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第三章 二人の公爵令嬢
第十三話 父と子
しおりを挟む「――何やら取り込み中のようだが、邪魔をしてかまわないだろうか?」
開けっ放しになっていた皇帝執務室の扉を、コンコンと軽くノックする音とともに、そんな声が響いた。
その場にいた全員がはっとした顔になって、一斉に扉の方を見る。
最初に口を開いたのは、扉から一番遠い位置にいたこの部屋の主、ルドヴィークだった。
「あ、兄上……」
ルドヴィークには腹違いの兄が二人いるが、次兄であるクロヴィスのことはもう久しく〝兄上〟と呼んだ記憶がない。
彼がそう呼ぶのは、兄弟姉妹の長兄であるヴィオラントだけ。
つまり、この時扉をノックしたのは、レイスウェイク大公爵ヴィオラントであった。
ヴィオラントは開けっ放しになっていた皇帝執務室を覗き込み、そこに母后に預けたはずの妻子の姿を見つけて眉を上げる。
さらに、妻スミレの有様に気づいて両目を見開いた。
「スミレ、その髪は……」
「ち、父上っ!!」
しかし、何があったのかと尋ねる前に、シオンがその前に飛んでいく。
シオンは長身の父親の正面に立つと、しばしの逡巡の後、おずおずと口を開いた。
「父上、あの……あのね……」
「シオン?」
「スミレちゃんの髪……切れてしまったのは僕のせいなんです……」
「……ほう」
ヴィオラントが紫色の両目をすっと細めてシオンを見下ろす。
その眼差しは、時に大の大人でも竦み上がってしまうほど冷徹である。
しかし、すでに覚悟を決めていたシオンはそれをじっと見つめ返し、懸命に言葉を紡いだ。
「そ、それに……もう少しで、スミレちゃんに怪我をさせてしまうところでした」
王城の木材加工場において、大人の言い付けを破って工具に触れてしまったこと。
シックルが手から滑り、シオンを庇ったスミレの左のお下げを切り落としてしまったこと。
落ちてきたシックルは、スミレの左足ギリギリの地面に突き刺さり、間一髪だったこと。
シオンがそう告げたとたん、ヴィオラントがひゅっと息を呑んだ気配がした。
と同時に、その眉間に深々と皺が刻まれる。
口を噤んで見守るソフィリアは、あまりの緊張感に唾を飲み込まずにはいられなかった。
父の静かな怒りをひしひしと感じつつ、シオンは震える喉を叱咤する。
「それなのに、僕は、自分が父上に叱られることばかり考えていて……」
そこで、シオンはぐっと唇を噛み締める。
けれど、彼は震える声でもって続けた。
「ルド兄が言ってくれなかったら、自分がいけなかったことにも気づけませんでした」
「ごめんなさい……」
その場に、沈黙が落ちた。
ルドヴィークはシオンを庇おうと口を挟むこともなく、ただただ兄親子をやりとりを静観していた。
モディーニとユリウスは、そわそわとして居心地が悪そうだ。
ソフィリアは、ヴィオラントの心情を慮って内心はらはらしていたが、隣に立ったスミレが笑みさえ浮かべていたために、何とか口を出すのを堪えた。
「――そうか。わかった」
やがて、ふうと一つため息をついてから、ヴィオラントが静かな声でそう呟く。
それにビクリとしたシオンに、彼は穏やかな口調で続けた。
「ルドヴィークが、私に代わってそなたを叱ってくれたのだな」
「う、うん……」
「そして、そなたは自分の過ちに気づき、こうして私に包み隠さず打ち明けた」
「はい……」
こくり、とシオンが小さく頷く。
するとその頭を、ヴィオラントの大きな手が優しく撫でた。
きつく叱られることを覚悟していたシオンははっとして、頭に置かれた手を見上げる。
「そなたと母に、怪我がなくてよかった」
そう告げられたとたん、シオンの顔がくしゃりと歪んだ。
うるうるになっていた紫色の瞳がついに決壊する。
そんな彼を、ヴィオラントがふわりと抱き上げた。
「ちちうえええ……っ」
