25 / 35
第六章 満月の下の騒動
第二十五話 皇帝補佐官の怒り
しおりを挟むザッ……と、耳のすぐ後ろ辺りで鈍い音が聞こえた。
「ソフィ!!」
「ソフィリア様!!」
シオンとモディーニの悲鳴が重なる。
髪が引っ張られることによる地肌の痛みとブチブチと千切れる感触に、ソフィリアはぐっと顔を顰めた。
けれどそれも、男がナイフを振り抜くまでの一瞬のこと。
バッ、と宙に舞った深い栗色の髪は、次の瞬間には無惨に足元に散らばった。
誕生日祝いにスミレに贈ってもらったカンザシが、ころころと地面を転がる。
髪を切り落とされたのだと気づいたが、それにかまっている余裕はなかった。
ソフィリアはシオンを放り投げるようにして後ろのモディーニに託すと、二人を背に庇って男の前に立ち塞がる。
短くなった不揃いの毛先が、冷や汗が滲んだ頬や首筋に張り付いて鬱陶しかった。
「ソフィ……ソフィの髪があああ……」
「そ、そんな、ひどい……ひどいっ……」
ソフィリアの後ろ姿を見て、シオンとモディーニが声を震わせる。
さらには、ソフィリアの髪を無惨な有様にした張本人までもが、目の前の彼女の姿に愕然としていた。
おそらく彼は、脅すだけのつもりでナイフを持ち出したのだろう。
最初から、ソフィリアもシオンも、モディーニのことだって傷つけるつもりはなかったのかもしれない。
そうでなければ、少し護身術を齧ったくらいのソフィリアでは、訓練を受けた本職の騎士相手に髪だけの犠牲で済むはずがなかった。
オズワルドとは違って、小手先だけでどうこうできる相手でないのは明白だ。
ソフィリアは頬にかかった不揃いの髪を掻き上げながら、目の前で狼狽える男の動向をじっと用心深く観察する。
とにかく、一刻も早く見回りの騎士が通りかかってくれることを祈る彼女の背に、ふいに弱々しい声がかけられた。
「ど、どうして……どうして、私まで庇うんですか? ソフィリア様には何の得にもならないのに……」
プリペットの垣根の前で震えるモディーニの声だ。
彼女はシオンをぎゅっと抱きしめながら、まるでいとけない迷子みたいな縋るような目でソフィリアを見つめていた。
それを見返したソフィリアは、苦笑いを浮かべて答える。
「凶器を前にして損得で行動できるほどの余裕はないわ。ただ、シオンちゃんを大切にするのと同じように、あなたのことも大切にしたいと思っている――ただ、それだけのことよ」
そのとたん、くしゃっと泣きそうな顔をしたモディーニは、ブンブンと首を横に振って叫んだ。
「うそ……うそです! 私が、大切になんてされるはずがないわ! みんな……みんな、私のことが嫌いなのよっ……!!」
「ふっ……はは! なんだ、ちゃんと自覚しているじゃないか! その通り! 私も、他の腹違いの兄達も、それにライアン様だって、みーんなお前のことが憎くて憎くて仕方がないんだよっ!!」
モディーニの悲痛な叫びを、さっきまで狼狽えていたはずの男が嘲笑う。
そんな男を鋭く見据え、ソフィリアはぴしゃりと告げた。
「おやめなさい! 騎士ともあろう方が、こんなか弱い少女相手に恥ずかしくないのですか!」
「……侍女風情が、偉そうに」
男はモディーニからソフィリアに視線を移し、顔を顰めて忌々しげに吐き捨てる。
ソフィリアはそれを真正面から睨み返し、毅然たる姿勢で立ち向かった。
「あなたはお母様が娼婦だとおっしゃいましたね。それゆえお父様に認知されなかったことを憂い、けれども嫡出子であるライアン様が弟として受け入れてくださったことに感動したのではありませんでしたか? 生い立ちや身分によって理不尽な扱いを受ける辛さを知っているあなたが、侍女を貶めるのですか?」
「……っ、それは……」
痛いところを突かれたらしい男が、再び狼狽え始める。
ソフィリアは畳み掛けるように、ぴっと左手の方を指差して続けた。
「すぐそこに城門がございます。門番がおりますので、どうか潔く自首なさってください」
「そ、そんなこと……」
パトラーシュ宰相の護衛騎士としてグラディアトリアに来ておきながら、私情で刃物を振り回した男の罪は重い。
しかも、相手が友好国の皇帝補佐官とあっては、パトラーシュは彼を厳罰に処さないわけにはいかないだろう。
よくて騎士団からの追放、最悪の場合は死罪もありうる。
けれども、ソフィリアは皇帝補佐官として、彼に情けをかけることはできなかった。
「あなたが安易にナイフを抜いたこと、見過ごすわけは参りません。ここは、グラディアトリア。先帝陛下が血まみれになりながら平定し、当代の皇帝陛下が――ルドヴィーク様が懸命に育てた平和な国です。それを脅かそうとする者は、何人たりとて許しません!」
かつて、愚かで無知な公爵令嬢だったソフィリアは、傲慢にも一人の少女の人生を軽んじようとして、先帝陛下の怒りに触れた。
それをきっかけに自分を見つめ直し、新たに一歩踏み出したことで、自分と同い年の皇帝陛下がどれだけ重い荷物を背負って生きているのかを知ったのだ。
彼の補佐官となってからは、少しでもそれを肩代わりできまいかと思案する日々。
主君であり、親友であり――そうして、秘めたる思いを募らせる大切な人。
彼の苦労も顧みず、安易にナイフを抜いた目の前の男に、ソフィリアは激しいまでの憤りを覚えたのである。
「ひゅー! ソフィ、かっこいい!!」
