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三章 再会と、去ったもの、来たるもの
1 香りと引き出し
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正面。斜め右。斜め左からも。
こっちの角度の方が見映えがいい気がする。
洗面所の鏡とにらめっこしながら、冬馬は唸った。
女性につけられて、しつこく言い寄られるのかと思ったら、自意識過剰と言われてしまった。吊り下げた鐘に頭をぶつけたくらいにはショックを受けた。
冬馬の体系は筋肉質の痩せ型だ。野球部にいた頃と比べれば筋肉はだいぶ落ちてしまったが、太らないよう気を付けている。
身長はそこまで高くもないけれど、鼻筋は通っているし、多少目つきが鋭いかもしれないが、顔立ちは整っている方だと思うのだが……。
「……何やってんだ、おまえ」
「あ、おかえり」
夏樹が顔を出した。もう帰ってきたのか。
さきほど風呂を沸かすのにタイマーを入れて、デジタル表示の時刻を確認したときには、まだ八時前くらいだった気がする。普段の夏樹に比べれば、かなり帰宅時間が早い。今日は残業せずに切り上げてきたのだろうか。
「洗面台、使うんだろ。どうぞ」
変なところを見られてしまい、冬馬はそそくさと場を退いた。にやにやしながら、夏樹が袖をまくって進み出る。
「色気づいちゃってまぁ……」
「うるせー、そんなんじゃねぇし」
そういえばストライキ中だったのだが、普通に会話をしてしまったことに冬馬は気付いた。
まぁいいか。いい加減、面倒くさいしと水に流すことにする。
夏樹は、ばしゃばしゃと顔を洗いはじめた。冬馬は洗面所の出入口のところで、少し強めに声をかけた。
「冷蔵庫にあまりものあるけど」
「んー、あとで適当に食べるよ」
「あっそ」
そっけなく返事をしてリビングに戻ることにする。
「あぁ、冬馬」
廊下を進みかけたところで呼び止められ、振り返る。
「あれから変な電話、来てないか?」
夏樹に問われ、首から上だけコクンと頷く。
「今のところない」
いつぞやの異常な連続無言電話は、幸いにも途絶えたようだった。やはり、たまたま運悪く当たってしまっただけなのだろう。
「そうか。他には、何もないか?」
他に何かって……。
夕方あったばかりの、逆ギレ女の顔が、頭をよぎった。
『お母さんのために……あんたに渡さなきゃと思ったけど。やっぱり止めた。あんたなんかに、誰がやるもんか!』
眉を吊り上げ、唇を歪ませて。勝手に押しかけて勝手に怒って、走り去っていった失礼な女。
なんなんだよ。そっちの「お母さん」が何だっていうんだ。
「……いや、特に何も」
「ならいい」
逆ギレ女のことは説明のしようがなかったので、夏樹には言わなかった。長話をするのも面倒くさい。
会話の流れが切れたのを機に、リビングの方へと歩き出す。
手前にある五畳の和室を通り過ぎようとして、足を止めた。普段あまり使っていない部屋だが、換気のために襖は開けてある。
かすかに畳のいい匂いがした。
『やだよぉ、お兄ちゃん!』
――ふと、懐かしい記憶がよぎった。
ほんの数年間だけ家族だった、義母と義妹が使っていた部屋。
この畳の上で、自分より小さい「妹」が、ダンッ、ダンッと地団太を踏んでいた。
『嫌だよぉ! なんで桜とママ、出ていかなきゃいけないの。ここにいたいよ。一緒にいたいよぉ!』
『仕方ないだろ、父さんと母さんは離婚するんだ。家族じゃなくなるんだよ』
『前に家族になるっていったじゃん! なんでまた家族じゃなくなるの。やだ! そんなの、桜はやだ! お兄ちゃんと一緒にいたいよぉ……』
桜はぷっくりとした唇をぐにゃりと曲げて、ぐずっていた。
『僕だってそう言ったよ。けど、僕は連れていけないって言われたんだ……僕は父さんの子どもで、桜は義母さんの子どもだから』
冬馬だって悲しかった。義理とはいえ妹ができて、母ができて、心の底から嬉しかったのだ。
離婚の話を聞いてから毎日毎晩、人知れず枕を涙で濡らしているのを誰が知っているだろう。けれど兄としてのプライドなのか、一歳年下の義妹を前にすると、なだめる側に回ってしまう。
そうして無情にも訪れた別れの日は、桜が寝ている間に楓が抱えて出ていったので、言葉も交わさずにすべてが終わってしまった。
義母と義妹だったふたりは、冬馬にとって他人となった。
桜は負けん気が強くて、よく喧嘩もしたけれど、普段は人懐っこく陽気で、「僕の妹は面白いやつだ」と認めていたのに。
桜、それから義母さん。あれから七年間、一度も会っていない。
元気にしているだろうか。もう顔も思い出せないけれど――。
襖の枠に手をかけた。頭の中の明滅は止まらなかった。
『……あら、冬馬。どうしたの』
喉の奥に、何かが引っかかっている感じがした。
『今さっき桜は寝たところなの。冬馬も今日は一緒に寝る?』
畳に膝をつき、小さい妹に布団をかけてやりながら、こちらに向かって穏やかに微笑みかける、かつての義母の姿。記憶の中で、朧げなものから、はっきりとした姿に形作られていく。
楓義母さん。くっきりとした二重で、大きな瞳。意思の強さを感じさせる、すっきりとした柳眉。よく笑う大きめの口元。顎のライン。
そして、寝ている桜の、泣き黒子。
頭の中で回線が繋がったように、思考が開けた。
今日、会った少女。楓義母さんに、そっくりだったじゃないか。
こっちの角度の方が見映えがいい気がする。
洗面所の鏡とにらめっこしながら、冬馬は唸った。
女性につけられて、しつこく言い寄られるのかと思ったら、自意識過剰と言われてしまった。吊り下げた鐘に頭をぶつけたくらいにはショックを受けた。
冬馬の体系は筋肉質の痩せ型だ。野球部にいた頃と比べれば筋肉はだいぶ落ちてしまったが、太らないよう気を付けている。
身長はそこまで高くもないけれど、鼻筋は通っているし、多少目つきが鋭いかもしれないが、顔立ちは整っている方だと思うのだが……。
「……何やってんだ、おまえ」
「あ、おかえり」
夏樹が顔を出した。もう帰ってきたのか。
さきほど風呂を沸かすのにタイマーを入れて、デジタル表示の時刻を確認したときには、まだ八時前くらいだった気がする。普段の夏樹に比べれば、かなり帰宅時間が早い。今日は残業せずに切り上げてきたのだろうか。
「洗面台、使うんだろ。どうぞ」
変なところを見られてしまい、冬馬はそそくさと場を退いた。にやにやしながら、夏樹が袖をまくって進み出る。
「色気づいちゃってまぁ……」
「うるせー、そんなんじゃねぇし」
そういえばストライキ中だったのだが、普通に会話をしてしまったことに冬馬は気付いた。
まぁいいか。いい加減、面倒くさいしと水に流すことにする。
夏樹は、ばしゃばしゃと顔を洗いはじめた。冬馬は洗面所の出入口のところで、少し強めに声をかけた。
「冷蔵庫にあまりものあるけど」
「んー、あとで適当に食べるよ」
「あっそ」
そっけなく返事をしてリビングに戻ることにする。
「あぁ、冬馬」
廊下を進みかけたところで呼び止められ、振り返る。
「あれから変な電話、来てないか?」
夏樹に問われ、首から上だけコクンと頷く。
「今のところない」
いつぞやの異常な連続無言電話は、幸いにも途絶えたようだった。やはり、たまたま運悪く当たってしまっただけなのだろう。
「そうか。他には、何もないか?」
他に何かって……。
夕方あったばかりの、逆ギレ女の顔が、頭をよぎった。
『お母さんのために……あんたに渡さなきゃと思ったけど。やっぱり止めた。あんたなんかに、誰がやるもんか!』
眉を吊り上げ、唇を歪ませて。勝手に押しかけて勝手に怒って、走り去っていった失礼な女。
なんなんだよ。そっちの「お母さん」が何だっていうんだ。
「……いや、特に何も」
「ならいい」
逆ギレ女のことは説明のしようがなかったので、夏樹には言わなかった。長話をするのも面倒くさい。
会話の流れが切れたのを機に、リビングの方へと歩き出す。
手前にある五畳の和室を通り過ぎようとして、足を止めた。普段あまり使っていない部屋だが、換気のために襖は開けてある。
かすかに畳のいい匂いがした。
『やだよぉ、お兄ちゃん!』
――ふと、懐かしい記憶がよぎった。
ほんの数年間だけ家族だった、義母と義妹が使っていた部屋。
この畳の上で、自分より小さい「妹」が、ダンッ、ダンッと地団太を踏んでいた。
『嫌だよぉ! なんで桜とママ、出ていかなきゃいけないの。ここにいたいよ。一緒にいたいよぉ!』
『仕方ないだろ、父さんと母さんは離婚するんだ。家族じゃなくなるんだよ』
『前に家族になるっていったじゃん! なんでまた家族じゃなくなるの。やだ! そんなの、桜はやだ! お兄ちゃんと一緒にいたいよぉ……』
桜はぷっくりとした唇をぐにゃりと曲げて、ぐずっていた。
『僕だってそう言ったよ。けど、僕は連れていけないって言われたんだ……僕は父さんの子どもで、桜は義母さんの子どもだから』
冬馬だって悲しかった。義理とはいえ妹ができて、母ができて、心の底から嬉しかったのだ。
離婚の話を聞いてから毎日毎晩、人知れず枕を涙で濡らしているのを誰が知っているだろう。けれど兄としてのプライドなのか、一歳年下の義妹を前にすると、なだめる側に回ってしまう。
そうして無情にも訪れた別れの日は、桜が寝ている間に楓が抱えて出ていったので、言葉も交わさずにすべてが終わってしまった。
義母と義妹だったふたりは、冬馬にとって他人となった。
桜は負けん気が強くて、よく喧嘩もしたけれど、普段は人懐っこく陽気で、「僕の妹は面白いやつだ」と認めていたのに。
桜、それから義母さん。あれから七年間、一度も会っていない。
元気にしているだろうか。もう顔も思い出せないけれど――。
襖の枠に手をかけた。頭の中の明滅は止まらなかった。
『……あら、冬馬。どうしたの』
喉の奥に、何かが引っかかっている感じがした。
『今さっき桜は寝たところなの。冬馬も今日は一緒に寝る?』
畳に膝をつき、小さい妹に布団をかけてやりながら、こちらに向かって穏やかに微笑みかける、かつての義母の姿。記憶の中で、朧げなものから、はっきりとした姿に形作られていく。
楓義母さん。くっきりとした二重で、大きな瞳。意思の強さを感じさせる、すっきりとした柳眉。よく笑う大きめの口元。顎のライン。
そして、寝ている桜の、泣き黒子。
頭の中で回線が繋がったように、思考が開けた。
今日、会った少女。楓義母さんに、そっくりだったじゃないか。
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