上 下
10 / 21
二章

四節 徳村芽衣は憂う

しおりを挟む
 笹の葉が揺れる。

 児童館に飾ってある大きな笹が、カサカサと渇いた音を立てていた。
 枝を彩る色とりどりの短冊。子どもたちが書いた、七夕の願い事。

『やさしいお母さんとお父さんがほしい』

 悠馬が書いたそれを見て、思わず目頭が熱くなったが、今は仕事中だ。あと三十分もすれば小学校の授業が終わり、子どもたちが通塾してくる。
 このところ胸のあたりがどうにも息苦しい。みぞおちに石を抱えているかのような圧迫感だ。

 先日の土曜日、わたしは模造紙を買いがてら、矢澤家の様子を確かめようと突撃訪問を試みた。
 結果、悠馬は母親とは一緒に暮らしておらず、伯父である矢澤恭介氏が、彼を預かって育てていることがわかった。

 以前、児童館に車で乗りつけた派手な女性が悠馬の実の母親で、そして矢澤氏の実妹にあたる人らしい。
 女性が現れたときの様子を報告すると、矢澤氏は目に見えて肩を落としていた。

「あいつは、母親になるべき器じゃなかった。それはわかっているんです」

 言葉少なではあったが、矢澤氏は話せる限りのことを話してくれた。もしかしたら、誰かに打ち明けたかったのかもしれない。

 矢澤氏とその妹・佑香さんのご両親は早くに他界しており、生活面でも子育てについても、頼れる存在がいない。そういった環境が、未熟な母親を追い詰めていったのだろうか。
 結果、悠馬はまだ物心つかない頃から、母親から虐待を受けて育つことになってしまった。

 父親が誰なのかもわからずじまいの出産だったとのこと。佑香さんは新しく付き合った男と同居しては別れるを繰り返す。
 佑香さんからの音沙汰がなくなったのを心配して矢澤氏が訪ねて行ったが、その時にはもう、始まっていたのだと。
 小さなあの子が食事を規則的に与えられず、痩せ細り、痣だらけだったと語る矢澤氏の顔は紅潮し、今にも爆発しそうに思えた。

 それから子を母親から引き離し、母親が反省を見せたので子を戻す……といったことを数回繰り返したが、何度注意しても虐待は収まらない。三年ほど前から矢澤氏が悠馬を引き取ったのだという。

 それでも、月一くらいの頻度で佑香さんから面会の申し入れがあり、悠馬も母親に会うことを望むので、断れずにいるらしい。
 悠馬はおそらく佑香さんからお金を持ってくるように言われており、悠馬もそれに応えようとしている。以前から矢澤氏の目を盗み、お年玉などの小遣いや、お店の売り上げまでこっそり持ち出して、母親に渡していたのだと……。

 お金の問題については矢澤氏は何度も佑香さんに話をし、一時は止んで安心していた矢先――児童館で見た光景は、まさにその再発の現場だったといえる。

 けれど、金を持っていかなければ、悠馬は酷い目にあわされるかもしれない。面会を拒否すれば、母親に会えると喜んでいる悠馬を悲しませることになる。
 矢澤氏はただ唸り、頭を抱えていた。

 わたしとしても放っておけず、できる範囲で協力を申し出て、悠馬を見守ることを約束した。思い返すたびに、彼の母親に対する怒りがこみあげ、胸のむかつきが抑えられない。
 駄目な親は、いるのだ。子どもは親を選べないのに、世界は子どもを守ってくれない。法律も親の味方だ。そして多くの場合、被害者である子どもも母親の味方になってしまう……。
 握り込む拳に、力が入った。親の事情など、正直関係ない。義務が果たせないのなら、親にならなければ良かったのに。

『表彰されたことで、ご両親からご褒美を買ってもらえると……。我が家では、そういうことがないものですから、羨ましかったんだと思います』

 悠馬が友達の作品を隠してしまった事件が、ふと思い出された。
 勝気に見える悠馬。カッとすると手が出てしまったり、悪戯好きで人を困らせたり……思えば常に抱えているものがあって、持て余し、周りに当たっていたのかもしれない。

『やさしいお母さんとお父さんがほしい』

 年に一度の願いをこめる短冊なのに子どもにこんなことを書かせて、世の中は本当に狂っている。

   *  *  *

 むしゃくしゃすると、お腹が減るのはなぜだろう。
 無性にやけ食いをしたくなって、職場からの帰り道、近所の肉屋で百円コロッケを大量に買い込んだ。

 台所にいた母に油の染みた茶色の袋を手渡すと、
「あら、満腹屋のコロッケ? 懐かしいわねぇ」
 とご満悦。大皿に並べて食卓に出してくれたので、その日は母娘揃っての晩餐となった。
 一緒の家に住んでいても、同じテーブルにつく機会は少なくなっていたから、こういう団らんは久しぶりだ。

「あんた、中学生の頃、ここのコロッケばかり食べてたわね。一人で二十個食べるとか言ってサ」

「今でも十個はいける。おっちゃんとおばちゃん、まだまだ元気で良かった」

「ほんとねぇ。でもね、あんたがいない間、ご主人が一回倒れて、入院してるのよ。しばらく店閉めててね」

「えっ、ほんと?」

「うん、脳の血管が詰まったとかで……だから、いつ何があるかわからないからって、奥さんが常に一緒に店に出るようにしてるって。二十年以上もたって、昔と同じにはいかないわね」

 途端に、ばくばくと丸のみしていたコロッケが大事に思えて、ゆっくりと奥歯で噛みしめてから飲みこんだ。
 二十年か……正確には、もっと経っている。ふと、記憶の引き出しが開いた。

「……そういえば、中学の頃さ。部活の先輩にイジメられて、わたしが泣いて帰った時、母さん、学校に怒鳴り込んでいったよね」

 あの時は先輩の報復が怖くて、母親に打ち明けたことを後悔したりもした。その時は教師からの注意で先輩がすんなり大人しくなってくれたので、結果オーライで済んだのだが……。

「そりゃあ親だからね。そんなこともあったっけ。帰りにあんた、ぶすったれてて。そん時もコロッケ買って帰ったわね」

 なんだか浦島太郎になったような気分だ。
 目の端にじわりとくる感覚があったが、理由は自分でもよくわからない。
しおりを挟む

処理中です...