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第九章 皇妃候補から外れた公爵令嬢の再生
第三十四話 ロートリアス公爵家
しおりを挟む急遽執り行われた、グラディアトリア皇帝主催の舞踏会。
その翌朝、パトラーシュとコンラート両国の宰相一行は無事帰国の途に就いた。
懇親を目的とした舞踏会が功を奏し、宰相同士はもとより、随行者達も握手を交わして再会を誓い合う。
その光景は、これからも末長く三国の友好が続いていくことを予感させた。
そんな中、パトラーシュの宰相シェリーゼリアは、皇帝ルドヴィークや宰相クロヴィスではなく、ソフィリアの両手を握り締めて別れを惜しんだ。
「またね、ソフィリア。私の補佐官に就く気になったら、いつでも連絡してちょうだい。すぐに迎えにくるから」
「――は? いや、させないが!?」
ぎょっとしたルドヴィークが、慌てて彼女からソフィリアを引き離し、自分の後ろに隠す。
そんな彼の背中から、ソフィリアが苦笑いを浮かべて言った。
「シェリーゼリア様ったら、お戯れを。陛下をからかわないでくださいませ」
「あら、心外な。私は至って本気よ? それでなくても、ソフィリアみたいな優秀で気の利く可愛い文官、引く手数多でしょうに」
四日前――シェリーゼリアがグラディアトリアにやってきた際にも同じやりとりをした。
あの時のルドヴィークは、姉のようなパトラーシュ宰相の言葉に狼狽えるばかりだったが――今は、違う。
「私が相手をするから、ソフィは下がっていろ」
顔を覗かせようとするソフィリアを改めて背中に押しやると、彼はシェリーゼリアに向かって毅然と言い放った。
「この、優秀で気の利く可愛い文官は、私の補佐官だ。どこにも、誰にも、シェリーにも絶対にやらん。如何なる引く手も、全て蹴散らしてくれよう」
「あらまあ……ルドったら、いつの間にそんな男の顔をするようになったのかしら」
可愛い弟分の成長に、シェリーゼリアは目を見張る。
すると、そんな彼女の視界を遮るようにすかさず割り込んできたのはクロヴィスだ。
通商条約に関しパトラーシュに譲歩させたこと、また弟皇帝の恋にようやく進展の兆しが現れたことでいつになく上機嫌な彼は、ソフィリアから引き剥がされたシェリーゼリアの手を代わりに握る。
そして、彼女の言うところの胡散臭い笑みを浮かべて言った。
「あなたもアンセル侯爵の御子息を見習って、ソフィリアのことは潔く諦めてとっととお帰りなさい。――ああ、フランの私財を差し押さえるのをお忘れなく」
「分かってるわよ……そうね、馬に蹴られる前に退散するわ」
シェリーゼリアは小さく肩を竦めると、挨拶もそこそこに馬車に乗り込んだ。
パトラーシュ皇帝家の紋章を掲げた馬車に、騎乗した騎士達と、文官や侍女を乗せた馬車が続く。
その中に一頭、騎手のない馬がいた。
一昨日の夜、ソフィリアの髪を切り落とした、あの騎士の馬だろう。
ルドヴィークは、彼の処分をパトラーシュに一任した。
縄で縛られ後続の簡素な馬車に乗せられた彼は、文字通り処刑場に赴くような心地であろう。
一方、モディーニはグラディアトリアに残ることになった。
彼女の身柄は、留学という名目で母后陛下が預かる。
罪人として祖国へ戻る騎士と、何の罪もないのに帰ることのできないモディーニ。
はたして、どちらが不幸なのだろうか。
パトラーシュ宰相一行を見送る一団の中に、モディーニの姿はなかった。
「ソフィリアから誘ってくれるのは、随分と久しぶりだな」
「まあ、とんだ親不孝者で申し訳ありません――お父様」
三国間宰相会議が終わった翌日から、グラディアトリアでは皇帝とその補佐官、さらに宰相は二日間の休みに入る。
朝早く、帰国するパトラーシュとコンラートの宰相一行を見送ったソフィリアは、この日の午後、財務大臣を務める父――ロートリアス公爵をお茶に誘った。
彼らがやってきたのは、後宮からほど近い場所にある、高い垣根に囲まれた穴場の東屋。
いつぞや四人の令嬢達がモディーニを誘ってお茶会を開いた、ただのロートリアス公爵令嬢でしかなかった頃のソフィリアのお気に入りでもあった場所だ。
一昨日の夜、ソフィリアとオズワルドを見下ろしていた樹齢百年を超える大きなアカシアの木は、この日も静かにそこに立っていた。
真っ白いテーブルクロスの上には、さまざまなお菓子が並ぶ。
お菓子作りが得意なルリや、異国の甘味にも精通しているスミレという親友たちのおかげで、茶請けに困ることはなかった。
ちなみに、ソフィリアは料理はからっきしなので、彼女達の領分に手を出すような無謀な真似はしない。
この日も、昨夜の舞踏会でのルドヴィークとのやりとりに思うところがあったらしいスミレが、お菓子やら何やらを抱えてソフィリアの顔を見にきてくれた。
甘いものに目がないロートリアス公爵は、小さな二枚のパンケーキの間に甘く煮つけてすり潰した赤い豆を挟んだもの――ドラヤキ、という名らしい――に齧り付いていたが、ふと思い出したみたいにソフィリアに問う。
「ところで、ユリウスはどうしている?」
「あの子は引き続きモディーニさんの護衛騎士に任命されて、散々陛下に噛み付いておりましたわ」
「そうか……では、あれもまたしばらく家には帰って来ないのだろうなぁ」
「姉弟揃って親不孝者で申し訳ありません」
ソフィリアは父のためにお茶を淹れながら、苦笑いを浮かべて言った。
今回の三国間宰相会議において、パトラーシュとの交渉の要であった通商条約の草案を作ったのは、財務大臣であるロートリアス公爵だ。
数日前からヴィオラントが頻繁に登城して彼と会談していたのも、その相談を受けてのことだった。
久方ぶりの父娘水入らず。ソフィリアはまず父の仕事を労ってから紅茶で口を潤し、いよいよ本題に入る。
『兄上にとってのスミレ、クロヴィスにとってのルリのように……私が生涯をともにしたい人は、ソフィ――お前だけだ』
昨夜の舞踏会の最中、ルドヴィークはソフィリアにそう告げた。
ルドヴィークは、〝ソフィリアが好きだ〟なんて無垢な少年のような告白から始めておいて、〝どうあってもソフィリアを諦めるつもりはない〟と続けることによって彼女の退路を塞いだのだ。
こうなっては、ソフィリアも有耶無耶な返事はできない。
それでなくても、彼女のルドヴィークに対する想いだって、以前のように忠誠心だ親愛だと誤魔化すことはもはや不可能だ。
ルドヴィークは昨夜、あの場ですぐにソフィリアの返事を要求しない代わりにこう告げた。
『明日明後日の休みの間、じっくり私のことを考えてみてほしい』
ソフィリアは、すでに自分の気持ちも彼にばれているのではないかと思った。
それでも、あの場でソフィリアがすぐに返事ができなかったのは、父にまだ何も伝えていなかったから。
「お父様――私、陛下が……ルドヴィーク様が好きです」
「……」
「彼も、私を好きだと、生涯をともにしたいとおっしゃってくださいました」
「……そうか」
かつてソフィリアの名を皇妃候補に加えたのも、外したのも、どちらも父ロートリアス公爵であった。
八年前、愚かな行いをしたソフィリアのために、それまで築いてきた地位も名誉も投げ打って償おうとしてくれた父。
その後、生まれ変わろうとしたソフィリアに文官の道を示し、いつだって寄り添い応援してくれた父である。
ルドヴィークの想いを応えるには――いや、ソフィリアが真実自分の気持ちに向き合い、彼の胸に飛び込むには、やはりこの父の許しを得てからでないと筋が通らない。
そう、考えたのである。
「自分で皇妃候補から外れるような行いをしておいて……散々、お父様にもご迷惑をおかけした上に、勝手ことを言って申し訳ありません。ですが、私は……」
「――いや、違う。ソフィリア、違うんだ」
ところが、許しを請うソフィリアの言葉を、ロートリアス公爵が慌てたように遮る。
そして、気持ちを落ち着かせるみたいに大きく一つ深呼吸をしてから、ぽつりと呟いた。
