Sの探索

戸笠耕一

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第3章 セイレーンの逃走

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「あなたを面白いといったのは、複数の名を使い分けるところです。しかもそれぞれの名前の免許証や各種身分証明書を作ってらっしゃる」

「すみません、そろそろ私行かないと」

 女はすまし笑いを浮かべ立ち去ろうとする。その白い手を男がパッと捉えた。

「おっと。もう少々お話に付き合ってください。それにあなたのせっかくの夢の実現のためには私をお役立てください」

 女は男の毛深い浅黒い手を振り払おうとしたが、鉄のように重く離れようとしない。女は焦った。こんなところで捕まってたまるか。

「意味が分かりません。人、呼びましょうか?」

 バーの店主はバックヤードに引き払っている。

「ええ。私は構いませんが。それと、私はこう見えて元警察官なのです。なぜあなたに接触し、こうしてこの場からあなたを離さないのか、きちんと説明するつもりです。いかがです、清家蓮子さん?」

 男に本当の名前を呼ばれ、凛子はぎくりとした顔をする。

「そう驚かないで。私に付いてくれば安全です。あなたを目的の地に連れて行くことも可能ですから」

 目的がわからない。凛子は、この男の真意を測りかねていた。のんきにバーで飲むべきではなかった。まさかこんな男に。

「さ、落ち着いて話をしましょう。場所を変えませんか?」

「手を、離してください」

「ええ」

 男はパッとつかんでいた手を離す。二人は場所を移すべくバーを出た。凛子は逃げ出そうかと思ったが、自分の立場を理解している。警察の助けは借りられない。彼女は追われる身。この国から逃げ出すべく空港に来た。たとえこの場を切り抜けられても、凛子の罪は固まれば、容疑者として手配される。そうしたら安全な場所はない。

 ここは男に従うしかなさそうだ。

「やはり素早いな」

「え?」

「刑事たち。ほら」

 二階のテラスから下の出発ロビーが見渡せる。幾重にも渡り人がひしめき合う。そんな中、数十名の男たちが柱時計の下に集まり話し込んでいる。スーツを着込んだ彼らが明らかに旅行ではないから奇異に映った。

「彼らはこれから張り込みをする。あなたが搭乗ゲートで手荷物検査を受けるところを抑えるのでしょう」

「なぜあなたはそんなことまでご存知なの?」

「だって彼らにあなたが高飛びをするというタレコミを入れたのは僕ですから」

 男はニコリと笑う。

「ええ。さ、こっち。いずれ二階にも来ますよ。中央のエスカレータは危険だ。すぐ刑事たちに鉢合わせになる」

 男は何の造作もなく凛子の手を取り、人気の少ない西階段へ向かう。凛子は言われるとおりに付き従う。こんなことは初めてで、己の感じるまま、やりたいことを体現させるべく生きていた彼女にとって男の言いなりになるのは不快だった。

「どちらに行くのかしら?」

「安全なところへ」

「でも私、出国したいの」

「させてあげますよ。でもそのチケットではいけません。刑事たちを見たでしょう?」

 階段を下り二階についた。

「外に出ます」

 扉を開けると、多くの人がひしめき合う空間に出る。人々は思い思いに搭乗手続きのカウンターに並んでいる。この人目をかいくぐりどこへ向かうのだろうか。

「空港から出るつもり?」

「いいえ。車に乗ります」

 外に出るとそれぞれの目的地に発車する予定の大型バスが並んでいた。ここにも多くのひとがいる。そこを抜け、駐車場に向かう。

「これに乗ってください」

 凛子は躊躇したが、もはやどうすることもできない。

「わかったわ」

 バタンと扉は閉じられ静かに発進した。

「本当にどちらに向かうか教えてくれない?」

「新整備場です。あそこにVIPが使うプライベートジェットの専用施設があります」

「プライベートジェット?」

「私、こう見えて一台チャーター機を持っていますので」

 凛子は新出の笑い顔にあきれてきた。

「ずいぶんとリッチですこと」

「それなりの探偵だと申しましたのは、こういうことです」

 男はつつましく笑ってみせた。

「何で私を助けてくれたのかしら? 捕まえに来たはずよね?」

「ええ、でもそれはあなた次第でした。あなたがどんな人か、判断してから決めたかった。あなたがどんな人は調べが付いている。金のある男と結婚し、用が済めば事故に見せかけて殺す。証拠はほとんどない、でもわずかながら足跡は残る。捕まる前に逃げるつもりでしたか?」

「殺すなんて。人聞き悪い」

「違いましたか? 竹垣春雄、黒川東二、聞き覚えがあるでしょう」

 凛子はせせら笑う。そこには彼らを征服したという確固たる勝利に酔いしれた素顔が見て取れた。死んだ男たちの名前なんて聞かせてこの男は何を狙っているのだろうか。

「私は夢を見せてあげたの。ただそれだけよ」

「夢ですか?」

「そうよ。だから今度は私がいい夢を見る番なの。それなのに、警察って優秀ね」

「ええ。うまくやったつもりでもぼろは出るものです」

 そうね、と凛子はつぶやいた。被害者と密接な関係に会ったから、当然疑われたがうまく立ち回ったつもりだ。男たちはそれぞれ違うやり方で葬り去った。手を変えて、品を変えて、どこにほころびがあったのだ?

 しかし、この男も葬る去る必要がある。ここまで凛子の内情を知っている男を活かしておくわけには行けない。だが今はその時ではない。

「着きました」

 VIPが行き来するというプライベートジェット専用施設。時に何十分と待たされる搭乗手続きも数分で終わり、大した手荷物検査もせずに出国できる場所だ。

 なるほど、確かにここなら。この男は中々の資産家だ。地位もある、こんなラフな男のどこがリッチなのか不明だが、プライベートジェットを使う場合、かなり検査が緩くなるのは知っていた。この男、使えるみたいだ。

「新出さんでしたっけ?」

「ええ」

「わざわざありがとう。それで、いつ出国するの?」

「本日です。十八時ですよ。予約済ですから。ご安心を」

 この男、わざわざ自分が空港にきてここに連れて来られるのを見越して。凛子は、予想以上に男を葬り去るのに時間がかかると思った。

 笑っていられるのも今のうち。微笑みを絶やさない男の顔をしり目に凛子はこんなことを思っていた。彼女には自信があった。この年頃の男に夢を見させるのは、たやすい。彼はいい気になっている。そういう男たちは、誘惑に弱く転落することをしらない。うまく寄り添い、いい夢を見せてあげる。彼がうっとりしたところを凛子は秘かに笑う。男は海に引きずり込まれ、最後は無様な骸を晒す。
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