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第八話
王妃様はお姉様に進化する3
しおりを挟む「――マイリ!」
ブルーベルの花を蹴散らすのも構わずに、ウルは全速力で駆けた。
そうして、まさに間一髪。
湖に向かって傾いでいたマイリを両手で抱き上げて、そのちっちゃな身体が水の中に吸い込まれるのを阻止したのである。
当のマイリは、大きな菫色の両目をぱちくりさせて湖面を指さす。
「ウル、なんぞおったぞ! ドラゴンくらいでかいやつ!」
「ドラゴン? ドラゴンってなんだ!? ドラゴンが実在する世界線だったか、ここ!? こわいこと言うな!!」
「おそるるに足らんぞ、ウル! ドラゴンなど顔がこわいだけで、所詮はトカゲのでかいやつじゃ!」
「ドラゴンが実在するのかしないのか――それだけ教えてくれ!」
ギャーギャーと言い合いながら、ウルがマイリを抱いたまま東屋の方に戻ってくる。
レベッカはそれをぽかんとした顔で見ていたが、二人が目の前までやってくると、とたんにぷっと吹き出した。
「あははっ……いやいや、仲睦まじいことだ。しかし、ドラゴンか……ヴォルフの湖にもいると言い伝えられているよ」
「あー……、話を遮って悪かった。えーっと、それで? マチアスがクーデターを起こしたのは、あんたのせいだって?」
「そうそう」
「いや、そうそうって……意味が分からないのだが?」
訝しい顔をしたウルは、マイリを膝に乗せてレベッカの隣に腰を下ろした。
その時、ふいに漂ってきたのは、新緑を思わせる爽やかな、それでいてどこか甘く瑞々しい香り。ウルに蹴散らされたブルーベルの香りだ。
東屋の下の三人は、それに魅せられたみたいにしばし無言になった。
しかし、やがて通りかかった風がブルーベルの香りをさらっていくと、レベッカが静かに口を開く。
「私が……エレメンスのジルと結婚の約束をしていたのを、知っているだろうか?」
「知らぬ」
「いやまあ、マイリは知らんだろうけどな……エレメンス王国の第一王子ジルとレベッカは、王立学校時代からの付き合いだ。俺達下級生の間でも有名だったんだぞ。何しろ、レベッカの弟がすでにジルを兄上呼びしていたからな」
ヴォルフ帝国と隣接するエレメンス王国は、大陸で最も古い歴史ある国だ。現在は、ジルの一つ下の弟が国王として立っている。
そんなジルとレベッカが、ヒンメル王立学校在学中からすでに公認の中であったにもかかわらず、卒業して十年以上経ってもまだ結婚に漕ぎ着けていないのには理由があった。
レベッカの父である前ヴォルフ皇帝が、ジルをひどく嫌っていたからだ。
前エレメンス国王の正妃は前ヴォルフ皇帝の姉で、ジルの母親に夫の寵愛を奪われたことで心を病んで亡くなったというから、気持ちは分からなくもない。
前エレメンス国王が、第一王子のジルではなく正妃が産んだ第二王子を後継にしたのも、ヴォルフ帝国との関係を考慮してのことだ。
レベッカは伯母を想う父の気持ちに寄り添い、ジルもまたエレメンス王子の地位も投げ打ってヴィルフ帝国で働きながら、じっと許しを得られる時を待っていたのだ。
結局、前ヴォルフ皇帝は二人の結婚を認めることのないまま亡くなったが、すでに夫婦同然の生活を送っていた彼らを阻むものもなくなった。
ヴォルフ神教で定められた一年間の喪が明ければ、きっと彼らからよい知らせが届くに違いないと思っている者も少なくはないだろう。
ウルもその一人だったが、レベッカの口から飛び出したのは思いもよらぬ言葉だった。
「私達の結婚は……白紙に戻ることになるだろう」
「……おいおい、今更別れるってことか? それはまた、なんで……」
「ジルが、エレメンス国王として立つことになったからだ」
「はあ!? ――いてっ!」
ウルの素っ頓狂な声に驚いて、膝の上のマイリがぴょんと跳ねた。
ゴチン、とその頭頂部に直撃されて不覚にも涙目になりつつ、ウルは続ける。
「ジルが国王って……それは一体どういうことだ? 確か、エレメンスはその弟が即位してまだ三年も経ってないだろう? まさか――」
「そのまさかだ。まだ公表はされていないが、ジルの弟は半年ほど前から病に臥せっていて、おそらくもう長くない。実質、ジルはすでにエレメンス国王として働いている」
あまりのことに、ウルは二の句が継げないまま、自分の顎とぶつかったマイリの頭を撫でた。反対に、ウルの顎はマイリのちっちゃなふくふくの手が撫でてくれている。
そんな二人の姿をレベッカは眩しそうに目を細めて眺めつつ、静かな声で続けた。
「私はヴォルフを、ジルはエレメンスを、これからはお互い祖国を背負っていかねばならない。王家に生まれた以上、思い通りにならぬ人生も致し方ないことだな」
「いや、しかし……」
諦めたようなレベッカの表情に、ウルはなんと声をかけていいのか分からなかった。
しかし、ここではっとあることに気づく。
「もしかして……マチアスがクーデターに加担したのは、あんたを皇帝の座から下ろしてジルに――エレメンスに嫁がせるため、か?」
マチアスはレベッカを心から敬愛し、彼女とジルの仲を誰よりも祝福していたのだ。
そんな彼が反旗を翻すなんて信じられなかったが、それが姉の幸せに繋がると信じてのことだというならば、納得がいく。
ところがである。
「はいっ」
神妙な顔をした大人達をよそに、元気な声とともにちっちゃな手が上がった。
言わずもがな、マイリである。
ウルは彼女の手を掴んで下ろそうとしたが、構わずマイリが口を開いた。
「わらわは違うと思うぞ」
「マイリー……、大人の話には口を挟むなと、侍女頭に耳にタコができるくらい言われただろう?」
「いや、マイリ聞かせてくれ。どう、違うと思う?」
マイリの口を手で塞ごうとするウルを制し、レベッカが問う。
すると、マイリはひたりと彼女を見据え、その前に、と続けた。
「レベッカは、そのジルとやらと別れるしかない道はないと思うておるのか?」
「そうだね……私も、皆もそう思っているだろう」
「なぜ、みんなそう思うんじゃ?」
「それはね、えーっと……」
マイリの口を塞ぐことを諦めたウルは、幼子相手にどう説明していいものかと困った顔をするレベッカに代わって口を開く。
マイリが幼いのは器だけなので、わざわざ言葉を噛み砕く必要がないのは正直楽である。
「ヴォルフもエレメンスも、初代君主の直系しか玉座には座れないんだよ。しかも、どちらも古くからある宗教上の理由で、君主は国に留まり神の声を聞かねばならんときた」
「ふむ、神の声を聞くのは君主のみ、か。ウルよ、どこかで聞いたような話じゃな?」
マイリの何やら含むような言い方に、ウルははっとする。
もしかすると、ヴォルフ帝国やエレメンス王国にも、ヴィンセント王国にとってのマイリのように、初代君主が契約を交わした家主たる存在がいるのではなかろうか。
両国の宗教はそれを神と称し、初代君主の直系である代々の君主が賃料を払っているのかもしれない。
ウルがマイリに、気まぐれに首筋をカジカジされるみたいにだ。
ヴィンセント国王がその事実を誰にも知らせてはいけないのと同様に、レベッカやジルもお互いに何も語れないのだろう。
そして、家主との契約を反故にすれば、いずれ国は枯れ落ちる。
今まさに綱渡り状態にあるヒンメル王国がいい例だ。
それぞれの国を守るためには、レベッカとジルはこのまま別れる他ないのだろうか。
王立学校時代の仲睦まじい二人の姿を思い出し、ウルが唇を噛み締めかけた時だった。
膝の上の、言うなればヴィンセント王国にとっての神のような存在が、彼を見上げていとけない声で問うたのだ。
「でもな、わらわはな、違うと思う。レベッカの選択肢は、別れるか、どちらかが君主をやめるかしかないと、ウルはそう思うのか? 本当の本当に?」
その言葉に、ウルははっとした。
「――そうか、マチアス。あいつも、選択肢はそれだけではないと思ったんだ」
とたんに、マイリが満足そうな表情をした。
うむ、と頷く愛くるしい四歳児を見つめて、ウルは続ける。
「マチアスの本当の願いは、レベッカを皇帝の座から下ろしてエレメンスに嫁がせることじゃない。その逆だ。自分から完全に皇位継承権を引き剥がすとともに、叔父を道連れにしようとしたんじゃないだろうか」
なんのために? ――姉の治世も、彼女がこれからどんな選択をしても、邪魔させないために、だ。
マチアスが、ただレベッカを支持すると表明するだけで事がうまくいくならばクーデターなど起こす必要はなかったのだ。
しかし、叔父とその一派がこの機に乗じて暗躍を始めるのは目に見えていた。
そのためマチアスは口車に乗ったと見せかけて、逆に彼らの息の根を止めようと考えたのだろう。
「あいつはきっと、最初からクーデターが成功するなんて思っていなかったんだ。内乱罪がいかに重罪か、どれほどの罰を与えられるかも全部覚悟の上で、命をかけてレベッカの背中を押そうとしたんだろう」
マチアスは、いつもにこにことしていて人当たりの良い、側にいるとほっとするような男だった。そんな彼が、どんな気持ちでクーデターの旗印などを務めたのだろうかと思うと、ウルは胸が張り裂けそうになる。
ウルは膝の上のマイリから、隣に座ったレベッカに視線を移して続けた。
「マチアスは、レベッカを姉としても皇帝としても尊敬していた。あんたがジルをどれだけ想っているかも、ヴォルフ皇帝としてどれだけ高い志を抱いているかも理解していたあいつは、きっとどちらも諦めてほしくなかったんじゃないか?」
自らの人生を投げ打つほどのマチアスの献身を悟って、ウルの声は震える。
ウルの言葉を否定しないところを見ると、レベッカも弟の真意を承知しているのだろう。
にもかかわらず、彼女は諦めたような表情のままだ。
それがたまらなく歯痒く思えたウルがぐっと眉間に皺を寄せた時である。
「あきらめるのは簡単じゃ。しかしそれは、あらゆる手段をこうじて、それでもどうにもならなくなってからにせい」
ぴしゃりとそう告げたマイリが、ちっちゃな靴をぺぺいっと脱ぎ捨て、ウルの膝の上で立ち上がった。
さらには、彼の首に腕を回してバランスをとりつつ、目線の高さが下になったレベッカを見下ろして言う。
「わらわはなにも、レベッカのためだけに言うておるのではないぞ。おぬしもジルとやらも、いい大人じゃからな。最終的にどんな選択をしようと、その結果どんな人生を送ろうと、すべてはおぬし達自身の責任じゃ。しかし――その子の気持ちはどうなる?」
「んん? その子って、――は!?」
マイリのふくふくの人差し指は、レベッカの腹を指していた。
彼女はぽかんとするウルの頬をちっちゃな手でぺちぺちしてから一転、にっこりと愛らしく微笑んでこう告げたのである。
「レベッカは、〝おねえさん〟なだけではなく、〝おかあさん〟でもあるんじゃな」
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