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第十話
王妃様が案内するヴィンセント城ダンジョン9
しおりを挟むヴィンセントの王宮に一泊した後、マチアスはヴォルフ帝国へと帰っていった。
アシェラの教育的指導のせいで腫れた尻では、馬車の長旅はさぞ辛かろう。
見兼ねたソマリが、前日剥ぎ取った彼の晴れ着を返すついでに、真ん中に穴の空いたクッションを進呈していた。
そんなマチアスを見送ったウルとマイリはというと……
「──ぬっ、こしゃくな。エサだけ食われたぞ」
「上げろ上げろ。新しいのを付けてやる」
池の縁に仲良く並んで腰掛け、釣り糸を垂らしていた。
前日、マチアスが三階宰相執務室のバルコニーよりドボンした、あの池である。
国王執務室で足止めされている合間に期限がずっと先の書類まで処理したため、ウルはこの日休みをとることにしたのだ。
その休みを、彼がマイリのために使うのは自然な流れだった。
池には、主にサケ科の魚が多く生息している。
剥き出しの釣り針が去るのを待っていたかのように、銀色の鱗がキラリと光った。
ウルは自分の竿を台に立てかけ、マイリの釣り針に新たな生き餌を引っ掛けてやる。
生き餌用の容器の中では、小さなワームがくねくねと身を捩らせていた。
マイリはウルの脇腹にしがみつき、それから目を逸らす。
「ウル、こわい」
「へえ、意外だな。お前にも怖いものがあるとは思わなかった」
「ウルのじーじのかわゆい小鳥をやっとる時代は、そいつが主食じゃったがな」
「待って、どういうこと?」
ウルが解せぬという顔をしつつもワームを付けた釣り針を池に投げ込んでやると、マイリは再び釣竿を両手に持って彼の隣に並んだ。
ぱしゃ、ぱしゃ、と遠くの方で連続して魚が跳ねる。
波紋が幾重にも広がる水面を見つめ、そういえば、とウルが口を開いた。
「結局のところ、ここはドラゴンが実在する世界線なのか?」
「さて。今はもう、この池にもヴォンセントにもおらんと思うがな」
「どこへいったって言うんだよ」
「知らん。あれは北の生まれじゃからな。故郷に戻ったんじゃないか」
王宮の玄関の方から、籐のバスケットを抱えたケットが足取りも軽く歩いてくるのが見える。
今日は国王執務室が閉まっているため、その守衛である彼も必然的に休みになったのだ。
ぱしゃん、と今度は近くの方でも魚が跳ねる。
にもかかわらず、ウルもマイリも今日はまだ一匹も釣れていなかった。
ぴくりともしない自分の釣り糸にため息をつきつつ、ウルはなおもマイリに話を振る。
「ヴォルフにも、ヴィンセントにとってのお前のような存在がいるんだろうな」
「おるな。わらわの一番上の兄、大兄者じゃ。この世の天主たる父上と並ぶ偉大なる存在じゃぞ」
「へえ……さすがは大国ヴォルフといったところか。さながら、お前の長兄殿は大地主だな」
「なに、恐るるにたらぬぞ。大兄者も、父上に引けを取らぬほどわらわに目がないからな。わらわのもとにある限り、ヴィンセントが大兄者に脅かされることなどありえぬ」
なんとも心強い断言に、ヴィンセント国王は今度は安堵のため息を吐いた。
まったくもって、マイリ様様である。
ケットがもうすぐそこまで来ているのを目の端に捉えつつ、ウルは続けて尋ねた。
「それで? 結局は、ドラゴンがその大兄者様なのか?」
すると、何を馬鹿なことをとでも言いたげな顔で彼を見上げ、マイリが首を横に振る。
「ドラゴンはドラゴンじゃろう。あれは、単にでっかいトカゲじゃ。まあ、顔はこわいがな」
「陛下、なぜ今、私の顔をご覧になったのです?」
「別に」
ウル的にはこわい……というか鬼畜面、マイリに言わせればかわゆいケットが持ってきたバスケットには、ヴォルフ土産のベリーをたっぷりと練り込んで焼いたケーキが入っていた。侍女頭からの差し入れらしい。
しかし、ウルがさっきワームを釣り針に付けた手でそれを掴もうとしたところ、マイリにこの世の終わりのような顔をされてしまった。
仕方なく引っ込んだ彼の手に代わって、ちっちゃくてふくふくの手がベリーケーキを口に運んでくれる。
「ちっ、陛下は妃殿下に愛されていますね」
「おい、舌打ちすんな。せめて、取り繕え?」
弱冠五歳のかわゆい王妃にあーんをしてもらう国王に毒を吐き付けると、ケットは少し離れた場所にあるテーブルにお茶を淹れにいった。
彼は、釣りには興味がないようだ。
相変わらず魚が食いつく様子のない糸の先を見つめつつ、マイリがなんでもない風に言った。
「ドラゴンは、おそらく大兄者の下僕か眷属じゃろうな。前はレベッカにくっついて母上の屋敷に、こたびは大兄者をおいかけてこの城まで来たんじゃろう」
「……ん? 待てよ? 大兄者を追いかけて、とはどういうことだ? 来てたのかよ、大兄者」
「うむ、マチアスと一緒にきて、一緒に帰ったぞ」
「マチアスと一緒にって……まさか!」
ウルの脳裏に、尻を腫らしてしくしくするマチアスを慰めていた人物の姿が浮かび上がる。
ケットに負けず劣らずな面構えをした、あの護衛騎士の姿だ。
見た目に関してだけ言えば、確かに凄まじい貫禄だったが……
「薄茶色の毛なみをして、わふわふ言うておったろ?」
「──そっち? 犬かよ!」
「犬じゃが? やたらとしっぽをフリフリして、わらわになでてほしそうにしておったが、ことごとくスルーしてやったわ」
「いや、撫でてやれよ」
思っていたのと違った。
ウルの脳裏に浮かぶ映像が、強面護衛騎士から茶色い毛並みのわんちゃんに交代する。
絵面的には、とても和んだ。
「そうとは知らず、俺はあの犬の頭をさんざ撫で回してしまったんだが!?」
「何か問題でもあるか? お主の手はこの通り無事なんじゃから、大兄者が気分を損ねておらぬ証拠じゃ」
「そりゃよかった。だがな、場合によっては手を失う危険があるのなら、先に言っておいてくれ」
「うむ、善処する」
ウルは恐れ多くも、人智を超えた存在の頭をなでなでしてしまったらしい。
ただし、そんな偉大なる相手が愛してやまないのが、隣に並んでいるちっちゃいのなのだと思うと、自然と笑いが込み上げてきた。
「その大兄者は結局、何をしにヴィンセントまできたんだ? お前に会いにきたのか?」
「いや、マチアスに付きそうよう、レベッカが望んだのであろう。レベッカは、よほど弟がかわゆいんじゃな」
マイリは微笑みを浮かべ、うんうんと頷く。
「レベッカの気持ちはわかるぞ。わらわも、おねえさんだからな。シトラのためなら、できるうるかぎりのことをしてやりたいと思う」
そのシトラは、母アシェラに尻をしこたま打たれてベソをかくマチアスに大ウケしていた。
以降、彼を見るたびにニコニコしたものだから、マチアスはきっと赤ん坊に気に入られたと思い込んでいることだろう。
いつかおしゃべりができるようになったシトラが、そんな幸せな幻想を容赦無く打ち砕くであろうことは、想像に難くない。
その光景を思い描いて苦笑いを浮かべたウルの口に、マイリがもう一欠片ベリーケーキを押し込んできた。
ベリーの甘酸っぱさとバターの香りが際立つそれは、文句なしに美味い。
侍女頭が平日の昼日中に手ずからケーキを焼くなんて、よほど機嫌がいい証だ。
彼女の機嫌がいい理由に、ウルは心当たりがあった。
「マイリ、侍女頭のマナー授業を受ける気になったそうじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」
王妃教育をサボりにサボりまくっていたマイリが、その講師役である侍女頭の明日からの予定を自ら押さえにいったという話が、ウルの耳にも届いていたのだ。
彼に心境の変化を問われたマイリは、いやに神妙な顔をして言う。
「ウルよ、わらわはうんとかしこくてかわゆい五さいさんじゃし、長く王家にあったためマナーは熟知しておるつもりじゃが……よくよく考えれば、他人の結婚式に出るのはレベッカのものが初めてじゃろう?」
「まあ、そうだな」
池の上をさらりと風が吹いて、水面にさざなみが立った。
そこに垂らされた二本の糸も、ふるふると震える。
そのわずかな振動を竿を握る手のひらに感じつつ、ウルは黙ってマイリの言葉に耳を傾けた。
「せっかくのレベッカの晴れの日に、万が一にもそそうがあってはならぬ。わらわは、レベッカにもうんと幸せになってもらいたいからな」
「ああ」
