3 / 8
瑠璃待ちショコラ
しおりを挟む「うーん、うーん……」
今日も平和なグラディアトリア城の宰相執務室。
その部屋の主たる宰相クロヴィスが山と積まれていた書類の処理をようやく完了した頃、彼の執務机の側に置かれた応接用ソファから、そんなうめき声が聞こえてきた。
「どうしたんですか、スミレ。産まれるんですか?」
クロヴィスがペンを置いてそう声をかけると、うめき声の発信源たるスミレが、ソファの前のテーブルに突っ伏したまま気怠げに答えだ。
「産まれない。まだ、産まれない」
「じゃあ、何をうんうん唸っているんです?」
クロヴィスの兄ヴィオラントの妻であるスミレは、この日も王城の研究室を訪ねる夫にくっ付いて登城した。
しかし、かの部屋には大嫌いなミミズが飼育されているため、彼女はヴィオラントの用事が終わるまでクロヴィスの部屋で留守番をすることにしたのだ。
泣く子も黙ると恐れられる宰相閣下の執務室で時間潰しとはいい度胸だが、いい加減託児所扱いにも慣れたクロヴィスがそれを厭がることはない。
それに、間もなく訪れる午後のお茶の時間には、今日は彼の恋人であるルリが同席することになっているので余計に機嫌がいい。
おそらくヴィオラントもその頃には用を済ませて戻ってくるであろうから、四人でお茶を楽しむことになりそうだ。
「何を読んでるんです? 唸るほど難しい本なんですか?」
クロヴィスは執務机の上を軽く片すと、まだ「うーん」と唸っているスミレの向かいのソファへと移動して、彼女がテーブルの上に広げている書物を覗き込んだ。
そこにあったのはスミレの故郷日本の書物で、どうやらお菓子のレシピ本のようだ。
スミレはその上に頬杖をつき、正面に座ったクロヴィスを上目遣いに見上げると、ふうと一つ物憂げなため息をついて言った。
「チョコはどうして甘いんだろうと思って」
「はあ、チョコ……ショコラのことですね」
「どれだけビターだって言っても、やっぱりチョコはチョコだから甘いじゃない? 結局甘くないとチョコなんて美味しくないわけだし……」
「ふむ……」
「でも、甘いの苦手だって分かってるのに、食べさせるの可哀想だし……」
「ああ、なるほど。兄上に差し上げるショコラに悩んで、唸っていたんですね」
クロヴィスの敬愛する兄であり、スミレを無表情のままメロメロに溺愛する夫ヴィオラントが、甘いものが極度に苦手なのは有名な話である。
今でこそお茶請けを摘むようになったが、それもスミレが作ったお菓子限定。
そんなヴィオラントのために、果汁や果実酒を絶妙な具合で配合し、砂糖を控えつつ風味豊かな美味しいお菓子を作り上げてきたスミレだが、さしもの彼女もチョコレートばかりは甘さを抑えるのは難しい。
ブラックチョコレートやビターチョコレートなど、ミルクや砂糖を含まないタイプのものもあり、含有ポリフェノールが身体にいいのどうのとも聞くが、美味しいかどうかというのはまた別の話である。
いくら甘味を抑えられたとしても、スミレは自分が美味しいと思えないものをヴィオラントに食べさせようとは思わない。
「チョコってば、大昔はトウガラシ入れて飲んだんだって」
「それはちょっと、美味しくはなさそうですね」
「ありえないよね」
「ありえないですね」
日本では、もうすぐ二月十四日――バレンタインデーを迎える。
毎年スミレがヴィオラントへの本命チョコだけではなく、親族の男性陣にも手作りチョコを配ってくれるので、クロヴィスもそういうイベントがあるのを知っている。
今年は彼の恋人ルリもバレンタインに合わせてチョコレートをくれると言っていたので、その日が待ち遠しいくらいだ。
頬を赤らめてチョコを差し出す、慎ましく可憐なルリの姿。
それを想像して思わず緩んだクロヴィスの顔を、スミレは正面から半眼で眺めながら口を尖らせた。
「ルリさんはいいなぁ。クロちゃんは扱いやすそうだもん」
「扱いやすそうってなんですか。これでも、舌は肥えてるんですからね」
「毎日こっそり少しずつ甘いもの食べさせていったら、ヴィーもそのうち甘いの平気になるかなぁ?」
「ちょっとちょっと……それ、毎日少しずつ毒を盛っていったら耐性がつくかもって言っているように聞こえるんですが」
スミレは頬を膨らませて、また「む~」と唸った。
クロヴィスは苦笑しながら彼女の肘の下から本を拾い上げ、パラパラとページを捲ってみた。
『極上スイーツ大全集』
表紙にそう銘打ったレシピ本には、チョコレートだけではなく様々なお菓子の作り方が載っている。
こちらの世界にはない“写真”という、精巧な映し絵で描かれたお菓子達が色鮮やかに紙上を飾り、ヴィオラントなら見ているだけでも胃もたれを起こしそうな甘さが詰まった一冊だ。
けれど、ルリのおかげでお菓子に馴染み深くなったクロヴィスの目はたいそう楽しませてくれた。
「別に、そこまでショコラにこだわる必要はないのでは? バレンタインデーは元々ショコラに限ったイベントではなかったはずでしょう」
クッキーでもケーキでも、そもそも食べ物でなくてもよかったのではなかったか。
異世界文化を気まぐれにかじったクロヴィスはそう提案したが、スミレは「でも」と頬を膨らませた。
「バレンタインって言ったら、やっぱりチョコだもん。チョコでないと乙女的には盛り上がらないもん」
「はあ、乙女とは複雑ですねぇ」
気の無い答えを寄越すクロヴィスをじとりと睨みつつ、スミレはさらに頬を膨らませて続けた。
「それに、チョコって美味しいもんじゃない? ヴィーにも、食べられるチョコ作ってあげたいんだ」
「ほう」
「あのヒト、小さい頃からずっと重いもの背負ってきて、今までお菓子なんか嗜む余裕なかったんでしょ。やっとのんびりお茶できる立場になったんだから、いろんなこと楽しませてあげたいよ」
「おやおや……」
スミレの言葉を聞いたクロヴィスの顔には、自然と柔らかい笑みが浮かんだ。
分かり易く溺愛しまくるヴィオラントに比べればいつもどこか冷めた感じがするスミレだが、ちゃんと深く兄を思い遣ってくれているのだと知って、クロヴィスも嬉しかった。
「スミレは、兄上が大好きなんですね」
彼が笑顔のままそう問いかけると、目の前の膨れっ面は少しだけ照れた様子で目を逸らして答えた。
「そうだよ。まさか、知らなかったの?」
「いえ、知っていたつもりでしたけど……改めて実感しました」
「私だって、クロちゃんがルリさん大好きなこと知ってるよ」
「おや、そうですか。もしかして、バレバレですか?」
「バレバレですよ」
大きい弟と小さい姉というデコボコ義姉弟はそう言って、互いに顔を見合わせた。
そして、どちらからともなくくすりと笑うと、今度は頭を突き合わせてあーでもないこーでもないと議論を始めた。
もちろん、“あまり甘くないチョコ”について。
「……ヴィオラント様」
「……うむ」
一方、こちらは宰相執務室の扉の向こう。
並んで立っていたのは、ヴィオラントとルリという珍しい組み合わせだ。
用事を済ませたヴィオラントと、お茶請けのケーキが入った箱を持ったルリは、途中の回廊でばったり出会したのだ。
そうして、他愛ない話をしながら連れ立ってここまでやってきたのだが、ノックしようとした扉の向こうから聞こえてきた会話に、思わず二人とも耳を傾けていた。
愛しい妻の自分に対する健気な想いを聞かされ、無表情と有名なヴィオラントの美貌が柔らかく緩む。
隣に居合わせたルリも、スミレの可愛らしい言葉とクロヴィスの穏やかな声に胸がふわりと温かくなった。
「私は、できるだけ早く甘いものを克服するべきだな」
「あ、あのっ……えっと……お、応援させていただきますっ!」
二人は小声でそう言葉を交わすと、それぞれの愛おしい人が待つ部屋の扉をトントンとノックした。
0
お気に入りに追加
361
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
素直になる魔法薬を飲まされて
青葉めいこ
ファンタジー
公爵令嬢であるわたくしと婚約者である王太子とのお茶会で、それは起こった。
王太子手ずから淹れたハーブティーを飲んだら本音しか言えなくなったのだ。
「わたくしよりも容姿や能力が劣るあなたが大嫌いですわ」
「王太子妃や王妃程度では、このわたくしに相応しくありませんわ」
わたくしといちゃつきたくて素直になる魔法薬を飲ませた王太子は、わたくしの素直な気持ちにショックを受ける。
婚約解消後、わたくしは、わたくしに相応しい所に行った。
小説家になろうにも投稿しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
(完)聖女様は頑張らない
青空一夏
ファンタジー
私は大聖女様だった。歴史上最強の聖女だった私はそのあまりに強すぎる力から、悪魔? 魔女?と疑われ追放された。
それも命を救ってやったカール王太子の命令により追放されたのだ。あの恩知らずめ! 侯爵令嬢の色香に負けやがって。本物の聖女より偽物美女の侯爵令嬢を選びやがった。
私は逃亡中に足をすべらせ死んだ? と思ったら聖女認定の最初の日に巻き戻っていた!!
もう全力でこの国の為になんか働くもんか!
異世界ゆるふわ設定ご都合主義ファンタジー。よくあるパターンの聖女もの。ラブコメ要素ありです。楽しく笑えるお話です。(多分😅)
転生先は盲目幼女でした ~前世の記憶と魔法を頼りに生き延びます~
丹辺るん
ファンタジー
前世の記憶を持つ私、フィリス。思い出したのは五歳の誕生日の前日。
一応貴族……伯爵家の三女らしい……私は、なんと生まれつき目が見えなかった。
それでも、優しいお姉さんとメイドのおかげで、寂しくはなかった。
ところが、まともに話したこともなく、私を気に掛けることもない父親と兄からは、なぜか厄介者扱い。
ある日、不幸な事故に見せかけて、私は魔物の跋扈する場所で見捨てられてしまう。
もうダメだと思ったとき、私の前に現れたのは……
これは捨てられた盲目の私が、魔法と前世の記憶を頼りに生きる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる