むかし沈んだ船の殺人

戸笠耕一

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ストーリー

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 私立探偵の新井傑が目を覚ました。傑はひどい頭痛をこらえながら、鉛のように重い体を起こす。全身が気だるい。何があったのか整理したい。今置かれている現状がよくわからない。

 記憶を紐解いていくとバーで飲んでいた。別に飲む予定ではなかった。

 クライアントからの依頼を受けて、バーで落ち合う手はずだった。妙なクライアントで待ち合わせ場所を指定せず、妙な暗号文を送り付けてきていた。とにかく時間もあったから、この小細工をするクライアントの顔を見てみたかった。自分がどういう人間かわかってやっているのか、ただの愉快犯か、傑の退屈を紛らわすには丁度よかった。

 封筒には相談したきことがありますと書かれて、前金と白い紙にアルファベットが書かれた文字のみ。妙に思ったが、傑の頭脳をもってすれば容易な謎だった。暗号が指し示す先につくとまた次の暗号が書かれていた。合計七つの場所に行くことなった。

 クライアントは自分を振り回していると分かった。

 たどり着いたのが横浜のバー「WindSky」でシャンソンが流れるこじゃれたところだった。何でも最近できたらしい。奥に控えているという店長からおすすめのギムレットが出てきた。

 ギムレット。かの有名なレイモンド・チャンドラー作「長いお別れ」の中に登場する酒。ギムレット。ジンベースのショートドリンク。

「マスター、奥にいる店長に伝えて。この酒は僕達の関係性には合っていないってね」
 マスターは開いた皿を淡々と拭いていた。洗い物を終えると奥に下がる。バックヤードからチリンと音が鳴った。

 まるで時間が止まったような状態になった。今まで談笑を続けていた客はピタリと会話を止めた。無言。

「姿を見せたら、、」

 陳腐な演出で何がしたいのか。もどかしい思いが駆け巡った時、傑の意識は昏倒した。視界が揺らぎ体は自由を奪われていく。恐らく睡眠導入剤が入っていたのだろう。妙な味がしたので一口で止めたが、随分と強烈なものを使ってきた。

 こういうことをやってくる人間はわずかに絞られる。暗号といい、このふざけたゲームを仕掛けてきた人間が誰か
見当がついていた。

 以上がここに来るまでの記憶の確認だった。齟齬はなさそうだ。しかし、寄りによってどこだというのだ?

 ぐらりと部屋が前後に揺れた。もしやと思い立ち上がる。窓辺から外を見た。果てしない群青と合間に立つ白波。そうか。傑は自分がいる場所を理解した。厄介なことに巻き込まれている。

 傑は船の上にいると気づいた。ふわりと客室が前後に揺れる独特の感じがする。ピッチングだった。

 客室にも見覚えがある。ベッドはツイン。水玉模様のカーペット。右隣にはソファがおいてある。左手には小窓があり、向こうに厚みがかった雲越しに光を感じる。

 視界に飛び込んできたのは一度見た光景でいつの頃の出来事かも思い出せる。ただ変だ。

 光景が目の前に広がることはあり得ない。

 でもどうして、自分はここにいる?

 デジャブなのか?

 いや、あり得ない。何か仕込まれている……

 丸い小窓に近づくと空には分厚い雲が広がり、地には紺青の海を再び見ていた。やはり限りがないほど果てしな
い。

 常時揺れる感覚と外の光景から船上にいると判断できる。自分たちの思い出にふさわしい場を再現しているなら、傑の隣には思い出深い人がいるはずだ。

 傑の寝ていたベッドの隣に眠っていたのは女性だった。水色のワンピースを身につけ、白菊のように繊細な体つきの腕がすらりと生えていた。

「君か」

 眠りの美女を起こすのは心苦しい。五年前に別れて以来の再会である。寝ている女性との思い出が断片的によみがえっていく。出会い、脈打つ肉体、言い合った日々を過ごした。別れが脳裏によぎる

 今はいい。傑は自らの頬を打って思い出を消した。見なければいけない。

 傑の掌に触れた彼女の腕はみずみずしく澄んだ水そのものだ。何度か体を揺すると小さく呻いていた。

 悪いが、今は置かれている現状を知ってもらわなければいけない。目を開けて美女は世界を知覚しようとしていた。

「なに?」

「起きたかい?」

 怪訝そうな顔をしている。まじまじと傑の顔を見つめる。

「何の用?」

 小さな唇から飛び出た言葉は奥がなく平易な味わいだった。五年ぶりの再会だというのに2人の関係は淡白だった。

「許してくれ。君の邪魔をするつもりはなかった。僕もどうしてここにいるか知らない。教えてほしいくらいだ」

「何ここ? で、あなたはどうして私の横にいるの?」

「わからない。目が覚めたらこうなっていた」

「なんだ? もう色々知っているのか思った。じゃあ何もできていないのね」

「さっぱりだ。目覚めたばかりで頭が働かなくてね」

 少し呆れた顔をしていた。

「調べることなんて決まっているじゃない」

 彼女はあきれ顔をしながら窓に近寄り、外の様子を何気なく見ていた。飽きたのか軽く伸びをしていた。

「すごい寝心地の悪いベッド。サービス悪いわね。何のためにスイートを取ったの?」

「君が取ったのかい?」

「船に乗る予定なんてない」
「僕も」

 目に映る光景はかつて二人が過ごしていた客室だった。ベッドは素材が悪いのか大理石の上で寝ているような感覚
を味わった。ソファも中の布地がところどころむき出ていた。カーペットも同様だ。

「テレビがないな」

 傑は前回に乗っていたときの記憶内のデータと現実を照合していく。彼女が口走ったサービスの劣化は正しい。壁
に取り付けられたスイッチをパチパチと幾度も押したが、電気はつかない。

「何のために私たちはキャビンに連れて来られたの?」

「今のところわからないが、僕らを観光で招いたわけじゃないな」

 ならば何だ?

 傑はあらゆる可能性を探るが、情報が少なさすぎる。

「外に出てみるか?」

 傑は扉のノブを回す。扉はギシギシと蝶番がきしみながら少しずつ開いていった。

「悲惨ね。時間がもたらす劣化は残酷だわ」

 傑は五年の歳月が豪華客船に与える劣化があからさま過ぎたので甲乙つけがたい。

 部屋を出ると涼しい風が吹いてきて傑と沙良の体を突き抜けていった。がらんとした通路に人気はない。

 一周してオレンジのライフボートが傑たちのいる右舷側に取り付けられている。

「誰もいないな」

「どっちに行く? 甲板に出るのか? 下に行くのか?」

 傑は頭をひねる。全体を把握するなら階段を昇り船上を一望できる甲板に行くべきだ。ただ気になることがある。

「中が見たい。下だ」

「どちらでも、あなたのお好きに」

 傑はフェンスに手をかけた。船体を把握したかった。体がフェンスに伸し掛かる。ぼきっと嫌な音が聞こえた。ふわりと体が浮かんだ。傑はとっさの判断で体の体勢を整える。

 フェンスの破片がばらばらと海面に落ちていく。陸の見えない海上での転落はほぼ死を意味する。

「危ないわね。大丈夫?」

 彼女はフェンスの欠片を指で撫でている。

「フェンスが木で出来ているのか? サービスが悪いどころじゃないぞ」

「体の重心をうまくずらして落ちないようにするなんてさすがだわ。しばらく会っていないうちに怠けていないか心
配だったわ」

 少し皮肉めいた笑いを顔に浮かべていた。傑はさすがに気分が嫌になった。

「笑い事じゃない」

 二人は相談して船体をまず一周した。船の全長や幅を調べていた。全長二百四十m。幅は三十m。

 この船が豪華客船であるとわかった。傑の頭によぎったのは横にいる沙良との思い出の船だと察していた。

 しかし、あり得ない。

 二人の思い出の船は沈んだはずだった。そう、五年前に……
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