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第三章 二人の公爵令嬢

第十二話 母と子

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 後頭部にきっちりと巻き上げた、ソフィリアの深い栗色の髪。
 まとめ髪を留めているのは、カンザシと呼ばれる串のような形をした髪留めだ。
 それをソフィリアに贈ってくれた親友――レイスウェイク大公爵夫人スミレがグラディアトリアにやって来て、もう八年。
 この世界ではまたと見ない彼女の黒髪は、最初は肩に付くか付かないかという長さだった。
 しかし、大公爵家に嫁いでドレスを着る機会が多くなると、それに似合うようにと髪を伸ばし始める。
 ふわふわくるくるのくせ毛は、伸びるに連れてうねりが緩くなった。
 ようやく背の中ほどまでの長さになった髪を、スミレはこの日、真ん中で二つに分けておさげにしていたらしい。
 ところが……

「「スミレ、その髪はっ……!?」」

 ようやく我に返ったソフィリアとルドヴィークが、口を揃えて叫ぶ。
 というのも、二本あるはずのスミレのおさげが一本に――左側の髪が、耳の下あたりでバッサリと刈り取られてしまっていたのだ。
 ソフィリアは居ても立っても居られず、扉の側で立ち止まったスミレに駆け寄った。

「スミレ、いったい何があったの? ど、どうしてこんなことに!?」
「いやー、まあー……ちょっとしたハプニングがありまして……」

 スミレは青い顔をするソフィリアに肩を竦めてみせてから、その〝ちょっとしたハプニング〟について話し始めた。


 騎士団第一隊の隊長カーティスの妻が、つい先日無事赤子を出産した。
 カーティスがパトラーシュより帰国した日の翌朝、つまり彼の休暇初日の早朝のことだ。
 まるで父親の帰宅に合わせたかのように生まれたのは、元気な男の子だったという。
 カーティスの義理の妹として、また赤子の母親の友人として、その吉報をおおいに喜んだスミレが、何か心の籠った祝いを贈りたいと考えるのも当然のことだろう。
 しかし、なかなかいい贈り物が思いつかないまま、この日、彼女は一家で王城を訪れた。
 夫であるヴィオラントが用を済ませる間、スミレは息子のシオンとともに母后を訪ね、お茶を飲みながら出産祝いの相談をしていたらしい。

「そしたら、あの子がなかなかいいアイデアをくれてさ」

 スミレがそう言って振り返った先――廊下に通じる扉から、一人の少女がひょっこりと顔を出した。
 続いてそのお守り役も、いささか気まずげな様子で姿を現す。

「まあ、モディーニさん……ユリウスも……」

 モディーニとユリウスが、ソフィリアと、シオンを抱いて執務机の前にいるルドヴィークに会釈する。
 ソフィリアは二人に部屋の中に入ることを勧め、スミレには話を続けるよう促した。

「それで、スミレ。何を贈ることにしたんです?」
「モビールだよ」
「モビール、ですか……?」
「うん。天井からぶら下げて飾るオブジェのこと」

 その材料には、糸や紙、針金の他に、木やフェルト生地などがよく使われる。
 糸で吊るされた飾りが、風や空気の流れでゆらゆらと揺れ、バランスを取りながら不規則に動く様は見ていて楽しいものだ。
 動物や花などを象った可愛らしい飾りを赤子のベッドの上に吊るし、その気を引いてあやすのにも重宝される、とモディーニが提案したらしい。

「兄の赤ちゃん……甥が、モビールが揺れるととってもご機嫌だったのを思い出したんです」

 現レイヴェス公爵ライアン・リア・レイヴィスには、一歳になる男の子供がいる。
 同じ屋敷で暮らしていたモディーニは、それを随分と可愛がっていたようだ。
 甥のことを思い出したのか、彼女は愛おしげに頬を綻ばせた。
 スミレはそんなモディーニの様子にうんうんと頷いてから、それでね、と話を戻す。
 
「原理が分かったら自分でも作れるかなと思って、お城の木材加工場にお邪魔したんだけど……」

 王城の一角にある小さな加工場は、敷地内に植えられている木を伐採したり剪定した際に出る木材を再利用するための部署である。
 スミレはそこで適当な木片をもらい、モビール用の飾りを作ることにしたのだ。
 面白そうだから、とシオンとモディーニも付いてくれば、必然的に彼らのお守役を任されたのがユリウスである。

「スミレに、刃物なんか持たせるもんじゃない。胃に穴が開くかと思った……」
「木を切るのって、簡単そうで結構難しいのよね」

 危なっかしい手付きで木片を切り始めたスミレに、ユリウスははらはらし通しだったらしい。
 しまいには、自分がやるから、と彼女の手からのこぎりを取り上げた。

「それで、結局スミレの髪はどうしてこうなったんだ?」

 ユリウスに同情の眼差しを送りながら、ルドヴィークがそう口を挟む。
 すると、彼の腕の中にいたシオンが、さらにぎゅうぎゅうとときつくしがみついてきた。
 スミレのおさげが一本無くなった原因――それは、シオンにあった。
 突然訪ねてきた一行を快く迎えてくれた加工場の技師達だったが、シオンにだけは工具を触らせなかった。
 彼はまだ七歳と幼い。
 怪我をしては大変だから、と技師達が慎重になるのも無理からぬことだろう。
 しかし、しっかり者できかん気なシオンはそれが不満だった。
 だから、大人達が危なっかしいスミレの手付きをはらはらしながら見守っている隙に、こっそり工具を手に取ろうとしたのだ。
 スミレ達がいる作業台のすぐ後ろには、大きな切り株が置かれていた。
 シオンはそこに突き刺さっていた工具を持ち上げた――つもりだった。
 ところが切り株から引っこ抜いた拍子に、工具の柄は勢い余ってシオンの小さな手をすぽんと滑り抜け、上へと吹っ飛ぶ。
 しかもそれは、斧などよりもさらに切れ味の鋭い小型の鎌、シックルだったのだ。
 ビュンと飛んだシックルに驚いたシオンは、わっと声を上げ、とっさに頭を庇って身を丸くする。
 すると、すかさず彼を頭からすっぽり包み込むようにして抱き締めたものがあった。
 誰よりも早く駆け寄ってきたスミレである。
 その直後、シックルはスミレの左脇をかすめ、彼女の左足ぎりぎりの地面に突き刺さったのだった。

「まあ! まあまあ、なんてことっ……!?」
「そんな、危ないことがあったのか!!」

 話を聞いてますます青くなったソフィリアは、慌ててスミレを見た。
 ルドヴィークも、膝の上のシオンを持ち上げてあちこち検分する。
 幸い、二人にはかすり傷一つなかった。犠牲になったのは、スミレの黒髪だけだったようだ。

「ああ、よかった……びっくりさせないで、スミレ」
「まったく、肝が冷えるようなことをしてくれるな……」

 二人の無事を確かめたソフィリアとルドヴィークは、ひとまず胸を撫で下ろす。
 しかし、それで安心していられないのがシオンだった。

「よかった、じゃないよぉ、ルド兄!」
「うん?」
「スミレちゃんの髪、切れちゃった! あれ、どうしよう!!」
「ああ、そうだな。髪なぁ……」

 片方だけ短くなった髪を、スミレが物珍しげに指で弄んでいる。
 当の本人がこの通り暢気なのに対し、シオンは頭を抱えてうんうんと唸り始めた。

「あああ……どうしよう……よりにもよって、スミレちゃんの髪が切れちゃうなんて……」

 どうしようと言われても、切れてしまったものは最早どうしようもない。
 ソフィリアと顔を見合わせて苦笑いを浮かべるルドヴィークだったが、しかしシオンが続けた言葉を耳にしたん、ぴくんと眉を跳ね上げた。

「ホントついてない……父上、怒るだろうなぁ……」
「――シオン」

 とたんに固くなったルドヴィークの声。
 その腕の中で頭を抱えていたシオンは、きょとんとして彼を見上げる。
 しかしそこにいたのは、いつもの優しい眼差しとは打って変わり、シオンが初めて目にするような厳しい表情をした叔父だった。

