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第三章 二人の公爵令嬢
第十四話 信頼の証
しおりを挟む「ええっ? 髪を切るって……私が、ですか!?」
「うん、そう。ソフィが」
突然のことに、素っ頓狂な声を上げるソフィリアに向かい、スミレはにこりと微笑んで頷く。
対してソフィリアは、慌てて首を横に振った。
他人の髪はもちろん、自分の髪さえろくに切ったことのないソフィリアには、とてもじゃないが難易度が高すぎる。
「そういうことは、やはり専門の者に……せめて、侍女頭にお願いした方がいいんじゃないかしら?」
「私、よく知らない人に髪を触られるの苦手なんだよね」
「ですから、侍女頭あたりが適任かと……」
「侍女頭さんは、母后様と結託して私の髪で遊びそうだから、いや」
やだやだ、と駄々をこねる幼子のようにスミレが首を横に振った。
つい先日、その侍女頭がいたにもかかわらず、母后の私室でシオンが女装させられた事実を知っているだけに、ソフィリアもスミレの言葉を否定できない。
どうしたものか、と頬に片手を当てる彼女を、ずっと小柄なスミレが上目遣いに見上げてきた。
「ソフィは器用だし、信頼できるもの――ねぇ、お願い?」
「うっ……」
さっきのシオンそっくりなうるうるの紫色の瞳を前にして、ソフィリアは堪らず呻いた。
彼女の心の中には、いまだに幅を利かせている存在がある。
それは、グラディアトリアの女の子にとって永遠の妹、ドール・クリスティーナ。
そして、人形遊びをしたことがある者ならば一度は思ったことがあるだろう。
お人形さんの髪を、切ってみたい、と。
ソフィリアにも少なからず覚えがある。
それなのに、今もってクリスティーナ人形の面影を残すスミレが、その髪を切れと言うのだ。
実に抗い難い誘惑であったが、しかし大人になったソフィリアでは、いささか理性が邪魔をした。
「随分信用されているじゃないか、ソフィ。切ってやったらどうだ」
「……陛下」
面白そうな顔をして口を挟んでくるルドヴィークを、他人事だと思って、とソフィリアは恨みがましげに睨む。
困り果てた彼女は、実質的にスミレの全権を握る人物にお伺いを立てることにした。
「大公閣下、いかがいたしましょう。私としては、やはり侍女頭に……」
「いや、そなたさえよければ、切ってやってはもらえまいか」
「あああ……閣下まで! 本当に私でよろしいのですか!?」
「ああ、よろしく頼む」
ヴィオラントにまでこう言われてしまっては、さすがに断れない。
ソフィリアは覚悟を決めた。
「……分かりました、やってみます」
「やった!」
「ただし、完全な素人ですから、期待はしないでくださいね?」
「ソフィなら大丈夫だよ」
こうして皇帝執務室は、急遽床屋に早変わり。
ルドヴィークまでも仕事を脇に置いて、ソフィリアによるスミレの散髪を見学することになった。
ちょうど午後のお茶の時間。
多忙な皇帝陛下を和ませる、ちょっとした余興にもなろう。
ヴィオラントは当然のことながら、モディーニとユリウスもそのまま立ち合うつもりのようだ。
ただしシオンだけは、大人達の騒ぎにさっさと背中を向けた。
自らの過ちを懺悔してすっきりした上に、幸い父親にも叱られずに済んだ彼は、子供らしく立ち直りも早い。
「ユーリ君や、例のブツをここへ」
「いや、怪しい言い方するな? ただの散髪用具だろうが」
用意周到なスミレは、木材加工場から皇帝執務室に来るまでの間に、散髪用のハサミとケープ、それから切った髪が散らばるのを防ぐための大判の布まで手に入れていた。
当たり前のように荷物を運ばされたらしいユリウスが、文句を言いつつも床に布を広げ、どこからか調達してきた背もたれのない椅子を据える。
次期ロートリアス公爵である彼さえも、スミレに顎で使われるのに慣れている。
その椅子に座ったスミレの肩にケープをかけ、ソフィリアはついにハサミを握った。
「……」
「ソフィ?」
しかし、いざハサミをスミレの髪に当てるとなると、彼女は躊躇した。
今の状態ではそうするしかないと分かってはいても、切ってしまうのが惜しいような気がするのだ。
それに、片側だけ晒されたスミレの白い項を見ていると、何だか落ち着かない気持ちにもなった。
そこ刃物を近づけて、万が一にも傷をつけてしまっては、と身体が竦んでしまう。
「……」
ハサミを持つ手が汗ばむのを感じつつ、ソフィリアはごくりと唾を飲み込んだ。
すると、彼女の葛藤に気づいたらしいスミレが、その手からひょいとハサミを取り上げる。
かと思ったら、右側に残っていたおさげをむんずと掴んで、いきなりその根本にハサミを入れてしまったではないか。
ジャキリッ……
躊躇無く切り落とされた髪の束が、バサリ、といやに大きな音を立てて落ちる。
床に敷いた布の上に、世にも珍しい黒髪が広がった。
「いやああああ……」
思わず両手で頬を覆って悲痛な声を上げたソフィリアを、スミレは呆れた顔をして振り返る。
「ソフィってば、そんな顔しなくたって、どうせまた伸びるよ」
「で、でも……」
「いいから、ちゃちゃっと揃えちゃってよ。このままじゃ、格好悪すぎて母后様の所に戻れないんだってば」
「え、ええ……」
再び押し付けられハサミを握り直し、ソフィリアは先ほどよりもさらにあらわになった項を前に唾を飲み込む。
けれども、よくよく考えて見れば、その無防備さはソフィリアに対するスミレの信頼の証でもあった。
そう思い至ったとたん、案じるばかりだったソフィリアの気持ちに変化が現れる。
「――それでは、失礼します」
ソフィリアはそう断ると、スミレの黒髪に今度こそハサミを入れた。
ジャキ……ジャキ……
ジャキ、ジャキ……
ルドヴィークとヴィオラント、そしてモディーニとユリウスが固唾を呑んで見守る中、ソフィリアは一心にハサミを進める。
切り離された黒い髪の残骸が、ぱらぱらと床へと落ちていった。
幸い、スミレの髪は毛先が巻く質なおかげで、少し長さを整えればそれなりに格好が付く。
やがて、彼女の髪型は、肩に付くか付かないかという長さの、ふわふわのくるくる――ちょうど、ソフィリアと初めて出会った頃のように仕上がった。
「まあ、スミレ……」
それを目の当たりにしたソフィリアは得も言われぬ懐かしさを覚え、高鳴る胸をハサミを持っていない方の手で押さえる。
それから、心を落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、目の前のふわふわの黒髪をそっと撫でた。
「ソフィ、散々ためらっていた割に、上手く切ったじゃないか」
ソフィリアを労りつつ横から顔を出したルドヴィークも、思わずといった様子でスミレの髪に触れる。
さらに、失礼いたしますと断って手を伸ばしてきたのは、ずっと物珍しそうにスミレを眺めていたモディーニだ。
「すごく柔らかい……どうしてこんなにふわふわなんですか?」
モディーニも、初めて目の当たりにした黒髪とその手触りに感激している様子。
彼女につられたように、最終的にはユリウスまでもスミレの髪をわしゃわしゃと撫で回した。
「ちょっ……ちょっと、君達? なんなのなんなの!?」
とはいえ、寄ってたかって撫で回されるスミレの方はたまったものではない。
唇を尖らせて抗議しつつ、彼女はぶんぶんと頭を振って四人の手を拒んだ。
するとその動きに合わせて、短くなったくせ毛がふわんふわんと揺れる。
「「「「……!!」」」」
皮肉なことに、それがますますソフィリア達の好奇心を刺激してしまった。
「スミレ、あの、もうちょっとだけ……ね?」
「いや、懐かしいな。初めて見た時のあの衝撃を思い出した」
「ふわふわのくるんくるん……」
「この手触り、あれだ……洗い立ての羊毛」
再び伸びてきた手が、スミレの頭をなでなでなで。
ついに、我慢の限界に達した彼女は――
「うわっ、ちょっ、やめてっ……やめなさいってば――ヴィー、助けてぇ!!」
最強の召喚呪文を唱えた。
とたん、すっと伸びてきた腕が彼女を救い出す。
名残惜しげにふわふわな黒髪の行方を追った四人の視線の先で、スミレを軽々と抱き上げていたのは、もちろんヴィオラントだ。
彼は短くなった妻の髪を間近で眺め、ふっと吐息のような笑みをこぼした。
「出会った頃のようだな……懐かしい」
ヴィオラントは感慨深げにそう呟きつつ、スミレの髪に唇を寄せる。
さらには、短くなった髪の間から見え隠れする耳たぶを甘く食んだ。
スミレもくすくすとくすぐったそうに笑いながら、彼の首筋に両腕を回す。
そんなレイスウェイク大公爵夫妻のやりとりは、ソフィリアやルドヴィーク、そしてユリウスにとっては日常的な光景だった。
しかし、この日初めてレイスウェイク大公爵夫妻と対面したモディーニは、当然ながら彼らに対する免疫がない。
周囲の目をはばからぬ睦み合いは、十六になったばかりの少女には少々刺激が強すぎたらしい。
モディーニは熟れたリンゴみたいに頬を真っ赤にして、彼らから視線を逸らす。
異国の皇帝相手に連日求婚を繰り返す大胆さはどこへやら、年相応に初心な反応であった。
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