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三章

七節 徳村芽衣の救出

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 ――ギャギャギャ、キィィィッ――!

 甲高い音がして、同時に覆いかぶさっていた重さが、ふっと弱まった。
 有川の戸惑ったような声が布越しに聞こえてくる。

「……なんだ?」

「キャッ! ……うっ!」

 続いて、女性のような高い声の悲鳴。どさりと何かが倒れる音がした。

「なっ、なんだ、おまえは! 何のつもり……」

 体の上から完全に他人の体重が退いて、圧迫感から解放される。
 車の外で、激しくもつれ合い暴れているような気配。有川の罵声。
 ドスンバタンと乱闘している様子だが、頭に袋が被せられたままの状態では、はっきりと伺い知ることはできない。

「ぐほっ……」

 聞いてるこちらまで胃袋が裏返りそうな、野太い呻き声がして――それから一瞬、静かになった。

「……! ……んせい!?」

「ん――! ん!」

 すぐそばに人の気配を感じ、芋虫のようにもがく。
 胴のあたりが引っ張られて、車のシートから引きずり出され、上半身を起こして地面に座らせられた。そして、視界を塞いでいた袋が外される。

 ぬっと目の前に現れた大きな影。息をのむ。酸欠で目がチカチカする……。

 わたしの肩を揺すったのは――最後に『会いたい』と思った、その人だった。

「先生、徳村先生! 大丈夫ですか!」

「矢澤さん……」

 その時に思ったことは――まぁ意外にも、他人事みたいに単純なもの。

(あぁ、わたし……助かったんだ――)


 それからの記憶はバラバラで、錯綜している。
 糸が切れたように力が入らなくなってしまい、呼吸もうまくできなくて。このまま酸素不足で気絶するのではと危惧したほどだ。

 わたしを攫った連中は、通報で駆け付けたパトカーの方へ警察官によって引きずっていかれ、今度は彼らが車中に押し込められる番だった。

 「とっとと歩け」と有川の首根っこを摘み上げているのは、いつだったか矢澤氏と立ち話をしていたパンチパーマの男だ。今日も柄シャツによれよれの安物ジャケットを着ている彼が、実は刑事だと聞いて、目を丸くする。

 続いて有川の協力者も引っ立てられ、俯き加減に歩いてゆく。
 先ほど矢澤氏によって気絶させられ、意識を戻されてから連行されたその人物は――。

「……朋美……」

 小柄な男だろうと思っていたのだが、フードを脱いだその顔は、思いもかけぬ人物……。

 パトカーに乗せられる直前にこちらを一瞥した旧友の落ちくぼんだ目は、まるで「おまえになんか興味がない」と言わんばかりに、暗く淀んでいた。

   *  *  *
 
「恭さん、自分らあっちのパトで先に本署まで行ってますんで。落ち着いたら連絡ください。あと……ヘイこれ、そちらのお嬢さんに」

「おう。気がきくな、ヤス。先生、温かいコーヒーです。飲めますか」

 矢澤氏は、パンチパーマから渡された缶コーヒーを、こちらに差し出した。
 受け取ったもののプルトップを開ける気力はなかったが、手に伝わる熱が温かく気持ちよくて、両手でそっと包み込んだ。

 彼は自分の上着を脱いでわたしの膝にかけて、いつの間にか手放してしまっていた鞄を、そばに寄せてくれた。

 矢澤氏が運転してきたとおぼしき大型のバン。
 広めにとった後部座席に座らせられたわたしは、ようやく少しぬるくなった缶コーヒーを開けて、一口いただいたあとに、事件の顛末を聞くこととなった。


 有川は結婚詐欺師で、愛人の朋美と組んで詐欺を繰り返していたが、下手をうって暴力団に目をつけられ、上納金を要求されていたらしい。

 それをごまかそうとしたのも裏目に出て組を怒らせ、手持ちの金を根こそぎ巻き上げられ、命まで脅かされることとなったため、急遽海外への逃亡を企てていた。

 警察もその情報を掴んでいて、近いうちに何か事を起こすと見て、有川を追っていたのだという。

「矢澤さんも、元刑事さんだったんですか……?」

「はい。悠馬を引き取ると決めた時に、辞職したんですが」

 有川がこの街に潜んでいると掴んだパンチパーマのヤスさんは、元刑事で先輩でもあった矢澤氏にも手配写真を渡し、協力を頼んだ。

 矢澤氏は写真を持ち帰り、壁に貼っておいたのだが、それを見たのが、今日COCORONから帰宅した悠馬だ。

『恭ちゃん。この写真のやつ、オレ、今日見たと思う』

『……どこで』

『今日、徳村センセーに会いにきてた。センセー、困ってる感じだった』

 ――それでわたしを探してくれたのか。命が助かったのは悠馬のおかげだ。

「でも、どうして、この場所が……?」

 矢澤氏は私の鞄を手にとった。

「先生、鞄を開けさせてもらっても大丈夫ですか」

「え? は、はい……」

 矢澤氏は鞄の口を開くと、そっと中を確かめて、何かを取り出した。
 悠馬がお守りだといった、黒猫のマスコットだった。

「実は……こいつの中にはGPS発信機が入ってるんです。また悠馬が家出をしたり、万が一、母親に無理やり連れていかれた時のために、お守りとして持たせたもので……」

「GPS……」

 矢澤氏は頷いた。

「児童館からの帰り道、悠馬の手提げ袋にこいつがないことに気づきまして。どうしたのか聞いたら、先生に貸したと。いくらなんでも女性に発信機入りのぬいぐるみを持たせるのはちょっと……。明日すぐに回収させていただこうと思っていたんですが、まさかこんな形で役に立つとは」

 なんと!
 何もかも、悠馬さまさまではないか。

 重なる偶然と奇跡に恵まれ、わたしは助かった。人の「縁」が、わたしを助けてくれたのだ。
 矢澤氏はそこで大きく息を吸ったと思うと、唸り声のようにも聞こえる、深いため息をついた。

「本当に……先生が無事で良かった……。大丈夫であれば、出発しましょう。きついでしょうが、事情聴取は受けないと……。自分が、警察署に送っていきます」

「はい、お願いしま……う……」

 どうしてか、突然言葉が出なくなって。
 堰をきったように、涙が溢れだしていた。

「先生、どうしました? どこか痛いところでも……」

 違うんです、と伝えたかったが、言葉にならなかった。ショートしていた回路が今、ようやく繋がったのだ。感情が流れはじめ、体の中で急激に荒れ狂う。

 ――モテ期だタイミングだと浮かれていた自分。
 すべてが恥ずかしい。

 若さもない、お金もない、卑屈で可愛げもない。とんだピエロじゃないか。事情聴取で何を話せるというのか。今すぐ消えてしまいたい。うわーん。わんわん。

 わたしはひたすら泣き続けた。
 喚いたといっても過言ではないかもしれない。鼻水が垂れてきた。もうどうでもいい。これがわたしなのだ。

 矢澤氏は、誘拐されて味わった恐ろしさから、わたしが思いだし泣きをしていると思ったのだろう。

「先生……もう、大丈夫です」

 遠慮がちに逞しい腕を伸ばし、頭を撫でてくれた。大きな手の平。
 それがとても心地よくて、余計に心は弱くなり――わたしは壊れたように、号泣し続けたのだった。
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