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終章 パズル・ピース
2 桜
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しばらく、グローブを両手に抱えたまま、その場から動けずにいて――。
「桜。また来いよ」
夏樹の声で、意識を呼び戻された。
桜はすでに扉の近くに立っていて、冬馬が声をかける前に、廊下に消えていった。
「あー、最後までお父さんって呼んでくれなかった……やっぱり、嫌われてるのかなぁ……」
悲しそうに呟いた夏樹のことは無視して、冬馬は手元のグローブに再び目を落とした。
楓は、半年くらい前に事故にあったと言っていた。奇しくも、自分が試合で骨折した頃と重なる。
母を失ってからの数か月、桜はどんな気持ちで過ごしてきたんだろう――。
先日の事件で、夏樹が死ぬかもしれないと思った瞬間の思いは、言葉では表せない。そこにいて当たり前の存在は、そのままいてくれないと困るのだ。
親子とはいえ、こんな面倒な父親、いらないなんて思ったこともあるけれど――自分がいかに父に頼っているか、初めて心に刻みつけられることになった。
自分がいて、家族がいて、そこにはじめて幸せのようなものがある――そんな気がする。
家族が別れることになり、楓と桜は自分たちから離れた。それでも楓は桜がいたから、桜は楓がいたから、毎日を生きて来られたのだと思う。苦労はしたかもしれないが、幸せだったんじゃないかと思う。楓はそういう人だ。
それなのに、予告もなくライトを落とすかのごとく、楓を失ってしまった桜は――。
「……?」
と、先ほどまで彼女が座っていた丸椅子の横に、バッグが置かれていることに気がついた。
「桜、鞄忘れていった……?」
「え? あぁ本当だ。なにやってるんだ」
追いかけて届けようと、慌てて席を立った。
病院内で少女の姿を探しながら、動線を辿る。エレベーターから降りて、病院のエントランスまで来てから立ち止まる。
――桜の様子、どこか変だった気がする。
あんな、すべてをやりつくしたような、気の抜けた顔をして。
入り口にいた案内役のスタッフに、年恰好の女の子が通らなかったか尋ねたが、見ていないという。
嫌な予感がして、病室のある階へと急いで引き返した。
上階に戻ってきて、廊下を通りかかった看護師に女の子を見なかったかと聞くと、自動販売機のある休憩室のほうで見かけたと教えてくれた。
帰ったわけじゃなかったのか。飲み物を買いにいったのかもしれない。
だが、そこにも彼女の姿はなかった。
廊下の天井に下がっている「非常階段」の看板が、妙に気にかかった。
矢印の方向へ進み、非常時以外は使うなと書かれている、殺風景な金属の扉を押し開けて外に出る。
煽られるような風が吹き込んで――目の先に、外階段の手すりから身を乗り出そうとしている女の子を見つけ、咄嗟に飛びかかった。
背中から抑え込むようにして、強引に引き戻した。
「離して! 離してよ」
「ふざけんなっ! なにやってんだ!」
倒れ込み、床に転がる。腕を振り払い、ふさいだ彼女は、すぐに我に返ったのか、わっと火が付いたように泣きだした。
「母さんのところに、私も行きたい……」
「そんなこと、言うな……」
かける言葉が他に見つからない。
自殺なんて母さんは望んでないとか? ばかなことをするなとか? どれも上っ面だ。
「死ぬなよ……ほんとうに、やめてくれ……」
「だって、ひとりになっちゃった……ひとりぼっちになっちゃった」
心が抉られていく。
だけどすでに抉られ尽くして、穴が開いているのは桜のほうだ。
ひとりじゃない。いつだって家族に戻れる。父さんだって、反対するわけない。
そう伝えたかった。
だけど、桜が望んでいるのはそういうことではないことも、わかっていた。
いくら望んでも、願っても――母さんは戻ってこないのだ。
*
落ち着いてから休憩室に戻って、ふたりで話をした。
自分たちは『家族に戻れないか』――そう尋ねると、桜は頷かずに、噛み砕くようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「お母さんは恨んでなかった。お兄ちゃんのことも、ずっと気にしてて……お父さんのことも好きだった。でも、お父さんは、お母さんを幸せにしてくれなかった。大嫌い。私は、絶対に許さない……」
それ以上、追うことはできなかった。なにが正解かわからない。
ごめんと言ったら少しは気が晴れるのだろうか。夏樹に土下座させて謝らせたら、傷が癒えるのだろうか。
夏樹のせいだけじゃない。自分の愚かさも呪っていた。
恵まれた境遇にいながら、母と妹を悪者にして、自分のことばかりで、相手を気にかけもしなかった――頭を床に打ち付けて自分を傷つけたいくらいに、無力だ。
むせび泣きを始めた桜を慰める言葉も思いつかないまま、ただ泣き止むまで、そばに寄り添っていた。
その傷を、少しでも分け合えたらと思いながら――。
「桜。また来いよ」
夏樹の声で、意識を呼び戻された。
桜はすでに扉の近くに立っていて、冬馬が声をかける前に、廊下に消えていった。
「あー、最後までお父さんって呼んでくれなかった……やっぱり、嫌われてるのかなぁ……」
悲しそうに呟いた夏樹のことは無視して、冬馬は手元のグローブに再び目を落とした。
楓は、半年くらい前に事故にあったと言っていた。奇しくも、自分が試合で骨折した頃と重なる。
母を失ってからの数か月、桜はどんな気持ちで過ごしてきたんだろう――。
先日の事件で、夏樹が死ぬかもしれないと思った瞬間の思いは、言葉では表せない。そこにいて当たり前の存在は、そのままいてくれないと困るのだ。
親子とはいえ、こんな面倒な父親、いらないなんて思ったこともあるけれど――自分がいかに父に頼っているか、初めて心に刻みつけられることになった。
自分がいて、家族がいて、そこにはじめて幸せのようなものがある――そんな気がする。
家族が別れることになり、楓と桜は自分たちから離れた。それでも楓は桜がいたから、桜は楓がいたから、毎日を生きて来られたのだと思う。苦労はしたかもしれないが、幸せだったんじゃないかと思う。楓はそういう人だ。
それなのに、予告もなくライトを落とすかのごとく、楓を失ってしまった桜は――。
「……?」
と、先ほどまで彼女が座っていた丸椅子の横に、バッグが置かれていることに気がついた。
「桜、鞄忘れていった……?」
「え? あぁ本当だ。なにやってるんだ」
追いかけて届けようと、慌てて席を立った。
病院内で少女の姿を探しながら、動線を辿る。エレベーターから降りて、病院のエントランスまで来てから立ち止まる。
――桜の様子、どこか変だった気がする。
あんな、すべてをやりつくしたような、気の抜けた顔をして。
入り口にいた案内役のスタッフに、年恰好の女の子が通らなかったか尋ねたが、見ていないという。
嫌な予感がして、病室のある階へと急いで引き返した。
上階に戻ってきて、廊下を通りかかった看護師に女の子を見なかったかと聞くと、自動販売機のある休憩室のほうで見かけたと教えてくれた。
帰ったわけじゃなかったのか。飲み物を買いにいったのかもしれない。
だが、そこにも彼女の姿はなかった。
廊下の天井に下がっている「非常階段」の看板が、妙に気にかかった。
矢印の方向へ進み、非常時以外は使うなと書かれている、殺風景な金属の扉を押し開けて外に出る。
煽られるような風が吹き込んで――目の先に、外階段の手すりから身を乗り出そうとしている女の子を見つけ、咄嗟に飛びかかった。
背中から抑え込むようにして、強引に引き戻した。
「離して! 離してよ」
「ふざけんなっ! なにやってんだ!」
倒れ込み、床に転がる。腕を振り払い、ふさいだ彼女は、すぐに我に返ったのか、わっと火が付いたように泣きだした。
「母さんのところに、私も行きたい……」
「そんなこと、言うな……」
かける言葉が他に見つからない。
自殺なんて母さんは望んでないとか? ばかなことをするなとか? どれも上っ面だ。
「死ぬなよ……ほんとうに、やめてくれ……」
「だって、ひとりになっちゃった……ひとりぼっちになっちゃった」
心が抉られていく。
だけどすでに抉られ尽くして、穴が開いているのは桜のほうだ。
ひとりじゃない。いつだって家族に戻れる。父さんだって、反対するわけない。
そう伝えたかった。
だけど、桜が望んでいるのはそういうことではないことも、わかっていた。
いくら望んでも、願っても――母さんは戻ってこないのだ。
*
落ち着いてから休憩室に戻って、ふたりで話をした。
自分たちは『家族に戻れないか』――そう尋ねると、桜は頷かずに、噛み砕くようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「お母さんは恨んでなかった。お兄ちゃんのことも、ずっと気にしてて……お父さんのことも好きだった。でも、お父さんは、お母さんを幸せにしてくれなかった。大嫌い。私は、絶対に許さない……」
それ以上、追うことはできなかった。なにが正解かわからない。
ごめんと言ったら少しは気が晴れるのだろうか。夏樹に土下座させて謝らせたら、傷が癒えるのだろうか。
夏樹のせいだけじゃない。自分の愚かさも呪っていた。
恵まれた境遇にいながら、母と妹を悪者にして、自分のことばかりで、相手を気にかけもしなかった――頭を床に打ち付けて自分を傷つけたいくらいに、無力だ。
むせび泣きを始めた桜を慰める言葉も思いつかないまま、ただ泣き止むまで、そばに寄り添っていた。
その傷を、少しでも分け合えたらと思いながら――。
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