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三章

五節 徳村芽衣の不安(2)

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 早いもので九月も終わりかけていたが、まだ暑い日が続いていた。
 今年は台風が多く、天候が不安定で、気分がめいる。
 ――そんな中、困ったことが起きた。

 結婚式と新居のために、有川氏が用意してくれることになっていた資金だが、有川氏の母親の病状が悪化したため、手術をすることになったという。

 手術には相当の金額がかかるため、もし可能であれば結婚用にかかる費用の大部分をわたしの方で立て替えてほしいというのだ。

 正直、わたしの方もお金に余裕があるわけではなかった。
 東京再進出のために貯めていた貯金二百万ほどに、母がお祝いに出してくれると言った三百万。それでギリギリだ。全額なんて不可能である。

 マンションの購入は見送ろうと伝えると、有川氏は不機嫌になった。それなら式場の仮予約だけ入れようということになったのだが――。

 つまずいた感は否めない。白布に垂らした墨のように、モヤモヤが広がっていく。

 式場を見学して利便性や特典、費用なども勘案し、ウェディング設備のある会館に決めたばかりだった。有川氏の友人が手配してくれれば二割ほど安くなるとのこと。

 お金は有川氏がまとめて友人に渡すというので、現金を取りに来るというが、わたしは返事を濁した。
 そんな急には現金を用意できないし、振り込むにしろ現金払いにしろ、そういうことは一緒に行動すべきだと思う。
 彼は、母親の手術が近いので、焦っているとかなんとか言っていたが……。

「芽衣ちゃん。ちょっとちょっと」

 今日は会うのは無理だと断ったにも関わらず、児童館の前に車で乗り付けた有川氏の姿を見て、わたしは絶句した。
 周囲の目を気にしながら、車へと駆け寄る。

「光一さん……困ります。まだ仕事中なのに」

「ゴメン。それが色々と問題が出てきて……式場との間に入ってくれてる友達から連絡があって、キャンセル待ちが他にも控えてるから、押さえるなら早くしてくれって言ってきたんだよ。だから早めにお金を用意してくれないと」

「そんなこと言われても……」

「とにかく急ぐみたいでさ。明日、もしくは今週末でもいいから、何とかならない?」

「……お金は急には用意できないって言いましたよね。もう帰ってください、仕事中ですから」

「子どもと遊んでるだけの仕事でしょ? 少しくらいいいじゃない」

 腕を掴まれた。肌が粟立つ。一体、どうしたというのだろう。
 振り払いたかったが、思いのほか彼の力は強く、解けない。追い詰められたハリネズミのように、体が強ばった。

「先生、どうしたの」

 振り返ると、悠馬が立っていた。児童館の外に出てきてしまったらしい。

 有川氏は愛想笑いを浮かべた。

「なんでもないよ、お兄さんは先生のお友達だから」

「帰ってって先生言ってたじゃん」

 じとっとした目で、負けじと相手を見つめている悠馬。
 有川氏は、わたしの腕を掴んでいた手を放し、困ったように頭を掻いた。

「いや、困ったなぁ……わかったよ、また改める。とにかく、さっきの話、考えておいて。よろしくね!」

 有川氏はそそくさと車に戻り、去っていった。

 なんだろう、この状況は。なんだろう、この嫌な気持ちは。
 幸せルートに乗っていたはずなのに、急に足場がなくなったような気がして、無性に泣きたくなる。

「先生。大丈夫?」

「あ……、平気だよ。ありがとう。ごめんね」

 心配そうに見上げる悠馬の顔は、今まで見たことのない表情だった。さすがは男の子。ヒーローらしき一面を、持っているんだな。


 館内に戻り、机で残務処理をしていると、悠馬が自分のサブバッグを抱えてやってきた。

「先生、これ。今の俺のマブダチ」

 机の上にコトリと置かれたぬいぐるみ。毛糸でできた黒猫だ。

「うわぁ可愛い。矢澤さんの新作?」

「そう、恭ちゃんが作ってくれたお守り。危ないことがあったら守ってくれるって」

「そう、いいわねぇ」

「貸してあげる」

 悠馬はずいっと黒猫を差し出し、わたしの手にぐいぐいと押し付けた。

「それは、悠馬くんのためのものだから、あなたが持っていないと……」

「先生、元気なさそうだから。しばらく貸してあげる」

 気を使ってくれている。いい年して、子どもにまで心配されて。

「そっか……じゃあ今日だけ、この子に話し相手になってもらおうかな」

「ん!」

 悠馬は満足したように頷くと、部屋から駆け出ていった。

 黒猫の狭い額を、指で撫でた。うちにあるマスコットよりも一回り大きくて、作りがしっかりしている。きっと想いを込めて編んだのだろう。

 知らずため息をつく。頭も身体も、妙に重かった。
 やっぱり気乗りのしない状況で、結婚なんて大きな話を進めるべきじゃなかったのだ。今日の仕事が終わったら、今回は見送らせてほしいと有川氏に連絡しよう。

 別れるわけじゃない。式は延期すればいいのだ。光一さんは母親のために式を急いでいたから、怒るかもしれない。破談になるなら、それでもいい。うちの母だってガッカリはすると思うが、話せばきっとわかってくれる。

   *  *  *
 
 早番の仕事を終え、急いで家に帰ろうと意気込んでいた。

 わたしが、この町をド田舎で嫌だなと思う理由のひとつ――職場から家までの道中には、人通りの少ない不気味なガード下を通らねばならないポイントがある。

 数メートルの距離にすぎないが、トンネル状になっていて、薄暗くて常にひんやりしている。ちょうど、その場所に差し掛かった時――。

 一台の車がスッと横を追い越したと思ったら、前方で停車した。
 背筋がチリッと引きつる感覚。

「芽衣ちゃん」

 運転席から顔を出したのは有川氏だった。

「送っていくよ」

 普通なら笑顔で駆け寄るべきなのだろうが、頭の中いっぱいに警鐘が鳴ってやまない。

「いえ……近いですから」

「そう言わずに。話があるから」

 その場で立ち止まったまま、どう答えようかと迷っていると、いつの間にか背後にもう一人、別の人物が立っていることに気がついた。

 背中にピタリと、硬い何かが当てられている。

 前方の有川氏が、唇の端をあげ、言った。

「芽衣ちゃん。車に乗ろうね」
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