Sの探索

戸笠耕一

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第6話 セイレーンの過去

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 ひどいめまいがしたのは覚えていた。うっすらとした視界の果てに、水平線のかなたに没する船を見た。蓮子は海で育った。青い生命の源である海。海に生まれ、海と暮らし、海に大切なものを奪われた。漁師の朝は早い。蓮子が寝ている時間に漁に出かけ、取れたてのアジをいつも食べさせてくれる。

 あの日は、普段と変わらない一日だった。でも急に天候は悪くなり、二人が乗った船は波にさらわれ、水平線の向こう側から帰ってくることはなかった。

 頭が痛い。なぜカクテルを飲んだせいだろうか?

「お目覚め?」

 声がする。あの甘ったるい耳障りな声。理佐だ。近くにいる。

「ね、なんか私どうしたの?」

「なあに?」

 理佐を見た。彼女はまたにやけている。何か面白ことがあると、彼女はよくにやけ顔をして、蓮子の顔を見た。

「ごめん、ちょっと」

 そう言って視界は揺らぎ、蓮子の体はガクッと崩れ落ちた。

 ひどく頭が痛む。景色がぼやけている。何だか溺れているよう。そんなはずはない。自分が溺れるなんて。変だ、とにかく変だ。

 手足を動かそうとしたとき、金属のこすれる音がした。甘いフェロモンが漂い、鼻に突いた。頭がくらくらする。手で頭を押さえようとすると、急に引き戻される。手首を見ると枷のようなものがはめられている。

「お目覚め?」

 うっすらとした視界の端に、理佐を見た。

「なに、私寝ていたの?」

「もう。寝ないでよ。でもすっかり楽しめたよ」

 どうして、私? 急に体が。

「あなた、そうだわー」

 蓮子は目の前にいる理佐の素肌が、ピンク色だったので言葉を失う。ここは一体。何で彼女は?

「あなた! え?」

 下着姿の彼女を見て蓮子は驚いた。でも理佐はこれが当然とばかりに開き直り、おかしな風な感じで蓮子を見つめ返した。

「なに?」

「だって、どうしてあなた?」

「変? 蓮子さんも一緒だよ」

 え、とばかりに蓮子は体を動かそうとしたが、鎖が彼女をとらえていた。身を動かすたびに体が引き戻されるのは鎖の性だった。羽織っていた洋服がなく、四肢を晒している自分に蓮子は身を隠せずにいた。

「あなた、ちょっと、え? なによ、これ?」

「ごめんねー。本当はもっと仲良くしてからの方が絶対いいけど」

 理佐はそう言って、人形のような手を伸ばし、蓮子の四肢を触れる。

「こうもあっさり釣れたからご堪能ってわけ」

「やめて。あなたなに? どういうつもり?」

「え、色々教えてって言ったよね?」

「何なのこれ? ちょっと。いやだ。なんでよ? 外れない」

「ここはお楽しみの部屋なの。ほら、嗅いで」

 理佐は手元にあった妙な香りを蓮子の鼻に持って行った。

「すぐにとってもいい気分になれるから、だから安心して」

「どういうことなの! やめて、外して!」

「落ち着いてよ。すぐに楽になるから」

 初対面なのにあの馴れ馴れしさ、おかしいと思ったのだ。その後で蓮子は妙な男にひどい目に遭った。そして今日のこれは、仕組まれていたと思った。

「え? まさか、あなたあいつとグルなの?」

「あいつ? 誰それ?」

「さっき話した男よ」

「ああ、別に何で? あんなのと一緒にしないでよ」

「だって、じゃあこれは?」

「まったく、まったく。大して仲良くないのに、よくホイホイ付いていくよね。今日もそうだけど。蓮子さん、けっこう尻が軽いね」

 蓮子はそう言われ、怒りを感じたが何も言い返す言葉がない。言われたらそれまでだ。

「騙しておいて」

「騙す? 人聞き悪いなー。困っていたところを助けてあげたのに。話も乗ってあげたのに。ひどいな」

「とにかく外して。それに私こんな趣味ないわ。レズじゃないし」

「え? 別に私もそういうわけじゃないよ」

「じゃあなんで?」

 理佐は言葉にそぐわない行為で、人を翻弄していた。こういうやり方が、人を惹きつけるのか。

「びっくりさせたかったの。それだけよ」

 理佐は、相変わらずにやけている。得体が知れず、蓮子は恐怖を覚えた。

「でもこれからだから」

 そういって理佐は立ち上がり、背後の化粧台に座った。鏡に映る彼女は子どもがすこし化粧をして大人びた格好をしているようだ。黒の下着とピンク色の照明に照らされ、彼女は何をしたいのだろうか? 口紅を塗りなおし、かがみ越しに蓮子の困惑した顔を見て時折笑う。やがて引き出しからあるものを取り出す。

 小型の折り畳み式のナイフだった。

 ゆっくりと立ちあがり、手にしたナイフを振り上げる。その瞳は、善悪を知らず、道徳を知らず、ただ目の前の快楽を求める幼児のようであった。

「びっくりした?」

 蓮子は体を震わせた。自然と涙があふれた。顔が引きつり、もう何が何だかわからない。

「そんな風な顔しないでよ。ほら、鳥肌が立っている」

 サーッと理佐の指先が蓮子を冷たい風のように触れる。

「さて」

 片手に持たれたナイフの矛先を、蓮子に向けた。光に照らされ、刃物はきらりと揺らめく。まんまと呼び出された女は、狂人だったのだ。

「あ、あ、ああ」

「怖いの?」

 理佐は、ナイフを蓮子に向けては、遠ざけていた。恐怖で彼女を煽り、快楽を増長させていた。

「蓮子さんの秘密を洗いざらい話してくれたら、助けてあげる」

「え、え、え」

「でーも、もし嘘とかついたら」

 理佐はナイフの切っ先を向け、蓮子の胸元にそれを押し付けた。電線に触れたような熱く鋭い痛みが全身に走り、かすかなに赤い雫が白い肌に浮かびあがった。

「あ、あ。あああ!」

 蓮子はおぞましい情景に体をばたつかせた。死にたくない、死にたくない。怖い、怖い。

いやだ、と体が拒絶していた。それでも手足にはめられた枷が、蓮子を縛り付けおぞましき場所に留める。

「あははは、あははは! あははは!」

 理佐は狂ったように笑い踊り、ナイフを手にしたまま部屋中を飛び回る。この幼形の殺人鬼は、彼女にしかわからない感覚で生きている。触れてはいけない世界に、蓮子は足を踏み入れてしまったのだ。

「すごい、すごい。壊れちゃった!」

 理佐は有頂天になり、蓮子の体に飛び乗った。殺されると、蓮子は覚悟した。多分、耐え難い痛みとともに鮮血が飛び散るのだ。そして自分は無残に死に絶える。

「大丈夫、冗談だよ」

 彼女の笑いに蓮子は目を点にした。

「ほら! 落ち着いて!」

 甲高い理佐の言葉に、蓮子は悲鳴をやめた。

「聞きたいことがあるの。言ったでしょ? 洗いざらい話せって」

「わかった。だからお願い。それ閉まって」

「え、嫌だ。じゃ質問ね。お金はどうやって貯めたの?」

「え?」

「え、じゃない。質問には答える」

「病院で看護師やっていたからその時の」

「ふーん」

 理佐は涼しい顔で理佐を見下げて、嘘つきと言った。

「違うわ。パーティの時に話したわ。嘘じゃないわ!」

「嘘つき。だって看護師でしょ? そんな稼ぎいいの? あのパーティに来る人に看護師なんていないよ」

「でも私は」

「嘘つきました。仕方ないよねー」

「違う! 看護師は本当! でも、やめてフリーで働いていたの。その後、いい人と結婚したのよ」

「なるほどねー。相手がお金持ちなのね。どんな人なの?」

「高齢者よ。独り身で、介護していて、そこから仲良くなったの」

「はーん。そういうこと。うまいね。玉の輿狙ったわけ。それで?」

「病気で亡くなったのよ。彼がお金残してくれたから」

「へー、なるほど。いくらもらったの?」

「億」

「億? 確かに貯金あるからね」

 これで済んだと蓮子は思った。自分がどうやって財を成したかを知られてはいけなかった。しかし、理佐は狡猾だった。しばらく納得したふりをして、相手が落ち着いたところで急に核心めいたことを言った。

