獣の楽園

戸笠耕一

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第二章 宮内恵

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「やあ。久しぶり」

 男はそうずぶ濡れの恵に傘で差しだした。

「立てる?」

 恵は力なく頷いた。これは必然だろう。よろよろと体がよろめいた。トンと体が触れる。

「どうして?」

 知っている人物だった。宮内学。子どもを連れて家を去った守の父。雨の雫がこぼれ落ちていく。

「何でここに?」

 答えはない。力が込められた手に引っ張られていく。部屋に連れてかれた。どこかは知らない場所。

「寒い?」

 ガタガタと震える体に毛布が掛けられる。

 初老の男にこれほどの熱があるとは思ってもみなかった。学は優しい目で見つめていた。

 脱力した恵を学は抱きしめる。

「抜け殻のような私を抱くだけのものがあります?」

「一緒だよ。僕らはともに追い出された異邦人じゃないのか?」

「追い出された?」

 学は自身が妻と離縁されてしまったこと。会社経営から追放されたことを話しだす。

「じゃあ一緒ですね」

 敗れた二人は互いに寄り添い合い、傷を舐め合う。

「でもこれでいい……」

 形だけの家族、虚像で塗り固められた地位に恵と学はきっと踊らされていたのだろう。何もかも失って気づいた人のぬくもりに、恵はこれでいいと思えた。

 学もまた恵を抱き、キスをする。何もかも失った恵にはどうでもいい。

「本当は娘が欲しかった……」

 学の告白を聞いて、恵は不意に涙が浮かんだ。自分は必死に二十年という歳月をかけて白鷺を復活させようとしたが、失敗した。地位も名誉も恵を満足させることは結局なかった。

 恵は今、喪失した自分の記憶を学の肉体で補完しようとしている。

 学もまた鋭利な瞳を持った恵の体に触れることで娘を愛する感情を抱いた。

 今日もまた恵は学の慰みをして心の記憶を共有していた。

 だがそれも長くは続かなかった。恵には耐えがたい屈辱だった。この男に膝を折り慰み者として一生を終えるなんてあり得ない。

「私の気持ちをくみ取ることができんのか!」

 激しい罵声が恵の鼓膜を突き破って脳裏に突き刺さる。

 恵は逃げ出そうとした。扉から外に逃げようとしたら髪を掴まれ押し戻される。ベッドに押し倒されようとした。何度も激しい罵り合い。首筋を学の手がかかる。締め付けられる中で恵は必死にあえぐ。記憶の果てに枕元にあったガラス製の灰皿を掴んだ。

 気づいたときには学はこと切れていた。かすかなうめき声が最初はしたが、やがてわずかな吐息も聞こえなくなる。

「なんで……」

 恵はへなへなと崩れ落ちた。どうして自分ばかりが悲惨な目に合わなければならないのだろう。学生時代、自分は輝いていた。それを何の因果があったのか狂いだした。恵は元に戻したかっただけだ。

 事態はどんどん悪い方向へ突き進んでいく。

 カーペットを鮮血がじわじわと侵食する。

「ねえ……」

 揺すっても学は動かなかった。

「嫌よ……もう……」

 嘆いても始まらないことはわかっている。自分は全てを失ってしまった。会社も、家族も、すべて自分の手元にはない。すると、

 鮫島綾の高笑いが聞こえてきた。

 こんな男に振り回されるのはいや……

 逃げよう。でも死体はいずれ発見されてしまう。警察が学との関係を調べればいずれ恵にたどり着くのは間違いない。

 逃げきれない。家に警察が来て、長時間にわたる取り調べがある。今の恵を庇うものはいない。

 まだこんなところでは終わらないわ。何としてもあの女だけには地獄の苦しみを与えてやりたい。もう会社の再興もいい。鮫島綾だけは殺したりなかった。あの女を刺し違えてでも。一人殺したなら二人殺そうと……

 まるで悪魔の囁きだった。でも気を取り戻すと、自分の行動で息子の誉に害悪が及ぶのはだめだ。

 死体を処理しなければいけない。学はどちらかと小柄だからスーツケースに詰めてどこか山奥にでも埋めてしまえばいい。そう父が持っていたペンションが秋田にある。観光事業にも手を入れていた一環で買ったペンションは経営を今でこそ手放していたが、経営者とは古くからの馴染みである。

 とにかく死体が出なければいい。見つからなければどうにでもなるに違いない。

 無計画な多角化戦略で白鷺は経営難になった。それがこんなことで役に立つとは。恵は皮肉という言葉の意味を身に染みて理解した。
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