9 / 51
記憶なき女Ⅰ 既視感
2
しおりを挟む
次に見た光景。
ざわつく現場。グレーの服を着た人が作業をしている。恐らく救急隊員だろう。視界は事故直後のモノトーンな状態から、世界の色を感じる。
サイレンの音が鳴り響いていた。助かった。どこか胸苦しい思いが少しだけ和らいだ。
意識ははっきりしていて、どこかぼやけている。もやもやしている。視界はきちんと把握しているのに、靄がかかっている。どうしてこんな目に遭っているのかまるでわからない。
ストレッチャーに載せられて救急隊員に運ばれるときに、ちらりと見つめる視線を感じた。涙ぐんでいるさっきのハンカチを貸してくれた中年女性はまだ泣いている。誰もが驚きと悲しみの表情をする中で、明らかに違う表情の男がいる。
中年女性の隣にいる60前後の男だけは、じっと自分を興味深そうに眺めている。
救急車のトランクがバタンと閉じて、外界の情報は遮断された。
誰だろうか……
記憶が定かではない。死後直後みたいにあった既視感
突然外の世界に放りだされた感覚を味わった。本当に今日生まれた気分がする。やるべきことがあったと思う。わからない。まだ時間はある。仕方がないから流れに身を任していた。
病院につくと適切な処理を取ってもらい、気づいたときにはベッドの上だった。
意識はある。医師と看護師による問診や看護が行われた。何やらあれこれ質問をしてきたが、どうも頭に残らない。やめてほしい。思考の邪魔になる。
首にはコルセットが装着され、掌には包帯が巻かれていた。首は少し動かしただけで鋭い痛みが走るから食べるときがきつい。
ベルトコンベアに載せられた商品が工場で加工され、出荷される感じ。生命体としての実感はわかない。
包帯で巻かれる前に相貌を把握したかった。鏡がほしかった。
扉を静かに叩く音がした。
静かに開いた視線の先に2人の男女の姿があった。
「なんてこと。心配したわ。無事だったのね、よかったわ」
「重症だと聞いて飛んできたけど。よかった意識はあるようだね」
2人は同時に同じ名前を呼んでいる。誰のことを言っているのだろう。
名前はその者を特定する唯一の記号といえる。
誰のことだろう?
2人はあまりのことに言葉がない。何やらボソボソと言っている。
白髪交じりの男は50代前後だろう。白いポロシャツにセーターを着ていて、しわ混じりの顔に薄っすらと笑みを浮かべている。
隣で涙をぬぐう女も男と変わらないぐらいの年頃か。白い羽毛にのいかにも高そうな上着を羽織っている。
「ちょっと待ちなさい」
2人は部屋を出て行った。それきり来なかった。何者なんだろう?
突然、パッと頭に残像がちらついた。
1回り以上も年の離れ男女が笑っている。
なんだ、これは……
さっきの2人とは違う顔立ちだ。過去の情景と交錯が絶えない。やめてほしい。思考の妨げになる。
何だというのだ。
くっ……
首を誤って動かして痛みが走る。まだ動くのは難しい。翌日、また2組の男女がやってきた。
「大丈夫?」
「首が痛いので」
「りさ、無理してはいけないわ。ゆっくり休んでね」
りさ? 戸惑いが隠せなかった。
「あの、大変申し訳ございませんが、どちら様ですか?」
イライラしていた。頭の中にさっきの光景もちらつくし、よく知らない夫婦から話しかけられる。
2人の表情からとたんに笑顔が消える。一気に周辺の体感温度が5度ぐらい冷めた気がする。
入ってきた二人は顔を見合わせる。驚いた顔つきで見つめた。何か信じがたい目つきをしている。
別の世界から来た異邦人のような目をしている。
「いやだわ。理佐ちゃんたら急に何を言い出すかと思えば……」
「多分、ちょっと混乱している。ほら事故後だしさ、ハハ……」
2人の笑いは乾ききっていた。その場をうまく切り抜けようという必死さが目に映っていた。
どうもおかしい。釈然としない。
2人を見ても何も思い出せない。なんだろう、この感じ。全てがわからない。パズルのピースがバラバラでどこから繋いでいけばいいのか検討すら立っていない状態だ。
すっぽりと頭の中に空洞がある。
思い出せるものが出てこない。思い出すのに時間なんてかかるはずのない名前が頭に浮かばない。
「ごめんなさい。お2人がどなたかわかりませんので、ご親戚の方? 私は……」
何だろうか。記憶が混流し、あらゆるものが不整合に絡み合う中で誰もが忘れるはずのないものを言えなかった。
