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第5話 常夏の島
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こうして2人は秘かに誰にも悟られずに結婚した。一回りも、二回りも離れた関係は、一見、孫と老人にしか思えない。ただ気がかりなのは長年康夫の世話をしていた住み込みのヘルパーだ。彼のことをよく知っているので、世話をするときは色々とうるさく、うっとうしい。彼女とは、うまく親しさを装って信頼を勝ち得た。あとは簡単だ。人知れずにドライブに出かける。彼女の飲み物に薬を入れて眠らせる。彼女を持ってきたトランクに入れる。海辺で小型ボートを借り、積んでいたトランクを海に投げる。簡単な事務作業だ。
邪魔者を消し、蓮子は康夫に遺言書を書き換えるように仕向けさせる。家族のいない彼にとって唯一の身内は、蓮子ただ一人だったが、念には念を入れておいた。
あとは、ゆっくりと彼の体を弱らせていく。病院をやめたので、お手軽で簡単な殺人方法を検討し、彼には鶏肉をよく料理として振舞ってやる。ただし少々火を通すのを忘れることにした。
数か月して、彼は腹を抱えてのたうち回った。彼の胃腸に住み着いたカンピロバクター菌が芽生えた。体力が著しく低下し、お粥が喉を通るのがやっとで、いつしか死にたいと口ずさむようになった。
かすかな生気で、亡霊のようになり果てた男。死体になり損ねた人々を、蓮子は大勢見ている。彼らは生への渇望を捨てている。しかし天は悲しいことに、彼らを召し出そうとしない。多くの者にとって自分の生き死には、自分では決められない。いや、怖いのだ。自ら手放すことは恐ろしいはずだ。
康夫はボーッと窓の外を眺めている。例のごとく、月を眺めている。背後に、蓮子の存在に気付いた彼はパクパクと口を動かし、何かうわごとを言っていた。
「つらいわ。あなたを見ているのが、とてもつらい」
本当にそうなのだ。蓮子は心の底から、今の康夫の姿を見れば同情せずにはいられない。村田邦彦といい、竹中康夫といい、なぜ人は死に体になりながらも、生きなければいけないのか。彼らを、死なせずに生かしていくことこそが悪ではないだろうか。
蓮子は死すべき定めの者を死なすことを摂理と考えていた。二度目だったので、彼女には何のためらいもなく、作業をこなした。
細い手を康夫の口と鼻に置いた。ぴったりと寸分の隙間のないほど、しっかりと彼の通気口を封じた。彼女は首を傾いで笑った。左右が少しだけ非対称の目が潤み、寄り添うように彼を優しく見ていた。彼女の、この老人に対する優しさは全ての財を投げうつだけにふさわしかった。康夫もそう感じて今なら安らかに死ねると心から信じた。このまま蓮子を見つめて、すっと天に上りたいと密かに感じた。彼の心はつかの間晴れやかになったが、やがて息苦しさを感じるようになり、無視できない程になった。
苦しい。なぜなら蓮子の手がピッタリと康夫の口を押えているから。彼女の手を弾王にも外せない。目で彼は苦しさを訴えるが、蓮子は笑みを浮かべたままだ。足がバタついた。夢見心地な気分は消え、黒い何かが迫りくることを知った。
蝋人形のようにピクリとも動かない瞳に、康夫は気が付いた。これまで甘い夢を見ていたのだ。口元を塞がれ、徐々に感じる息苦しさの中に揺らぎつつあり、取られつつあった生への渇望が唐突に蘇った。
「ウウッ、ウウッ」
うめき、体を揺らす康夫に対し、蓮子の手は無情にも放れることはない。かすかな抵抗もしばらくすると静かになってしまう。
口元を押さえていたのは、事件性を問われてしまう。康夫の死は、確実に自然死にする必要がある。彼女は突如として夫を失った悲しき未亡人を演じなければならない。
「あなた!」
誰もいない部屋で、花柄模様のカーペットに横たわった康夫に向かって叫んだ。感情を高ぶらせ、救急車を呼ぶ。その間に、人工呼吸をする。彼女は医療従事者だった。何もせずにうろたえているのは明らかに不自然だった。
必死に彼が生き返るように、機能を停止した臓器に吐息を吹きかける。ただの土塊に魂を込めているようで、その様は職人のようだった。
やがて救急隊がやってきて、後のことを任せた。モノクロな世界に包まれた病院に連れて行かれ、処置を施される。必死な医師や看護師の顔が頭によぎる。朝になって、焦燥感を漂わせた医師が出てきて、悲痛そうに康夫の死を告げた。
「大変、申し訳ございませんが、懸命の処置を施しましたが、ご主人は」
人事は尽くしたが、結果及ばずという顔を拝むのは始めてだ。これまでは、その顔を作り親族の対し、礼節をわきまえる姿勢を表現しなければならない。
このとき、蓮子は過ちを犯した。不幸にも夫を亡くして、それなりの感情を発露する必要があった。でも彼女は
口も聞かず、黙って彼らの素顔を覗き見ていた。
「奥さん?」
じっと見つめる彼女に、医師が不思議がって聞いてきた。ハッとなって、蓮子はその場を取り繕う。ただこの先どうしたらいいのか分からない演技が必要だったと反省した。
「ご、ごめんなさい。とてもショックで」
「はい、お気持ちはお察しいたします」
「色々と、これからどうしようかと」
もちろん蓮子は、病院で亡くなった場合の遺体をどうするかは知っている。狼狽してどうしたらいいか路頭に迷う素顔を演出する必要があった。
医師はてきぱきとこういう事態に備えて話してくれた。遺体の安置先や、葬儀の手配、死亡診断書の記載など。
