記憶にない思い出

戸笠耕一

文字の大きさ
上 下
11 / 51
記憶なき女Ⅰ 既視感

4

しおりを挟む
 翌日。朝になってお腹も減ってきたが、今日はMRI検査を受ける日だったが、頭部の検査のため食事制限がかからない。

「おはよう。調子はどう? 朝の検温をするわね」

 体温は平熱だが、気だるい感じがしていた。

「首がどうにかなるといいですけど」

「首はまだしばらく外せないわね」

リハビリを請け負った看護婦が優しい顔で語り掛ける。胸のネームプレートには森本と書かれていた。

 食事はパンとハムエッグとヨーグルト。食欲はあまりなかったのでかじる程度だ。

「今日はよろしくお願いします。検査の日でしたよね」

「かしこまらなくていいのよ。何だったらあなたここにずっといてくれてもいいのよ」

「どういうことですか?」

「冗談よ、年も近そうだし話を聞いてくれそうだもの」

 看護婦の森本はおしゃべりだった。近所のスーパーの特売の話や隣の住人の悪口をしていた。他愛もない朝だった。

 MRIとは強力な磁石と電波を用い磁場を発生させる。強力な磁場が発生するトンネル状の装置内で電波を体に当て内部を様々な角度から撮影する。検査時間は十五分から四十五分と長めである。

 血液検査、尿検査も行った。午後に医師の評価を聞いた。

 諸々の検査が終わり医師は重苦しい表情をしている。MRI検査で取られた写真を示しながら医師の畠山は説明していった。

「脳機能はいたって正常で腫瘍などはありませんでした。その他、尿検査、採血も以上はありませんでした。体は極めて健康体です」

 尾坂夫妻は聞きなれない言葉にきょとんとした。

 畠山はMRI写真とPCのカルテを交互に見せながら説明した。カルテにはびっしりと細かい文字で患者名などの情報が書かれていた。ちらりと見えたが、カルテに書いてあったのは、もう一つの方の名前だ。

「理佐さんは運転中に事故に遭った時、海馬に強い衝撃を受けて一時的に記憶を失っています。逆行性健忘という症例です」

「逆行性健忘?」

 まさか、詩織は驚いた表情を浮かべる。

「先生、理佐の記憶は戻らないのでしょうか?」

「記憶が戻るかはなんとも。すぐに戻る人もおれば、時間がかかる人もおります」

 医師が続けて説明すると耐えかねず遮った。

「このまま記憶が戻らない?」

「お母さん、まずは日々の生活を取り戻すところから」

 医師は言いづらそうな顔で伝えた。

「先生、私は本当に尾坂理佐なのでしょうか?」

 素朴な疑問が女はあった。自分は記憶をなくしている。それは確かなのだろう。でも親を名乗る二人に思い出がなかった。記憶がなくなったとしても、思い出までも吹き飛んでしまうのだろうか。

 ふいに視界に入った二人の目が点になっていた。

「どうして、あなたがまたこんな目に遭うなんて」

 感情が砕けた瞬間を見ていた。

 母の温もりなのだろうか。何だか懐かしい。相手の涙の雫が頬に伝わってきた。

 詩織の涙に嘘はなさそうだ。誰かを失った悲しみを想起させる。単に抱きしめる詩織を母としての自覚を忘れているだけだと思うようになった。

「昔こうやって抱きしめられた思い出があります」

 温もりを感じたが馴染めない。自立した子が親に過保護に接され払いのけたくなる衝動はある。

 今はそういう気分になれず、釈然としないまま詩織に抱かれていた。反応に困っていたのだ。

「いいのよ。すぐにじゃなくて、ゆっくり思い出していけばいいの」

「体の傷を治して落ち着いたら、どこか旅行にでも行こう。思い切って海外にでも」

 誠の言葉に詩織はにらみつける。

「あなた、バカなこと言わないで。今がどういう状況下わかっているでしょ? 行けるわけがないでしょ?」

 最近流行っているウイルスのせいだ。時事と言ったことも忘れていない。本当に覚えていないのは名前と思い出だ。人はそれらを背負って人生とするから、そうじゃない人間がいるとしたら単なる社会のよどみに浮かぶ泡沫と変わらない。

 傷は浅く、3週間ほどして退院に至った。その間のリハビリは最初の内はしんどかった。

 体のしびれは少しあるのでしばらくの間は通院が求められる。

「ずいぶん治ってきたわね。思っていたより体のけがは重症じゃないって言っていたからよかったわね」

 看護婦の千里が気遣うように話しかける。

「はい。でも頭のほうが。それに本当に自分は尾坂理佐なのでしょうか?」

「大丈夫よ。いずれ思い出していくわ。ゆっくり時間をかけてね」

「千里さん、下の名前は何て?」

「千里よ。千里って呼んでいいわ」

「自分の名前って普通忘れないですよね? 千里さんは自分の名前を忘れたりしませんよね。もしかして違うとか感じないですよね?」

 千里はちょっと何を言うべきか迷っていた。

「確かに私は自分の名前を忘れたことはないわ。でもあなたみたいに記憶障害の人いる。でも仕方がないことよ。気休めになるかわからないけど、時間が解決してくれるから。気に病んじゃだめよ」

 時間が経てば記憶を思い出すわけか。

 プレートに書かれた名前。

 カルテに書かれた名前。

 千里はいたわる言葉で慰める。

「あなたの名前は尾坂理佐。他の何者ではないわ」

「じゃあ風井空って誰です?」

「あ、変ね。前の患者さんの名前じゃない? このところバタバタしていたからプレートの名前を変え忘れたのよ」

 名前。ありとあらゆるものを呼ぶために名前は付与されている。

 体は治ったが、脳はまだ治っていない。不思議な気分に陥る。実体がない幽霊のようだ。

 自分が誰なのか。常人にはこれほど簡単な問いが最高難度の問題となっていた。

 リハビリテーションに尾坂夫妻がやってきた。

「気分はどう?」

 語りかけてきたのは母の尾坂詩織だ。毎日のように見舞いに来て優しい言葉を投げかける。

「不思議です。何だかどこから来たのかもわからない放浪者の気分で」

 詩織を漫然と眺めた。屈託のない笑顔と何だかわからない満足感があった。温かみのある抱擁。これが愛なのだろうか。

「いいのよ。あなたはまだ若いの。人生はまだまだこれからだから時間をかけて、一からやり直しましょうね」

 退院の日取りが決まった。2022年10月3日だ。

 尾坂理佐として家族と生活をすることになった。理佐は自分という事故を探す旅に出かけることが許された。

 退院の日がやってきた。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

聖女の如く、永遠に囚われて

white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに百歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。 彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。 ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。 良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。 実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。 ━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。 登場人物 遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。 遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。 島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。 工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。 伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。 島津守… 良子の父親。 島津佐奈…良子の母親。 島津孝之…良子の祖父。守の父親。 島津香菜…良子の祖母。守の母親。 進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。 桂恵…  整形外科医。伊藤一正の同級生。 秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。

ビジョンゲーム

戸笠耕一
ミステリー
高校2年生の香西沙良は両親を死に追いやった真犯人JBの正体を掴むため、立てこもり事件を引き起こす。沙良は半年前に父義行と母雪絵をデパートからの帰り道で突っ込んできたトラックに巻き込まれて失っていた。沙良も背中に大きな火傷を負い復讐を決意した。見えない敵JBの正体を掴むため大切な友人を巻き込みながら、犠牲や後悔を背負いながら少女は備わっていた先を見通す力「ビジョン」を武器にJBに迫る。記憶と現実が織り交ざる頭脳ミステリーの行方は! SSシリーズ第一弾!

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

無限の迷路

葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

警狼ゲーム

如月いさみ
ミステリー
東大路将はIT業界に憧れながらも警察官の道へ入ることになり、警察学校へいくことになった。しかし、現在の警察はある組織からの人間に密かに浸食されており、その歯止めとして警察学校でその組織からの人間を更迭するために人狼ゲームを通してその人物を炙り出す計画が持ち上がっており、その実行に巻き込まれる。 警察と組織からの狼とが繰り広げる人狼ゲーム。それに翻弄されながら東大路将は狼を見抜くが……。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

処理中です...