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第四章 公爵令嬢の矜持
第十八話 皇帝家の兄弟
しおりを挟む「……っ、くくっ……」
「いつまで笑ってるんですか、ルド。どつきますよ」
ここ数日停滞していた案件をいい加減片付けるため、意気揚々と出陣していく補佐官の背中を、皇帝ルドヴィークが見送ってしばらくのこと。
皇帝執務室の扉をノックしたのは、ソフィリアが訪ねているはずの宰相クロヴィスだった。
その手にはソフィリアが携えていった書類があり、しかも宰相のサインがすでに施されているではないか。
ずっとサインするのを渋っていたくせに、いったいどういう風の吹き回しだと目を丸くする弟皇帝に、泣く子も黙る鬼宰相は苦虫を噛み潰したような顔をする。
その口からソフィリアの功績を聞かされたルドヴィークは、笑い出さずにはいられなかった。
「しかし、クロヴィスがしてやられるなんてな。ソフィも随分と強かになったものだ」
「まあ、あなたの補佐官としては頼もしい限りですがね。この私が、彼女をそう育てたんですし」
クロヴィスから件の書類を受け取ったルドヴィークは、ようやくそれを処理済みの書類の山に加えることができてご満悦。
そんな弟の緩んだ頬をしばし恨めしげに眺めていたクロヴィスだったが、気持ちを切り替えるみたいに一つ咳払いをしてから続けた。
「ところで、陛下。モディーニ・ラ・レイヴィスを今後どうしようとお考えですか?」
一転して、愛称ではなく称号で呼ばれ、ルドヴィークは表情を引き締める。
宰相と皇帝の兄弟は、執務机を挟んで向かい合った。
「来週には三国間宰相会議が始まり、パトラーシュからも宰相の一団が参ります。正直なところ、モディーニ嬢をこれ以上預かっていても、我が国としては何の利にもなりません。早急に自国に連れ帰っていただくのが妥当かと思いますが?」
三国間宰相会議というのはその名の通り、長年友好関係にある三つの国――グラディアトリア、パトラーシュ、コンラートの宰相によって執り行われる会議のことだ。
三国の真ん中に位置し、パトラーシュともコンラートとも国境を接するグラディアトリアは、常に中立の立場を貫いてきた。
それもあって、四年ごとに開かれる三国間宰相会議も毎回グラディアトリアで行われ、必然的にグラディアトリアの宰相が取り仕切ることになる。
そんな大仕事を間近に控えたクロヴィスは、淡々とした口調で続けた。
「陛下がモディーニ嬢を娶るつもりなのでしたら……まあ、置いておいても構いませんが。何の利にもなりませんけど」
「そんなつもりはない」
「あなたにその気はなくとも、すでに噂は立っておりますよ。何の利にもならない娘を王宮でのさばらせたりするからです」
「……何の利にもならないなんて、何回も言うな」
兄の辛辣な言葉に顔を顰めたルドヴィークだったが、一つため息を吐くと、椅子の背もたれに体を預けて続けた。
「モディーニを預かっているのは、彼女の生い立ちが哀れだというのもあるが……実は、その……借りがあるんだ」
「ほう、借りですか。まさか、モディーニ嬢にじゃありませんよね?」
「フランディースに、だ。あと、間接的にはレイヴィス公爵家にも」
「ふむ……詳しくお聞きしても?」
興味深げな顔をしたクロヴィスは、眼鏡を指で押し上げながら窓辺へと移動する。
そこに置かれたガラス容器の中からは、挨拶をするようにプチセバスが若葉をふりふり。
それに会釈を返しつつ、クロヴィスが桟に腰掛ければ、手入れの行き届いた王宮の庭が見えた。
彼の目はその中にソフィリアと連れ立って行った妻の姿を探しながらも、耳は弟の声を聞く。
「先日のソフィの誕生日に、パトラーシュ産のペリドットのブローチを贈ったんだ」
「ああ、先日から彼女のスカーフを留めているやつですね。ソフィも随分気に入っているようではありませんか」
「うん……何ヶ月も前から、パトラーシュで採れる最上級のものを用意してもらえるよう、フランディースに頼んでいたんだが……」
「だが?」
鉱物資源の豊富なパトラーシュに対し、資源の乏しいグラディアトリアは技術を高めることで発展を遂げてきた。
そのため、ルドヴィークはペリドットの原石をパトラーシュで仕入れ、グラディアトリアの馴染みの職人にブローチへの加工を依頼したのだ。
もちろん、ソフィリア本人には内緒で、である。
彼女の目を盗み、ルドヴィークが騎士団長ジョルトだけを連れて国境でペリドットの原石を受け取ったのは、三ヶ月ほど前のこと。
その時、こちらもお忍びのフランディースが連れていたのが、当時はまだ家督を継ぐ前の現レイヴィス公爵――モディーニの腹違いの兄である、ライアン・リア・レイヴィスだった。
というのも、レイヴィス公爵家はパトラーシュ皇帝家に次いで多くの鉱山を所有しており、特にペリドットに関しては随一良質なものが採れると言われているからだ。
噂に違わず、ルドヴィークに差し出されたペリドットは原石の状態で見ても素晴らしいものだった。
ところが……
「その時、別に持ち込まれていた原石が目に入った。フランディースが新たに娶った側妃に贈るために、グラディアトリアで加工させようとしたものらしいが……一目見て、これだと思ったんだ」
「ええっ……まさかあなた、フランディースが他の女に渡そうとしたものを横取りしたんですか!?」
「人聞きの悪いことを言うな! ちゃんと交渉して、納得済で交換してもらっただけだ!」
「へえ、交渉? 何と言ってフランディースを頷かせたんです?」
パトラーシュ皇帝フランディースは好色なことで有名で、後宮に多くの側妃を住まわせている。
とはいえ、女性一人一人に対しては誠実な男である。新妻のために用意したというペリドットも生半可に選んだものではないだろう。
ルドヴィークを弟のように可愛がっているとはいえ、そう簡単に譲ってもらえるとは思えない。
しかし、クロヴィスの胡乱げな顔を真正面から見つめてルドヴィークが言う。
「これこそが、私が思い描くソフィだ、と」
「……ほう?」
「いつも側で、皇帝としての私も、ただのルドヴィークとしての私も、分け隔てなく真っ直ぐに見つめてくれる、ソフィの瞳そのものだと言ったんだ。そうしたら、フランは納得してくれた」
「……なるほど」
同じ種類の宝石とはいえ、成分の含有量や生成の過程によって微妙に色合いが違ってくる。
ペリドットは緑色のものが主流だが、ルドヴィークがソフィリアの瞳そのものだと感じた原石は、かすかに赤みを帯びた柔らかな色合いをしていた。
もしかしたら、最初に用意されたペリドットの方が品質的には優れていたかもしれない。
しかし……
「ブローチを着けたソフィを見る度に、あの時妥協しなくてよかったと心から思うんだ。だから、私にとってあれ以上のペリドットはこの世に存在しない」
そう告げたルドヴィークの眼差しがあまりにも無垢で、クロヴィスは思わず胸を押さえた。
ソフィリアに対する彼の真摯な想いに、不覚にも感銘を受けたためである。
おそらく、当時のフランディースも同様に、ルドヴィークの言葉に胸を打たれたのではなかろうか。
だから、快くペリドットを譲ったのだろう。そうに違いない。
そんなふうに思い至ったクロヴィスは、大きく一つ頷いてルドヴィークに向き直った。
「弟が世話になったのでしたら、私もその恩に報いぬわけにはいきませんね。分かりました。モディーニ嬢の扱いに関してはあなたの意見を尊重しましょう」
「私も、遺産争いのほとぼりが覚めてレイヴィス家が落ち着いたら、パトラーシュに帰らせるのが妥当だと思っている。幸い、ライアンとモディーニの関係は良好のようだからな」
宰相と皇帝の兄弟はそう言い交わす。
そうこうしているうちに、時刻は午後三時――午後のお茶の時間に差し掛かった。
令嬢達からのお茶会という名の宣戦布告を受けて立ったモディーニの様子を窺いに行って、ソフィリアもルリも不在なこともあり、クロヴィスがお茶の用意を買って出る。
芳しいお茶の香りに促されるように、ルドヴィークもペンを置いてしばしの休憩。
何の気概もなく、兄の淹れたお茶に口を付けた時だった。
「しかし、あなたが案外元気そうで安心しましたよ。皇妃になるのは自分ではない、なんてソフィに言われて相当落ち込んでいるでしょうに」
「ぐふっ……!」
クロヴィスの呟きに、たちまちルドヴィークが咽せる。
「……っ、だ、誰に聞いたんだよ」
「ふふふ、私の情報網を甘くみてもらっては困ります」
「いや、ユリウスだろう。あいつ、私がモディーニの面倒を押し付けたことを根に持っているからな」
「さて、どうでしょう?」
二人の表情は、クロヴィスが皇帝執務室を訪れた時と見事に逆転した。
母后エリザベスの面影を残すルドヴィークの顔は、不貞腐れた表情と相俟ってどうにも子供っぽい。
玉座に就いてすでに十年。皇帝の仮面を被るのにも慣れた弟の、こうしてふいに見せる素の表情が、なんとも可愛らしいとクロヴィスは思う。
何より、ルドヴィークがこの皇帝執務室においても肩肘張らずにのびのびと仕事に取り組めるのは、ありのままの彼を受け入れ支えてくれる補佐官あってこそ。
クロヴィスは自分の淹れた紅茶で唇を湿らせてから、宰相ではなく兄の顔に戻って諭すように言う。
「ルド、ソフィリアは素敵な人です。八年前……スミレとの一件以来、彼女はまるで生まれ変わったみたいに魅力的な人間になった」
「……ああ」
「皇妃にならないと言ったのも、けしてあなたを拒否しているわけではないでしょう。彼女は、かつて皇妃候補の筆頭だった頃の自分を――世間知らずの公爵令嬢だった自分を引きずっているだけです」
「分かっている」
クロヴィスはカップを片手に持ったまま、ルドヴィークの執務机に反対の手をついて身を乗り出す。
「分かっているくせに、いつまで手をこまねいているつもりですか。自分が贈った宝石を身に着けてくれているからといって、彼女があなたのものになったわけじゃないんですよ。この、すっとこどっこい」
「すっとこ……? それ、何語……?」
スミレの世界の言語、略してスミレ語である。
馴染みのない言葉で罵られて目を白黒させるルドヴィークに、クロヴィスが畳み掛ける。
「いいですか、ルド。よーくお聞きなさい。大事なものがいつまでも自分の側にあるなんて思い上がっていてはいけません。ちゃんと捕まえておかないと、いつ何時横から掻っ攫われるやもしれないのですよ?」
「掻っ攫われるって、ソフィがどこかに引き抜かれるってことか? いや……いやいや! ソフィに限ってそんな……」
「ええい、おバカさん! 誰が役職の話をしていますか! ソフィリアが他の男に奪われるかもしれないって言ってるんですよ! このおバカ!!」
「バカって二回言った……って、ソフィが……他の男に……?」
とたん、ルドヴィークは顔を顰めて不快をあらわにした。
ガチャンと乱暴にソーサーに戻されたカップの中で、紅茶が跳ねる。
クロヴィスはそんな弟の顎を掴んでなおもぐいぐいと迫った。
「今のソフィはあなたの部下であって、恋人でも婚約者でもないんです。誰かが彼女に想いを寄せようと――その末に求婚しようとも、あなたにそれを邪魔する権利なんてありませんからね」
「……分かっている」
ルドヴィークは眉間に皺を寄せたまま言葉少なに答えると、頭を振って兄の手を振り払う。
皇帝家兄弟の末っ子は、長兄にも次兄にも似ず奥手なことこの上ない。
しかし、クロヴィスが吐きかけた呆れたようなため息は……
「三国間宰相会議が終わったら、ちゃんと自分の想いと向き合ってみるつもりだ。その後……ソフィに気持ちを伝えてみようと思う」
またしても、無垢なまでに真っ直ぐな眼差しでそう宣言するのを聞いて、安堵のため息に変わるのだった。
「そうですか、そうですか。うんうん、頑張りなさい。兄は、いつだってルドを応援しておりますからね」
「……めちゃくちゃ面白がってます、と顔に書いているが?」
恨めしげな弟に、泣く子も黙ると恐れられる鬼宰相は、ふふふと実に楽しそうに笑って見せた。
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