記憶にない思い出

戸笠耕一

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年老いた狼Ⅰ 最後の事件

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 2022年11月24日。

 時刻は午前11時27分。板倉は人生最後の事件の通知を受け取った。きっかけはスマホの振動音である。

 ブーッ!

 スマホがうるさく鳴っている。11月に入って夜も冷える日が多くなった。布団から出るのがすでに億劫になっていた。

 ただ無視はできない音だった。スマホのアラーム音によって発生した事件の程度は変わる。

 音はけたたましく長い。最悪の知らせだ。

 音量と長さから重要犯罪か。殺人、強盗。詳細はメールでわかる。板倉は目じりを細める。激しく鳴り響く振動音は誰か死んだという合図だ。

 スマホを開きメールを見ると予想通り殺人事件を伝える内容だ。

「刑事第1課より緊急連絡。殺人事件発生。場所は多摩市管内。重大犯罪のため所轄管内の捜査官は出動せよ。以下詳細を記載する。場所:東京都多摩市聖ヶ丘3-5-10。遺体:2名。男性1人。女性1人。死因:鋭い刃物による外傷性失血死」

 コロシか……

 ここ数年の全国の殺人事件の件数は800~900件ほどである。殺人なんてずいぶん聞きなれない言葉だ。もう4か月もすれば定年だというのに、厄介な仕事を掴まされてしまった。

 まず煩わしいことは何か。2年ぶりのスーツを着ないといけない。板倉は上に羽織っていた近所の古着屋で売っていた緑のジャージを脱ぎ捨てる。箪笥にかけていたスーツを引っ張り出す。

 こいつも古くなった。ベージュ色をした背広はよれよれで少しかび臭い。シャツを着てネクタイを締めるとホコリを払って背広を羽織った。

 最後に仕事してやる。例のウィルス感染症で強いられた在宅勤務も、どうやらここまでのようだ。

 12時前といえば、今日はどこで昼を食べるかボツボツと考えていた頃合いだった。

 扉を開けると風が叩きつけるように吹きつけた。全くなんて日だ。外に出る雰囲気ではない。

 団地から現場に行く途上、近くのベーカリーショップによる。買う商品は決まっている。

「いらっしゃいませー」

 エプロンを付けた店員は若い娘だ。ボブショートで丸顔。板倉は数年前に離婚して娘がいた。会っていないが、成長したら店員の女の子と同じ年頃だ。

 ない。確か入って右側の陳列棚にあったのに。

「ごめんなさい。今、今補充しますから」

 女の子は愛想笑いを浮かべて急ぎアンパンを補充する。

「いつも悪いな」

「どこか出張ですか? 背広だなんて」

「野暮用だ」

 女の子は背広姿の板倉を見たことがない。

 アンパンを買うと、歩きながらむしゃむしゃと食べた。多摩市に住んで10年である。ここのアンパンはやはり絶品だ。

 都会の喧騒も感じず、老後には最適な場所だった。

 以前、板倉は23区で住んでいた。便利ではあるが、味のない乾パンを食べている生活を続けていた。正直に言えば、味気なかった。多摩署への異動はありがたかった。

 事件の捜査は頭を使う。必要な糖分は事前に取っておく。

 最近では気軽に有給休暇を取得できるようになっていた。のんびりしていたのに、業務用スマホに最悪の通知が飛んでしまった。

 全く何でもかんでもデジタルか……

 今回の事件は明らかにリアルな世界で起こっている。事件現場は板倉の住んでいる団地から徒歩20分ほどだ。

 あそこだな。板倉はじっと眉を細める。

 ガヤガヤと人が集まっている。御大層なカメラが数台置かれ、時々フラッシュがたかれている。今はスマホがあるから事件のにおいを嗅ぎ付けた素人が撮影している。

 現場は庭付きの2階建ての白い家のようだ。正面から見ると窓は3つだから部屋も3つだろう。こぢんまりとしたファミリー世帯向けの家のようだ。似たような家が通り沿いに点々と続いている。

 こうした閑静な住宅街でも血生臭い事件は時に起こり得るものだ。

「邪魔だ、どきな」

 板倉は黄色い立ち入り禁止テープに集まる野次馬を押しのけていく。マスコミたちの群衆を抜けると、立ち入り禁止テープの前で制服警官が板倉を阻もうとした。

「すみません、関係者以外はお通しできません」

「関係者だよ」

 制服警官が近づく板倉を不審者かと思ったのか止めに入る。すかさず警察手帳をかざす。制服警官は敬礼し板倉を現場に入れた。

 板倉は押しのけてきた背後に目をやった。ハイエナがと密かに悪態をついた。舌打ちをしたくなる。

 視線を家に向ける途中で庭先の花壇が目に留まる。サボテンが生えていた。花壇に掘り返した感じがある。気に留めるほどでもないから、板倉はまた視線を元に戻した。

 玄関前で鑑識から手袋と足袋をもらい中に入れてもらう。事件現場には犯人の足跡や指紋などの貴重な証拠が残っている可能性がある。臨場時に誤って消さないようにするための配慮だ。

