孤島に浮かぶ真実

戸笠耕一

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第一部

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 昼を取りおえて多少くつろいだ後、私たちは車に乗り込んだ。

 昼食は料理とほぼ無縁といっていい父がスパゲッティを調理した。私は少し不安になったが、なんてことはない。しっかりコシがしまって、ちゃんとアルデンテになっている!

 トマトソースのスパゲッティを作るなんて奮発して私と母は思わず目を合わせた。果たして調理できるのか、何せ父が料理したところなど見たことがないのだ。

 しかし笑ってしまうほど出来はいい。何かにつけ小説、小説で他のことはすべて母に任せていた父も島に来て変化の兆しを見せ始めている。

 辺境の地へ来て、自給自足の念が生まれたのだろう。母と私がいない間、父はどうやって食べてきたのだろう。
 
 スパゲッティの出来栄えからして、きちんと料理をしていたに違いない。これで一家全員ひとまず調理はできるというわけだ。その事実を知り私は笑った。

 車はゆっくりと町を下っていき、港がある方角へ進む。港周辺まで来たとき左へ曲がった。道はしっかり舗装されていて右は海だ。白波がテトラポッドに当たり砕けては消える。それを延々と繰り返している。

 しばらくテトラポッドと波の攻防が続いた。

 景色からそらし、目を閉じて回想の世界に入り込んだ。

 長い旅路。ずっと船に揺られているのは初めての経験だった。倦怠感がどんよりと自らの体にのしかかっていた。

 ボーっと外の景色を見る。車の揺れに身を任せるだけで、少しずつ疲れが取れていった。船の揺れはよくない。ゆっくりとゆっくりと左右に体を鈍く重く揺らすのは、あまり愉快なことではない!

 今乗っている車の揺れとは全然違うのだ。前に突き進む真っすぐな心意気が船のそれにはない!

 ずっと海ばかり見せられていた。ただただ続く海を、そしてその先にある島を望むことになった。

 そうだ――ここは島だ。私は今島にいる!