話はさっさと進んだ。葬儀には蓮子を除くと皆無といってよかった。康夫は本当に孤独だった。
資産は一次凍結されたが、彼の財産はすで半分以上が蓮子の手に渡っていた。やがてその遺産も遺言書に従い、すべて蓮子のものとなった。彼女はこうして数億の資産を手に入れた。
邪魔者を消し、蓮子は康夫に遺言書を書き換えるように仕向けさせる。家族のいない彼にとって唯一の身内は、蓮子ただ一人だったが、念には念を入れておいた。
あとは、ゆっくりと彼の体を弱らせていく。病院をやめたので、お手軽で簡単な殺人方法を検討し、彼には鶏肉をよく料理として振舞ってやる。ただし少々火を通すのを忘れることにした。
数か月して、彼は腹を抱えてのたうち回った。彼の胃腸に住み着いたカンピロバクター菌が芽生えた。体力が著しく低下し、お粥が喉を通るのがやっとで、いつしか死にたいと口ずさむようになった。
かすかな生気で、亡霊のようになり果てた男。死体になり損ねた人々を、蓮子は大勢見ている。彼らは生への渇望を捨てている。しかし天は悲しいことに、彼らを召し出そうとしない。多くの者にとって自分の生き死には、自分では決められない。いや、怖いのだ。自ら手放すことは恐ろしいはずだ。
康夫はボーッと窓の外を眺めている。例のごとく、月を眺めている。背後に、蓮子の存在に気付いた彼はパクパクと口を動かし、何かうわごとを言っていた。
「つらいわ。あなたを見ているのが、とてもつらい」
本当にそうなのだ。蓮子は心の底から、今の康夫の姿を見れば同情せずにはいられない。村田邦彦といい、竹中康夫といい、なぜ人は死に体になりながらも、生きなければいけないのか。彼らを、死なせずに生かしていくことこそが悪ではないだろうか。
蓮子は死すべき定めの者を死なすことを摂理と考えていた。二度目だったので、彼女には何のためらいもなく、作業をこなした。
細い手を康夫の口と鼻に置いた。ぴったりと寸分の隙間のないほど、しっかりと彼の通気口を封じた。彼女は首を傾いで笑った。左右が少しだけ非対称の目が潤み、寄り添うように彼を優しく見ていた。彼女の、この老人に対する優しさは全ての財を投げうつだけにふさわしかった。康夫もそう感じて今なら安らかに死ねると心から信じた。このまま蓮子を見つめて、すっと天に上りたいと密かに感じた。彼の心はつかの間晴れやかになったが、やがて息苦しさを感じるようになり、無視できない程になった。
苦しい。なぜなら蓮子の手がピッタリと康夫の口を押えているから。彼女の手を弾王にも外せない。目で彼は苦しさを訴えるが、蓮子は笑みを浮かべたままだ。足がバタついた。夢見心地な気分は消え、黒い何かが迫りくることを知った。
蝋人形のようにピクリとも動かない瞳に、康夫は気が付いた。これまで甘い夢を見ていたのだ。口元を塞がれ、徐々に感じる息苦しさの中に揺らぎつつあり、取られつつあった生への渇望が唐突に蘇った。
「ウウッ、ウウッ」
うめき、体を揺らす康夫に対し、蓮子の手は無情にも放れることはない。かすかな抵抗もしばらくすると静かになってしまう。
口元を押さえていたのは、事件性を問われてしまう。康夫の死は、確実に自然死にする必要がある。彼女は突如として夫を失った悲しき未亡人を演じなければならない。
「あなた!」
誰もいない部屋で、花柄模様のカーペットに横たわった康夫に向かって叫んだ。感情を高ぶらせ、救急車を呼ぶ。その間に、人工呼吸をする。彼女は医療従事者だった。何もせずにうろたえているのは明らかに不自然だった。
必死に彼が生き返るように、機能を停止した臓器に吐息を吹きかける。ただの土塊に魂を込めているようで、その様は職人のようだった。
やがて救急隊がやってきて、後のことを任せた。モノクロな世界に包まれた病院に連れて行かれ、処置を施される。必死な医師や看護師の顔が頭によぎる。朝になって、焦燥感を漂わせた医師が出てきて、悲痛そうに康夫の死を告げた。
「大変、申し訳ございませんが、懸命の処置を施しましたが、ご主人は」
人事は尽くしたが、結果及ばずという顔を拝むのは始めてだ。これまでは、その顔を作り親族の対し、礼節をわきまえる姿勢を表現しなければならない。
このとき、蓮子は過ちを犯した。不幸にも夫を亡くして、それなりの感情を発露する必要があった。でも彼女は
口も聞かず、黙って彼らの素顔を覗き見ていた。
「奥さん?」
じっと見つめる彼女に、医師が不思議がって聞いてきた。ハッとなって、蓮子はその場を取り繕う。ただこの先どうしたらいいのか分からない演技が必要だったと反省した。
「ご、ごめんなさい。とてもショックで」
「はい、お気持ちはお察しいたします」
「色々と、これからどうしようかと」
もちろん蓮子は、病院で亡くなった場合の遺体をどうするかは知っている。狼狽してどうしたらいいか路頭に迷う素顔を演出する必要があった。
医師はてきぱきとこういう事態に備えて話してくれた。遺体の安置先や、葬儀の手配、死亡診断書の記載など。
話はさっさと進んだ。葬儀には蓮子を除くと皆無といってよかった。康夫は本当に孤独だった。
資産は一次凍結されたが、彼の財産はすで半分以上が蓮子の手に渡っていた。やがてその遺産も遺言書に従い、すべて蓮子のものとなった。彼女はこうして数億の資産を手に入れた。
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