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第2章 霧の中より現れし男
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希和子は感じた。壁を一枚隔てた向こう側にいる彼が、何を成そうとしているか分かる。仇討――国の敵、家族の敵、朋友の敵である彼女のかつての弟を討つことになる。勝手に人の気持ちを推測しては。もしかしたら。いや、違う。彼は仇を討ちたがっている。
彼の瞳はすでに決意を秘めていた。どんな説得をしても、きっと翻ることはないだろう。
湯あみを終えて、髪を侍女にとかしてもらっている。まるで髪をとかすように、彼の固い決意を解けないだろうか。
「陛下、終わりましてございます」
「そう、ありがとう。下がっていいわ。後、外の者に人払いを頼めない?」
「はあ、しかし寝所を守る兵たちの役目がございますし、そう簡単には。せめて王にご相談なさっても」
「いいの、御所の外か玄関口に配置させればいいの。私を警護する者は隣にいるのだから。ここは宮廷の深部、守りも固いから大丈夫。私が言ったのよ、平気よ」
「宮廷の主は陛下ですから、私は命に従うだけですわ」
「そう」
「はい、本当によろしいので?」
「ええ」
では、といって侍女は下がった。外でひそひそと声が聞こえる。少し時間が経って兵たちの足音がした。やがて足音は聞こえなくなった。
しばらくして希和子はそっと扉を開け、外の様子を見渡す。廊下には誰もいない。寝所の戸には二人、突き当りに三人本来いる。
寝所の左隣は、前まで空き部屋であった。聖女に家族、親類がいればそこに人はいるはずだったが、希和子は生憎一人だった。御所の主は希和子だ。一階は、希和子の寝所と、空き部屋と物置しかない。侍女や、従者の部屋は二階である。主と臣下は、別々に分けられている。
ただ特別に、聖女と同じ階に住まえる者が親類縁者以外にもいて、騎士だ。起床から就寝まで自分と行動を共にする存在――守護者。
人は払った。一階は誰もいない。また私と彼だけだ。何も怖がることも、気にすることもない。でも迷いはあった。
コンコンと戸を叩いた。
はい、と返事がした。
だが緊張しているのか。声が出なかった。代わりにノックをもう一度した。
再度はいと声が返ってくる。さっきより大きい声だ。
ガチャっと扉が開く。
「陛下……」
最初はいぶかしんだ顔が、少しだけ緩む。昨日剃ったはずの髭が生えだしている。束ねた髪は、ぼさぼさと振り解かれている。
希和子は彼に守られることになる。傍らで、彼女もまた己の騎士を見守っていた。彼は宮廷内の異物だった。誰も彼も、流星を陰で笑いバカにしていた。似合いもしない軍服に身をまとい、剣をガシャガシャと揺らす。
どこからやってきたか定かでない男を、聖女付きの騎士と心から信じる人はいない。
「いいかしら?」
「何か重大なお話でも?」
「まあ――そんなところ」
では、と流星は低い声で言う。希和子は室内に入って、その中の何も無さに驚いた。
彼にあてがわれた部屋は、大層立派なものだ。天幕の引かれたベッド、金色の浴槽、南国より取り寄せた三点窓。彼の地位と業績に相応しい部屋だ。しかし、彼は物を置こうとしなかった。
さみしいのは、この部屋だけか。部屋は人の心を表すということを書物で呼んだことがある。ならば、彼の心は荒涼とした地のように殺風景なのか。
「何を、なさっていたの?」
「陛下の御安全を祈願し、明日も聖務に努めようと思っていたところですよ」
真面目だ。そう答えるのが正しい。でも、知りたいのはそんなことじゃない。彼の心を見たかった、知りたかった。
「少しあっちを向いていただけますか?」
希和子は窓辺の方を指さして言った。流星は、疑問に思いつつも主の意志に従う。
「目を閉じて」
「一体何を?」
陛下、という声が遠く彼方から聞こえてくるようだ。
希和子は、そっと自らを包んでいた肌着をそっと一枚脱ぎ棄てる。シルクの帯と寝間着が床にはたりと落ちる。
「気に――なりませんか?」
流星の近くまで寄った彼女は、すっと彼の手を取り胸元に押し付けた。
