七宝物語

戸笠耕一

文字の大きさ
上 下
12 / 156
第1章 世界の理

9

しおりを挟む
 希和子は、寝室に戻ると人払いをした。湯あみの時間は少し遅らせる。祥子にもらった懐中時計が気がかりだった。

 箱中の詰め物を外すと、あとは外形のみの群青色をしたスカスカの容器になり果てる。しかし中に白い紙きれが隠されていた。

 祥子が言っていた紙、あ、これ。

 希和子は早速紙に書かれた内容を読む。

 そこに書かれていたのは、ペンで書かれた地図と経路が示されていた。大まかなことを言えば、宮殿を抜け出す手順が記されている。

 手順にベランダを出て、設置されている階段を下れと書いてあり、その先には中庭がある。そこから、警備に見つからないよう向かいの扉から入る。

 扉の先には、部屋がいくつかある。左端の部屋に入り込めばいい。そこは物置だ。

 一日の日課の最後にある湯あみを終えた。後は行動するだけだ。聖女としてではない所業、脱走。人目を盗み、宮殿を抜ける。何という非常識極まりないことだろう。 

 希和子は周囲を警戒しながら、そっと中庭に抜けた。そこで体を低く保ちながらそっとゆっくり前に進んだ。何とか垣根に身を隠しつつ扉の前にたどり着いた。

 音を立てて感づかれないように、そっと慎重に……

 扉を開けるとき、背後も確認した。後ろから見られる恐れもあった。

 徐々に、徐々に扉が開いていく。中の明かりが差し込み、希和子の瞳にちらちらと照りついて若干まぶしい。

 ようやく人が通れるまで開くとスッと中に入った。

 あとは……少し足早に歩く。左端の物置部屋に入ってしまえば人目を気にする必要はなくなる。

 部屋はうっそうとしていて薄暗い。月夜に照らされ、外観は把握できていたが、心もとない。物置だから色々置いて会って紙に書かれた着替えの入った籠が見当たらない。

 希和子が少し不安に駆られていると、手に付けていた腕輪がぽうっと光を放った。

 あ、光った。希和子には、これは自分が困っている際に光を帯びる。何かにつけて着用しないといけない腕輪で日々億劫になるが、このときばかりはありがたみを感じる。

 導きの光、といっていい。本来導くべき者が、導かれている。聖なる光とは、何と素晴らしいものか。

 光により籠を見つけるのはたやすい。中に着替え用の服と夜道を照らすガラス細工の棒があった。棒は擦ると光る。暗がりを通るとき、人がつける蛍光灯のようなものだ。

 希和子は籠に隠された服に着替え、物置に置かれた古びた鏡で自身の姿を確認した。

 日々物を売ることを生業とする売り子の姿があった。まだあどけない駆け出しの売り子。白いワンピース、臙脂のスカート、黒のブーツ、履いたことがなかった。

 準備はできた。

 あとは床に設置された隠し戸を開ける。留め具を手前に引き持ち上げる。少しさび付いているのか開けづらかったが、何とか持ち上げたとき、地下への入り口があった。段になっていた。

 中は漆黒の闇に包まれていた。腕輪と棒の光で闇は払えるだろうか?

 暗黒を通過しなければ、外の世界に出られない。閉ざされた宮殿の中で退屈な日々を過ごし続けることになる。そんな毎日を払拭できるひと時が待っている。希和子は少なくともそう信じていた。

 闇の恐怖に希和子は、光を以て乗り切ろうとした。中は暗く、じめじめとして先にあるものを隠し、心を揺るがす。階段は急だったので、手を壁に当て、体のバランスを保たせる。

 ゆっくりと進もう……

 しかし、こんな簡単に抜け出せるとは。警備もそこまでではなかったし、今日は戦いの勝利を祝う祝賀会の要人警護で人が割かれて緩かったようだ。目的地にたどり着くまで安心はできない。階段を下り切ると、うっすらと光が見えた。

 そこは秘密通路だった。おそらく有事の時に使用される通路で、秘密の入り口がいくつか宮殿にあって、逃げるときに使う。

 地下通路は丸い円筒になっていて、広さがあった。希和子は自身の腕輪の光と、祥子が用意したと思われるガラス細工の棒で照らし先を行く。設置された明かりでは、心もとなかった。あまりにも薄暗すぎる。

 元来、光は聖女の持つ聖なる腕輪より生じる。ありとあらゆるものに注ぎ込むことができた。希和子が片手に持っている棒は腕輪の光を持っている。

 光りあるものは、聖女である希和子と共にあり、人々を援助する贈り物であった。腕輪の送り主が誰なのか知る由もない。ただ太古の昔からあって聖女のみが扱えることは確かだ。