名前が思い出せない……
「理佐、何を言っているの。私は尾坂詩織。あなたのお母さんよ」
「はは、そうだぞ。冗談はよしなさい。私は君のお父さんの尾坂誠だ」
表情は何も変わらなかった。
何を失っていたのか致命的な欠点がわかった。
名前がわからなくて、顔のない人間なんてほとんどいない。矛盾しているが、名前がないというのは相貌を喪失しているのと等しい。
尾坂夫妻は互いに目を合わせていた。理解ができないのだ。ひそひそと話し合うと、彼らは外に出ていく。二人はしばらく帰ってこなかった。本当の両親の名前すら忘れてしまったのだろうか。
扉がガラッと開く音がした。両親と言われた2人ではなく、白衣を身に纏った男が来た。白衣を着た姿から医者だとわかる。
質問に答えるだけの問診が始まった。
「日本の首都はどこですか?」
「東京です」
「これは何ですか?」
「白いペンです」
「アメリカの首都は?」
「ワシントンです」
「あなたのお父さん、お母さんの名前はわかりますか?」
「わかりません」
「どこかで会った、お二人と一緒にいた記憶もありませんか?」
「ええ、何にも。事件の前がどうにも」
「どうやら思い出せないのは事故に遭ったときに頭部をぶつけたことが原因かもしれません」
「先生……」
詩織は絶句してハンカチで涙をぬぐった。
記憶をなくしていたが、事故に遭う以前のことだけで、言葉の意味や概念などはきちんと覚えていた。
不思議だ。世界をとらえることができるのに肝心の自分のことが全くわからないなんて。
ちらりと尾坂夫妻を見比べた。見返す2人の視線はいたたまれなかった。記憶はなくしても感情はなくしていないらしい。
医者はほほ笑んで気遣った。尾坂詩織が目元に手を当て涙ぐんでいた。
「あ……」
思い出しそうになる、でも言葉にできない。
「どうかしましたか?」
「理佐ちゃん、何か思い出したの?」
「無理するな。ゆっくりでいいからな」
3人は目の色を変える。
「何と申し上げればいいのか」
記憶をたどろうとしていた。病院でのやり取り。砕け散った記憶の破片がいくつかよぎる。
ふと何かパッと頭に浮かんだ。
「お2人の記憶はないですが、こうやって病院でやり取りした記憶はあったので。でもそのときは……」
記憶に表れた人物も2人組だった。夫婦づれもいた気がする。そう、夫婦の方は知っている。深く追求すると激しい痛みが込み上げてきた。締め付けるような痛みだ。こめかみを抑えた。
「無理に思い出すと体に酷です。ゆっくり時間をかけて思い出していきましょう」
記憶が取り戻せず苦々しい限りだが、体力の限界だった。医師の言う通り無理に思い出そうとすると頭痛がした。何より首への負担が激しい。
面会時間は午後6時になり、尾坂夫妻は帰宅していった。名残惜しそうな表情で2人は去った。窓の外からこっそりと二人の姿を見ていた。
あの2人がお父さんとお母さん……
夫妻は最低限のお金を置いてもらったので自販機に行ってのみ野茂を買いに行けた。
自販機を探して歩いていると聞きなれた声がした。主治医の声だ。
「大丈夫です。ええ、ええ。本人はすっかり記憶がありません。尾坂さんとは接触しましたよ。検査はしないといけませんが、間違いなく記憶障害でしょう」
何を話しているのだろうか。小耳をそばだてる。
「お金の件は口座に振り込んで頂ければ。いえいえ。本当に助かりました」
主治医の表情は緩やかになり、休憩スペースの椅子に座り込んだ。
一瞬だけ天井を見つめて額を押さえていた。
「先生」
「お、おお。かざ、いや尾坂さん。どうかなさいました?」
突然呼ばれて主治医はハッと飛び上がる。
「喉が渇いたので、ちょっと。先生こそ」
「いや、何でもありませんから。すみません」
主治医はそそくさとその場から立ち去る。話す間はなかった。
行ってしまった。何か気に障ることがあったのだろうか。
ガランと自動販売機から飲み物が出る音がする。
間違ったものを押してしまった……
つい気を取られて目的のものと別のものを押してしまった。
自販機から出てきたコーヒーの種類はブラックで無糖味。
1つ失った記憶を思い出した。
ブラックは嫌いだった。かなりの甘党なのだ。角砂糖を何個も入れて甘ったるくなったコーヒーを飲むのが好きだ。
時刻は2022年9月13日の午後6時34分。
ざわつく現場。グレーの服を着た人が作業をしている。恐らく救急隊員だろう。視界は事故直後のモノトーンな状態から、世界の色を感じる。