 臨場とは事件現場に赴くことを指す。

 玄関口は吹き抜けになっていた。入って左手に階段があって2階に行ける。

「係長はどこだ?」

 板倉は中の刑事に話しかけた。廊下の向こうの部屋にいるらしい。

 ワックスが塗られて滑りやすい廊下を真っすぐ進んだ。扉があった。扉の向こうから聞きなれた声がした。扉を開けると見慣れた顔が視界に入った。

「おう。来てやったぜ、ササヤン」

「とむさん、来たか」

 ササヤンとは同期の笹塚のことだ。笹塚は板倉をとむさんと親しみを込めて呼んでいた。

 名前は笹塚順平。多摩中央署の係長で階級は警部補。本件の責任者である。登庁をしなくなってから笹塚と顔を合わせなくなった。昔は同期の間からよく他愛もない話をしたものだ。

 家族がくつろげる空間だから、ここはダイニング。ガラス細工のテーブルの周りに黒いソファがあり、プラズマ型の液晶が置いてある。カーテンはシルク色で優雅さがある。

 家の間取りは5LDKだろうか。

「精が出るな、管理官。ええ、久しぶりだな」

「お互いに、2年ぶりか?」

 板倉と笹塚は互いの顔を見て談笑する。板倉は白髪が増えた笹塚を見て少し老けたなと思った。

「ガイシャは?」

「こっちだ」

 笹塚は親指でホトケの居場所を指さす。示した先に食事用のテーブルとキッチンがあり、ホトケは横たわっていた。目にしたのはまさしく惨劇である。

 死体は2つ。

 どちらも仰向けに倒れている。最初に目に入ったのは男。無数の赤くなった斑点を帯び、ぱっくりと開いた刺し傷から血が吹きこぼれた痕が全身に広がっている。何度も刺した痕だろう。

 死に顔を見ると苦悶に満ちた表情にゆがんでいる。

 久しぶりの殺人現場といっていい。幾多の凄惨な現場を目撃してきたが、コロシの現場はやはり身が引き締まる。

「メタ刺しじゃないか。酷いなあ。でも女の方は胸の傷だけか」

 板倉はじろりとホトケをにらんだ後、静かに手を合わせる。死者に対する礼儀だ。

「とむさん、悪いな。あと四か月なのに。殺人事件なんて絡ませちまってよ」

 ポンと肩に笹塚の手が乗る。

「人が死んでいる。やるしかないでしょうが」

 誰も好きこのんで刑事をしているわけじゃない。入庁したばかりの青い正義感はあらゆるしがらみの中で擦り切れていき、正義とは何か見失いつつあった。

 ただ消えてしまったわけじゃない。犯人は必ず逮捕するのが被害者への礼儀であり、刑事として当然の務めである。

 事件解決に漏れこぼしはあってはならない。1つでも漏れがあれば事件はするりと手をこぼれ、時の流れに埋もれてしまう。ふいにかつての苦い思い出が板倉の感情を刺激させる。

 今回の被害者は何を最後に残したのかまず見ていく。

 男の遺体を見る。胸や腹を幾度となく刺されている。もう一方の女の遺体は胸を一突きで他に刺し傷はない。凶器は床に転がった出刃包丁。キッチン付近に落ちていた。鑑識によると指紋は拭き取られていたらしい。

 食事の最中に殺されたのか料理が散乱していた。

 犯人は夫妻が食事中に押し入り、金目の物を要求したが抵抗にあい殺したのだろうか。

「強盗の仕業なのか? 怨恨の線か?」

 板倉は鑑識に質問した。

「寝室に置いてあった財布や通帳が盗まれていないため、その可能性は低いかもしれません。玄関、窓などを破った侵入の痕跡はありません。怨恨の線については聞き込み捜査次第ですね」

 鑑識が事前に調べた経過を語りだす。

「残るは通り魔か」

 殺人事件の動機は2つに大別される。顔見知りによる怨恨や金目の犯行。もう1つが無差別的な通り魔による犯行。捜査方針を決定するうえで大事な区分である。

 板倉は近くにいた鑑識に被害者の詳細を聞いていた。ヘッドタウンに住む平凡な中年夫婦な印象を板倉は受けていた。

「被害者は男性で尾坂誠、52才。近くの松井建設で働いています。女性で尾坂詩織、48才。無職で主婦。死因は刃物で刺され失血死。刺された直後に心タンポナーデを起こし、恐らく数分で死に至ったものとされます。2人とも死後1週間ほど経っています。第一発見者は近所の老夫婦です。回覧板が回ってこないから気になって様子見に行ったら、倒れている2人を見つけたそうです」