堂々と啖呵を切った彼女の背に、母に似て有事であっても相変わらず楽天的なシオンの声援が飛ぶ。
しかしそれが、文字通り生きるか死ぬかの状況にある男をいたずらに刺激した。
「――黙れっ!!」
男がそう叫んだ瞬間、まるで怯えたみたいに月が雲に隠れてしまった。
それまで月の光に照らされてかろうじて見えていた男の顔が真っ黒い影になり、ひどく不気味な存在に見える。
影はわなわなと震える手で、ソフィリアの後ろ――プリペットの垣根の前に座り込んだモディーニを指さした。
「お前のせいだ! お前がいるせいで、私も、ライアン様も不幸になる!」
さらには、ソフィリアにも指先を向けて続ける。
「そいつを庇い立てるならお前も同罪――私と、ライアン様の敵だ! あの方に仇なす者は許さないっ!!」
そう叫んだ男の手が、ナイフを抜くだけでは飽き足らず、ついに腰に下げた剣に伸びた。
その、刹那のことである。
ふいに、その肩を何者かの手が背後から掴んだ。
びくりと肩を跳ねさせた男が、慌てて後ろを振り返ろうとして――
ガツッ……!
鈍い音とともに、いきなり真横に吹っ飛んだ。
「え……?」
背後から現れた何者かが男の頬を殴りつけたようだとソフィリアが察した、その時である。
雲に隠れていた月が、再び顔を出した。
たちまち降り注ぐ月光によって浮かび上がったのは、艶やかな金色の髪と怒りを滾らせた青い瞳。
はっとしたソフィリアがその名を呼ぶ前に、後ろからシオンの弾んだ声が上がった。
「――ルド兄っ!!」
10
お気に入りに追加
1,620
あなたにおすすめの小説
私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。
さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。
許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。
幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。
(ああ、もう、)
やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。
(ずるいよ……)
リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。
こんな私なんかのことを。
友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。
彼らが最後に選ぶ答えとは——?
⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。
罠にはめられた公爵令嬢~今度は私が報復する番です
結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
【私と私の家族の命を奪ったのは一体誰?】
私には婚約中の王子がいた。
ある夜のこと、内密で王子から城に呼び出されると、彼は見知らぬ女性と共に私を待ち受けていた。
そして突然告げられた一方的な婚約破棄。しかし二人の婚約は政略的なものであり、とてもでは無いが受け入れられるものではなかった。そこで婚約破棄の件は持ち帰らせてもらうことにしたその帰り道。突然馬車が襲われ、逃げる途中で私は滝に落下してしまう。
次に目覚めた場所は粗末な小屋の中で、私を助けたという青年が側にいた。そして彼の話で私は驚愕の事実を知ることになる。
目覚めた世界は10年後であり、家族は反逆罪で全員処刑されていた。更に驚くべきことに蘇った身体は全く別人の女性であった。
名前も素性も分からないこの身体で、自分と家族の命を奪った相手に必ず報復することに私は決めた――。
※他サイトでも投稿中
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。

王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

初恋の人と再会したら、妹の取り巻きになっていました
山科ひさき
恋愛
物心ついた頃から美しい双子の妹の陰に隠れ、実の両親にすら愛されることのなかったエミリー。彼女は妹のみの誕生日会を開いている最中の家から抜け出し、その先で出会った少年に恋をする。
だが再会した彼は美しい妹の言葉を信じ、エミリーを「妹を執拗にいじめる最低な姉」だと思い込んでいた。
なろうにも投稿しています。
【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。
るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」
色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。
……ほんとに屑だわ。
結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。
彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。
彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる