七宝物語

戸笠耕一

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第四部 楽園崩壊

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 いつもの朝がやってきた。日の光が咲子の顔をかざし、自然と目覚める。時刻は6時30分。学園での生活は画一的なものだ。同じ時刻に起きて、身なりを整える。朝食を取り、朝の講義に参加する。何も変わらない日々がやってきた。

 ひどい汗である。

 悪い夢を見ていた気がする。

 よかった夢だった・・・

 ふうと大きな安堵のため息をつき、額に手をやる。夢のはずだわ。夏帆がカルト集団の一員だなんて。そんな馬鹿なことがありえるはずがない。夏帆は由緒ある宮津家の者。家の意向で咲子の小間使いになった。数年の付き合いだが、おかしなところはない。そう、何一つも。

 咲子は手首の異変に気付く。普段何も身に付けない手首に包帯が巻かれている。どうも右手に鈍い痛みがある。怪我でもしたのだろうか?

 咲子はハッと思い出しかけた。頭に何かが駆け巡っていく。

 暗い洞窟、怪しげな身なりの集団、ランプに映し出された礼拝堂、中央の祭壇・・・

 咲子は見つかり中央の祭壇に引っ張り出され、縛られた。その時の異様な集団の眼差し。

 そのあとは・・・

 記憶は洪水となって怒涛の勢いで咲子の脳裏を押し流す。

 なに? どういうことなの?

 記憶は鮮明だった。でも違う。あれは悪夢。現実ではない。

 嘘だというならこの腕の包帯は何だというのだろう?

 右の手首を左の指先でなぞり、押してみる。

 いたっ・・・

 そんなはずは。咲子はおそるおそる手首の包帯を外してく。分厚かった手首の白い布は薄くなっていき外れた。中にはガーゼが貼られているが、一部は覆い切れず赤みがあっていた。怪我をしていることは分かる。

 取ってみよう。咲子はゆっくりとガーゼを取り外す。

 ゆっくりとめくる。そこには・・・

「いやっ!」

 咲子は素っ頓狂な声を上げる。ああ、夢ではなかった! 祭壇で起こった惨劇は本当の出来事だ。焼け付くような熱さと痛みが咲子の薄桃色の肌を焦げさせた。確かにそこには

「666」という数字がはっきりと記されている。それが何を意味するかは知らない咲子ではない。

 ガチャガチャと隣部屋につながる扉が音を立てる。乱雑な音に咲子は身構えた。この腕のことは誰にも悟られてはならない。

「おはようございます。お目覚めになりましたの?」

 夏帆だ。いつもと変わらない表情で、咲子を起こしに来たのだ。最も咲子は起こされる前に起きて、小間使いと朝に会話する。他愛もないことを話すのだが、今日はそんな気分ではない。

 咲子はキッと夏帆の挙動に不審なところがないか確認する。だが何もない。夏帆はいつも通り咲子の寝間着を取り、体を拭いた。いつものように同じことをしている。それが済めば、乱れた髪をとかした。すべてに無駄がなく、よくできた宮仕えの女官だった。

「腕の包帯は今しばらくお付けくださいませ。まだ痛みますでしょう?」

 びくりと咲子は体を縮こませる。

「違うわ」

「ふふ、どうされましたの? 何か?」

「腕のこと、違うわ。私はそんな」

「さあ包帯を」

 夏帆がそっと右手首を掴むと、咲子は反射的にその手を払う。

「やめて。自分でまくわ」

 夏帆は何も言わない。腕を隠せても傷は消えない。今でも信じられない。

「咲子様は自らご決心したのです。自ら死を克服し王になることを。この世を変え、地深くにいる力ある存在を復活させることを自ら決意された」

 響き渡る言葉に咲子は膝を折る。嘘だ。こんなことは間違いだ。

「嘘だわ」

「いいえ。本当のことでございます」

「違うわよ!」

「望みをかなえる第一歩を踏み出したというのに何を怖気づいておりますの?」

「だって!」

 666、666、666・・・

 頭に数字の羅列が浮かび上がる。その数字は禁字だ。地に幽閉された王の別名。かつては聖族であり、最も強大な力を持っていた者。力の誘惑に溺れ、東の地に追いやられた男は、戦いを挑み破れた。男は地下深くに幽閉され日の目を見ることはない。悪魔に与えられた衆人番号は666。最も疎まれ触れられない数字である。それが咲子の腕にはある。

 咲子は口にしてはいけない王の復活を信じ、既成秩序を転覆させる集団の一員になったのだ。

「咲子様。もっとも高貴な者のそばにあり、その美貌は中つ国で名高い者。あなた様は自らの地位を放棄してでも王になろうと欲した。すべては永遠なる若さと美しさを得て、己が姿を世に知らしめたがいがためでございましょう? あなた様の誇大な感情は修練を積めば、王位を継ぐに相応しい者になることでしょう」

 咲子は高らかと発する夏帆に打ちひしがれていた。目の前にいる小間使いの様相に全ての感情が停止していた。

「これは祝いの緒言にございます。どうかお受け取り下さいませ」

 咲子はへたり込んでいた。力が入らない。これまでの経歴が吹き飛んでしまった。20を迎えれば宮廷に入り、聖女となるべく修練を積む。やがては国の安寧を願う聖女になる。

決められた路線に沿って歩く人生が変わった。

「はは・・・」

 咲子は笑ってみた。すべては動き出したのだ。今日から咲子は自らの人生を歩むことができると思っていた。
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