 こういう時に役に立つとは……

 棒は少し熱い。でも光がこれほど心強いと感じたことは今までになかった。

 やがて出口に差し掛かる。門は頑丈に作られていて、固く閉ざされていた。

 手順の最後に、門を三回叩けと書いてあった。だから希和子は、そうした。

 でもすぐに扉は開かない。少し待った。やがてゆっくりと重い鉄の扉は開く。

「陛下、可憐なお姿ですこと」

 聞きなれた声に耳を澄ましていると何だかホッとする。

「良かった……」大きなため息が自然にこぼれ出た。

「まあどうなさったのですか?」

 宮殿を抜け出すなんて、希和子にしたら初めてのことだった。祥子の顔を見るまで安心できなかった。

「ふふ、万事問題ございません」

 祥子のそっとした笑み。これも希和子の気持ちを和ませる。彼女の顔を見ていると、ほっと安堵してしまえる。

 暗き道を通り抜けた先は、石造りの細い道と左右を煉瓦により構成された家々が立ち並んでいた。

 細い裏道だった。月明りに左手は大通りで、明かりがあり、にぎわっている。酔っぱらいの喚声が聞こえた。

「どこへ行こうかしら?」

「私は陛下がお行きになりたいところならどこへでもお連れいたしますわ」

「そう」

 希和子は迷う。ずっと秘かな計画として宮殿をこっそり抜け出そうと思ってみた。実際にどこへ行こうか具体的に決めていなかった。計画に具体性がなかった。

「陛下、もしお気に召すようでしたら展望台に行かれてみては? ほらこちらから北の端にあります、聖都を一望できますわ」

 さらさらと流れるせせらぎの音のようだ。彼女の提案はすんなりと頭に入り込む。

 そうだ。一度みてみたかった。そうだ、そこにしたい。

「そうね、じゃあそこにしようかしら」

「ぜひ」

「でもどうするの?」

「馬をご用意させてあります」

「馬?」

「ええ、ではこちらへ」

 祥子は右手を指した。そちらは暗く、

「薄暗いわね」

「皆、勝ち戦に浮かれ家を出て飲み明かしているのでしょう」

「ふーん」

 希和子には分からない。なぜ剣を取り、大事な命を投げ打ってまで、危険な場所に身を投じて争わなければいけないのか、原理が、分からない。生き残った者は、故郷に帰り宴に酔いしれる。そうではない者たちの亡骸を後に残して。

「ご安心あそばせ。私がついております」

 細い道は右に左に曲がりくねっており、まるで迷路のようだ。

 だけどやがて道を抜けると、馬の糞の匂いがプーンと漂う。希和子は思わず、鼻を手でふさぐ。嗅いだことのないにおい。

 馬小屋が近くにあって避けたいにおいだけど、我慢するしかない。

 馬が左右の小屋の中に数頭いて、下に寝藁が敷いてあった。

 先に進むと円形の広場あり、中央に馬が一頭用意され、人が手入れをしている。あの馬に乗るのかと希和子は雰囲気で知った。

 彼女にとって乗馬は初めての経験だった。 広場の中央に進んだ。祥子が男に話しかける。すでに話は通っている様子だった。

 一言二言話を済ますとありがとう、と祥子はそっけなく言う。年老いた厩舎の調教師にチップを渡す。男はうやうやしく頭を下げ、管理小屋に引き上げていった。その際ちらっと希和子の顔を見てきたので、反射的に目をそらした。彼女は自分の身がばれることを恐れていた。

「準備は整いましたわ。これで展望台まであっという間ですわ」 

 ふふ、と笑った。月明りに照らされた祥子の笑みは、なぜだか少し妖しい。

 希和子は彼女から乗馬の手引きを習う。なんてことはない。案外簡単だった。鐙に足をかけ、乗るだけなのだ。彼女が背後から支えてくれたので安心だった。

 希和子が乗ると祥子が背後に乗る。

 彼女が縄で馬の首筋を叩くとおもむろに動き始めた。馬小屋を出て、彼女は右に曲がった。

「少し飛ばします」

 縄を今度は強めに二回叩いた。すると馬は足を速めた。

 振り落とされないか心配になった、でも……

 後ろから声がひそひそと声が聞こえて、希和子は気にしなくなった。香水の匂いがツウンと鼻を突く。

 煉瓦の街並みを抜け、大通りに出た。北征道。そこを一気に駆け抜ける。

 みるみる町が通り過ぎていく。自分を突き抜けていく風に揺れて髪は乱れる。

 希和子は、知らない世界を体感していた。周りの空間をまばゆい速度で通り過ぎる世界。

 ゆっくりと日々見つめていた世界とは違う感覚を味わっていた。

 途中で速度を落とし、今度は左に曲がる。上り坂だった。左右の歩道にまばらに人がいた。下る者と上がる者。男女の連れが多かった。

 右に折れ、そこは馬小屋がある。入り口のアーチで、係にチップを渡し、馬を降る。小屋に預け、二人は周りの者に紛れ坂を上る。

 上った先は展望台だ。中央の白い塔から明かりが籠もれ出ている。周囲を木でしきつめられた床がある。

 展望台から、聖都の一望できた。自分たちが突き進んできた北征道を目で追う。その先に荘厳な門と、中には石段と先端が丸みを帯びた建物がそびえ立っていた。

 宮殿だ。

 都は宮殿を中心に周りを街が囲う。明かりが灯って、一つ一つに民の家庭があるのだと知る。素朴だか、確かで素晴らしい景色だった。世界が広がっていくのを実感していた。やがて端の方に目をやると黒き壁が立ちふさがる。そこが聖都の終着点だ。見渡すと周囲を城壁で覆われていることが分かる。