父親の首筋にしがみつき、シオンがついにしゃくり上げ始める。
ヴィオラントはその小さな背をぽんぽんと撫でてやりながら、ここでようやく歩み寄ってきた部屋の主と向かい合った。
「ルドヴィーク、シオンが世話になったな。父親として礼を言う」
「いいえ、兄上。出しゃばった真似をいたしました」
照れたような顔をするルドヴィークの肩を、ヴィオラントは感慨深い気持ちになりながらぽんと叩く。
ヴィオラントはもちろん、シオンの話を聞いてとてつもなく肝を冷やした。
スミレは、彼にとっては無二の宝。その髪を切り落とし、あまつさえ危険な目に遭わせたなんて――そもそもシオンの身も危うかったなどと聞いては、到底冷静でいられるはずもない。
本来なら、彼自らシオンを厳しく叱りつけるところだろう。
しかし、ルドヴィークがすでに自分に代わってシオンを叱ってくれたと知ったため、その顔を立てることにしたのだ。
そんなヴィオラントの思いは、ちゃんと彼にも伝わっていた。
敬愛する長兄からの信頼が、ルドヴィークはとても誇らしい。
「ルド兄、ありがと……」
「ああ、ちゃんと反省できて、シオンはえらいな」
また、小さな手で涙を拭いながら礼を言う甥っ子も、彼は可愛くてならなかった。
思わず破顔して、シオンの頭を撫で回すルドヴィークに、ヴィオラントが目を細めて告げる。
「そなたは、きっと良い父になるだろう」
「そ、そうでしょうか……」
年の離れた長兄は、ずっと父親代わりでもあった。
その彼からの言葉に、ルドヴィークはいささか恐縮する。
そんなやりとりを微笑ましい気持ちで眺めていたソフィリアだが、ふいに目があったヴィオラントがかすかに口の端を吊り上げるものだから驚いてしまう。
すぐにルドヴィークに視線を戻した彼は、珍しくおどけた風に言った。
「と、その前に。そなたも早く伴侶を迎えることだな」
「……兄上まで、そういうことをおっしゃるのですか」
とたんに、ルドヴィークはシオンを叱った時とは打って変わり、不貞腐れた子供のような顔をした。
「――さて」
ここで、ようやくヴィオラントの手によって皇帝執務室の扉が閉じられた。
つまり、先ほどまでの一連のやりとりは廊下にまで筒抜けだったわけだ。
偶然通りがかった者達は、いったい何ごとかと戸惑ったことだろう。
しかし、それを気にかける様子もなく、シオンを抱いたままヴィオラントが部屋の中へと足を進める。
そうして、彼はすいと片手を差し伸べた。
「スミレ、おいで」
「はーい」
スミレが素直にとことことやってくると、彼女の不揃いになった黒髪をヴィオラントが撫でる。
その手付きは、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧で慎重だ。
そのまま頬を撫でられれば、スミレは猫の子みたいに気持ちよさそうに目を細めた。
さらには、剥き出しになった左の首筋、肩、半袖から伸びた華奢な腕がゆったりと撫でられるのを、ソフィリア達は息を殺してただ見守る。
スミレの無事を自らの目と手でもって確かめたいというヴィオラントの気持ちが、痛いほど伝わってきたからだ。
彼がようやく安堵のため息をついた頃には、その腕の中ではシオンが大欠伸をしていた。
「これはもう、短い方に合わせて髪を切ってしまう他なかろうな」
「だよね。私もそう思ってここに来たんだ」
レイスウェイク大公爵夫妻はそう言って、仲良く頷き合う。
かと思ったら、スミレがくるりとソフィリアの方を振り返った。
「それじゃあ、ソフィ。お願い」
「……はい?」
いきなり名指しされたソフィリアは、当然のことながらわけが分からない。
彼女がきょとんとして首を傾げると、スミレも同じ方向にこてんと首を傾げて言った。
「ソフィ、私の髪を切ってくれない?」
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