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記憶なき女Ⅰ 既視感
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翌日。朝になってお腹も減ってきたが、今日はMRI検査を受ける日だったが、頭部の検査のため食事制限がかからない。
「おはよう。調子はどう? 朝の検温をするわね」
体温は平熱だが、気だるい感じがしていた。
「首がどうにかなるといいですけど」
「首はまだしばらく外せないわね」
リハビリを請け負った看護婦が優しい顔で語り掛ける。胸のネームプレートには森本と書かれていた。
食事はパンとハムエッグとヨーグルト。食欲はあまりなかったのでかじる程度だ。
「今日はよろしくお願いします。検査の日でしたよね」
「かしこまらなくていいのよ。何だったらあなたここにずっといてくれてもいいのよ」
「どういうことですか?」
「冗談よ、年も近そうだし話を聞いてくれそうだもの」
看護婦の森本はおしゃべりだった。近所のスーパーの特売の話や隣の住人の悪口をしていた。他愛もない朝だった。
MRIとは強力な磁石と電波を用い磁場を発生させる。強力な磁場が発生するトンネル状の装置内で電波を体に当て内部を様々な角度から撮影する。検査時間は十五分から四十五分と長めである。
血液検査、尿検査も行った。午後に医師の評価を聞いた。
諸々の検査が終わり医師は重苦しい表情をしている。MRI検査で取られた写真を示しながら医師の畠山は説明していった。
「脳機能はいたって正常で腫瘍などはありませんでした。その他、尿検査、採血も以上はありませんでした。体は極めて健康体です」
尾坂夫妻は聞きなれない言葉にきょとんとした。
畠山はMRI写真とPCのカルテを交互に見せながら説明した。カルテにはびっしりと細かい文字で患者名などの情報が書かれていた。ちらりと見えたが、カルテに書いてあったのは、もう一つの方の名前だ。
「理佐さんは運転中に事故に遭った時、海馬に強い衝撃を受けて一時的に記憶を失っています。逆行性健忘という症例です」
「逆行性健忘?」
まさか、詩織は驚いた表情を浮かべる。
「先生、理佐の記憶は戻らないのでしょうか?」
「記憶が戻るかはなんとも。すぐに戻る人もおれば、時間がかかる人もおります」
医師が続けて説明すると耐えかねず遮った。
「このまま記憶が戻らない?」
「お母さん、まずは日々の生活を取り戻すところから」
医師は言いづらそうな顔で伝えた。
「先生、私は本当に尾坂理佐なのでしょうか?」
素朴な疑問が女はあった。自分は記憶をなくしている。それは確かなのだろう。でも親を名乗る二人に思い出がなかった。記憶がなくなったとしても、思い出までも吹き飛んでしまうのだろうか。
ふいに視界に入った二人の目が点になっていた。
「どうして、あなたがまたこんな目に遭うなんて」
感情が砕けた瞬間を見ていた。
母の温もりなのだろうか。何だか懐かしい。相手の涙の雫が頬に伝わってきた。
詩織の涙に嘘はなさそうだ。誰かを失った悲しみを想起させる。単に抱きしめる詩織を母としての自覚を忘れているだけだと思うようになった。
「昔こうやって抱きしめられた思い出があります」
温もりを感じたが馴染めない。自立した子が親に過保護に接され払いのけたくなる衝動はある。
今はそういう気分になれず、釈然としないまま詩織に抱かれていた。反応に困っていたのだ。
「いいのよ。すぐにじゃなくて、ゆっくり思い出していけばいいの」
「体の傷を治して落ち着いたら、どこか旅行にでも行こう。思い切って海外にでも」
誠の言葉に詩織はにらみつける。
「あなた、バカなこと言わないで。今がどういう状況下わかっているでしょ? 行けるわけがないでしょ?」
最近流行っているウイルスのせいだ。時事と言ったことも忘れていない。本当に覚えていないのは名前と思い出だ。人はそれらを背負って人生とするから、そうじゃない人間がいるとしたら単なる社会のよどみに浮かぶ泡沫と変わらない。
傷は浅く、3週間ほどして退院に至った。その間のリハビリは最初の内はしんどかった。