「シオン、落ち着いてよく考えてみなさい。問題は、父上に叱られるかどうかではないだろう」
「ルド兄……?」

 シオンが、両目をぱちくりさせる。
 ルドヴィークはそれをまっすぐに見据え、厳しい声のまま続けた。

「加工場の技師達が工具に触らせなかったのは、お前がまだ子供だからだ。お前がそれで怪我をすること、そして、お前がそれを持つことで誰かが怪我をすることを恐れたからだ」
「う、うん……」
「彼らの言い付けを破って工具に手をかけた時、お前はそれを考えたか? 工具を持つことによって自分が傷つき、あるいは人を傷つけるかもしれないことを、少しも考えなかったのか?」
「あ……」

 ルドヴィークの言葉を理解したのだろう。シオンの顔がみるみる青ざめていく。
 彼の両目をしっかりと見据えたまま、ルドヴィークはなおも続けた。

「お前が怪我をしたら、たくさんの者が悲しむだろう。そして、もしも自分のせいで母上を傷つけていたら、お前は自分を許せたか!?」
「――!」

 とたん、シオンはぶんぶんと頭を大きく横に振った。
 そして、一瞬ぶるりと身体を震わせたかと思ったら、青い顔のまま首を巡らせる。
 その視線の先では、母スミレが、いまだ扉の近くにソフィリアと並んで立っていた。
 シオンはルドヴィークの膝の上から飛び降り、一直線に母のもとに突進する。

「スミレちゃんっ……!!」
「――おぅふっ!」

 勢いよく飛びついてきた子供を受け止め、スミレが呻きつつよろける。
 ソフィリアは慌てて手を差し伸べ、小柄な彼女を支えた。

「スミレちゃん、スミレちゃんっ……スミレちゃん!!」
「はいはい、スミレちゃんですよ」

 シオンはスミレの腹に顔を埋め、腰に両手を回してぎゅうぎゅうとしがみつく。
 ソフィリアとスミレは顔を見合わせ、それから二人して白銀色の小さな頭を見下ろした。
 やがて、スミレがくすりと笑みをこぼしつつ、その頭をぽんぽんと撫でる。
 母に笑われたと感じたのか、シオンは少しばつが悪そうな、あるいは不貞腐れたような声でぽつりぽつりと呟いた。

「技師さんの言うこときかなかったから、僕が全部悪い……」
「うーん、そうかもねぇ」
「なのに……スミレちゃんは、どうして僕を庇ったりしたの……?」
「――はぁ!?」

 とたん、スミレが素っ頓狂な声を上げる。
 彼女は息子の白銀色の髪をぐしゃぐしゃに掻き回すと、何を分かりきったことを、と呆れたように言った。

「そんなの、私がシオン君のお母さんだから――シオン君が、私にとって一等大事な子だからに決まってるじゃん」

 普段はなかなか母親らしい言動のないスミレ。相変わらず少女めいた見た目のせいで、シオンと並べば姉弟にしか見えない。
 それでも彼女は、やはり我が子を思う一人の母親だった。
 スミレの腹に顔を埋めたまま、シオンはついに声を震わせる。

「……ごめん、ごめんなさい。言うこときかないで、危ないことしちゃってごめんなさい」
「うんうん」
「髪も……ごめんなさい。せっかく伸ばしてたのに、切れちゃってごめんなさい」
「いーよ、髪なんかまた伸びるし、シオン君に怪我がなかったんだもの。それに、シオン君自身、ちゃんと反省することを覚えたんだから、ママとしては結果オーライだよ」

 それを聞いたシオンは、ようやくスミレの腹から顔を上げた。
 そして、潤んだ瞳で母を見上げ、覚悟を決めた様子で告げる。

「僕……父上にもごめんなさいする。怒られてもいいから、ちゃんと自分で言ってくる」
「ん」

 シオンの髪を、今度は両手で優しく撫でて整えたスミレが、にこりとして頷く。
 すぐ側で見守っていたソフィリアは、そんな母子のやりとりに胸が温かくなるのを感じた。
 ふとルドヴィークを窺えば、先ほどシオンに向けた厳しい表情からは一変して、慈しむような笑みを浮かべている。
 扉の脇にもたれて成り行きを見守っていたユリウスも、ほっと胸を撫で下ろした様子だった。
 ただ、その側に佇むモディーニだけは、じっと何やら考え込むような表情をして一点を見つめている。
 その視線の先にいたのは――ルドヴィーク。

「……」

 それに気づいた時、ソフィリアは胸の奥が小さく騒いだような気がした。

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