 座席のポケットに面影島の地図が挟まっていた。それを取り出して広げてみた。

 面影島は楕円形になっていて、南側に私たちが到着した港がある。そこから主な道は二つあった。まず島の中心にある大通り。そして左右に島をぐるりと一周する道がある。

 私たちは大通りを下って港に向かい、右に曲がる。島の右側はなだらかで、海沿いは浜辺になっていて、大半を占めていた。

 やがて浜辺を抜けて島の半分まで進むと険しく切り立った崖になり、その一部に妙な箇所が存在した。捻じれた部分が突き出した部分があった――たとえるなら〟こぶ〝だ。

 ちょうど港から真反対の位置に〝こぶ〟はある。

 仮に港がある湾を口とし、緩やかな斜面の上にある大通りを鼻筋として考えれば、人の顔を描ける。崖がある部分はちょうど人間でいう頭。

 なるほど面影島か。かなり気づくのは難しいが、島の形が人の面影を表しているのだ。悪さをした子どもだ。親や先生にゲンコツを食らい、頭にたんこぶを作った子ども。

 名前にユーモアがある。私はますます島が気に入っていた。船は一週間ごとしか港を出ない。

 絶海の孤島というべき場所に私は生活していくのだ。

「あ、浜辺だわ」

 突然、母が声を上げた。その場所は、島の片面を占める浜辺だ。

「少し見ていくかい?」

 父の問いかけにうん、うんと首を振る母。島に着いてから、すっかり子どもに戻っている。愛らしいし、無邪気な一面は誰しも持っているものだから全然気にはならなかった。

 ドライブの楽しかったが、砂浜でぼんやり海を見つめるのも旅の疲れを癒すのにもってこいだ。

 駐車スペースにとめると、私たちは車を降りる。波風に乗って潮のにおいがした。自然に体を伸ばしたのは、あまりにも普通の行為だった。体は倦怠に辟易していた。

 母はタタッとスカートを抑えながら海に向かって小走りする。

 白のストッキングとタイツを脱いで足を海につけてはしゃいでいた。気持ちよさそうな母、車から出て一息ついていた私たちの方へ手招きをした。

「まるで子どもだな」

 幼少に戻った母の姿に父は苦笑していた。

「明美もママと遊んでやったらどうだ?」

「じゃあちょっとね……パパは?」

「俺はいい」

「そう」

 父に勧められ靴を脱いで海に足を付かせることにした。

 真冬の寒さは過ぎ去ったといえ、まだ三月の海の水はちょっと冷たい。波が当たれば、体が震える。

「きっと夏になったら、最高でしょうね」

 母が満足げに腰に手を当てながらそう言った。

「ええ」

「四月になったら、新しい学校ね。いいお友達ができるといいね」

「ええ」

 張り合いのない返事しかしなかった。

 ただただ、今はこの雄大な景色に見とれていたかった。私たちは、はるか向こうの彼方からやってきた。はるばると時間をかけて。

 その疲れが、こうして癒されていく。

 ザザーンと波が足に当たる。そして引く。またやがて当たり、そして引く。何度も何度も繰り返す、懲りずに飽きずに、同じことをただひたすらと。

 私と母はその自然の健気さに感心してしまった。 

 遠い旅。幾重にも連なる波がこうして風に吹かれてやってきた。ただいまは美しい景色に包まれていたい。波も私たちと一緒だ。

 長く足を海に付けて体が冷えてきたので、私たちは砂浜に上がった。足にこびりついた砂は近くの洗い場で流してタオルで拭いた。

 洗い場の近くには海の家があったが、シーズンオフで店は閉まっていて、ガランとしていた。

 充分景色に癒されて車に戻る。残された観光を続けたかった。

 笑顔の両親。その間にいる私がいた。

 何も不自由なんてなかった。ただ日々の生活に満足するのは二人の間に挟まれ、娯楽としてきたことをできればよかった。

 読書、料理……

 ありきたりなことに満足していた。今はどうだろう?

 島と海と……

 これまでにはない世界だ。見たことのない新世界。

 尽きることのない幸福が私を包み込んでいる。自然と笑みがこぼれてしまう、そんな感じだった。

 ある種の悦に入っていた私は人が近づいて来ていることに気づかなかった。

 女の子は、浜辺に降りる階段を下りてきてこちらに向かってきた。グングンと互いの距離は縮まり、少女の姿かたちがくっきりしてきた。

 スカイブルーのリボン結びのワンピースを着て、かかとの高くない白いヒールを履いている。小麦色の少し浅黒い肌、小柄でリンゴのような赤みを帯びた頬、つぶらな瞳は実にチャーミングだ――麦わら帽子を被っている。

 愛らしい印象だ。ポテッとしたその頬は、彼女の最大の魅力の一つになる。

 夏ではないので麦わら帽子が不自然に思われた。でもここは年中温暖だ。薄着をしても平気だし、帽子もひどく変というわけではないと考えを改めさせられた。

 都会と南国の島では全然季節の感覚が違うのだ。

 女の子と私たちはわずかな距離まで近づいて、お互いに道を譲り合う。

 私はちらっと彼女のことを見た。向こうもこちらに目を向け、互いに通り過ぎていく。思うことがあって彼女の後姿を見た。しかし相手はすたすたと歩いていく。私は前を向き直して、自身の道を歩くことにした。

「ねえ、島の子かしら?」

 母はこそこそと父に話しかける。

「ははっ、そりゃそうだろ? ここは島だからみんな島の子さ」

「でもあんまり現地の子に見えなかったわ」

 母の顔がいぶかしむ。

「自転車で来ていたことはこの島の人だろ?」

 二人は楽しく議論をしていた。現地の子かどうかなんて本当に些末なこと。二人には、特に母には気になることらしい。ただ一つ気になることがあった。

 ちょっとした、ほんの一瞬のことだ。彼女とすれ違いざま、一瞬だけ目が合ったと思う。その時彼女はクスリと笑ったような、もしかして私の勘違いかもしれない。

 同い年の少女はすでに遠くへ行ってしまった。また会う機会があれとすれば、学校でということになるだろうか?

 小さな疑問が私の近くを通過していった。季節外れの木枯らしのように。
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