体のしびれは少しあるのでしばらくの間は通院が求められる。
「ずいぶん治ってきたわね。思っていたより体のけがは重症じゃないって言っていたからよかったわね」
看護婦の千里が気遣うように話しかける。
「はい。でも頭のほうが。それに本当に自分は尾坂理佐なのでしょうか?」
「大丈夫よ。いずれ思い出していくわ。ゆっくり時間をかけてね」
「千里さん、下の名前は何て?」
「千里よ。千里って呼んでいいわ」
「自分の名前って普通忘れないですよね? 千里さんは自分の名前を忘れたりしませんよね。もしかして違うとか感じないですよね?」
千里はちょっと何を言うべきか迷っていた。
「確かに私は自分の名前を忘れたことはないわ。でもあなたみたいに記憶障害の人いる。でも仕方がないことよ。気休めになるかわからないけど、時間が解決してくれるから。気に病んじゃだめよ」
時間が経てば記憶を思い出すわけか。
プレートに書かれた名前。
カルテに書かれた名前。
千里はいたわる言葉で慰める。
「あなたの名前は尾坂理佐。他の何者ではないわ」
「じゃあ風井空って誰です?」
「あ、変ね。前の患者さんの名前じゃない? このところバタバタしていたからプレートの名前を変え忘れたのよ」
名前。ありとあらゆるものを呼ぶために名前は付与されている。
体は治ったが、脳はまだ治っていない。不思議な気分に陥る。実体がない幽霊のようだ。
自分が誰なのか。常人にはこれほど簡単な問いが最高難度の問題となっていた。
リハビリテーションに尾坂夫妻がやってきた。
「気分はどう?」
語りかけてきたのは母の尾坂詩織だ。毎日のように見舞いに来て優しい言葉を投げかける。
「不思議です。何だかどこから来たのかもわからない放浪者の気分で」
詩織を漫然と眺めた。屈託のない笑顔と何だかわからない満足感があった。温かみのある抱擁。これが愛なのだろうか。
「いいのよ。あなたはまだ若いの。人生はまだまだこれからだから時間をかけて、一からやり直しましょうね」
退院の日取りが決まった。2022年10月3日だ。
尾坂理佐として家族と生活をすることになった。理佐は自分という事故を探す旅に出かけることが許された。
退院の日がやってきた。
「おはよう。調子はどう? 朝の検温をするわね」
体温は平熱だが、気だるい感じがしていた。
「首がどうにかなるといいですけど」
「首はまだしばらく外せないわね」
リハビリを請け負った看護婦が優しい顔で語り掛ける。胸のネームプレートには森本と書かれていた。
食事はパンとハムエッグとヨーグルト。食欲はあまりなかったのでかじる程度だ。
「今日はよろしくお願いします。検査の日でしたよね」
「かしこまらなくていいのよ。何だったらあなたここにずっといてくれてもいいのよ」
「どういうことですか?」
「冗談よ、年も近そうだし話を聞いてくれそうだもの」
看護婦の森本はおしゃべりだった。近所のスーパーの特売の話や隣の住人の悪口をしていた。他愛もない朝だった。
MRIとは強力な磁石と電波を用い磁場を発生させる。強力な磁場が発生するトンネル状の装置内で電波を体に当て内部を様々な角度から撮影する。検査時間は十五分から四十五分と長めである。
血液検査、尿検査も行った。午後に医師の評価を聞いた。
諸々の検査が終わり医師は重苦しい表情をしている。MRI検査で取られた写真を示しながら医師の畠山は説明していった。
「脳機能はいたって正常で腫瘍などはありませんでした。その他、尿検査、採血も以上はありませんでした。体は極めて健康体です」
尾坂夫妻は聞きなれない言葉にきょとんとした。
畠山はMRI写真とPCのカルテを交互に見せながら説明した。カルテにはびっしりと細かい文字で患者名などの情報が書かれていた。ちらりと見えたが、カルテに書いてあったのは、もう一つの方の名前だ。
「理佐さんは運転中に事故に遭った時、海馬に強い衝撃を受けて一時的に記憶を失っています。逆行性健忘という症例です」
「逆行性健忘?」
まさか、詩織は驚いた表情を浮かべる。
「先生、理佐の記憶は戻らないのでしょうか?」
「記憶が戻るかはなんとも。すぐに戻る人もおれば、時間がかかる人もおります」
医師が続けて説明すると耐えかねず遮った。
「このまま記憶が戻らない?」
「お母さん、まずは日々の生活を取り戻すところから」
医師は言いづらそうな顔で伝えた。
「先生、私は本当に尾坂理佐なのでしょうか?」
素朴な疑問が女はあった。自分は記憶をなくしている。それは確かなのだろう。でも親を名乗る二人に思い出がなかった。記憶がなくなったとしても、思い出までも吹き飛んでしまうのだろうか。
ふいに視界に入った二人の目が点になっていた。
「どうして、あなたがまたこんな目に遭うなんて」
感情が砕けた瞬間を見ていた。
母の温もりなのだろうか。何だか懐かしい。相手の涙の雫が頬に伝わってきた。
詩織の涙に嘘はなさそうだ。誰かを失った悲しみを想起させる。単に抱きしめる詩織を母としての自覚を忘れているだけだと思うようになった。
「昔こうやって抱きしめられた思い出があります」
温もりを感じたが馴染めない。自立した子が親に過保護に接され払いのけたくなる衝動はある。
今はそういう気分になれず、釈然としないまま詩織に抱かれていた。反応に困っていたのだ。
「いいのよ。すぐにじゃなくて、ゆっくり思い出していけばいいの」
「体の傷を治して落ち着いたら、どこか旅行にでも行こう。思い切って海外にでも」
誠の言葉に詩織はにらみつける。
「あなた、バカなこと言わないで。今がどういう状況下わかっているでしょ? 行けるわけがないでしょ?」
最近流行っているウイルスのせいだ。時事と言ったことも忘れていない。本当に覚えていないのは名前と思い出だ。人はそれらを背負って人生とするから、そうじゃない人間がいるとしたら単なる社会のよどみに浮かぶ泡沫と変わらない。
傷は浅く、3週間ほどして退院に至った。その間のリハビリは最初の内はしんどかった。
体のしびれは少しあるのでしばらくの間は通院が求められる。
「ずいぶん治ってきたわね。思っていたより体のけがは重症じゃないって言っていたからよかったわね」
看護婦の千里が気遣うように話しかける。
「はい。でも頭のほうが。それに本当に自分は尾坂理佐なのでしょうか?」
「大丈夫よ。いずれ思い出していくわ。ゆっくり時間をかけてね」
「千里さん、下の名前は何て?」
「千里よ。千里って呼んでいいわ」
「自分の名前って普通忘れないですよね? 千里さんは自分の名前を忘れたりしませんよね。もしかして違うとか感じないですよね?」
千里はちょっと何を言うべきか迷っていた。
「確かに私は自分の名前を忘れたことはないわ。でもあなたみたいに記憶障害の人いる。でも仕方がないことよ。気休めになるかわからないけど、時間が解決してくれるから。気に病んじゃだめよ」
時間が経てば記憶を思い出すわけか。
プレートに書かれた名前。
カルテに書かれた名前。
千里はいたわる言葉で慰める。
「あなたの名前は尾坂理佐。他の何者ではないわ」
「じゃあ風井空って誰です?」
「あ、変ね。前の患者さんの名前じゃない? このところバタバタしていたからプレートの名前を変え忘れたのよ」
名前。ありとあらゆるものを呼ぶために名前は付与されている。
体は治ったが、脳はまだ治っていない。不思議な気分に陥る。実体がない幽霊のようだ。
自分が誰なのか。常人にはこれほど簡単な問いが最高難度の問題となっていた。
リハビリテーションに尾坂夫妻がやってきた。
「気分はどう?」
語りかけてきたのは母の尾坂詩織だ。毎日のように見舞いに来て優しい言葉を投げかける。
「不思議です。何だかどこから来たのかもわからない放浪者の気分で」
詩織を漫然と眺めた。屈託のない笑顔と何だかわからない満足感があった。温かみのある抱擁。これが愛なのだろうか。
「いいのよ。あなたはまだ若いの。人生はまだまだこれからだから時間をかけて、一からやり直しましょうね」
退院の日取りが決まった。2022年10月3日だ。
尾坂理佐として家族と生活をすることになった。理佐は自分という事故を探す旅に出かけることが許された。
退院の日がやってきた。
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