22 / 28
第二章 宮内恵
8
しおりを挟む
「やあ。久しぶり」
男はそうずぶ濡れの恵に傘で差しだした。
「立てる?」
恵は力なく頷いた。これは必然だろう。よろよろと体がよろめいた。トンと体が触れる。
「どうして?」
知っている人物だった。宮内学。子どもを連れて家を去った守の父。雨の雫がこぼれ落ちていく。
「何でここに?」
答えはない。力が込められた手に引っ張られていく。部屋に連れてかれた。どこかは知らない場所。
「寒い?」
ガタガタと震える体に毛布が掛けられる。
初老の男にこれほどの熱があるとは思ってもみなかった。学は優しい目で見つめていた。
脱力した恵を学は抱きしめる。
「抜け殻のような私を抱くだけのものがあります?」
「一緒だよ。僕らはともに追い出された異邦人じゃないのか?」
「追い出された?」
学は自身が妻と離縁されてしまったこと。会社経営から追放されたことを話しだす。
「じゃあ一緒ですね」
敗れた二人は互いに寄り添い合い、傷を舐め合う。
「でもこれでいい……」
形だけの家族、虚像で塗り固められた地位に恵と学はきっと踊らされていたのだろう。何もかも失って気づいた人のぬくもりに、恵はこれでいいと思えた。
学もまた恵を抱き、キスをする。何もかも失った恵にはどうでもいい。
「本当は娘が欲しかった……」
学の告白を聞いて、恵は不意に涙が浮かんだ。自分は必死に二十年という歳月をかけて白鷺を復活させようとしたが、失敗した。地位も名誉も恵を満足させることは結局なかった。
恵は今、喪失した自分の記憶を学の肉体で補完しようとしている。
学もまた鋭利な瞳を持った恵の体に触れることで娘を愛する感情を抱いた。
今日もまた恵は学の慰みをして心の記憶を共有していた。
だがそれも長くは続かなかった。恵には耐えがたい屈辱だった。この男に膝を折り慰み者として一生を終えるなんてあり得ない。
「私の気持ちをくみ取ることができんのか!」
激しい罵声が恵の鼓膜を突き破って脳裏に突き刺さる。
恵は逃げ出そうとした。扉から外に逃げようとしたら髪を掴まれ押し戻される。ベッドに押し倒されようとした。何度も激しい罵り合い。首筋を学の手がかかる。締め付けられる中で恵は必死にあえぐ。記憶の果てに枕元にあったガラス製の灰皿を掴んだ。
気づいたときには学はこと切れていた。かすかなうめき声が最初はしたが、やがてわずかな吐息も聞こえなくなる。
「なんで……」
恵はへなへなと崩れ落ちた。どうして自分ばかりが悲惨な目に合わなければならないのだろう。学生時代、自分は輝いていた。それを何の因果があったのか狂いだした。恵は元に戻したかっただけだ。
事態はどんどん悪い方向へ突き進んでいく。
カーペットを鮮血がじわじわと侵食する。
「ねえ……」
揺すっても学は動かなかった。
「嫌よ……もう……」
嘆いても始まらないことはわかっている。自分は全てを失ってしまった。会社も、家族も、すべて自分の手元にはない。すると、
鮫島綾の高笑いが聞こえてきた。
こんな男に振り回されるのはいや……
逃げよう。でも死体はいずれ発見されてしまう。警察が学との関係を調べればいずれ恵にたどり着くのは間違いない。
逃げきれない。家に警察が来て、長時間にわたる取り調べがある。今の恵を庇うものはいない。
まだこんなところでは終わらないわ。何としてもあの女だけには地獄の苦しみを与えてやりたい。もう会社の再興もいい。鮫島綾だけは殺したりなかった。あの女を刺し違えてでも。一人殺したなら二人殺そうと……
まるで悪魔の囁きだった。でも気を取り戻すと、自分の行動で息子の誉に害悪が及ぶのはだめだ。
死体を処理しなければいけない。学はどちらかと小柄だからスーツケースに詰めてどこか山奥にでも埋めてしまえばいい。そう父が持っていたペンションが秋田にある。観光事業にも手を入れていた一環で買ったペンションは経営を今でこそ手放していたが、経営者とは古くからの馴染みである。
とにかく死体が出なければいい。見つからなければどうにでもなるに違いない。
無計画な多角化戦略で白鷺は経営難になった。それがこんなことで役に立つとは。恵は皮肉という言葉の意味を身に染みて理解した。
男はそうずぶ濡れの恵に傘で差しだした。
「立てる?」
恵は力なく頷いた。これは必然だろう。よろよろと体がよろめいた。トンと体が触れる。
「どうして?」
知っている人物だった。宮内学。子どもを連れて家を去った守の父。雨の雫がこぼれ落ちていく。
「何でここに?」
答えはない。力が込められた手に引っ張られていく。部屋に連れてかれた。どこかは知らない場所。
「寒い?」
ガタガタと震える体に毛布が掛けられる。
初老の男にこれほどの熱があるとは思ってもみなかった。学は優しい目で見つめていた。
脱力した恵を学は抱きしめる。
「抜け殻のような私を抱くだけのものがあります?」
「一緒だよ。僕らはともに追い出された異邦人じゃないのか?」
「追い出された?」
学は自身が妻と離縁されてしまったこと。会社経営から追放されたことを話しだす。
「じゃあ一緒ですね」
敗れた二人は互いに寄り添い合い、傷を舐め合う。
「でもこれでいい……」
形だけの家族、虚像で塗り固められた地位に恵と学はきっと踊らされていたのだろう。何もかも失って気づいた人のぬくもりに、恵はこれでいいと思えた。
学もまた恵を抱き、キスをする。何もかも失った恵にはどうでもいい。
「本当は娘が欲しかった……」
学の告白を聞いて、恵は不意に涙が浮かんだ。自分は必死に二十年という歳月をかけて白鷺を復活させようとしたが、失敗した。地位も名誉も恵を満足させることは結局なかった。
恵は今、喪失した自分の記憶を学の肉体で補完しようとしている。
学もまた鋭利な瞳を持った恵の体に触れることで娘を愛する感情を抱いた。
今日もまた恵は学の慰みをして心の記憶を共有していた。
だがそれも長くは続かなかった。恵には耐えがたい屈辱だった。この男に膝を折り慰み者として一生を終えるなんてあり得ない。
「私の気持ちをくみ取ることができんのか!」
激しい罵声が恵の鼓膜を突き破って脳裏に突き刺さる。
恵は逃げ出そうとした。扉から外に逃げようとしたら髪を掴まれ押し戻される。ベッドに押し倒されようとした。何度も激しい罵り合い。首筋を学の手がかかる。締め付けられる中で恵は必死にあえぐ。記憶の果てに枕元にあったガラス製の灰皿を掴んだ。
気づいたときには学はこと切れていた。かすかなうめき声が最初はしたが、やがてわずかな吐息も聞こえなくなる。
「なんで……」
恵はへなへなと崩れ落ちた。どうして自分ばかりが悲惨な目に合わなければならないのだろう。学生時代、自分は輝いていた。それを何の因果があったのか狂いだした。恵は元に戻したかっただけだ。
事態はどんどん悪い方向へ突き進んでいく。
カーペットを鮮血がじわじわと侵食する。
「ねえ……」
揺すっても学は動かなかった。
「嫌よ……もう……」
嘆いても始まらないことはわかっている。自分は全てを失ってしまった。会社も、家族も、すべて自分の手元にはない。すると、
鮫島綾の高笑いが聞こえてきた。
こんな男に振り回されるのはいや……
逃げよう。でも死体はいずれ発見されてしまう。警察が学との関係を調べればいずれ恵にたどり着くのは間違いない。
逃げきれない。家に警察が来て、長時間にわたる取り調べがある。今の恵を庇うものはいない。
まだこんなところでは終わらないわ。何としてもあの女だけには地獄の苦しみを与えてやりたい。もう会社の再興もいい。鮫島綾だけは殺したりなかった。あの女を刺し違えてでも。一人殺したなら二人殺そうと……
まるで悪魔の囁きだった。でも気を取り戻すと、自分の行動で息子の誉に害悪が及ぶのはだめだ。
死体を処理しなければいけない。学はどちらかと小柄だからスーツケースに詰めてどこか山奥にでも埋めてしまえばいい。そう父が持っていたペンションが秋田にある。観光事業にも手を入れていた一環で買ったペンションは経営を今でこそ手放していたが、経営者とは古くからの馴染みである。
とにかく死体が出なければいい。見つからなければどうにでもなるに違いない。
無計画な多角化戦略で白鷺は経営難になった。それがこんなことで役に立つとは。恵は皮肉という言葉の意味を身に染みて理解した。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる