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第十話
王妃様が案内するヴィンセント城ダンジョン7
しおりを挟む「──話は聞かせてもらったぞ」
いきなり開いた扉の向こうから聞こえた声に、マチアスは息を呑んだ。
フェルデン公爵家の孫娘と祖父も目を丸くする。
「おお、姫じゃ」
「ええ、姫ですね」
「そうです、姫ですよ──って、ぶふふっ!!」
キリリとした顔で同意しながらも、次の瞬間には耐えきれぬとばかりに吹き出したのは、彼らの父であり息子である男だ。
フェルデン公爵家三世代に姫呼ばわりされた、当人はというと……
「いや、姫じゃねーわ」
うんざりとした顔で全方向に突っ込んだ。
マチアスは、ただぽかんと間抜け面を晒してそんなやりとりを見つめている。
それをじろりと眺めた、姫──いや、第百代ヴィンセント国王ウルは、軍靴を履いた足で宰相執務室に踏み込んだ。
「これ、ウルよ。ノックはどうした。お行儀がわるいぞ」
「その言葉、そっくりそのままお返しするぞ、マイリ」
弱冠五歳の妻と軽口を叩きつつも、ウルの灰色の瞳は燃えるような怒りを湛えてマチアスを凝視している。
ガツンッとさらに一歩、固い靴底が床を叩いた。
旧友の苛烈な眼差しに喉の奥で悲鳴を上げたマチアスは、堪らずソファから腰を浮かせる。
その膝に乗っていたドンロは、降りるどころかぬるりと動いて彼の脇をくぐり、背中に爪を立ててよじ登った。
猫が液体であるとしたら、猫悪魔もまた液体なのである。
その間にも、ウルはずかずかと大股で進む。
「マチアス──お前、いったいどういうつもりだ」
「え、えっと……ウル……」
「処刑されることを望んでいたって、なんなんだ。ふざけるのも大概にしろ」
「それは、その……」
ウルの凄まじい形相に恐れをなしたマチアスは、ついにドンロを背中にへばりつかせたまま逃げ出した。
広い部屋をひとしきり右往左往した後、たまたま掃き出し窓が開け放されていたバルコニーへとまろび出る。
ウルは肩を怒らせてそれを追おうとしたが……
「こっ、来ないで! 来たら、と、とと、飛び降りるからっ……!!」
「──っ、おいっ!」
マチアスが、バルコニーの柵を乗り越えてそう叫んだものだから、立ち止まらざるをえなかった。
ちっ、とウルが鋭く舌打ちをする。
背後では、ソファから立ち上がったマイリとロッツのこんなやりとりが聞こえた。
「これ、父よ。わらわがマチアスを連れてゆくまで、ウルを待たせておけと申したであろう? あやつはまだ、葛藤の最中であったというに」
「ごめんねぇ、マイリちゃん。ウルってばあの通りガサツなお姫様だからさ、待てができないんだよね」
「やれやれ、待てくらい、犬でもできるというになぁ」
「うちの国王陛下は犬以下だねぇ」
散々な言われようである。
いつものことなので、ウルはもはや怒る気にもならなかったが……
「ひ、ひどいじゃないか、ロッツ! ウルだって、犬よりはお利口だよ!」
「いや、お前も大概だな」
柵の向こうのわずかな足場に立ったまま、見当違いにプンプンするマチアスには、盛大なため息を吐いた。
そんな若者達のやりとりを、ソファに座ったフェルデン公爵は紅茶のカップを傾けつつ、まるで余興でも眺めているみたいだ。
エリックはその背後に静かに控えていたが、護衛騎士は扉の脇に立ち尽くしておろおろとしている。
やがて、マイリとロッツが手を繋いでウルの隣に並ぶと、マチアスがキッと目を鋭くした。
「ロッツは……ロッツは、いいよね!」
「はい?」
いきなり矛先を向けられたロッツが、きょとんとした顔を作る。
その目が相変わらず笑っていないことに怯みつつ、マチアスはやけを起こしたみたいに叫んだ。
「私は、ずっとロッツが羨ましかった! 私だって、卒業後もウルと一緒にいたかった! 君みたいにウルと一緒に旅ができたなら、どんなによかったか!」
「だったら、卒業した時にそう言えばよかったんじゃないですか? まさか、ウルから誘ってもらえるのを待っていたとかです? 他力本願にもほどがありません?」
「うっ……、そ、それは……」
「それと、言っときますけどね。ウルに付き合うのも楽じゃなかったんですからね? この人、行く先々で喧嘩して、止めるの大変だったんですからね?」
「うむうむ、そうかそうか。父よ、ウルが世話をかけてすまんかったなぁ」
「ぎゃあん! いいんだよぉ! マイリちゃんが謝ることないよぉ! ウルが全部悪いんだよぉ!!」
ロッツに口論を吹っかけようなどという無謀は、そのちっちゃな愛娘の介入によって早々に終わった。
「ウルと一緒に過ごした王立学校の六年間……私は、本当に幸せだったんだ。ずっと、ウルの側にいたかった……」
ロッツの視線がマイリへと逸れたことで息をしやすくなったマチアスが、改めて口を開く。
ウルは黙って耳を傾けた。
「けれど、ロッツに言われた通りだ。卒業して君達が旅立つ時も、ヴォルフに立ち寄ってくれた時も、誘われるのを待つばかりで、自分から声を上げる勇気が出なかった。そうこうしているうちに、ウルは祖国に戻って、国王になって……その上、ロッツの娘と結婚までしてしまうし」
不本意ながら、と不貞腐れた顔をしてロッツが口を挟む。
彼の反対をよそにマイリを王妃にしたフェルデン公爵は、ちゃっかりエリックにお茶のおかわりをもらっていた。
「ウルの人生が充実していくのを目の当たりにする度に……私は、君の中での自分の順位がどんどん下がっていくように感じたんだ」
柵の手摺りを両手で握りしめて、マチアスが声を震わせる。
その背中に張り付いているドンロのコウモリみたいな羽が、階下から吹き上げる風に煽られてゆらゆらと揺れた。
「いつか、ウルが私を忘れてしまうんじゃないかと思うと──死ぬよりも、恐ろしくなった」
マチアスは結局、王立学校に行く前と何も変われなかった。
卒業して、ウルと離れ離れになったとたん、その人生はまた光が差さなくなってしまったのだ。
少なくとも、彼自身はそう感じていた。
玉座に就いてますます光り輝く姉の陰で、マチアスの心の淀みは増していく。
姉に愛されれば愛されるほど、もうそれを素直に喜べない己への嫌悪に苦しんだ。
そんな中で、姉の夫となるはずだったジルが、エレメンス国王として立たざるを得ない状況に陥る。
初めて姉の人生に影が差したことに、心の片隅で笑っている己に気づいて、マチアスは愕然とした。
ほどなくして、叔父がクーデターを計画していることを知った彼は、姉の邪魔となる不穏分子を一挙に殲滅しようと決意する。その不穏分子には、彼自身も含まれていた。
「私のような不出来な弟でも、最期くらいは姉上の役に立てると思えば誇らしかった。ウルの心に一生住み続けることができるのなら──私はもう、死さえも怖くはなかったんだ」
マチアスは、至極冷静な声でそう言い切った。
虚勢を張っているわけではなく、本心からそう思っているのだろう。
ウルは髪をグシャグシャと片手でかき回すと、一つ大きなため息を吐いてから口を開いた。
「俺に、お前を見捨てる決断をさせて、罪悪感を刻もうとしたとか……そういうのはもう、正直どうでもいい」
「よくない」
「いいんだよ、マイリ。なんたって俺には、こうしてこの心を守ろうとしてくれる味方がいるんだからな。その筆頭がお前だろ?」
「ふん……」
珍しく拗ねたような顔をするマイリに小さく笑って、さっきは自分の髪を乱暴にかき回した手で、彼女のブロンドを優しく撫でる。
なお、同じように不貞腐れた顔をしているその父親はガン無視した。
また一歩、ウルが歩を進める。
ビクリとして顔を強張らせたマチアスに向かい、彼は静かに告げた。
「マチアス──お前が死んだら、俺は悲しい」
「えっ……」
「処刑でなくてもだ。病気でも、事故でも、老衰であったとしても、俺はお前が死んだら悲しい」
「ウル……」
だから、とウルは続ける。
「俺は今、お前と再び会えたことを心から喜ばしいと思っている。なあ、マチアス。お前はどうなんだ」
「わ、私は……」
「生きているから、俺達は再びこうして向かい合えている。言いたいことも言える。間違いを犯したのなら、それを償うことだって、挽回することだってできる。そうだろう?」
「……」
また一歩、もう一歩、とウルが歩を進めた。
マチアスは顔を上げ、縋るような目で彼を見つめる。
そうして、手を伸ばせば届く距離まであともう少しといった頃だった。
「わっ……!」
突如、王宮を揺らすほどの凄まじい風が吹き荒れ、マチアスが小さく悲鳴を上げる。
それを諸に食らったのは、彼の背中に張り付いていたドンロだった。
「あっ、ま、待って……!」
風に煽られた真っ黒い体が、宙へと放り出されてしまう。
それに気づいて背後に身を捩ったマチアスは、とっさに手を伸ばして黒い毛並みを掴んだ。
にもかかわらず、もう片方の手が柵から離れてしまう。
なす術もなく宙へ放り出されるその瞬間──マチアスは渾身の力を振り絞って、ドンロをバルコニーへと投げた。
そうして──
「マチアス!!」
真っ青な顔をして駆け寄ってくるウルの姿を見届け、ぎゅっときつく両目を閉じるのだった。
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