 致命傷は腹部から胸部にかけての刺し傷だ。刺された後で心タンポナーデを引き起こし死に至った。

 死因について専門的な話になった。

 心タンポナーデとは心臓を取り巻く心嚢液が蓄積することで心臓が圧迫される状態を指す。心タンポナーデになる条件は多様である。今回の場合は外傷性によるものだ。

 心臓とその周りを覆う心外膜の間に心嚢液がある。心臓の拡張と伸縮の促進、外部からの衝撃を防ぐため役割を果たしているのが心嚢液だ。大量失血が発生した場合、心臓の周りに心嚢液が滞留して、心機能の役割が低下される。この状態こそが心タンポナーデだ。

 どう刺したかによるが、仮に心臓を刺されたとしても、数分はもがき苦しみながら死ぬ場合もある。2人の死に顔がまさしくそうである。

「一方はメタ刺し。もう一方は一突きか」

 板倉は首をひねる。犯人は夫を怒りに任せるままメタ刺しにしている。妻は心臓を一刺しでこと切れている。

「夫の誠は全部で7か所刺し傷がありますが。一番の致命傷は胸骨の間から心臓を刺した一突きです」

「刺し傷からして妙だな。他の刺し傷は右側に集中して浅いのに、致命傷はやや左側から一突きか」

 複数人で刺した。右側に刺し傷がある場合、犯人の利き腕が左手である可能性が高い。右左で指す場所に違いあるため、犯人が複数人という可能性もあるわけだ。

「ほかに住人は?」

「いません。10年前から夫妻は二人暮らしです」

 10年前か。

「それ以前にこの家に住んでいたやつがいた」

 独り言を言いかけたとき、ドタバタと音がした。視線を向けると板倉はあきれ顔で見ていた。

 なじみの顔だ。

「すみません! 遅くなりました」

 少し長髪の30代前後の男がやってきて手を合わせた。男は秋山伊織といって多摩中央署の若手刑事で板倉が警察学校の教員として教えていた。

「おせえよ。何をやっている?」

「休暇だったもので」

 秋山は頭に手をやりヘコヘコしていた。刑事になって6年になるというのに浮ついた若者らしさがどこか残っている。

「俺に手合わせねえで、被害者にしろ」

「被害者は? うわっ」

 血だまりを見て秋山はげっそりした表情で目を背けていた。経験の浅い刑事ほど凄惨な現場に慣れていない。日本全体の犯罪件数は年々減少傾向になり、目の背けたくなる現場もなくなっている。

 これ自体は好ましい話だが、事件はゼロには決してならない。慣れは重要だ。しかし、秋山は新人の頃から10年経っても凄惨な現場に慣れていなかった。

 こいつは刑事に向かんなと板倉は心でぼやいた。つい言ってしまいたくなるが、パワハラになる恐れがあるので口を閉じていた。

 秋山はあまり成長性もないやつでどこかで道を用意してやらないと動かないタイプだ。

「いい加減慣れろよ。他に被害者に関して何か?」

「よろしいですか? 被害者はどうも誰かと生活していた形跡があるみたいです」

 2人ののやり取りに鑑識が割って入ってきた。

「今は2人暮らしだろ? 10年前は違うと思うが? 何かあるのか?」

「室内の指紋、毛髪を調べたところ夫妻のものとは異なる第3者のものが大量に出てきていました」

「待ってくれ。第3者の指紋や毛髪があってもいいだろ。郵便配達員とかの指紋だってあるだろ?」

「食事のテーブル、食器、トイレなど。あとは2階の部屋から」

 板倉は散乱したお椀や皿、箸の数を数えてみる。確かに3つだ。尾坂夫妻以外にも第3者いたことを示唆している。

「来客でも泊めていたのか?」

 確かに配達員や業者が長時間も滞在しないはずだ。誰かが泊まっていたら別である。

「2階の部屋に上がってみてください。実際に夫妻以外の者が住んでいた形跡があります。案内します」

「わかった。2階の部屋を見せてくれ。話はそれからにしてくれ」

 鑑識は抑揚なく事実を伝えた。指紋は犯人特定の重要な気がかりになる。妙な犯人だ。出刃包丁の指紋は拭き取ったのに、部屋に残った指紋や毛髪は消さなかったわけだ。
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