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第3章 セイレーンの逃走
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羽田空港国際線ターミナル。
2010年年に国際線の受け入れもするようになり、多くの外国人が訪れるようになった。あらゆる人種が入乱れる中、駅から降りた女は赤のキャリーバッグを引きずりながら足早に歩んでいた。顔はつば広の黒い帽子で隠れ、服は白いコーデに身を包んでいた。それでも女はファッション誌に載るようなスタイルなのは一目でわかる。時折辺りを気にして、腕時計を見ていた。
よかった。おかしなところはない。大丈夫だ。
こちらが動けば、相手方は影のように寄り添い、隙を見計らって自分に襲い掛かってくる。こうまで女が警戒するのは、妄想に取りつかれているわけではない。彼女は、追われる身なのだ。うまく隠したつもりでも、いずれは足が付く。だがその前に準備はしてきた。抜かりのないよう念入りにしてきた。
貯めた金は少しずつ海外の口座に移しておいた。パスポートも前もって都合のいいやつを作っていた。これもすべては新たな門出のため、新たな人生を歩むためだった。資金を集め、女は日本から飛び立つ。もう戻るつもりはない。
女はこれまで清楚な顔に似合わず多くの男と結婚を重ねてきた。誰1人として、1年以上の付き合いにはならず、彼女の夫となった者は、みんな不慮の死を遂げていた。女が不幸な身なのかどうか。周りの者は知る由もなかった。気に留めぬよううまく仕込んできた。
数をこなすうちにコツもつかめてくる。また資産を溜めれば、より莫大な資産を築きたくなる。結婚を生業に稼いでいる者が感じる性を女もまた持っていた。相手を魅惑し、毛交際をはじめ結婚する。男には財産の大半を残すように仕向ける。時が来て、男は死に、女は富を得る。額はやがて多くなり、周囲の目に止まりだす。
潮時が来た。直近、3回の行いが決定的だった。やがて警察が動き始めた。でも女はそこまで予期していた。女は清家蓮子という名を持ってこの世に生を受けていた。寂れた街の漁師の娘。早く両親と死別し、上京後は看護婦になった。病院を退職後はフリーの訪問看護をした。患者には愛をもって接した。その見返りにお金をもらった。そのうち女はもっと効率よく稼げないか考えるようになる。そう思い数年。女は中々の資産家になった。多くの死と引き換えに。
でも人の死と裏合わせの清家蓮子は死んだ。女は、仲の良かった友達がいた。相手は自分の人生に行き詰っていた。同情は女の最も得意とする行為だ。自分も辛い身だと称し、互いに死を選ぶことにした。ただその前に、互いの人生を生きてみないかと提案した。やはり死ぬことに抵抗はある。だから交換してみようと振ったのだ。最初は怪訝な顔をしたけれど、次第に自分の人生が有益か否か検証してみようという女の案に乗った。
アルバイトぐらいのことなら、事務所に登録を済ませておしまいだ。なるほど成り済ましたとしても、誰も気にしないのだ。名前はただの符号だ。人が人を識別するときに必要なものでしかない。
1月の間だった。女は相手になり切った。二人は互いに顔を突き合わせこう言った。『あんまり意味がなかったわね』と。相手の顔は苦しまぎれに笑っていた。
決行日。人気のないところに車を走らせ、二人で練炭自殺を図った。手はず通りにやれば一瞬だという。でも女は裏切った。女が口にした飴を友達は欲しいと頼んだ。女が睡眠薬の入った飴を上げた。あとは簡単だ。車から出られないようにし、練炭を焚く。それだけのことだ。死ぬつもりのない女は相手を残し、彼女の個人情報を手に入れた。
女の通る道のりに屍が積み重なった。
今は、阿部美雪。女の名前は阿部美雪だ。午後3時発ホノルル行。女が歩むべき新たなる天地は常夏のハワイだ。ハワイ島にいい物件を見つけた。個人ビーチがあり、プールもついている。美雪は常々綺麗な青い海と生活したかった。密かにのんびりと。
もうまもなくだ。何とか追っては巻いた。油断はしてはいけないけど、祝杯をあげよう。自分にご褒美を上げたかった。
女は国際線ターミナルの四階にあるバーへ向かう。喧噪とした外とは違い、店は静けさに包まれひと時の休息につける場所だ。女は黒い丸椅子に腰掛け、赤いテーブルカウンターに肘を付いた。
「これお願いします」
メニューにビールを見て、シュバルツと書かれたドイツの黒ビールを頼んだ。
ジョッキに注がれた真っ黒なビールで、口に含むと喉腰がよく数杯飲んでしまいそうだ。でも調子に乗りすぎてはいけない。すでに刑事たちは張り込んでいるかもしれない。彼らは姿を隠している。今のところそれらしき人物たちはいないが、相手はプロだ。
用心したところに、そっと入り口の自動ドアが開く。
少々ひげを生やした四十過ぎぐらいの男。チノパンと紺のジャケットを羽織ったフリーランスのようないで立ち。ただ顔つきを見たとき、彼の目はどこか遠くを見通せるような力を感じられた。
目が合ってしまう。男が愛想笑いをしたので、女の方もそれとなく返した。本来ならそれでおしまいになるありふれた光景だった。
「横、いいですか?」
女は少し戸惑った。普通は離れて座るのに、堂々と。
ええと女は返す。
「すみません。何にしようかな?」
男は手元のメニューを取る。
「ああ。じゃあ、これね」
ビールが運ばれると、男はちびちびと飲み出し、隣にいる女に目を向ける。
「おひとりですか?」
「はい?」
大きな瞳が一目彼を捉えて、また手元のビールに視線をそらす。こういう場合、女はつねに素っ気ない態度で対応し煙に巻いた。
「ええ」
「そうですか。真夏のこの時期ですからね。失礼ですか、どちらへ?」
そろそろ行こうか、せっかくのんびりできたのに。妙な男のせいで台無しだ。
「常夏の、よいところへ」
女はくすりと笑い、席を立とうとした。そろそろ時間だ。
「いいですね。ハワイか。久しぶりに行っていないから」
「え?」
女は視線を男に向ける。
「あ、どうかなさいました?」
「いえ」
男はふっと不敵な笑みを浮かべる。何だか内心を探ろうとしてくる印象を受ける。まさか、刑事かと疑ったが、違う。こんなにも露骨にしゃべりかけてくるのは変だ。なにせこの格好はラフすぎる。一体何者だろう。
「突然、現れてなにこの男はって。そういう感じの顔悪くはないです。あなたはとてもお綺麗だ」
「そう、ありがとうございます。その、あなたは?」
「申し訳ない。とんだ私としたことが。いえね、私こういうものでしてね」
男はすっとジャケットの胸ポケットから名刺入れを出し、女に渡す。そこに『私立探偵 新井傑 新井探偵事務所 所長』と簡単に記載されていた。
はあ、と女は嘆息する。
「探偵?」
「ええ。自分でも言うのもあれですが、それなりに名の知れた者でして。あれ、ご存じない?」
女は男の顔を見て、くすりと笑う。
「あんまり探偵の方と付き合いがないですから」
「ええ、普通はそうでしょうね。人の荒探しをするやつとは関わっても、ね」
「探偵さんが、私にどのような御用件でしょうか?」
「いやね、あなたは不思議な方だなと思いまして。バックに入れている航空券に書かれたお名前は阿部美雪なのに、あなたは望月野々花と名乗って東京の目黒で暮らしてらっしゃる」
男は詞を朗読するようにつぶやいた。女の胸はどきりと音が鳴る。
2010年年に国際線の受け入れもするようになり、多くの外国人が訪れるようになった。あらゆる人種が入乱れる中、駅から降りた女は赤のキャリーバッグを引きずりながら足早に歩んでいた。顔はつば広の黒い帽子で隠れ、服は白いコーデに身を包んでいた。それでも女はファッション誌に載るようなスタイルなのは一目でわかる。時折辺りを気にして、腕時計を見ていた。
よかった。おかしなところはない。大丈夫だ。
こちらが動けば、相手方は影のように寄り添い、隙を見計らって自分に襲い掛かってくる。こうまで女が警戒するのは、妄想に取りつかれているわけではない。彼女は、追われる身なのだ。うまく隠したつもりでも、いずれは足が付く。だがその前に準備はしてきた。抜かりのないよう念入りにしてきた。
貯めた金は少しずつ海外の口座に移しておいた。パスポートも前もって都合のいいやつを作っていた。これもすべては新たな門出のため、新たな人生を歩むためだった。資金を集め、女は日本から飛び立つ。もう戻るつもりはない。
女はこれまで清楚な顔に似合わず多くの男と結婚を重ねてきた。誰1人として、1年以上の付き合いにはならず、彼女の夫となった者は、みんな不慮の死を遂げていた。女が不幸な身なのかどうか。周りの者は知る由もなかった。気に留めぬよううまく仕込んできた。
数をこなすうちにコツもつかめてくる。また資産を溜めれば、より莫大な資産を築きたくなる。結婚を生業に稼いでいる者が感じる性を女もまた持っていた。相手を魅惑し、毛交際をはじめ結婚する。男には財産の大半を残すように仕向ける。時が来て、男は死に、女は富を得る。額はやがて多くなり、周囲の目に止まりだす。
潮時が来た。直近、3回の行いが決定的だった。やがて警察が動き始めた。でも女はそこまで予期していた。女は清家蓮子という名を持ってこの世に生を受けていた。寂れた街の漁師の娘。早く両親と死別し、上京後は看護婦になった。病院を退職後はフリーの訪問看護をした。患者には愛をもって接した。その見返りにお金をもらった。そのうち女はもっと効率よく稼げないか考えるようになる。そう思い数年。女は中々の資産家になった。多くの死と引き換えに。
でも人の死と裏合わせの清家蓮子は死んだ。女は、仲の良かった友達がいた。相手は自分の人生に行き詰っていた。同情は女の最も得意とする行為だ。自分も辛い身だと称し、互いに死を選ぶことにした。ただその前に、互いの人生を生きてみないかと提案した。やはり死ぬことに抵抗はある。だから交換してみようと振ったのだ。最初は怪訝な顔をしたけれど、次第に自分の人生が有益か否か検証してみようという女の案に乗った。
アルバイトぐらいのことなら、事務所に登録を済ませておしまいだ。なるほど成り済ましたとしても、誰も気にしないのだ。名前はただの符号だ。人が人を識別するときに必要なものでしかない。
1月の間だった。女は相手になり切った。二人は互いに顔を突き合わせこう言った。『あんまり意味がなかったわね』と。相手の顔は苦しまぎれに笑っていた。
決行日。人気のないところに車を走らせ、二人で練炭自殺を図った。手はず通りにやれば一瞬だという。でも女は裏切った。女が口にした飴を友達は欲しいと頼んだ。女が睡眠薬の入った飴を上げた。あとは簡単だ。車から出られないようにし、練炭を焚く。それだけのことだ。死ぬつもりのない女は相手を残し、彼女の個人情報を手に入れた。
女の通る道のりに屍が積み重なった。
今は、阿部美雪。女の名前は阿部美雪だ。午後3時発ホノルル行。女が歩むべき新たなる天地は常夏のハワイだ。ハワイ島にいい物件を見つけた。個人ビーチがあり、プールもついている。美雪は常々綺麗な青い海と生活したかった。密かにのんびりと。
もうまもなくだ。何とか追っては巻いた。油断はしてはいけないけど、祝杯をあげよう。自分にご褒美を上げたかった。
女は国際線ターミナルの四階にあるバーへ向かう。喧噪とした外とは違い、店は静けさに包まれひと時の休息につける場所だ。女は黒い丸椅子に腰掛け、赤いテーブルカウンターに肘を付いた。
「これお願いします」
メニューにビールを見て、シュバルツと書かれたドイツの黒ビールを頼んだ。
ジョッキに注がれた真っ黒なビールで、口に含むと喉腰がよく数杯飲んでしまいそうだ。でも調子に乗りすぎてはいけない。すでに刑事たちは張り込んでいるかもしれない。彼らは姿を隠している。今のところそれらしき人物たちはいないが、相手はプロだ。
用心したところに、そっと入り口の自動ドアが開く。
少々ひげを生やした四十過ぎぐらいの男。チノパンと紺のジャケットを羽織ったフリーランスのようないで立ち。ただ顔つきを見たとき、彼の目はどこか遠くを見通せるような力を感じられた。
目が合ってしまう。男が愛想笑いをしたので、女の方もそれとなく返した。本来ならそれでおしまいになるありふれた光景だった。
「横、いいですか?」
女は少し戸惑った。普通は離れて座るのに、堂々と。
ええと女は返す。
「すみません。何にしようかな?」
男は手元のメニューを取る。
「ああ。じゃあ、これね」
ビールが運ばれると、男はちびちびと飲み出し、隣にいる女に目を向ける。
「おひとりですか?」
「はい?」
大きな瞳が一目彼を捉えて、また手元のビールに視線をそらす。こういう場合、女はつねに素っ気ない態度で対応し煙に巻いた。
「ええ」
「そうですか。真夏のこの時期ですからね。失礼ですか、どちらへ?」
そろそろ行こうか、せっかくのんびりできたのに。妙な男のせいで台無しだ。
「常夏の、よいところへ」
女はくすりと笑い、席を立とうとした。そろそろ時間だ。
「いいですね。ハワイか。久しぶりに行っていないから」
「え?」
女は視線を男に向ける。
「あ、どうかなさいました?」
「いえ」
男はふっと不敵な笑みを浮かべる。何だか内心を探ろうとしてくる印象を受ける。まさか、刑事かと疑ったが、違う。こんなにも露骨にしゃべりかけてくるのは変だ。なにせこの格好はラフすぎる。一体何者だろう。
「突然、現れてなにこの男はって。そういう感じの顔悪くはないです。あなたはとてもお綺麗だ」
「そう、ありがとうございます。その、あなたは?」
「申し訳ない。とんだ私としたことが。いえね、私こういうものでしてね」
男はすっとジャケットの胸ポケットから名刺入れを出し、女に渡す。そこに『私立探偵 新井傑 新井探偵事務所 所長』と簡単に記載されていた。
はあ、と女は嘆息する。
「探偵?」
「ええ。自分でも言うのもあれですが、それなりに名の知れた者でして。あれ、ご存じない?」
女は男の顔を見て、くすりと笑う。
「あんまり探偵の方と付き合いがないですから」
「ええ、普通はそうでしょうね。人の荒探しをするやつとは関わっても、ね」
「探偵さんが、私にどのような御用件でしょうか?」
「いやね、あなたは不思議な方だなと思いまして。バックに入れている航空券に書かれたお名前は阿部美雪なのに、あなたは望月野々花と名乗って東京の目黒で暮らしてらっしゃる」
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