「謝らなければいけないのは、私の方だ。幼いソフィリアを皇妃候補に加えた時……私は、お前の父と名乗るにふさわしい人間ではなかった」
「え……?」
ルドヴィークの父にあたる先々代皇帝の統治時代、グラディアトリアでは権力を笠に着た貴族たちが私利私欲にまかせて内政を食い荒らしており、国力は衰退の一途を辿っていた。
そんな危機的状況を打開したのが、父の崩御にともない即位した弱冠十六歳の皇帝――現在はレイスウェイク大公爵を名乗るヴィオラントである。
彼は傀儡皇帝と舐めてかかっていた古狸どもを蹴散らし、全身を血塗れにして王宮の腐敗を一掃すべく突き進んだ。
多くの貴族や大臣が敵に回る中、ロートリアス公爵は全面的にヴィオラントを支持する立場をとった。
当時すでに財務大臣の地位に就いていた彼が味方となったことは、改革を大きく後押しすることになる。
そうして全幅の信頼を勝ち取ったヴィオラントの口から、側妃から生まれた自分やクロヴィスではなく、母后陛下から生まれたルドヴィークこそが真の皇帝にふさわしい、彼が成人したら玉座を譲るつもりであると打ち明けられた時、ロートリアス公爵は自分の娘をその妃に推すことを決めた。
けして、権力を誇示するためでも、家の繁栄のためでも、ましてやソフィリアの幸せを思ってのことでもない。
後の皇帝ルドヴィークへの――ひいては、彼を推すヴィオラントへの揺るがぬ忠誠の証として、自分の娘を差し出そうと考えたのだ。
あの時のソフィリアは、父にとって単なる所有物でしかなかった。
「私は……ヴィオラント様に心酔するあまり、我が子を蔑ろにしてしまった。国が平定され、ルドヴィーク様に玉座が譲られた時、私はやっと肩の荷が降りたような気がしたが……そこでようやく、それまで自分が犠牲にしてきたものの大きさに気がついたんだ」
仕事に託けて王城で寝泊まりし、ほとんど屋敷に帰ってくることのなかった父。
もともと政略結婚な上、母は駆け落ち同然にコンラートへ嫁いだ伯母の代わりにロートリアス公爵家に入ったのだ。
先帝陛下による大改革が終わっても彼らが夫婦仲を深める機会はなく、母はソフィリアやユリウスにますます依存し、父は結局再び仕事へと逃げた。
そんな平行線な一家の関係が永遠に続くかと思われた頃、事件が起こる。
――いや。
事件を起こしたのは、ソフィリア自身だった。
「あの後、騎士団から放免されたお前を馬車で連れ帰る時……私は初めて、お前と正面から向き合ったように思う」
「お父様……」
ロートリアス公爵は言う。
ソフィリアを皇妃候補から外したのは、何も彼女の過ちを恥じてのことではなかった、と。
親である自分が独り善がりに定めた未来から――皇妃候補という呪縛から、彼女を解放したかったのだ、と。
実際、その後のソフィリアの変化は目を見張るものがあった。
国政を学びたい、と自分を頼ってくれたことが、どんなに嬉しかったか。
煌びやかなドレスから質素なお仕着せに着替えたとたん、まるで水を得た魚のように生き生きとし始めた彼女の姿をどんなに眩しく思っていたか。
ロートリアス公爵は目尻に皺を拵えてしみじみと語る。
「ソフィリアが、不甲斐ない私を父親にしてくれたんだ」
父のその言葉に、ソフィリアは胸がいっぱいになった。
八年前の愚かな行いは反省してもしきれないが、あれはソフィリアにとっても父にとっても、人生において必要な過程であったのではないか、とさえ今ならば思えた。
しかし、あの出来事によって失ったものもある。――母との絆だ。
「でも、私……お母様を失望させてしまいましたわ……」
そう口にしたとたん、ソフィリアはひどく悲しくなった。
この場に自分と父しかいないのをいいことに、お母様はもう私を愛してはくださらない、と泣き言を言う。
それなのに、どういうわけかロートリアス公爵は苦笑いを浮かべ、そのことだが、続けた。
「お前に度々スカーフを贈っていただろう。あれはな、実は全部母さんが用意したものなんだ」
「……はい?」
