気にすることじゃないわ。不要なものばっかりだから」

 詩織は少しいつも違い棘のある言い方をして、話を逸らした。物置部屋の扉は決して開けてはいけない。

「理佐ちゃんの部屋にある昔のアルバムでも見てみない? 記憶が戻るうえで何か分かることがあるかもしれないわ」

 理佐は自分の部屋に入る。三畳半ほどのこぢんまりとした部屋は落ち着きを感じられる。

「どう何か思い出した?」

「いい部屋ですね。ここで自分は生活を?」

「そうよ。あなただけの部屋。好きにしなさい。ああ、アルバム探さないとね」

 詩織は誠と理佐のアルバムを探した。アルバムは勉強机の向かいにある箪笥の一番下に積んであった。

 パラパラとアルバムをめくっていく。記憶を取り戻す手がかりがあるかもしれない。子ども時代の写真だ。手にパンを持った赤ん坊はそっぽを向いていた。あどけない笑顔を浮かべる。理佐は幼い自分自身を見て、病院で鏡を見つめて得た体感を思い出した。

「私、コーヒー入れてくるから。あなた、一緒にアルバムを見てあげて」

 次のページを開ける。何だかくっついているようでページが重なっているので慎重にはが。ベタベタした何かは糊だろうか。

 はがして開いたページの写真は、学生時代のものだ。金字で白金大学付属高校と書かれた看板の隣にしっかりと自分が映っている。

 十年も前のアルバムだから全体的に黄ばんでいるが、ページをよく見ると周りより白くなっている箇所がある。ペラペラと見ていくと数ページにわたって同じ状態が偏在している。

 目に留まったのは仲のいい女友達といる姿だ。

 ピクリとまた脳内にしびれる。

 誰が泣いている。映った顔は女友達が恐怖に歪んだ顔。男が友達に寄り掛かっている。自分が引きはがす。

「……!」

 誰? 何て呼んだの?

 視界は揺らぎ記憶の再生は終わる。

 理佐の頭にまた新しい記憶の住人がささやいていた。

「どうだい? アルバムの方は何かあったかい?」

 柔和な表情は優しいお父さんそのものだ。誠はお盆にコーヒーカップを載せて持ってきた。本当に誠が父親なのかもしれない。

「そうですね。何だか懐かしい感じはするみたいです」

「堅苦しい言葉遣いなんてしなくていい。私は理佐の父親だ。もっとくだけた言い方でいいよ」

「お父さんのことを何て呼んでいましたか?」

「パパかな。お母さんのこともママと呼びなさい」

「じゃあパパって呼びます」

「ほら敬語なんていいから」

「パパ、コーヒーありがとう」

 理佐はクスリとほほ笑んだ。しっかりとした苦みのあるコーヒーだった。嫌いじゃない味だった。

「私ってブラックが好きだった? 砂糖やミルクを入れていたのかな?」

「あ、ああ……そうだな」

「理佐は、私譲りでブラックが好きなの。そうよね、あなた」

 言いよどんでいた誠が振り返ると詩織がいつの間にかその場にいて、話に割って入ってきた。

 理佐は反射的に詩織から目を背ける。

 どこか遠慮しがちな父と距離感のない母。二人は何かを隠している。でも二人を問いただすのも気が引ける。

「ママ、少し横になりたいわ」

「いいわよ。ゆっくりしなさい。何かあったら、私たち下にいるからいつでも呼んでね」

 理佐は一人きりになり部屋の中を眺め、机の引き出しや箪笥の中を見ていた。

 ここが自分の部屋か。

 理佐は椅子に座って机の引き出し閉まってあった本をざっと見て違和感を覚えた。並んでいる本は教科書や参考書ばかりだったからだ。雑誌は一冊だけ。自分は勉強熱心だったらしい。

 ペラペラと眺める。最終ページの発行年月日を見てみると十年前だとわかる。理佐は二十七歳。十年前はちょうど高校生だ。アルバム写真からも想像がつく。

 二人の言っていることにも嘘はなさそうだ。

 理佐は取り出した本を元の場所に戻そうとした。何かが引っかかる音がした。引き出しの中を見ると奥の方で何か詰まっているようだ。理佐は引き出しを取り外し、引っかかっている何かを取り出す。

 茶色の何の変哲もないノートだ。油性ペンで「日記」と書かれてあり、開いてみた。

「四月一日。今日は高校の入学式。今日から日記付けます」

「四月三日。高校になればスマホを買ってもらえるかと思ったけど、だめだった。この三年間があなたの人生を決めるから頑張りなさいと二人は言った」

「四月六日。皆スマホ持っているのに。皆に驚かれた。そりゃそうだよね。どうして自分だけ。でも今に始まったわけじゃない。いつもそうだ……」

 日記は恐らく高校時代のことを言っている。スマホを持たないのは受験勉強に支障が出るためか。昔の自分はノートに愚痴を書き込んでいたわけだ。

 理佐は次のページを見て、目を疑った。茶色をした痕がページ一面に飛び散っていた。

 血だ。酸化し血は赤色から茶色に変える。でもなぜ?

「五月四日。今日、学校を休みました。お母さんが部屋に入ってきて無理に学校に行かせようとする。何とか追い出して部屋に鍵を閉める。ドンドンと扉が激しくたたく音がします。もうどっか行って」

「五月七日。頑張って偏差値六十もする高校に行けたのに。次は大学受験で国公立に行けって。もう嫌だ……」

「六月二十三日。空を眺めた。もし鳥だったら、自由に空を羽ばたける。私は家に閉じ込められている。私に足りないのは勇気」

 理佐はハッと両手首を見た。でも痕はなかった。恐らく浅い傷だったのだろうか。自分は十年前死のうとした。

 勇気が足りなかった。背筋が震えた。

 ズキンと頭に痛みが走る。死の願望。記憶にあった。事故の日だ。自分は死に直面して……

 何かおかしい。死を望む願望は理佐にはあったが、頭によぎった記憶の断片は日記の内容とは違う。高校受験に成功したのに、厳しい教育を課す両親への失望のあまり、思い余って死を掴もうとしたわけではない。

 なに、この記憶のずれは……

 記憶が濁流となって押し寄せる。全てに統一性がない。事故に遭ったのは今回が初めてではないことは、事故現場でわかっていた。あの日、自分は一人だったのか。

 死の願望が湧いてきたのは……

 大切な人たちが死んでしまったからだ。十年前、自分は車に乗っていた。座っていたのは後部座席。前に座る二人の男女が優しく理佐を見ていた。

 あなたたちは誰なの?

 楽しそうに自分を見て笑う二人。記憶の中の住人が現れる。あとはアルバムに写っていた友達の恐怖に歪んだ顔。

 理佐は目を閉じ、ふうと深呼吸をする。今日は疲れた。日記はまた今度見よう。
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