記憶にない思い出

戸笠耕一

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年老いた狼Ⅰ 最後の事件

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 やがて朝が来た。

 近くの公園の烏が甲高く鳴いたのをきっかけに、多摩中央署の板倉勉が再び目覚めたのは2022年9月10日の午前8時である。多摩ニュータウン落合3丁目の団地の一室はエアコンが壊れているため、部屋中に熱気がこもって汗をかいた。

 寝苦しい1日だった。深夜のあの騒動のせいで睡眠時間を削られてしまった。きちんと睡眠時間を確保することは大事だ。

 定年を半年前に控えていた板倉はまだ自身が死神に魅入られているとは知らない。

 多摩市は人口14万ほどのヘッドタウンだ。京王相模原線沿いに多くの団地が立ち並ぶ。合間に森が生えて自然と人が調和した街並みである。

 板倉の朝は比較的ゆっくりしている。8時に起床する。朝は軽い納豆かけご飯とインスタントの味噌汁を食べる。あとはコンビニで買った安い煎茶でも飲んで朝の始業時間を待つ。

 例の世界を混乱の渦に落とした感染症の影響もあり、刑事もテレワークができるようになったのはちょうど2年。板倉はほとんど在宅で仕事をしている。何よりも着替えなくて済むから助かっている。白いスウェットは汗ばんで黄ばんでいたが、気にする必要性はない。これでも仕事に臨める。

 38年も刑事として勤めていたが、板倉はおおよそ刑事らしくない。もはや事件を追うこともせず、最後に取り組んだ事件も思い出せない有様だ。

 過去はとある記憶を残してどうでもよかった。人間は多くのことを記憶できるものではない。思い出へと昇華できた記憶は目の前にある。

 板倉はそっと小さなテーブルに置かれた写真立てを見て、手を合わせた。

 大事なのは過去ではなく、これからである。

 板倉は立ち上がると箪笥の上にぞんざいに積み上げられた雑誌類を取り出す。目を細めながら興味なさそうに眺めていた。雑誌のジャンルは多岐にわたっていた。最近、老眼が酷くなり新聞や雑誌を細めていた。

 盆栽。

 家庭菜園。

 将棋倶楽部。

 地域ボランティア。

 多様な提案や考えが浮かんでメモに残していた。何か形に残さないと消えてしまうからだ。正直何もしたくない。あらゆる事件に遭遇し、犯人逮捕の貢献をしてきて活力がなかった。

 家にいて仕事はどうするのか。パソコンを1台貸し出されている。パソコンが使えないと揶揄されがちな世代だが、板倉はすんなりと使えこなせていた。どうも使いこなせないやつは勝手な判断で進めてパソコンを動かなくさせ、使うことを諦めるケースが多い。

 いつだって身を亡ぼすのは根拠ない自己判断だと常に思っている。

 まあ講釈は自分に対する戒めとして取っておけばいい。今の板倉に教えを乞う若い刑事はいないし、説教なんて柄じゃない。

 さて最終日までやるべきことは3つだ。

 1.始業時間の打刻。

 2.朝のメールチェック。

 朝はこの2つをクリアすればよしである。ほぼ日中帯は自由時間である。ただし注意点はPCをオンにしておく。サボらないようしっかりチェックされている。

 ようやく倦怠に満ちた日中帯が終わり、最後に仕事が待っている。これを忘れてはいけない。3番目である。

 3.終業時刻の18時に打刻。

 仕事はそれで終わりである。

 他の同じ定年間近を控えた刑事がどんな仕事ぶりなのかは知るよしもない。自宅軟禁のような生活を2年以上も続けてきて、何も周りから言われないのだから、まあこれでいいだろう。

 自由時間では髪が薄くなった頭をポリポリとかきながら興味のない雑誌類をまた眺めて退官後にやるべきことを検討している。

 こんな風な単調な生活が続いているから昨日も今日もあまり関係がなかった。

 最近、変わったことはなかっただろうか。板倉は首をひねる。思い出した。

 昨晩のことだ。交通事故が遭った気がする。寝ぼけていたので、あまり覚えていない。

 でも自分には関係ない。板倉は多摩中央署刑事第1課の刑事で強行犯と呼ばれる殺人、強盗、暴行、傷害、誘拐、立てこもり、性犯罪、放火などの凶悪犯罪を担当する。

 交通事故は管轄が違う。ただ刑事として気にはなる。

 窓を開けて昨日事故が起きた方角を見てみる。あれほど火の手が上がった場所は何事もなかった。

 どこかで事故や事件は起きていると他人事のように感じる日が来るとは思わなかった。板倉は食べ終わった朝食の片づけに入った。
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