七宝物語

戸笠耕一

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第4章 さまよう聖女

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 聖女誘拐の報は、夜の聖都を瞬く間に広まった。二十年ぶりに伍の王を除く王たちがそろう諸王の会議の話題は即座に消え去った。今は誘拐の話でも持ちきりだった。
 あらゆる裏道、家々、酒場で、人が集まれば話の必ず聖女の話だ。
 宮廷内は、絶対隠匿せよという達しが出されたはず。だがどこからか漏れた噂は大河の水があふれかえり、あらゆるものを押し流すように都内の人々に伝播する。この勢いには、さすがの西王ですら、せき止めることが叶わなかった。
 狂騒の一日だった。やがて一夜は明ける。
 都の主、西王は直ちに戒厳令を発し、あらゆる風評を流す者は厳罰に処するという趣旨の高札が立てられた。民を鎮められた。何より軍の招集をした。全ては絶大なる王の権限だ。何人たりとも彼女の出した法に異を唱える者はいない。
 東の地への遠征の際に開かれる門に兵が殺到した。全身を黒い甲冑に身とまとった西王の軍勢は、万単位であった。
 軍の招集を除けば、都は前夜と打って変わり静寂に包まれている。
 この光景を流星は自室の窓から見ていた。昨日は喚声に交じった嘆息が聞こえる。今日は打って変わって大通りに誰もおらず、外出を図る者はいない。
 明朝九時。出立の時が来た。囚われた主を救い出すという使命。願わくは敵の命を絶てることを。ついにこの日が来た。
 彼の持ち物は、至って簡素だ。ボロ布で作られた服を着て、わずかな食料を持ち、腰に剣を持つ。しかし、今日だけは一つ特殊だ。
 聖なる腕輪。剣に光を吹き込み、魔を払う力を与えた崇高にして、不可侵な代物が聖騎士である流星の首に掛けられた。光は、神々しくまばゆいものだ。
『あなたに、聖なる腕輪を託します』
 西王は、会合の終わりに首掛けを付けられた
『本来なら聖女の持ち物。あなたは、聖女にこれを渡すという使命を担うのです』
 目のまえに取り出された光は、騎士には明るい兆しとなったが王には不調を引き起こす厄介な代物である。
『私には、何の御利益もない物ですが、きっとあなた方の道中には欠かせないでしょう』
 手に渡された腕輪を大事にしまい込む。人目に触れてはいけない。胸にしまうが、まばゆい光は隠せそうになかった。刻限である。
 場所は、宮殿の正門。しかし現地に待ち合わせた人物はいない。
 周囲を見渡したが、やはりいなかった。使命を果たすという思いを胸に今日まで生きてきたが、昨日の会合で己の無知を痛感した。自分は何も敵を知らずにかの地へ行き決闘を申し込もうとしていた。
 自分をあざ笑った、生まれながら地位を約束され、上り詰めた高位高官たち。しかし聖都に帰ってくる頃には、びっくりすることだろう。
 彼は笑っていた。いくらかの慢心があった。
 背後に迫った気配は、あまりにも俊足で剣を抜くのが遅れただけで、命とりだ。相手が手に握る短剣は的確に彼の首筋を捉えていたし、あとは息の根を止めるだけ。
「ピクニックに行くわけじゃないのよ?」
「お戯れを……」流星は笑ったが、内心ヒヤッとしていた。あまりにも相手の気配に気付かなかったからだ。「警戒は常に怠りませんよ」
「ならいいわ。期待している」
「陛下に魅入られた剣技、侮られては困る」
「悪いけども、剣は少し移動には邪魔ね。どこかへ――そうね」
 夕美も、西王と同様に指で円をなぞり、簡素な木箱を取り出す。王と共にするものが聖なるものを持つとき、箱に入れられる。王気を削ぐからだ。
「また箱か。致し方ない。移動にはご不便なのでしょう?」
「剣は聖なるもの。王の兆しを削ぎ、私の移動に支障をきたします」
「長き道のりではあれ、たかが移動でもいかぬとは。王とは案外脆いもの」
 彼は笑う。
「あなたは何か勘違いをしているわ。火都に移動するのに、時間は要しません」
「なるほど」なるほど王の力をもってすれば、軍が数日はかかるという東国への道のりを瞬時に行けるわけだ。大した力だ。彼は王が持つ力に懐疑的だった。
「移動の際、決して私の手を放さないこと……」
「はい」
「ではよろしくて?」
「ええ」
 流星は夕美の手を握った。彼女の手は氷のように冷たく、感情を伴っていない印象を抱いた。王の兆しなのか。意味のない考察だった。あまりの常人離れした移動に消し飛ぶ。目の前に映し出された風景は、目まぐるしく移り変わる。
 都の街並み、白の城壁、一瞬にして飛び越えたようだ。情景は変わる。体が宙をふわりと浮く。城壁を越え、その先は見果てぬ大地が広がる。牧草地帯、草原、北の大森林――右へ左へと蛇行を繰り返しているのは、目の前の障害物を乗り越えているからだ。
 手を振り解きたい衝動にかられた。体に色々な物が当たって、痛い。しかし彼の手は、しっかりと固く結ばれていた。
 背後の景色は、深い緑だ。ここがどこかは知らない。もしここで置き去りにされたら二度とこの森から出られないだろう。
 擦れる木々や木の葉が。切れ味のいい刃物と化して流星の体の節々を襲う。顔は切り傷だらけだが、夕美は一緒に走る流星を気遣おうとしない。
 激しい移動は、何の前触れを無く終わる。
 彼女の足はピタリと停止した。ガクンと体が揺れ、呑み込んだつばが気管に入りかけ、思わずむせた。
「生きている?」
 彼は地に手を付き、己の有様をみて、無数の切り傷に侵されていると知った。
「試練はこれからなのに。やっと着いたと思って見てみたら、死んでいたじゃ困るから」
「ええ」
「ほら、ここが火都」
 火都。そうか、もう着いたのか。背後は大森林。目の前には殺伐とした荒涼とした大地が広がる。大地は荒れ、草木一本さえ生えていない。人々が辛酸の果てに渡ってきたとされる名もなき荒野より、はるかに荒れ果てている。全ての動植物が、参の国を忌み寄り付こうとしない。
 流星もこの地が放つ悪しき雰囲気に、身を引いた。
「正面にあるのが黒門。都に入るための正門よ」
 彼女が指さした先には、漆黒の門がある。何の変哲もないが、どす黒さを象徴としている。
「後ろに控える山々が五連山。私たちが登る山よ」
 五連山。この世界のどの山より、高く険しく切り立っており、炎に包まれた山で、素肌に木々はもちろん、苔も生えずごつごつとした岩石がむき出しになり、何人も寄せ付けなかった。
「かつてここは、品質のいい木を切り倒し、売買する緑に恵まれた木こりの都だった。でもかつての話よ。地は歪められ、先住民は追い出されるか、殺され、あとに怒りに燃える王が支配している」
「ここからは剣を持ってもらう。決して気づかれないよう、そっと慎重に気配を消して」
「腕輪は?」
「必要?」
「ええ、どちらかと言えばそちらが大事です」
 夕美は、はあとため息をついた。どうやら聖なる兆しが、王を憂鬱にするのは事実だ。顔が曇り、辛そうだ。
「仕方ない」
 彼女は腕輪も取り出し流星に渡す。
 腕輪と聖剣。二つは呼応し、王の兆しを削ぐ。また逆もしかりだ。互いの力をぶつけ合い、相殺し気配を消して敵に気付かれないよう努める。
 背反する力。どちらも互いをけん制して、反発し合っていた。
 
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