「ね、結婚して何か月だったの?」

「え?」

「何か月?」

 蓮子は迷った。嘘を言えば、何をしでかすか読めない。

「三ヵ月」

「ふーん、はやっ」

 本当のことを言っても、結局は突っ込まれる。

「怪しい。もしかして遺産目当て?」

 事実そうだ。

「なーんだ。そういうこと」

「たまたまよ。違うわ」

「何で病院やめたの?」

「病院は夜勤が大変だったの。フリーだと時間が取れるから」

「へー」

 理佐の質問は途切れた。彼女は、探るような目つきで蓮子を見据えた。

「殺したでしょ? そのおじいちゃんを」

 言葉は時に、研ぎ澄まされ人を殺す。理佐の問いに、嘘は付けなかった。しばらく黙ったのち、蓮子は縦に首を振る。

「ああ、そういうこと。やっぱりそうだったか」

 理佐は納得したような顔つきで、部屋を見渡す。彼女の目には、喜びが感じ取れた。

「お仲間、見つけちゃった」

「どういう意味?」

「何かそんな感じしたわ。蓮子さん、パーティで楽しみタイプじゃないし、でも男を探していたから、変だなって。でも慣れていないから。まだ駆け出しだね」

「あなたって」

「ね、何人殺したの?」

 理佐は包み隠さず、本質を聞いてきた。

「殺したつもりはないわ」

「隠しても無駄よ。看護師なら、薬物とか? ほら言わないと」

 ナイフがきらりと光る。

「別に。お迎えが近いから、そうしてあげたの」

「だからそれを殺したって言うの」

「違うわ」

「ふふん、そんな正当化しなくてもいいでしょ?」

「あなたにわからないわ」

「別にわかるつもりないよ。誰にもわからないでしょうね」

「お金目的で、何人も殺してきたの?」

「ま、時と場合によるかな?」

 理佐は、うまく会話をはぐらかす。

「ま、いいや。それよりせっかくだし、素敵なお体で楽しませて」

「おばさんの体なんて楽しいの?」

 蓮子は三十三になる。女としては段々衰えていく。そんな体に何をもってよるのか理解ができない。この子は何がしたいのだ。

「別に」

 快楽の感ずるままに、理佐は行動する。男を釣って、金を稼ぐ。稼いだ金で、服を買い、自分を着飾り、男を釣る。時に気にかかったら、同性であれ貪る。なにをするのも気の向くまま、時に殺しも辞さない理佐は、蓮子が求める自由の橋渡しになった。

「お金、もっとほしいでしょ?」

「ほしいわ」

 夢をかなえるためにはまだ足りない。自分には十分な金を持ち合わせていない。

「なら決まりね。手組もう」

「あなたと?」

「断れないよ。だってほら」

 理佐は手にもったナイフをちらつかせる。どんな凶器も彼女が持つと愛らしい。しかしそれがゾッとするぐらい恐ろしかった。

「わかったから、お願いだから尖ったものを向けないで」

「いいよ」

 二人は手を組んで、多くの男をだまし、破滅へと誘った。あとには大金が残った。でも手元にあるお金の使い方はまるっきり違った。理佐は、男から巻き上げた金をあっという間に使い果たしてしまう。自らを着飾ることが彼女の生きがいなのだ。お金そのものが彼女の欲を体現化している。一方の蓮子は、お金は自分が海のある場所で屋敷を買い、住んで生活するという明確な目的があった。お金は手段にすぎず、理佐とは方向性が違っていた。

 共同でだまし取ったお金は、半々というわけではなく、理佐の取り分が多かった。蓮子は理佐と暮らすことを強いられ、ある種従属関係になっていたのだ。

 だから時々体を触られ、遊んであげないといけない。快楽があれば、すぐに飛びつくのが三島理佐の本質なのだ。望んだ関係ではないが、学ぶことは多かった。付き合っていくうちに彼女の思考回路が分かってきた。いずれは始末をしないといけないが、今ではない。ターゲットは近くに寄せておき、手放さない。現在、自分の周りをうろちょろしている妙な探偵と同じだった。
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