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三章

六節 徳村芽衣の危機

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「お金、おろせるよね。クレジットカード、いつも持ち歩いてたもんね」

 有川から問いかけられても、何も返せなかった。
 喉がひりついて、今にも塞がりそうだ。
 自分が恐ろしい状況に追い込まれていることは理解していて、全身が冷えて強張っている。

 背後にいた有川の協力者に腕を掴まれ、車の後部座席に押し込まれるように乗せられた。続いて相手も一緒に乗り込んでくる。乱暴に扉が閉められて――。
 同時に有川は運転席につくと、手早く車を発進させた。

 ジャンパーのフードを深く被り、サングラスとマスクで顔を隠した人物は、わたしの監視役のようだ。
 有川より小柄で威圧感はないが、その手は油断なく折りたたみ式のナイフを構え、切っ先はわたしの脇腹に突きつけられている。

 カーステレオからロックな音楽が流れだした。まるで普通のドライブみたいに。
 現実感が曖昧になり、強い酒で酩酊したかのような眩暈を覚える。
 昨日までとはうって変わり、随分と下品になった喋り方で、有川が口を開いた。

「っとに、アンタ、俺が相手した中で過去最大級のハズレだったわ。黙って金出しておけばいいのによ。こっちは無駄な時間かけるほど暇じゃねえっつうの」

「ぜ……全部、お金目当て、だったの……?」

 やっとのことで、震える声を絞り出す。有川は笑った。

「当たり前のこと聞くなよ。おまえみたいなブスに、男が声かけるかって。自分のことわかってる? 鏡みたことある? 婚活会場でさ、浮いてたよ~。いるよね、女としては最低ランクなのにプライドだけは高くて、お姫様願望をこじらせてる残念なオバサン」

 すっと血の気が引く。目の前がクラクラした。
 ――何を、言ってるの? 言葉のひとつも、理解できない。

「俺さ、今までわりと失敗はなかったのよ。いい物件っしょ? 紳士だしイケメンだし。大抵の女は必死になって、金を貢いでくれるわけ。それなのに、あんたときたら、最後までドケチの鉄女。結婚するまでは清い関係で? 結婚資金も溜めてないだぁ? ばっかじゃねぇの。腹立つから、ただじゃ済ませてやらねぇわ」

 ひゅっと息を吸い込んだけれど、吸っても吸っても、酸素が肺に入っていかない。
 身じろぎをしただけで、「少しでもおかしな真似を見せたら、縛ってトランクにぶちこむぞ」と脅されて。
 考えたくないのにどんどん悲惨で残酷な状況を想像してしまい、恐怖心が風船のように膨れ上がる。全身の震えをおさえることはできなかった。

 車が信号に合わせて止まり、また走り出す。
 そのうち高速道路に入ったのか、停車することがなくなった。

 どこへ向かっているのか、見当もつかない。普段、車を運転しないわたしには、流れる景色から現在地を読み取るようなことはできないのだ。

「お、お金なら、渡すから……家に、帰してよ」

「ん? どうすっかなぁ~。額にもよるかもなぁ」

「こ、こんなことして、警察に……」

 ぶはっと吹きだす有川。
 ひとつひとつの挙動に、こちらはびくりと震えてしまう。

「捕まらないよ。そもそも有川光一って名前は偽名だし、職業も何もかも嘘だしな。この名前、気に入ってたんだけど潮時だなぁ。あんたみたいな女を騙して、楽しくやってたんだけど、変に顔と名前が知れちまった。ショバ代払えとかケチつけてくる奴らもいるし……」

 ハイエナどもが、と吐き捨てる声はひどく汚い。
 目の前の男は、引いてしまうほどに別人だった。

「狩り場を変えないとならない。整形もしたいしな」

 揺れる視線が車のダッシュボードをとらえて、いつだったか有川の名刺を拾ったことを思い出した。
 そこには知っているものとは別の職業が書かれていて、「おや?」と思ったが、それだけで有川の裏の顔などわかるはずもない。

「さっきの時点でお金渡してくれてればさ。ドロンと消えて、穏便に済んでたのにな~。残念だね」

「そんな……」

 何も気づかず、まとまったお金を渡していたら、こんな暴挙に出ずに黙って行方をくらましてくれていたのだろうか。
 今となってはわからない。相手は詐欺師の犯罪者だ。

 高速を下り、しばらく走らせたところで、有川が車を停車させた。

「はい、着いた。――降りろ」

 隣から、ナイフをちらつかされ、急かされる。
 一層の危機感が、身体を貫いた。


 目の前にはさびれたATM。周囲には無駄にだだっ広いロータリーと電話ボックス、泥で汚れた自動販売機。その他には荒れた野原しか表現できるものがない。

 さっき目にした車載のデジタル時計は、日付をまたいでいた。
 この時間、こんな場所に人っ子一人いるはずもなく、車の一台も通る気配はない。ATMにつきものの防犯カメラなどは、ないのだろうか。警備会社がリアルタイムで見ていて、駆けつけてくれたりはしないのだろうか――。

 後ろから監視されながら、貯金を全額引き出すように指示された。

 狭い出口を塞がれ、ふたりに囲まれていては言われるがままにするしかない。震える手でお金を引き出し、ATMの外へ出た。するとすぐに有川が札束をむしり取るように奪う。

「ちっ、これだけかよ」

 一緒に出してくるように言われた明細書で残額を確認すると、有川は盛大に舌打ちをした。

「車に戻れ。もたもたすんな」

 彼らは、「クレジットカードで限度額まで……」「足がつかないように」などと小声で相談を交わしている。

 逃げなければ。どうしたらいい? 身を隠す場所もないこんな場所で、走って逃げても追いつかれてしまう。
 考えがまとまらないうち、小柄な方の持つナイフにまた追いやられて、仕方なく車の後部座席へと歩み寄った。

 入れと言われて身をかがめた途端、シートに突き飛ばされる。手をついて体を起こしたら、何かの袋を頭から被せられ、視界を塞がれた。

「――っ! ――っ!?」

 身をよじって暴れたが、上半身を紐のようなもので巻き取られ、身動きができなくなる。

『誰か、助けて!』

 わかっていた。素直にお金を渡したところで、顔を見てしまっているわたしを無事に解放するはずがないのだ。

 ここで殺されてしまうのか。それとも監禁されて、死ぬよりも恐ろしい目にあわされるのか。頭の中がぐちゃぐちゃで思考が働かない。

(お母さん……!)

 ただ赤子のように泣き叫ぶことしかできない。

 くぐもった世界の中で、男たちが笑う声が聞こえた。両ひざのあたりも締め付けられ、動かせない。

 このまま死んでしまうのなら、もっと母に孝行すべきだった。こんな娘でも、殺されたらショックを受けるだろう。

 塾長や同僚は、事件とわかれば驚いて、少しは悲しんでくれるだろうか。

 脳裏に矢澤親子の姿が浮かんだ。
 最近少し、身近に感じられるようになったふたり。
 生意気でむかつくだけだった悠馬は、最近センセーセンセーと話しかけてくれるので、とてつもなく可愛く思えてきていた。母親の育児放棄で恵まれているとはいえない境遇だが、どうか健やかに育ってほしい。

 そして――強面のモンスターだと思っていた矢澤氏。不器用だけど手先は器用で。お迎えに現れると、なぜだか気分が高揚して、知らず笑顔になれた。
 いただいたぬいぐるみは温かみがあって、可愛くて――。

 つまらないと思っていた毎日。だけど生きていたい。本当は生きていたいのだ。

(助けて! 助けて! 死にたくない!)

 壊れたように声にならない声を上げ続ける。
 頭の中では激しく赤ランプが点灯していて、支離滅裂。

 果たして自分が声を出せているのか、意識を保っている状態なのか、最後には何がなんだか――すべてがわからなくなった。
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