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記憶なき女Ⅱ 帰還
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退院の日がやってきた。
二〇二二年十月三日午前十一時六分。
夏の残暑も薄れて寝苦しい夜は少なくなった。少しばかりか木の葉が彩られ秋らしい涼しい時期になっている。着替える服がなくて理佐は困っていたが、杞憂だった。
「着替えを持ってきたわ」
理佐の母である詩織が持ってきた服は青いワンピースだった。
「ありがとうございます。いいのでしょうか?」
「なにも。あなたの服なのよ。遠慮することはないわ。これはあなたのお気に入りの服なのよ」
「理佐さん、退院おめでとうございます」
担当の看護婦の千里が横でにこやかな表情で言ってきた。
理佐は患者用の服を脱ぐことをためらっていた。
「どうしたの?」
「着替えが終わるまで。外にいてもらってもいいですか?」
詩織は絶やさなかったほほえみをやめたが、また元通りになる。そのあまりの変節に理佐は気になった。
「わかったわ。看護婦さんに手伝ってもらう?」
「そうしようかな」
「何か気になることでもあったの?」
外で待っている二人がお父さんとお母さん。自分は二人の子ども。心がざわついた。本当にそうなのだろうか。
「気に悩んでも仕方ないじゃない。これから時間かけていけば記憶だって」
「記憶ってどうしたら戻りますか?」
「どうしたらって。ああ、そうよね。気になるよね。わかった。正直に言うね」
千里はひそひそとつぶやいた。
「完全に治す治療方法はないわ。ごめんなさい。偶然の出来事などがきっかけで思い出すことがあるみたい。だから昔のアルバムとか、過去の思い出に一杯触れてみて」
コンコン。
「そろそろお着替えは済んだの?」
千里は着替えを手伝った。
外で待っている二人が両親なのだ。これから折り合っていけば記憶は戻っていくはずだ。時間がかかっても理佐は記憶を取り戻したい。本当に事故に遭遇した日、何があったのか。自分は誰で、どこで生まれたのか。気がかりになっているのは両親を名乗る二人以外にいない。
理佐はベッドにたたまれたワンピースに袖を通す。
服は少しだけ丈に合っていないようにみえる。脇回りや背中周りがどうも引っかかっている。
服が裂けた感覚がしたが、満足げな顔を見ると何も言えなかった。やっぱり丈が合っていなかった。
「どうなの? 着替えは済んだ?」
扉がガラッと音を立てて開いた。
「大丈夫です。でもこれ丈が合っていないみたいで」
「あら? なら新しい服を買ってあげるわ。今度お買い物に行きましょうね。さあ帰りましょう」
詩織はギュッと理佐の手を握り締める。力強い手に理佐は痛みを感じていたが、言うことができなかった。
病院の外の駐車場に止められてあった白いセダンに乗り込んだ。
「シートベルトはした?」
「家に帰る前に寄りたい場所があります。いいですか?」
「どこに行きたいのかな」
事故現場、と理佐は恐る恐る言い出した。夫妻の顔はガラリと変わった。ひんやりとした冷たい空気が漂う。
「そんなところに行っても。まずは家に行ってゆっくりしたらどうだ?」
「事故現場に秘密があるかもしれないわ。ひょっとしたら記憶をもい出せるかも。だから」
「そういうなら少しぐらいは……」
「行かせません!」
車が甲高い詩織の声で揺らいだ。
「無理しなくていいの。まずは私たちのお家で暮らすことだけを考えてね。辛いことや苦しいことは忘れなさい」
詩織の微笑みは人を受け入れているようで徹底して理佐の提案を拒んでいた。
「わかりました。今日は遠慮します」
「お医者さんも言っていたけど、辛いことは忘れていいの。記憶だって無理に思い出さなくても、あなたは私たちの娘なのよ」
詩織次第で物事が決まるのだと理佐は密かに感じていた。
「じゃ出発するから、いいね」
誠が静かに語り掛ける。本当のお父さんのように暖かい支援がある。
出発するとき多摩市立中央センター病院と書いてある看板が見える。病院を抜けて幹線道路を南下していく。全てが流れていく中で、理佐は窓辺に映る景色に何かヒントは隠されていないか眺めていた。
車は幹線道路を折れ、わき道にそれる。均質な自宅が並んでいて、車は静かに止まる。
二〇二二年十月三日午前十一時六分。
夏の残暑も薄れて寝苦しい夜は少なくなった。少しばかりか木の葉が彩られ秋らしい涼しい時期になっている。着替える服がなくて理佐は困っていたが、杞憂だった。
「着替えを持ってきたわ」
理佐の母である詩織が持ってきた服は青いワンピースだった。
「ありがとうございます。いいのでしょうか?」
「なにも。あなたの服なのよ。遠慮することはないわ。これはあなたのお気に入りの服なのよ」
「理佐さん、退院おめでとうございます」
担当の看護婦の千里が横でにこやかな表情で言ってきた。
理佐は患者用の服を脱ぐことをためらっていた。
「どうしたの?」
「着替えが終わるまで。外にいてもらってもいいですか?」
詩織は絶やさなかったほほえみをやめたが、また元通りになる。そのあまりの変節に理佐は気になった。
「わかったわ。看護婦さんに手伝ってもらう?」
「そうしようかな」
「何か気になることでもあったの?」
外で待っている二人がお父さんとお母さん。自分は二人の子ども。心がざわついた。本当にそうなのだろうか。
「気に悩んでも仕方ないじゃない。これから時間かけていけば記憶だって」
「記憶ってどうしたら戻りますか?」
「どうしたらって。ああ、そうよね。気になるよね。わかった。正直に言うね」
千里はひそひそとつぶやいた。
「完全に治す治療方法はないわ。ごめんなさい。偶然の出来事などがきっかけで思い出すことがあるみたい。だから昔のアルバムとか、過去の思い出に一杯触れてみて」
コンコン。
「そろそろお着替えは済んだの?」
千里は着替えを手伝った。
外で待っている二人が両親なのだ。これから折り合っていけば記憶は戻っていくはずだ。時間がかかっても理佐は記憶を取り戻したい。本当に事故に遭遇した日、何があったのか。自分は誰で、どこで生まれたのか。気がかりになっているのは両親を名乗る二人以外にいない。
理佐はベッドにたたまれたワンピースに袖を通す。
服は少しだけ丈に合っていないようにみえる。脇回りや背中周りがどうも引っかかっている。
服が裂けた感覚がしたが、満足げな顔を見ると何も言えなかった。やっぱり丈が合っていなかった。
「どうなの? 着替えは済んだ?」
扉がガラッと音を立てて開いた。
「大丈夫です。でもこれ丈が合っていないみたいで」
「あら? なら新しい服を買ってあげるわ。今度お買い物に行きましょうね。さあ帰りましょう」
詩織はギュッと理佐の手を握り締める。力強い手に理佐は痛みを感じていたが、言うことができなかった。
病院の外の駐車場に止められてあった白いセダンに乗り込んだ。
「シートベルトはした?」
「家に帰る前に寄りたい場所があります。いいですか?」
「どこに行きたいのかな」
事故現場、と理佐は恐る恐る言い出した。夫妻の顔はガラリと変わった。ひんやりとした冷たい空気が漂う。
「そんなところに行っても。まずは家に行ってゆっくりしたらどうだ?」
「事故現場に秘密があるかもしれないわ。ひょっとしたら記憶をもい出せるかも。だから」
「そういうなら少しぐらいは……」
「行かせません!」
車が甲高い詩織の声で揺らいだ。
「無理しなくていいの。まずは私たちのお家で暮らすことだけを考えてね。辛いことや苦しいことは忘れなさい」
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「わかりました。今日は遠慮します」
「お医者さんも言っていたけど、辛いことは忘れていいの。記憶だって無理に思い出さなくても、あなたは私たちの娘なのよ」
詩織次第で物事が決まるのだと理佐は密かに感じていた。
「じゃ出発するから、いいね」
誠が静かに語り掛ける。本当のお父さんのように暖かい支援がある。
出発するとき多摩市立中央センター病院と書いてある看板が見える。病院を抜けて幹線道路を南下していく。全てが流れていく中で、理佐は窓辺に映る景色に何かヒントは隠されていないか眺めていた。
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