「今お前が着けているそれなんて、母さんの手作りだぞ。生地屋で半日あまり悩み抜いた末に選び、腕利きの針子と評判のカーティス君の奥方に教わって、一針一針心を込めて縫ったものだ」
「え……?」
思いも寄らないことを聞かされて、ソフィリアはぽかんとする。
古い侯爵家の出身で、よく言えば格式を重んじ、悪く言えば選民意識が際立っていたあの母が、一般家庭出身のカーティスの妻に教えを請うなんて。
ましてや、価値がないと見捨てたはずのソフィリアのために、スカーフを手作りしてくれていたなんて。
とてもじゃないが信じられない、と言いたげなソフィリアの顔を眺め、ロートリアス公爵は肩を竦める。
「だいたいだな。私のようなおじさんに、若い子の身に着けるものなんぞ分かるはずがないだろう」
「ええ……ですから、てっきりお父様には若い愛人でもいらっしゃるのかと……」
とたん、ロートリアス公爵はぎょっと目を剥く。
彼は慌ててテーブルの上に身を乗り出し、滅多なことを言ってくれるな! と叫んだ。
「言っておくが、私と母さんの仲は随分と深まったんだぞ。ソフィリアもユリウスも全然家に帰ってこないから、必然的に夫婦だけで過ごす時間が増えたのでな」
「まあまあ……親不孝もしてみるものですわね」
呆気にとられた様子のソフィリアに対し、椅子に座り直した父はどこかうきうきした様子で続ける。
「今日もな、暗くなる前に帰って、母さんと夜市に繰り出すつもりなんだ」
「えっ、あのお母様が、夜市に? ……想像もつきません」
「そうだろうな。お前もユリウスも、母さんがどれほど可愛らしいか知らないのだろう。屋台で物を買ってやるとな、別にほしくなんてありませんけど、って澄ました顔をしながらも必ず受け取ってくれるんだ。スミレ様曰く、〝つんでれ〟らしい」
「お父様の口からスミレ語を聞くことになるなんて……ともあれ、ごちそうさまです。この年になって、両親ののろけを聞かされるのは複雑ですわ」
思ってもみない両親の近況に、これはユリウスにも情報共有する必要がありそうだ、とソフィリアは遠い目をする。
しかし、父がここで居住まいを正したために、慌てて視線を戻した。
「私と母さんがすれ違っていたせいで、ソフィリアにもユリウスにも可哀想な思いをさせてしまったな……すまなかった。母さんも、かつて感情のままにお前を詰ってしまったことを後悔しているんだ。素直じゃないから直接謝ることもできないままだが、彼女はいつだってお前を案じている」
――皇妃にも国母にもなれないソフィリアには何の価値もない
八年前に母に言われたその言葉を思い出す度に、ソフィリアの胸には当時感じた痛みが蘇ってくる。
けれども……
「いつか、母さんを許してやってもらえたら……」
「許すも何も、ありませんわ」
沈痛な面持ちで続ける父の言葉に被せるように。
母が用意してくれたというスカーフに、そしてそれを留めている、ルドヴィークが贈ってくれたブローチにそっと手を触れながら、ソフィリアは言った。
「今も、昔も、これからも……私は、お母様のことが大好きですもの」
「ソフィリア……」
「もちろん、お父様のこともですよ」
「……」
ロートリアス公爵は、ついに目頭を押さえる。
そうしてしばしの沈黙の後、向かいに座る娘を濡れた目で見つめて言った。
「ソフィリア……私達の可愛い娘よ。何も、お前を縛るものはない。自分の思うように生きなさい。お前の幸せが、私と母さんの幸せだよ」
――皇妃にも国母にもなれないソフィリアには何の価値もない
かつてそう告げたことを、母は今、後悔しているという。
父は、あの時のソフィリアの愚かな行いにではなく、それまで彼女に顧みなかった自身を責めた。
被害者であるスミレが許し、その夫であるヴィオラントが許し、そしてルドヴィークが許してくれたソフィリアの過去の過ち。
過去を一番引きずっていたのは、ソフィリア自身だった。
そして今、ソフィリアもやっと――八年前の愚かな自分を許すことができた気がした。
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