サイレンの音が鳴り響いていた。助かった。どこか胸苦しい思いが少しだけ和らいだ。
意識ははっきりしていて、どこかぼやけている。もやもやしている。視界はきちんと把握しているのに、靄がかかっている。どうしてこんな目に遭っているのかまるでわからない。
ストレッチャーに載せられて救急隊員に運ばれるときに、ちらりと見つめる視線を感じた。涙ぐんでいるさっきのハンカチを貸してくれた中年女性はまだ泣いている。誰もが驚きと悲しみの表情をする中で、明らかに違う表情の男がいる。
中年女性の隣にいる60前後の男だけは、じっと自分を興味深そうに眺めている。
救急車のトランクがバタンと閉じて、外界の情報は遮断された。
誰だろうか……
記憶が定かではない。死後直後みたいにあった既視感
突然外の世界に放りだされた感覚を味わった。本当に今日生まれた気分がする。やるべきことがあったと思う。わからない。まだ時間はある。仕方がないから流れに身を任していた。
病院につくと適切な処理を取ってもらい、気づいたときにはベッドの上だった。
意識はある。医師と看護師による問診や看護が行われた。何やらあれこれ質問をしてきたが、どうも頭に残らない。やめてほしい。思考の邪魔になる。
首にはコルセットが装着され、掌には包帯が巻かれていた。首は少し動かしただけで鋭い痛みが走るから食べるときがきつい。
ベルトコンベアに載せられた商品が工場で加工され、出荷される感じ。生命体としての実感はわかない。
包帯で巻かれる前に相貌を把握したかった。鏡がほしかった。
扉を静かに叩く音がした。
静かに開いた視線の先に2人の男女の姿があった。
「なんてこと。心配したわ。無事だったのね、よかったわ」
「重症だと聞いて飛んできたけど。よかった意識はあるようだね」
2人は同時に同じ名前を呼んでいる。誰のことを言っているのだろう。
名前はその者を特定する唯一の記号といえる。
誰のことだろう?
2人はあまりのことに言葉がない。何やらボソボソと言っている。
白髪交じりの男は50代前後だろう。白いポロシャツにセーターを着ていて、しわ混じりの顔に薄っすらと笑みを浮かべている。
隣で涙をぬぐう女も男と変わらないぐらいの年頃か。白い羽毛にのいかにも高そうな上着を羽織っている。
「ちょっと待ちなさい」
2人は部屋を出て行った。それきり来なかった。何者なんだろう?
突然、パッと頭に残像がちらついた。
1回り以上も年の離れ男女が笑っている。
なんだ、これは……
さっきの2人とは違う顔立ちだ。過去の情景と交錯が絶えない。やめてほしい。思考の妨げになる。
何だというのだ。
くっ……
首を誤って動かして痛みが走る。まだ動くのは難しい。翌日、また2組の男女がやってきた。
「大丈夫?」
「首が痛いので」
「りさ、無理してはいけないわ。ゆっくり休んでね」
りさ? 戸惑いが隠せなかった。
「あの、大変申し訳ございませんが、どちら様ですか?」
イライラしていた。頭の中にさっきの光景もちらつくし、よく知らない夫婦から話しかけられる。
2人の表情からとたんに笑顔が消える。一気に周辺の体感温度が5度ぐらい冷めた気がする。
入ってきた二人は顔を見合わせる。驚いた顔つきで見つめた。何か信じがたい目つきをしている。
別の世界から来た異邦人のような目をしている。
「いやだわ。理佐ちゃんたら急に何を言い出すかと思えば……」
「多分、ちょっと混乱している。ほら事故後だしさ、ハハ……」
2人の笑いは乾ききっていた。その場をうまく切り抜けようという必死さが目に映っていた。
どうもおかしい。釈然としない。
2人を見ても何も思い出せない。なんだろう、この感じ。全てがわからない。パズルのピースがバラバラでどこから繋いでいけばいいのか検討すら立っていない状態だ。
すっぽりと頭の中に空洞がある。
思い出せるものが出てこない。思い出すのに時間なんてかかるはずのない名前が頭に浮かばない。
「ごめんなさい。お2人がどなたかわかりませんので、ご親戚の方? 私は……」
何だろうか。記憶が混流し、あらゆるものが不整合に絡み合う中で誰もが忘れるはずのないものを言えなかった。
名前が思い出せない……
「理佐、何を言っているの。私は尾坂詩織。あなたのお母さんよ」
「はは、そうだぞ。冗談はよしなさい。私は君のお父さんの尾坂誠だ」