 中心部分に位置する宮殿から四方に伸びる大道。中央道、東征道、西征道、南征道、北征道と主な道が五つ。また中央道と西征道から二つの道が分岐して伸びている。全て合わせて七道といい、町の行政区画は主な道により分けられていた。

 希和子たちがいるのが宮殿より北西の場所。他の区画より傾斜により標高が少し高くなっており、都が一望できる展望があり人気スポットになっていた。

 展望台からみて西側にある天高くそびえ立つ塔がある。別名で真白き塔。ここが執政府だ。純白さから言われる。政治を司る西王が住まう場所だった。執政府を囲って様々な行政省庁の建物が西から南にかけて立ち並んでいた。天を突かんばかりの刺々しい建物ばかりで、威風堂々としている。

 反対に東側に目を移すと、家々が立ち並んでいる。合間にひと際スペースを取った方形の建物がある。立法府だ。人民の拠り所。

 聖都は城壁に覆われているといったが、守りはそれだけではない。周辺を南側は海に面し、北側を険峻な黒金山脈が広がっている。唯一東側に大きな一本道が伸びるだけである。その道も要所は堅牢な守りに包まれていた。残された西側には、何があるかと聞かれれば、こう答えるしかない。何もないと。広がる荒涼とした大地。名もなき荒野と言われた。聖都は人々が住む世界の西のはずれにある都市だ。未知なる敵が攻め寄せない限り、土地の守りは万全だ。

 天然にも人為的にも固く閉ざされた国……

 内側にはある大事な財産、景色を守るには大層な備えが必要だ。おかげで希和子は何不自由ない生活を送っているのだから。

「良きところでございましょう?」

「素敵だわ。ほらあそこが宮殿ね」

 希和子は真っ直ぐ指を指して言う。

 あれが宮殿。隣は執政府か。慣れ親しんだ景色が一望できるのはなんて幸せなことだろう。

 希和子は展望台を見回り景色を堪能した。やがて塔の中に入って、もう少し上から景色を一望したいと思った。

 中はらせん階段で上に昇るようだ。

 とっとと希和子は少女のような足取りで、階段を、弾みをつけて上った。

 だが、目に最初に映るもの、頭の中にある、描いていた情景、は景色だった。だが、突発的に入ってきた変異が、すべてを打ち砕く。

 ほほ笑んだ笑みが一瞬で引いた光景――男女の抱擁と、接吻だった。

 希和子の目に映るものはすべてかけがえのないもので、彼女はすべてに興味を持っていた。当初、そちらの光景にとっさに引かれた。だが本能はさっと現状から彼女自身を遠ざけようとさせる。忌避と好奇心が希和子の心を揺さぶり、やがて彼女の体は硬直してしまった。

 幸い向こうは気づいていない。気持ちの上では好奇心が勝り始めた。

 ながい、ながい接吻……

 濃密に絡み合う互いの唇。そのさまは闇に包まれシルエットになっていたのが、過分に好奇心を触発させる。

 聖女の顔に、愛おしく恋あこがれるほほ笑みが表れる中、そっと忍び寄る影。

「陛下も良き御相手を見つけなさっては?」

 希和子は、背後から投げかけられた問いかけに驚き、後ろを向いた。まさか正体が露見したのかと一瞬思った。

 そこにある顔は祥子の素顔だった。

「その際は、何なりと。ご相談に乗らせていただきますわ」

 彼女は手を取り、にっこりとほほ笑む。唐突な問いかけに希和子は狐に包まれたような面持ちになった。

「あ、ありがとう……」

 と言ったが、もやっとした気持ちは払しょくできずにいた。しばらく辺りの景色を見て気を晴らそうと思ったが、だめだ。

「ねえ、そろそろ帰らない?」

 希和子の顔がぎこちなく歪む。何か気持ちが落ち着かない。

「あら? もうよろしいのですか?」祥子が気遣うようなそぶりで言った。

 うん、もういいのとだけ返事を返すのがやっとだった。

 チラッと展望台を見たが、景色へのあこがれ、あらゆる興味は嘘のように消え去ってしまった。引き潮に乗ってどこか遠くへ行ってしまったかのようだ。

 帰りはゆっくりと馬を走らせてもらった。ただ恋の情景には興味があった。

 祥子と別れ、寝所に戻った希和子は床に腰かた。あの恋人たちは、何を思い互いの唇を重ね合わせたのか。したことのない体験だ。

 あの男女の触れ合い。本来なら見てはいけなかった。

 唇にそっと指に当てた。ここに触れるものはどんなもの何だろうと。離した指にはうっすらと濡れたぬくもりが単にあるだけだ。

 今はまだ月だけが希和子を照らすばかりである。
しおりを挟む

処理中です...