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第九話

王妃様に最も愛されている男3

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「ほう。ではコリンは、ドンロともじーじとも、おさななじみだったのか?」
「ええ、まぁ……そう、です……はい」

 シトラが寝かされていた子供部屋から続く隠し通路。
 その終点は、屋敷の裏の納屋だった。
 シトラを抱き、マイリの手を引いた大司祭コリンは、無事隠し通路を抜けて納屋へと到着したものの、あいにく外はひどい雨だ。
 幼子と新生児を雨に晒すのも、彼らだけ納屋に残して人を呼びに行くのも難しいと判断し、雨が小降りになるか、もしくは誰かが通りかかるのをじっと待つことにしたらしい。
 彼は敷き詰めた藁の上に司祭服の上衣を敷いてマイリを座らせ、まだ首も据わらないシトラを大事そうに抱いて隣に腰を下ろした。
 そんなコリンの顔を、ちっちゃなヴィンセント国王妃が下から覗き込む。

「じーじとも、幼子のころは互いの家を行き来するくらい、なかよしだったんじゃろ? それなのに、なにゆえ今のように関係がこじれてしまったんじゃ?」
「そ、それは……」
『おい、神の下僕よ。わしを撫でるのはよいが、手汗がすごいぞ。控えよ』

 コリンには娘が二人と息子が一人おり、孫もすでに五人いる。
 そのためシトラを抱く姿も様になっているのだが、まさかこの新生児がおっさんのような声で文句を言っているとも、その一人称が〝わし〟であるとも思うまい。
 彼はマイリのまっすぐな眼差しにたじたじとしつつ、ぐずり始めた赤子を慌ててあやした。
 パタパタ、と大粒の雨が納屋の簡素な窓を打ち鳴らす。
 遠くで馬の嘶く声が聞こえた。事件の知らせを受けて、城に出勤していた家人が戻ってきたのかもしれない。
 コリンは、じっと見つめてくるマイリのくりくりの瞳――かつては気の置けない仲だった男と同じ色の瞳から逃げるように顔を背け、しどろもどろに続けた。

「私と……フェルデン公爵が疎遠になったのは、十歳の頃からです。彼は、ドンロ様と一緒にヒンメル王立学校に進んで……私は……私は一人、ヴィンセントに残されたものですから……」
『ふん、その口振りでは、おぬしも一緒にそのヒンメル王立学校とやら進みたかったように聞こえるな?』
「なぜコリンは、ドンロやじーじと一緒に行かなかった?」

 行かなかったのではなく、行けなかったのです。
 そう答えたコリンは、痛みを耐えるような表情をしていた。

「その頃のヒンメル王立学校では、ヒンメル聖教が必修科目でございました。しかし、我がウォーレー家は代々ヴィンセントの大聖堂に仕え、司祭を輩出してきた一族。その当主となる者が他神教と関わることを、私の父は許せなかったのです」
『一時とはいえ、他の神に仕えるのが許容できないと? そんな心の狭い神を崇めるとは、この国の人間は随分と酔狂なことだ』
「人間は、おのれにしがらみを課すのが好きじゃからな。たった百年やそこらの人生、生きたいように生きればよかろうに」

 皮肉なことにその後、コリンに代わってフェルデン公爵や前ヴィンセント国王と親交を深めたダールグレン公爵によって、ヒンメル聖教は選択科目へと変更された。
 ともあれ、とても五歳児のものとは思えないマイリの達観した言葉に、コリンは目を丸くする。
 同時に、我に返ったのだろう。
 自嘲するような笑みを浮かべて、ゆるゆると首を横に振った。

「いや……私はなぜ、妃殿下にこんな話をしているのでしょう。あなたはまだこんなにお小さく……それに、フェルデン公爵の孫だというのに……」

 十歳から十六歳までの多感な時期を別々に過ごすことになった、コリンとフェルデン公爵。
 二人ともヴィンセント王家に忠誠を誓っていたという意味では同志だったのだが、閉鎖的な大聖堂の中で育ったコリンと、ヒンメル王立学校で多種多様な文化に触れたフェルデン公爵の間には大きな溝ができてしまっていた。
 前ヴィンセント国王も、付き合いが長く革新的な意見を述べるフェルデン公爵を真っ先に頼り、保守派の代表ともいえるコリンとは意見が合わないことも多々あった。
 それがまたコリンの疎外感を募らせ、フェルデン公爵に対する嫉妬を増長させたのだろう。

『ふん、幼稚なことよ。仲間外れにされたと拗ねているだけではないか』
「そう言うな。わらわはコリンがいいやつなのも、ちゃあんと知っておるからな。コリンがシトラの誕生を祝ってくれて、わらわはうれしいんじゃ」

 マイリがにっこりと笑ってそう言うと、シトラの言葉が聞こえていないコリンは、少しばかり照れ臭そうな顔をした。
 ところが、すぐに表情を曇らせて、ため息混じりに呟く。

「しかし、まさか私が連れてきた司祭があんなことをするなんて……。あの者が抱える闇に気づけなかったのは、私の不徳のいたすところです。妃殿下と弟君を案じていらっしゃるであろうアシェラ様に、何とお詫びしたらいいのか……」
『あの母は今頃カンカンだろうな。何しろ、姉者とわしのことをうんと愛しておる』
「そうとも、わらわとシトラは母に愛されておる。しかし、案ずるでないぞ、コリン。おぬしは何も悪くない。もしも誰かがおぬしを責めたならば、わらわがちゃあんと守ってやるからな」

 雨はまだ窓を叩いている。
 五歳児の頼もしい言葉に、その祖父と同い年の大司祭は一瞬泣きそうな顔をした。
 それから、ぽつりぽつりと言葉を続ける。

「妃殿下……私は以前、妃殿下は陛下にふさわしくないと進言したことがございます」
『いや、誰だってそう思うだろう。魔界でさえ、幼子を王妃にするなどと言えば正気を疑われるぞ』
「そうかそうか。じゃが、わらわは今もこの通り、正真正銘ウルの妃であるからな。瑣末なことよ」
「あなたさまを、悪魔憑き呼ばわりしたことも……」
『姉者に取り憑けるような悪魔がいたならば、わしは即行そいつに玉座を譲っておったわ』
「憑いてはないが、とってもかわゆいネコちゃんな悪魔なら飼っておるぞ? 今度紹介してやろうな!」

 コリンの懺悔を聞いても、マイリの愛くるしい顔から笑みが消えることはなかった。
 それどころか、ふくふくのちっちゃな手でもって、コリンの膝をあやすように叩いて言う。

「何度でも言うてやるぞ、コリン。わらわはな、おぬしがいいやつなのを知っておる。今日だって、わらわとシトラを、あの司祭から守ってくれた」
「それは、その……あの司祭を連れてきた私に責任があるからであって……」
「シトラをだいじにだっこして、わらわの手を引いてくれた。おぬしの手はな、ウルとも、父とも、母とも――それに、じーじとも同じくらい、わらわにやさしかったぞ!」
「ひ、妃殿下……っ!」
 
 マイリの言葉に、コリンがまたくしゃりと泣き出しそうな顔をした。
 その腕の中で、新生児は遠い目をする。

『スコット・フェルデン………一時とはいえこの魔王たるわしの右腕を務めたあの男が、孫の前ではただの好々爺になるのには驚かされたがな。まさか、あやつに抱かれて頬擦りされる日が来ようとは思わなんだ……』
「じーじも、わらわとシトラをうんと愛しておるからな!」

 マイリの言葉に、生意気にもふんと鼻を鳴らしたこの小さな弟は、やはり自身は魔界の王であると主張した。
 しかも、彼らの祖父であるスコット・フェルデン公爵が若かりし頃、魔界に迷い込んで魔王に仕えたという話も事実であると宣うのだ。

「じーじはな、コリンのことも好きじゃぞ。おぬしがじーじを出しぬかんと小細工を弄するたびに、さてどうやって返り討ちにしてやろうかとワックワクしておる」
『うむ、知ってはおったが、相変わらず捻くれた男だな』
「ううっ、わ、私は……子供の頃から一度だって、スコットと喧嘩して勝てた試しがないんです……」
「安心せい、コリン。じーじの方はケンカしているつもりはないぞ。ワンコがキャンキャン鳴いとるなぁ、かわゆいなぁ、くらいにしか思っとらん!」
『あやつを相手にするとは……このコリンとやらも気の毒なことだ』
「わ、わんこ……」

 マイリがにこにこして告げた言葉に、コリンはガックリと項垂れた。
 首も据わらぬ赤子に思いっきり同情されているなんてことを知れば、きっとさらに消沈することだろう。
 しかしながら、彼が落ち込む必要など、本当はこれっぽっちもないのだ。
 もしも、フェルデン公爵がコリン・ウォーレーを本気で煩わしく思い、かつヴィンセント王家にとって不必要な人間と断じたならば、今頃は別の者が大司祭を名乗っていただろう。
 そう、例えるなら――ワニスファー公爵が謀反の疑いで失脚したように。
 
「じーじは、大司祭としてのコリンを買っておるし、おぬしがヴィンセント王家に真心から仕えておると――おぬしが尊い存在であると、ちゃあんと知っておる」
「は、はは、はいい……」
「だからな、コリンはいつだって堂々としておればよいのじゃ」
「ひ、妃殿下……っ!!」

 ここで、ついに大司祭がちっちゃなヴィンセント国王妃に陥落した。
 コリンは自身の司祭服の上に腰掛けたマイリの前に跪き、シトラを抱えたまま深々とこうべを垂れる。
 マイリは当たり前のようにその頭をよしよしと撫でて、あどけなく、愛らしく、そして慈愛に満ちた声で告げた。

 
「おぬしはただ、ウルのために正しくあれ。それだけで、わらわにとってもコリンは尊い」


 ははーっ、と納屋の床に額を擦り付けんばかりに深く深く頭を下げたコリンは、きっとこの時、己が大司祭だということを――神の下僕の頂点であることを忘れていただろう。
 いや、もしかしたら本能的に、この目の前のちっちゃくて愛くるしい存在こそが、己の主人であると悟っていたのかもしれない。
 そんなかわゆい下僕に、マイリは満足そうに頷いたが、ふと遠い目をして呟いた。

「ウルは……今ごろ何をしておるかなぁ……」

 それが聞こえたらしいコリンが、そろりと顔を上げてマイリを見た。
 シトラのつぶらな瞳も、神々しさが和らいだ姉をじっと見上げる。
 そうして彼らは、思わずといった風に口を開いた。

「妃殿下は……」 
『姉者は……』

 コリンが、シトラが、確かめるように問う。

「陛下が、お好きなんですね?」
『あの若造が、好きなんだな?』

 それに、マイリはちっちゃな胸を張って答えた。


「うむ、そのとおり! わらわはな、ウルがいっとう好きじゃ!!」


 その瞬間だった。


 ガンッと大きな音を立てて、納屋の床板の一片が吹っ飛んだのだ。

 シトラが寝かされていた子供部屋から続く隠し通路は、この納屋の床下に繋がっていた。
 吹っ飛んだ床板は元々取り外しができるようになっており、マイリ達もついさっきそこから出てきたのだ。
 そんな床下から飛び出してきた者を目にしたとたん――


「ウルー!!」
「マイリ!!」


 ヴィンセント国王妃は、この日一番の笑顔を弾けさせた。



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