ハッとする瞬間。目は開けば、膝に乗った女がいた。
希和子との距離を取り、視線をそらす。狼狽している、焦っている。相手は自分の主。なのに、篭絡されようとしている。
彼が愛おしく思えてならなかった。
「私は、先ほどの続きをしたいだけ……」
「おやめくだされ、皆に何と囁かれるか」
流星は、いつもより声高に、そして早口に言った。
「宮廷の主は、私ですよ? 誰が何と言おうと」
「お立場をお考え直し下さい」
「気にせず、私と」
「できませぬ」
「……」
「君臣がこのような形で交わるのは、道理ではございませぬ。どうかお考え直しを」
通り一遍な返事だ。これで少し、何か反応を見せると思っていたが。
「そう」
彼の目は、数度目をパチパチさせ、やり場に困らせていた。何とも情けない表情だ。
「意気地なしね」
「……」
「このような誘惑にうろたえるなんて――あなたじゃ無理ね。祖国を散々な目に遭わせた邪悪な王は倒せない」
希和子は、何かが乗り移ったような気がした。
「きっと口では、仇討だ、なんだと言っているけど、形だけ。大層ご立派な剣を腰に据えて、剣術を披露して取り入るのが能なのでしょうね。そうやって諸国を転々として生計を立てている残念な人よ、あなたは」
人に嫌味やあざけるのは、駄目なことだと思ってきた。やったこともない。だが、簡単なことだ。他人を貶めるのに、地位も権力も関係ない。」
「そんな人に王の一人を、倒すなんて無理な話よ」
煽られている、と感じてグッと高ぶる何かを堪えた流星だった。
「もういいわ。騎士なんて役目も担わなくていいわ。好きに出ていって。あなたなんて国をなくしてフラフラしているただの流浪人よ」
希和子は最初、怒りを調整しつつ相手の心を引き出そうとした。だが相手をののしることも、そしることのない、彼女は加減を知らなかった。
しまった。もう止すべきた、希和子は少し怖くなった。
「お待ちを」
ガシッと握られた手は固く、内心よりこみ上げた力だった。
「先ほどから、いくら主とはいえ聞き捨てなりませぬ」
彼は騎士であり、臣下である以前に男だ。そんな当たり前なことを希和子は忘れていた。腕力は持ち前にして、見せつけるのが男だ。
「まず私は、どの国の王候や地主にも取り入ってはおらぬ、ということ。無論、陛下にも。そして――」
彼は言い淀んだ。でもそこが最も彼の人生の核となる部分で、希和子に攻撃されたところだった。
「私の使命を、そしるのはお辞めいただきたい。一人の男が、定めた道を詳細も知らず、あれやこれやと言われるのは耐えられませぬ」
「は、放しなさい……」
「ご発言の撤回が先です」
希和子は怖くなって、つかまれた手を振りほどこうとしていた。彼の心から出てきてはいけない怒りを引き出してしまった。しかし怒りは厄介だ。彼の手は鋼鉄のように固く、離れない。まさか恐ろしい。
「いや」
とっさに声が出て、パッとつかまれた手が離れて自由になった。
「嘘です。何も、あなたを愚弄するつもりはありませんでした」
彼は黙りこくっている。視線の冷たさに、身震いした。
「ただ、あなたが――そんな風にしているから……」
「真面目だから……」
希和子は何をこれ以上話せばいいのか分からなくて怖くなった。
「ここには、居てほしい。その思い、あなたは大切な人、私の騎士である以前に想い人なのです」
「陛下……」
「失礼」
もう瞳が涙でいっぱいだ。
「お待ちを」
つかんできた手は柔和で優しい。
「無礼な対応、御許しを。何も騎士として寄り添うこともできず――未熟なわが身をお許しください」
やはり彼は紳士であり、礼儀正しさを忘れなかった。そして自分の主を抱擁した。
彼の胸元は大海原ように広く安心感をもたらした。父親のような度量を感じる。
希和子は彼と共に寝台に横になる。
「私だって、少しは知っているのです。世俗の、男女の交わりとやらを。本来なら、殿方が導くのでしょう?」
「導かれたい――のですか?」
「たまにはよろしいでしょう? さあ私の唇にあなたの。」
「……」
彼は黙る。戸惑っている。なぜ自分がこんなことまでしなければならないのだ?
「あなたに、私の身を任せます」
「……」
彼の心に葛藤があった。相手は、豊都はおろか世界で最も崇高な権威を持つ者だ。ただ、行為はあまりにも稚拙で、人を翻弄するものであった。昼間の霊験あらたかな聖女がもつもう一つの顔。甘えに満ち、他人にすがってきて生きてきた若き女性に振り回られているのだと知る。これが当たり前の顔か。普通の年ごろの女性ならごく普通の。唇を交わしたとき、希和子は思った。
その夜、二人は男女の契りを交わした。
彼の瞳はすでに決意を秘めていた。どんな説得をしても、きっと翻ることはないだろう。
湯あみを終えて、髪を侍女にとかしてもらっている。まるで髪をとかすように、彼の固い決意を解けないだろうか。
「陛下、終わりましてございます」
「そう、ありがとう。下がっていいわ。後、外の者に人払いを頼めない?」
「はあ、しかし寝所を守る兵たちの役目がございますし、そう簡単には。せめて王にご相談なさっても」
「いいの、御所の外か玄関口に配置させればいいの。私を警護する者は隣にいるのだから。ここは宮廷の深部、守りも固いから大丈夫。私が言ったのよ、平気よ」
「宮廷の主は陛下ですから、私は命に従うだけですわ」
「そう」
「はい、本当によろしいので?」
「ええ」
では、といって侍女は下がった。外でひそひそと声が聞こえる。少し時間が経って兵たちの足音がした。やがて足音は聞こえなくなった。
しばらくして希和子はそっと扉を開け、外の様子を見渡す。廊下には誰もいない。寝所の戸には二人、突き当りに三人本来いる。
寝所の左隣は、前まで空き部屋であった。聖女に家族、親類がいればそこに人はいるはずだったが、希和子は生憎一人だった。御所の主は希和子だ。一階は、希和子の寝所と、空き部屋と物置しかない。侍女や、従者の部屋は二階である。主と臣下は、別々に分けられている。
ただ特別に、聖女と同じ階に住まえる者が親類縁者以外にもいて、騎士だ。起床から就寝まで自分と行動を共にする存在――守護者。
人は払った。一階は誰もいない。また私と彼だけだ。何も怖がることも、気にすることもない。でも迷いはあった。
コンコンと戸を叩いた。
はい、と返事がした。
だが緊張しているのか。声が出なかった。代わりにノックをもう一度した。
再度はいと声が返ってくる。さっきより大きい声だ。
ガチャっと扉が開く。
「陛下……」
最初はいぶかしんだ顔が、少しだけ緩む。昨日剃ったはずの髭が生えだしている。束ねた髪は、ぼさぼさと振り解かれている。
希和子は彼に守られることになる。傍らで、彼女もまた己の騎士を見守っていた。彼は宮廷内の異物だった。誰も彼も、流星を陰で笑いバカにしていた。似合いもしない軍服に身をまとい、剣をガシャガシャと揺らす。
どこからやってきたか定かでない男を、聖女付きの騎士と心から信じる人はいない。
「いいかしら?」
「何か重大なお話でも?」
「まあ――そんなところ」
では、と流星は低い声で言う。希和子は室内に入って、その中の何も無さに驚いた。
彼にあてがわれた部屋は、大層立派なものだ。天幕の引かれたベッド、金色の浴槽、南国より取り寄せた三点窓。彼の地位と業績に相応しい部屋だ。しかし、彼は物を置こうとしなかった。
さみしいのは、この部屋だけか。部屋は人の心を表すということを書物で呼んだことがある。ならば、彼の心は荒涼とした地のように殺風景なのか。
「何を、なさっていたの?」
「陛下の御安全を祈願し、明日も聖務に努めようと思っていたところですよ」
真面目だ。そう答えるのが正しい。でも、知りたいのはそんなことじゃない。彼の心を見たかった、知りたかった。
「少しあっちを向いていただけますか?」
希和子は窓辺の方を指さして言った。流星は、疑問に思いつつも主の意志に従う。
「目を閉じて」
「一体何を?」
陛下、という声が遠く彼方から聞こえてくるようだ。
希和子は、そっと自らを包んでいた肌着をそっと一枚脱ぎ棄てる。シルクの帯と寝間着が床にはたりと落ちる。
「気に――なりませんか?」
流星の近くまで寄った彼女は、すっと彼の手を取り胸元に押し付けた。
ハッとする瞬間。目は開けば、膝に乗った女がいた。
希和子との距離を取り、視線をそらす。狼狽している、焦っている。相手は自分の主。なのに、篭絡されようとしている。
彼が愛おしく思えてならなかった。
「私は、先ほどの続きをしたいだけ……」
「おやめくだされ、皆に何と囁かれるか」
流星は、いつもより声高に、そして早口に言った。
「宮廷の主は、私ですよ? 誰が何と言おうと」
「お立場をお考え直し下さい」
「気にせず、私と」
「できませぬ」
「……」
「君臣がこのような形で交わるのは、道理ではございませぬ。どうかお考え直しを」
通り一遍な返事だ。これで少し、何か反応を見せると思っていたが。
「そう」
彼の目は、数度目をパチパチさせ、やり場に困らせていた。何とも情けない表情だ。
「意気地なしね」
「……」
「このような誘惑にうろたえるなんて――あなたじゃ無理ね。祖国を散々な目に遭わせた邪悪な王は倒せない」
希和子は、何かが乗り移ったような気がした。
「きっと口では、仇討だ、なんだと言っているけど、形だけ。大層ご立派な剣を腰に据えて、剣術を披露して取り入るのが能なのでしょうね。そうやって諸国を転々として生計を立てている残念な人よ、あなたは」
人に嫌味やあざけるのは、駄目なことだと思ってきた。やったこともない。だが、簡単なことだ。他人を貶めるのに、地位も権力も関係ない。」
「そんな人に王の一人を、倒すなんて無理な話よ」
煽られている、と感じてグッと高ぶる何かを堪えた流星だった。
「もういいわ。騎士なんて役目も担わなくていいわ。好きに出ていって。あなたなんて国をなくしてフラフラしているただの流浪人よ」
希和子は最初、怒りを調整しつつ相手の心を引き出そうとした。だが相手をののしることも、そしることのない、彼女は加減を知らなかった。
しまった。もう止すべきた、希和子は少し怖くなった。
「お待ちを」
ガシッと握られた手は固く、内心よりこみ上げた力だった。
「先ほどから、いくら主とはいえ聞き捨てなりませぬ」
彼は騎士であり、臣下である以前に男だ。そんな当たり前なことを希和子は忘れていた。腕力は持ち前にして、見せつけるのが男だ。
「まず私は、どの国の王候や地主にも取り入ってはおらぬ、ということ。無論、陛下にも。そして――」
彼は言い淀んだ。でもそこが最も彼の人生の核となる部分で、希和子に攻撃されたところだった。
「私の使命を、そしるのはお辞めいただきたい。一人の男が、定めた道を詳細も知らず、あれやこれやと言われるのは耐えられませぬ」
「は、放しなさい……」
「ご発言の撤回が先です」
希和子は怖くなって、つかまれた手を振りほどこうとしていた。彼の心から出てきてはいけない怒りを引き出してしまった。しかし怒りは厄介だ。彼の手は鋼鉄のように固く、離れない。まさか恐ろしい。
「いや」
とっさに声が出て、パッとつかまれた手が離れて自由になった。
「嘘です。何も、あなたを愚弄するつもりはありませんでした」
彼は黙りこくっている。視線の冷たさに、身震いした。
「ただ、あなたが――そんな風にしているから……」
「真面目だから……」
希和子は何をこれ以上話せばいいのか分からなくて怖くなった。
「ここには、居てほしい。その思い、あなたは大切な人、私の騎士である以前に想い人なのです」
「陛下……」
「失礼」
もう瞳が涙でいっぱいだ。
「お待ちを」
つかんできた手は柔和で優しい。
「無礼な対応、御許しを。何も騎士として寄り添うこともできず――未熟なわが身をお許しください」
やはり彼は紳士であり、礼儀正しさを忘れなかった。そして自分の主を抱擁した。
彼の胸元は大海原ように広く安心感をもたらした。父親のような度量を感じる。
希和子は彼と共に寝台に横になる。
「私だって、少しは知っているのです。世俗の、男女の交わりとやらを。本来なら、殿方が導くのでしょう?」
「導かれたい――のですか?」
「たまにはよろしいでしょう? さあ私の唇にあなたの。」
「……」
彼は黙る。戸惑っている。なぜ自分がこんなことまでしなければならないのだ?
「あなたに、私の身を任せます」
「……」
彼の心に葛藤があった。相手は、豊都はおろか世界で最も崇高な権威を持つ者だ。ただ、行為はあまりにも稚拙で、人を翻弄するものであった。昼間の霊験あらたかな聖女がもつもう一つの顔。甘えに満ち、他人にすがってきて生きてきた若き女性に振り回られているのだと知る。これが当たり前の顔か。普通の年ごろの女性ならごく普通の。唇を交わしたとき、希和子は思った。
その夜、二人は男女の契りを交わした。
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