「そのためには、ここはいさぎよく、侍女頭に教えを請うことにしたんじゃ」
「なるほどな」
マチアスが今回ヴィンセント王国に招待状を持参した、ヴォルフ皇帝とエレメンス国王の結婚式において、マイリはベールガールを務めることが決まっている。
マイリもレベッカも、それを殊更楽しみにしていることをウルは知っていた。
「ヴィンセント国王妃にふさわしき、みごとなレディを演じて見せるゆえ、ウルは大船に乗ったつもりでおるがよいぞ」
「そうかそうか、そりゃ心強いな」
かわゆい得意顔に、ウルの頬も緩む。
と、その時である。
ふいに、ぐんっと強い力で釣り糸が引かれた。
マイリが垂らした方の糸である。
「おお、ウル! なんぞ、かかったぞ!」
「やっとかよ。それじゃ、頑張って釣り上げ……」
ろ、と言いかけた瞬間──隣に並んだちっちゃい体が宙に浮くのを目の当たりにして、ウルはぎょっとする。
魚ではなく、マイリの方が釣り上げられそうになったのだ。
ウルはとっさに自分の竿を放り出し、ちっちゃな身体を抱き止める。
「おいおいおいおい! 待て待て待て待て!?」
「わらわ今、つられるお魚さんの気持ちがわかったぞ」
「いやいやいやいや! いったい何がかかったんだよ!?」
「これは、まごうかたなき大物じゃな。料理長にさばいてもらおう」
ウルはどうにかこうにか、マイリを自分の懐へと確保する。
そうして、彼女のちっちゃな手に代わって竿を握ったのだが……
「……っ、くっ……何なんだ、これは! この池に、さほどでかい魚はいなかったはずだが!?」
「ムニエルがよいか。いや、ここは素材の味を楽しむために、塩焼きで食うべきかの?」
「そもそもこれ、本当に魚か!? 食えるのか!?」
「安心せい、ウル。わらわがちゃあんと小骨をとってやるゆえ」
ウルは腕力も体力も自信はあるが、今回の相手はこれまで経験したことがないほどの引きである。
しかし、自分の懐でわくわくしているマイリを見ると、簡単に諦めるわけにもいかない。
また、鬼畜面の守衛に助けを求めるのもプライドが許さなかった。
「ウル──ヴィンセントの王よ! わらわのために、みごと誉を上げてみせよ!」
「──御意」
かわゆい声援を浴びて、ウルはさらに強く竿を握り直した。
ギチギチと鈍い音を立てて竿の先が大きく撓う。
ウルの手の甲には筋が浮き、噛み締めた奥歯がギチリと音を立てた。
しかし、その顔には好戦的な笑みが浮かんでいる。
「おお! やつめ、上がってきおったぞ! ウル、もう少しだ! がんばれっ!」
マイリの弾んだ声が、ウルにさらなる力を与えた。
このちっちゃくて可愛くて、愛情深い存在に一等愛されるウルは、もはや無敵だ。
軍靴の硬い底で地面に踏ん張り、腰を落とし、徐々に獲物を手繰り寄せていった。
そうしてついに、根負けした相手が水面へと浮かび上がってくる。
ざばっと大きな水飛沫を上げ、それが池から顔を出した、その瞬間──
「……っ!?」
ウルは驚きのあまり、あれほど意地になって掴んでいた釣り竿を手放してしまった。
どう見ても、魚ではなかったのだ。
水面から覗いた顔はびっしりと鱗に覆われ、耳まで大きく裂けた口の中にはぞろりと鋭い牙が並んでいる。
顔の両面に付いた目は鋭く、瞳孔は縦長で針のように細かった。
マイリに言わせれば、怖い顔をしたでっかいトカゲ──
「ドラゴン、か……?」
ヴォルフ帝国のドラゴンは、マイリの予想に反しまだヴィンセントに留まっていたのだろうか。
そいつはウルと目が合ったとたん、きゃっとでも言いたげに慌てて水の中に顔を引っ込めると、釣り竿ごと再び池に潜っていってしまった。
コポコポと、空気の泡が上ってきては水面で弾ける。
それを呆気に取られて見つめていたウルの首筋に、マイリがぎゅっとしがみついてきた。
そうして、いつになく神妙な顔して言う。
「な? こわい顔じゃったろ?」
ヴィンセント国王夫妻が、この怖い顔をしたでっかいトカゲと再び遭遇するのは二ヶ月後──ヴォルフ帝国を訪れた時だった。
『第十話 王妃様が案内するヴィンセント城ダンジョン おわり』
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