表情は何も変わらなかった。
何を失っていたのか致命的な欠点がわかった。
名前がわからなくて、顔のない人間なんてほとんどいない。矛盾しているが、名前がないというのは相貌を喪失しているのと等しい。
尾坂夫妻は互いに目を合わせていた。理解ができないのだ。ひそひそと話し合うと、彼らは外に出ていく。二人はしばらく帰ってこなかった。本当の両親の名前すら忘れてしまったのだろうか。
扉がガラッと開く音がした。両親と言われた2人ではなく、白衣を身に纏った男が来た。白衣を着た姿から医者だとわかる。
質問に答えるだけの問診が始まった。
「日本の首都はどこですか?」
「東京です」
「これは何ですか?」
「白いペンです」
「アメリカの首都は?」
「ワシントンです」
「あなたのお父さん、お母さんの名前はわかりますか?」
「わかりません」
「どこかで会った、お二人と一緒にいた記憶もありませんか?」
「ええ、何にも。事件の前がどうにも」
「どうやら思い出せないのは事故に遭ったときに頭部をぶつけたことが原因かもしれません」
「先生……」
詩織は絶句してハンカチで涙をぬぐった。
記憶をなくしていたが、事故に遭う以前のことだけで、言葉の意味や概念などはきちんと覚えていた。
不思議だ。世界をとらえることができるのに肝心の自分のことが全くわからないなんて。
ちらりと尾坂夫妻を見比べた。見返す2人の視線はいたたまれなかった。記憶はなくしても感情はなくしていないらしい。
医者はほほ笑んで気遣った。尾坂詩織が目元に手を当て涙ぐんでいた。
「あ……」
思い出しそうになる、でも言葉にできない。
「どうかしましたか?」
「理佐ちゃん、何か思い出したの?」
「無理するな。ゆっくりでいいからな」
3人は目の色を変える。
「何と申し上げればいいのか」
記憶をたどろうとしていた。病院でのやり取り。砕け散った記憶の破片がいくつかよぎる。
ふと何かパッと頭に浮かんだ。
「お2人の記憶はないですが、こうやって病院でやり取りした記憶はあったので。でもそのときは……」
記憶に表れた人物も2人組だった。夫婦づれもいた気がする。そう、夫婦の方は知っている。深く追求すると激しい痛みが込み上げてきた。締め付けるような痛みだ。こめかみを抑えた。
「無理に思い出すと体に酷です。ゆっくり時間をかけて思い出していきましょう」
記憶が取り戻せず苦々しい限りだが、体力の限界だった。医師の言う通り無理に思い出そうとすると頭痛がした。何より首への負担が激しい。
面会時間は午後6時になり、尾坂夫妻は帰宅していった。名残惜しそうな表情で2人は去った。窓の外からこっそりと二人の姿を見ていた。
あの2人がお父さんとお母さん……
夫妻は最低限のお金を置いてもらったので自販機に行ってのみ野茂を買いに行けた。
自販機を探して歩いていると聞きなれた声がした。主治医の声だ。
「大丈夫です。ええ、ええ。本人はすっかり記憶がありません。尾坂さんとは接触しましたよ。検査はしないといけませんが、間違いなく記憶障害でしょう」
何を話しているのだろうか。小耳をそばだてる。
「お金の件は口座に振り込んで頂ければ。いえいえ。本当に助かりました」
主治医の表情は緩やかになり、休憩スペースの椅子に座り込んだ。
一瞬だけ天井を見つめて額を押さえていた。
「先生」
「お、おお。かざ、いや尾坂さん。どうかなさいました?」
突然呼ばれて主治医はハッと飛び上がる。
「喉が渇いたので、ちょっと。先生こそ」
「いや、何でもありませんから。すみません」
主治医はそそくさとその場から立ち去る。話す間はなかった。
行ってしまった。何か気に障ることがあったのだろうか。
ガランと自動販売機から飲み物が出る音がする。
間違ったものを押してしまった……
つい気を取られて目的のものと別のものを押してしまった。
自販機から出てきたコーヒーの種類はブラックで無糖味。
1つ失った記憶を思い出した。
ブラックは嫌いだった。かなりの甘党なのだ。角砂糖を何個も入れて甘ったるくなったコーヒーを飲むのが好きだ。
時刻は2022年9月13日の午後6時34分。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
10
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる