七宝物語

戸笠耕一

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第7章 王の糸

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 流星の背に、この世で愛する唯一の人を乗せていた。夕美は横にいる。

「驚きました。まさか――どうなっているのです?」

「説明は後で! 今は急ぐわよ!」

 向かう先は、五連山。来た道を戻るのだ。彼女は流星の手を取り駆け抜けた。持ち前の俊足で。都に土煙が巻き起こった。火門を通り抜け、坂道を下る。

 向かう先は火の一本道とその先にある火の街道を走り抜けるつもりだった。

 やがて火の一本道が目の前に迫る。

「ここは?」鳥のようにか細い声が背後から聞こえてくる。 

「熱いわね……」

「ええ、しかし通らねばなりません。今しばらくの御辛抱を」

「熱いのはコリゴリ」気だるそうな声だ。きっと火炎が巻き起こす熱気に気力を奪われてしまった。

「わかります」

 道は前しかない。ならば進むしかない。

「流星……」

「何でしょう?」

「感謝しております。よく、ここまで……」

「騎士が主の危機にはせ参じるのは当然のこと。御体は?」

「腕輪のおかげか、だいぶ楽にはなりましたが、ここは不快です」聖女は光と共にあるとき力を取り戻す。

 渡ろうと思ったときだ。

「行かせませんわ」

 祥子だ。もう追い付かれてしまったのか。

「陛下急ぎます」

「だめだね」

 前にも。四ノ国王、聡士か。

「火都から出すわけには行かない。背中に乗せている希和子をこちらに寄こせ」

「何を言う。陛下をあるべき都に連れ戻す。そこをどけ」

「なら仕方ない」

「流星は後ろを。あなたじゃ彼は倒せない」

「殿下……」

「あなたなら、少なくともあの女は倒せるでしょ」

 前と後ろ。敵を互いに託す。後ろの敵の祥子は手に黒い鞭を持っていた。ロングスカートに、黄色のハイヒール。よく戦いを挑もうとしている。

「その恰好じゃ戦いは難しいでしょうね」

「ふふ、無用な心配はなさらないことね。そちらも人を背に負ったままでさぞ戦いづらそうですこと。守りながらでは、何もできませんわよ?」

「どうでしょうか?」

 聖剣と火に彩られた鞭が交差した。

 互いに主に見初められし者。一歩も譲る気はさらさらない。

「策士策に溺れるとは、このことかしら?」

 聡士はちっと舌打ちをした。

「あんたにしては、当事者として現場へのめり込み過ぎたのね。おかげさまで、時間は稼げたわ。で、痛快だった。操られているとも知れず得意満面になっているあんたの顔」

「やってくれたねえ」

「盤上で笑っているわよ。きっと今は昼時だからお茶でもしながら」

「全く一杯食わされたよ。僕に魔術をかけるなんて」

「上には上があるだけよ」

「うるさい!」

 吐き捨てるように言う弟を姉は冷笑する。

「相変わらず思い通りにいかないと怒り出す」 

 何てことだ。自分が、魔法に。王の糸に知らず知らずのうちにつながれ、操り人形にされていたとは、大きな屈辱だ。彼の膨れ上がった幼い自尊心はプチンと針で刺されて破裂した風船のようだ。

 怒りが込められた拳が、己の姉に向けられた。理性を失いかけた弟の攻撃をさらりとかわした。

「逃げずにかかってこいよ!」

 聡士の叫びが火炎と煙と熱気に包まれた山中に響き渡る。

 夕美は相手の挑発には乗らない。彼は焦っている。一撃を与えるだけでいい。そのときを待つのだ。ここで焦りは
禁物である。

「くそお、ならこうしよう」

 聡士の顔に、あの人懐っこい、優しいほほ笑みはもうない。物事が上手くいかない子供が全てを放り投げ、リセットしようというやけくそな感情がにじみ出ていた。彼はむしゃくしゃしている。

 彼は橋を切り落とした。ぐらりと橋は揺れる。

「さっきの威勢はどうしたのかしら?」

 やはりおぶって戦うのは無理か。

「あっ」

 足を鞭が補足した。グルグル巻かれた鞭はギュッと締め付ける。やがてバランスを崩し倒れた。

「陛下……大事は?」

「もういいです、私に構わずとも」

「しかし」

「お願いですわ。私のことなぞ」

「だめですわ陛下。あなたは、色恋に耽る年頃のただの女ではありませんのよ」

「知っています」

「男など――よいではありませぬか。陛下に相応しい者は、私が見つけて差し上げますわ」

 祥子は、いつもの甘い口でかつての主を誘う。

「結構よ。私は私の選んだ方と結ばれることを望んでいます」

「そうですか……」

 祥子は少し残念そうだ。

「あっ!」

「流星!」

 彼の体は引きずられていく。橋はぐらりと大きく傾いた。

「橋が!」

 希和子は必死に橋の上を駆けた。そちらは逃げる方向とは逆だ。

「あ、ああ……」

 だめだ、間に合わない。無理だ。目の前で道は切れた。奈落に落ちるだけ。

「陛下」

 背後から声がして、気づけば希和子の体は宙を浮く。しかし一瞬であり体は大地に足を降ろしている。

 だが目の前の惨状に希和子は足を前に進めた。

「ぐああ!」

 いたぶられ、地に這いつくばり悶える男。女は楽しそうに男を、懲罰を加えていた。

 いけない、犠牲を出すわけには……

 希和子は走っている。

「陛下!」

「やあ姉さん、後ろががら空きですよ」

「くっ」

 夕美は、気を取られ背後にいた聡士に気が付くのを遅れた。動けない。魔術にかけられている。

「は、は、こりゃ油断大敵だな。いい気味だ」

「馬鹿」

「久しぶりかな、こんな間近で姉さんの悔しそうな顔を見るのは。ん?」

 聡士は、にっこりと笑顔を振りまいた。

「でも――悔しいのは俺の方だよ!」笑顔は突如として消え、顔には憎悪が浮き出る。

 彼は語尾を荒げ、先ほど殴られた報復を猛然と行使した。

「待ちなさい。やめて!」

 一方希和子はなぶられ続ける流星を助けに飛び込む。

 祥子が弱り切った流星に鞭を振り上げたとき、希和子は横から彼の体に覆いかぶさる。

 ずっと思っていた、助けてもらった恩は、必ず返さなければいけないと。

 振りかぶる鞭はスピードを落とすことなく獲物を捕らえた。この一撃で恐らく男は致命傷を負い死ぬだろう。確かに男を捉えていた。だが、鞭が届く前に横から黒い物体が目に入る。

 まさか……鞭は男ではなく、希和子の体を叩いた。

 予想外のことに驚いたのは聡士も同じだった。

 ここで聖女に傷を負わせ、もしものことがあれば。しかし彼の体は吹き飛び頭上の岩石に激突していた。

「よそ見」

 夕美は言う。一瞬の隙が、勝敗を分けた。術が解け、彼女は動き出した。聖女を助けるために。

 希和子は、肩から胸元にかけて鋭い鞭の攻撃を受ける。受けた傷を火が焦がし彼女の体を蝕んだ。

 どおと希和子はその場に崩れ落ちた。

 時間が止まったようだ。起きてはいけない、あってはならないことが起きていた。聖女が攻撃の的に晒される。あ
り得ない。神聖にして不可侵の者が、凶刃に襲われた。

「陛下!」

 燃え盛る炎の大地で、二人の男女が倒れていた。どちらも手負いだ。

「陛下、陛下!」

 叫び続けるのは男だ。男は女のために命を懸けてきた。だが女から返答はない。彼女の方が重症であった。息はあ
っても、すっかり火の禍に犯され身も心も衰弱しきっていた。

「なんてことを……」

 恨み節は当然害を加えた者に向けられた。しかし流星も体を起こすだけの力がない。

「ほほ」

 祥子は笑った。

「よろしいじゃありませんか。仲良く二人ともども。あの世へ」

 また火炎の鞭が。くそ騎士である自分が守れぬとは……無念だ、仇も何もできずに死を迎えるとは……

「あっ……」

 俊敏の動き。その様は、きっと只人なれば、速すぎで動きがわからなかっただろう。祥子もそうだ。

 体は八つ裂きに切り刻まれ、体中から噴水のように鮮血がこぼれ出た。よろよろと体をふら付かせ倒れた。

 また一人。そして最後に立った者が勝者であった。彼女もまた手負いであった。

「全員倒せたけど……」

「倒されたことにされちゃあ、困るなあ」

 頭上から声がした。明朗で快活な声だが、弱弱しい。

 聡士は頭を血だらけにし、ふらふらと大地に降り立った。

「くらくらする。ああ、しんどいなあ」

「しぶといわね」夕美は呆れるように言った。

「姉さんもね」

 彼は胸元の時計を取り出しパチンと開いた。

「こいつを使おう。計画はぐちゃぐちゃだ。また一からやり直しだ」

「させない」

「大人しくしてなよ。もうだいぶ力ないだろ?」

「うるさい……」

 夕美は手を付いた。やはり火の鞭によって左手を失ったのが痛い。

 逆転時計。聡士が試みていること。実に恐ろしい魔法だ。時間はある時点まで巻き戻される。力の大半を使って行う魔法だ。体力がない状態で彼が行使するのは、本気でやけくそになっている証拠だ。

 力を使い切っているのは同じだ。彼が時の針を戻す魔法を使ったら、確実に失敗する。世界の時間軸は乱れ、この世は終わるかもしれない。

「やめなさい」
 そこいる者たちの声ではなかった。

 冷静で、手厳しい、声が聞こえた。

 やがてスッと彼女は姿を現す。

「もう十分でしょう。お互い武器を置くことね」

 西王だ。

「何しに来たのかな?」

 聡士は苦々そうに言う。

「王ともある者が、己の力におぼれ私戦を繰り広げるとは……情けない」

「聡士、あなたはその時計を使わない方がいい」

「……なるほどね。気遣いありがとう。命拾いしたよ」

「賢明な判断です」

 一言いうと彼女は希和子の元へ向い、救い上げた。

「陛下……」

 希和子はふと何か温かいものに包まれている気がしていた。

 ほんのりとした香りに、希和子は活力を見出した。

「ああ……」

「陛下、私でございます」

 そっと優しい声をかけた。

「あなたなのね?」

「はい、私でございます」

「萌希……」

「名前で呼んでくださるとは。嬉しい限りですわ」

 ほほ笑みは、慈悲深く傷ついたものを癒す力があった。西王は、聖女のように神聖でより貴い人であった。

「さあ帰りましょう。お住まいへ」

「はい」

 希和子の目に涙があふれていた。聖都――故郷――全てが懐かしい。自分を育て、仕えてくれた侍女や執事たち。ああ、ずいぶん口を酸っぱく身だしなみや作法をうるさく指摘を受けた。

 すべてがかけがえのないものだ。あの地へ帰れる。だって萌希がいるから。彼女がいるなら何だって叶えてくれる。いや、違うもうすがってはいけない年頃だ。いけない、何でも彼女に頼ってばかりだ。

「ね、帰る前に聞かせて。何でこんな簡単に聖女をこっちに誘拐させたりしたのさ?」

 すっかり蚊帳の外にされた聡士には、最後に聞かずにいられないことがあった。

 考えてみればおかしい。王の中で、聡明であり力を行使すれば誰も操れる存在が、いとも簡単に聖女を自分たちに渡した。そして聖女は重体だ。こちらとしても、西王としても聖女に何かあれば、錦の御旗を失いかねない。

「なぜ、か? 答えを言わなくてもわかるでしょう。あなたの明晰な頭脳なら」

「何だって?」

 聡士は少し考えた。そして答えにたどり着いた。

「そう、そういうこと……」

「はい」

「恐ろしいこと考えるね。聖戦をするために、そこまでやる?」

 だが彼の問いに西王は答えなかった。彼女は聖女と騎士を連れて姿を消した。

「チェ、カッコつけちゃってさ!」

 いい時だけ現れやがって。彼は悪態をつく。彼の足に何かが触れた。

 手だ。血まみれで、弱弱しく震えている手だ。

「やあ生きていたのかい?」

「殿下……殿下……」

 瀕死の祥子は、必死に訴える。自分は多くの功を立て、右腕と呼んでくれた。自分を彼ならきっと……

「全く、聖女に怪我させちゃだめだよー。そこがわからないとは。見込み違いだったかな、君は。しかも君はやけく
そに希和子を殺そうとした、それは僕の計画に反することだ」

 彼から帰ってきた言葉は冷たい。薄れる意識の中で祥子は彼の胸の奥底にあるものを垣間見た気がした。

「み、み……」

「見捨てないで? 可哀想にね。生憎だけど僕は疲れたよ。じゃあね」

 聡士は地べたに倒れる祥子を、まるで道端にありふれた小石を見るような瞳で一瞥し、都の方へ引き返していく。

 彼は本当に疲れていて、眠かった。

 後に残された祥子は、出血が止まらず意識をもうろうとする中で最期のあがきを見せている。

 自分の近くにいない。そう誰もいない。捨てられたのだ。そして自分は――死ぬ?

 いやだ、いやだ、死にたくない――死にたくない――死にたく――

 あ、あ……

 目の前の視界が暗くなっていく。死の闇はもうすぐだ。

 完全ある無。虚無だ。音なき世界。彼女の生は、そこへ落ち、終焉を迎えた。
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