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第九話
王妃様に最も愛されている男5
しおりを挟む「――スコットが魔界に行った時のお話、ですか?」
フェルデン公爵は若かりし頃、魔王の右腕として働いたことがある――その噂についてウルが尋ねたのは、シトラの様子を見にきたフェルデン公爵夫人だった。
すでに迎えの馬車は到着していたが、王城とフェルデン公爵家を何度も行ったり来たりさせられてかわいそうだとマイリが言い出したため、馬達をしばし休ませてからの出発になる。
ケットが甲斐甲斐しく彼らの世話をしているのが、窓から見えていた。
フェルデン公爵夫人は、両目がぱっちり開いたシトラをベッドから抱き上げ優しく揺らしながら、記憶の糸を手繰る。
「あれは……確か、陛下がお生まれになった翌日のことでしたかしら。大聖堂の真ん中に御神木がございますでしょう? あの木の股にコブができましたの」
「……どこかで聞いた話だな」
とたんにウルは、フェルデン公爵や大司祭コリンにくっついて先に王城に戻った、可愛さの欠片もない猫悪魔の姿を思い浮かべる。
彼は、自分の膝の上にちんまりと座ったマイリのブロンドを手慰みに撫でつつ、胡乱な目をして問うた。
「まさか、そのコブに悪魔が入っていただのというのか?」
「そう騒ぎ立てた者もおりましたわ。それが、陛下がお生まれになったせいだ、と王太后様を糾弾したがる者が――当時のワニスファー公爵、ただお一人でしたけれど」
「また、ワニスファー公爵かよ。いい加減、その名前は聞き飽きたぞ」
「うふふ、その頃のワニスファー公爵は、ご自分のお嬢様を王妃にしたくて躍起になっていらっしゃいましたのよ。もちろん、ドンロ様は歯牙にもかけないご様子でしたけれど」
ウルの母は、ヴィンセント王国とデルトア王国との国境付近に領地を持つマーラント伯爵家の娘である。父とはヒンメル王立学校で出会い、大恋愛の末の結婚らしい。
ウルが生まれた当時は先々代の国王も健在で、父は王太子、母は王太子妃という立場にあった。
「お前は、その時のことを知っているか?」
「知らん。わらわはその頃、おぬしのじーじのかわゆい小鳥をやっておったからな。あやつはわらわをあまり外に出したがらなかったゆえ、ドンロの王太子時代の話は何も知らん」
こそこそと問うウルに、マイリは一人前にちっちゃな肩を竦めて見せた。
とにかく、自分よりも爵位が下のマーラント伯爵家が外戚となることに不満を抱いた当時のワニスファー公爵――ソマリの祖父は、ことあるごとにウルの両親の結婚にケチを付けていた。
ある意味、少し前のコリンがマイリに対して行っていたことと同じだが、それよりもずっと質が悪い。
「出産直後の王太后様によからぬ影響が及ぶことを案じて、スコットはそのコブを処分しようとしましたの。ところが、彼が触れようとしたとたんにコブは爆発。その固い破片が頭に当たって……」
当時を思い出したのか、沈痛な面持ちになったフェルデン公爵夫人の話を、その腕の中からウルを見つめてシトラが引き継いだ。
ちなみに、引き続きおっさんの声である。
『そのコブにはな、悪魔ではなく悪意がいっぱいに詰まっておった。そのワニなんとかが、おぬしやおぬしの母を恨み妬む凄まじい憎悪だ。まあ、言うなれば呪いだな。その暴発に巻き込まれて肉体を離れたスコットの魂は、呪いをひっ捕まえて魔界まで連れてきおった。ゆえに、わしがそれを引き取る代わりとしてあやつを働かせたのだ』
つまり、フェルデン公爵が魔界に行ったのは、ある意味ウルやその母のためだったと言える。
この半月ほど前にロッツが生まれており、フェルデン公爵夫人もさぞ気を揉んだことだろう。
申し訳なさを覚えたウルの顎を、すかさず下から伸びてきたちっちゃなふくふくの手があやすように撫でた。
「じょりじょりするのう」
「男の子なもんでな」
「じーじと父は、つんつるてんじゃぞ?」
「安心しろ。あいつらも、心臓はボーボーのフッサフサだ」
そんな国王夫妻のやりとりに表情を和らげたフェルデン公爵夫人が、夫譲りのシトラの黒髪に優しく頬擦りをしながら続ける。
「三日三晩眠り続けて、本当に、本当に、本当に心配しましたけれど……スコットはちゃんと戻って参りましたわ」
『あやつはまったく、憎らしいほど優秀な男でな。たった、半月余りの間に、長年わしの頭を悩ませていた猫又族を和平交渉のテーブルに着かせおった。いやはや、わしとしては手放すには惜しい人材であったが……』
「彼が今も大聖堂への寄付を惜しまないのは、コリンさんや、当時の大司祭様であらせられた彼のお父様が、食を断ち、寝る間も惜しんで、スコットが生還するよう祈りを捧げてくださったからですの」
「うむうむ。じーじは人気者じゃなあ、ばーば」
マイリの言葉に、フェルデン公爵夫人はにっこりと微笑んで、ええと頷いた。
それにしても、彼女が言うにはフェルデン公爵が眠っていたのは三日三晩にもかかわらず、シトラこと魔王の話では半月は魔界で働いていたことになっている。
「どうやら、こちらの世界と魔界では、時間の流れが違うようだな」
「うむ、わらわの父上がおわす天上も、人の世界よりも時が経つのがうんと早いぞ。ところで、わらわは猫又族とやらについてくわしく聞きたい」
「後にしろ」
「うぬぅ……」
ウルとマイリがほっぺをムニムニくっ付け合って、こそこそとそんなことを言い交わしていると、フェルデン公爵夫人もシトラをあやしながら続けた。
「目を覚ました直後、スコットの意識は随分と混濁しておりましたわ。当時の大司祭様に、自分の身に何があったのか分かるかと問われて……その時に、あの人が申しましたの。魔界に行って魔王陛下のもとで働いていた、と」
『愛する妻と、やがて国王として立つ友を案じ――そして、生まれて間もない我が子と友の子を守りたい。そのためには、何を犠牲にしても戻らねばならぬと申しておった』
「まだ生きて、なさねばならぬことがあるから戻ってきた、と。大聖堂は当然のことながら、騒然となりましたわね。当時の大司祭様は口外を禁じましたけれど……人の口に戸は立てられませんもの」
『件のコブが原因でこのまま自分が死ねば、ワニなんとやらがそれを友の妻と子のせいにするだろう、と。それだけは絶対に阻止せねばならん、とも申しておったな』
それを聞いたウルは、ぐっと奥歯を噛み締める。
さっきシトラに対し、自分一人で生まれてきたみたいに思い上がるなと言ったが、それは彼だけに言えることではない。
ウルもまた、一人で生まれてきたわけでも、一人で大人になったわけでも、そして一人でヴィンセント国王となったわけでもない。
両親やフェルデン公爵をはじめ、多くの人々の支えでもって自分は今こうしてここに生きているのだと痛感せずにはいられなかった。
「じーじは、ばーばもドンロも父も――それにウルのことも、うんと愛しておったんじゃなぁ」
そう言って、ちっちゃなふくふくの手がウルの頬をぺちぺちする。
とたんに表情を緩めた若き国王に、フェルデン公爵夫人も優しく目を細めた。
彼女は、赤子の柔い頬にそっと口付ける。
「その後は、スコットが事件について言及したことは一度もございませんが……彼はきっとあの時、何か大きな犠牲を払ったのでございましょう」
「犠牲……公爵は、それを何だと?」
「何かは教えてくれませんでしたわ。ただあの時、顔を合わせるなり私とロッツを抱き締めて、すまない、と。そう言って……たった一度だけ、涙を零しましたのよ」
「……泣いた? ……フェルデン公爵が、か?」
心底驚いたという顔をするウルに、美しい祖母からのキスに満更でもなさそうな顔をしてシトラが続ける。
『スコットをこの世界に戻すには、それに見合う代償を支払う必要があった』
魂が魔界に行く――人間にとってそれはすなわち死を意味する。
フェルデン公爵の場合は、驚異的な精神力のおかげか、魂と肉体の縁が完全に切れていなかったため昏睡で留まっていたが、それでも一度魔界に来てしまった魂を元の状態に戻すのは、いかに魔王といえど簡単なことではなかったらしい。
(だから、代償として孫の魂――マイリの器となっているロッツとアシェラの子の魂を奪ったというのか?)
ウルはそう問い正したかったが、何も知らないフェルデン公爵夫人の前で口に出すのは憚られる。
すると、それを察したらしいシトラが、祖母の腕の中でむずがるように首を振って言った。
『まあ、実際に代償となったのは――わしの右腕であるがな』
「――は?」
思わず素っ頓狂な声を上げたウルに、シトラの声が聞こえていないフェルデン公爵夫人は不思議そうな顔をする。
しかし、ここで家令が女主人に判断を仰ぎにきたため、彼女はシトラをベッドに戻して再び席を外した。
その背中を菫色の瞳で見送りつつ、シトラが続ける。
『父が――ロッツなる人間がその当時に彼女の腹におったならば、これが代償となったであろうな。しかし、すでにこの世界に生まれて出でてしまった存在ではそうはいかぬ』
「ふむ。父は、ウルよりはよう生まれたおかげで命びろいしたんじゃな」
『それゆえ、わしの右腕を引きちぎって代わりにした。あやつが寿命を全うしたらば、魔界に戻って未来永劫わしの右腕をやる約束だったからの。あやつの孫の魂は、その約束が果たされるまでの担保である』
「担保……だから、〝預かった〟と言ったのか。しかし、引きちぎって、とは……」
フェルデン公爵は早急にこちらの世界に戻らねばならなかったが、代償として差し出せるものが存在しなかった。そんな彼のために、魔界の王が右腕を犠牲にしたというのだ。
ウルの父である前ヴィンセント国王の死期が迫った際、当時猫として側にいたマイリがその寿命を差し出して彼を延命させた話を彷彿とさせる。
マイリはあらゆる恩恵の代わりに国王の血を嗜むが、魔王がフェルデン公爵に見返りとして要求したのは、死後の彼の魂。
その担保として、彼に連なる命を預かっておく、という約束だった。
何の罪もない子供の命が取引に使われることに、嫌悪感を覚えないわけではない。しかし……
『担保を受け取るまでは、出血は止まらぬし痛みは治まらぬしで散々であったがな。まあ、魔王たるわしにとっては瑣末なことよ』
「……そうかい」
魔王もまた小さくはない犠牲を払ったのだと知ってしまえば、一概に彼を責めることもできなくなってしまった。
ここでふと、疑問が浮かぶ。
魔王に担保として魂を取られる存在が生じる前に、フェルデン公爵が自らの人生に終止符を打とうとは考えなかったのだろうか、と。
しかしその瞬間、ウルは気づいた。
気づいてしまった。
「フェルデン公爵は、まだ死ぬわけにはいかなかったんだ――父上がもう長くないことを、知っていたから」
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