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第二章 緑の上手な育て方
第六話 ごきげんよう
しおりを挟む「――あら、ソフィリア様。ごきげんよう」
皇帝ルドヴィークが隣国パトラーシュから帰国した翌日――その午後のこと。
図書館からの帰りで、分厚い書物を三冊ばかり抱えていたソフィリアの背中に声がかかったのは、王城の長い廊下を歩いていた時だった。
振り返ったソフィリアは、背後に並んだ見知った顔に苦笑いを浮かべたくなるのを堪える。
代わりに、親しげな微笑みを顔面に張り付けて口を開いた。
「まあ、皆さん。ごきげんよう」
視線の先には四人の妙齢の女性が立っており、ソフィリアはその全員と面識があった。
先頭にいるのが侯爵令嬢で、その背に続く取り巻きは二人が伯爵令嬢、一人は子爵令嬢だ。
特に侯爵令嬢は、皇妃候補として名が上がったこともあったはず。
そんな令嬢達は揃いも揃って、パーティがあるわけでもないのに、随分と華やかな衣装を纏っている。
対するソフィリアはというと、相変わらず濃紺の質素なワンピースとかかとの低いパンプス。
また、令嬢達が様々な宝飾品を身に着けているのに対し、ソフィリアの飾りといえば、スミレが誕生日にくれたカンザシと襟元に巻いたシルクのスカーフ、そして、それを留めたペリドットのブローチくらいのささやかなものだ。
そんなソフィリアの姿は、かつてのロートリアス公爵令嬢を知る者の目にはさぞ地味に映ったことだろう。
彼女の上から下までじろりと眺めた侯爵令嬢が、嘲笑に歪んだ口元を広げた扇で隠す。
そのくせ、表面上はさも親しい様子で口を開いた。
「これから、庭園の一角をお借りしてお茶会を開きますの。ソフィリア様もご一緒にいかがですか?」
お茶会は、貴族の女性にとっては大切な社交の場――そして、戦いの場でもある。
しかし、皇妃候補の戦いの舞台から降りた時点で、令嬢達にとってソフィリアは敵にも値しない存在になった。
令嬢達はソフィリアとお茶を楽しみたいわけでも、親交を深めたいわけでもない。
ただただ、地味になったロートリアス公爵令嬢に対する優越感に浸り、自分達の引き立て役にしたいだけなのだ。
着飾った令嬢達に囲まれれば、質素な格好の彼女はさぞ味気なく見えることだろう。
ソフィリアには、そんな令嬢達の思惑が手にとるように分かった。
とはいえ、今の彼女にとっては別段腹を立てるようなことでもない。
「せっかくですけれど、この後予定がございますの。ごめんなさいね」
ソフィリアは分厚い書物を抱え直しながら、殊更申し訳なさそうにそう言った。
とたんに令嬢達が、残念だの、ソフィリアの話を聞きたかったのにだのと、口々に言い始める。
あまりに白々しい様子に、結局堪え切れずに苦笑を浮かべたソフィリアは、これ以上茶番に付き合うのはごめんだとばかりに、早々に立ち去ろうとした。
と、その時である。
「――ソフィ、ここにいたのか」
ソフィリアと向かい合っていた四人の令嬢達の背後から、突然声がかかった。
それを耳にしたとたん、地味になったソフィリアを扇の奥で嘲笑していた唇達が、媚びた笑みへと一転する。
令嬢達が一斉に背後を振り返った。
「まあ、陛下!?」
「陛下、ご機嫌麗しゅうございます!」
「お会いできて嬉しいですわ!」
「陛下、ご一緒にお茶はいかがですか?」
声の主は、ルドヴィークだった。
若き皇帝陛下の登場に、令嬢達はたちまち頬を薔薇色に染め、我先にとさえずり始める。
ところがルドヴィークは、まとわりつく黄色い声とたおやかな手をやんわりと拒みつつ、彼女達の間を突っ切ってソフィリアの前までやってきた。
そうして、当たり前のように彼女の手から書物を取り上げて言う。
「一緒にきてくれ、ソフィ。お前がいないことには、どうにもならない」
ソフィリアが――ソフィリアこそが必要だ、と殊更強調されたその台詞。
頬を染めていた令嬢達はとたんに眉を顰め、互いに顔を見合わせた。
続いて、ちくちくと突き刺さり始めた羨望と嫉妬の眼差しに、ソフィリアはやれやれと心中ため息をつく。
元凶たるルドヴィークは書物を小脇に抱えると、空いた手で彼女の手を取った。
そうして、もの言いたげな令嬢達の方を一度も振り返ることなく歩き出す。
おかげでソフィリアの背中に突き刺さる視線は、針のように鋭くなった。
「陛下、どうかなさいまして?」
一方、ルドヴィークは無言のままずんずんと廊下を進んで行く。
大人しく手を引かれて付いていきながらも、ソフィリアは首を傾げた。
しかし、彼の歩みが緩む気配はない。
「陛下ったら、ご機嫌斜めでいらっしゃいます?」
「……」
なおも、ルドヴィークからは返事がない。ソフィリアはかまわず続けた。
「閣下との会談で、何かございました?」
「……」
この日、ルドヴィークは正午過ぎより宰相執務室を訪ねていた。
昨日まで訪問していた隣国パトラーシュについて、宰相クロヴィスと話すことがあったのだ。
しかも、数日後には、東で国境を接する隣国コンラートも交えて、恒例の三国間宰相会議を控えているため尚更である。
血を分けた実の兄弟とはいえ、皇帝であるルドヴィークの方が立場は上だ。
本当なら、クロヴィスの方から皇帝執務室に赴くべきだろう。
しかし、相手を呼びつけるよりも、用があれば自分の方から出向いていくのがルドヴィークであり、クロヴィス以外に対してもそうである。
そんなこともあって、親しみやすい皇帝として王城内でも彼の人気は非常に高い。
強烈なカリスマ性を誇り、グラディアトリアの大改革を成し遂げた先帝ヴィオラントとは、いまだに比べられることも少なくはないが、穏やかでいてどこか少年っぽさを残したルドヴィークを国民はとても愛していた。
ソフィリアはそんな愛すべき主君であり、同い年の友人でもある男の背中を見上げて続ける。
「もしかして……昨夜のことで、閣下から苦言をいただいてしまいましたか?」
パトラーシュから飲まず食わずで馬を飛ばして帰ってきたルドヴィークのため、ソフィリアは昨夜遅くクロヴィスとルリ――リュネブルク公爵夫妻の私室を訪ねた。
その時、二人ともルドヴィークの帰還に安堵した様子であったし、軽食を作ってほしいとの急な頼みをルリは快く引き受けてくれた。ソフィリアは、彼女に本当に感謝している。
ただ、せっかくの夫妻水入らずの時間を邪魔してしまったことを、ソフィリアは少なからず申し訳なく思っていたのだ。
「ルリに無理を言ったのは私です。私の方からも、改めて閣下とルリに謝罪に伺った方がよろしいでしょうか……」
兄弟の気安さから、ルドヴィークがクロヴィスから文句の一つや二つ、いや、九つも十もぶつけられたのではあるまいか、とソフィリアはとたんに不安になった。
すると、ルドヴィークはようやく歩みを緩め、ソフィリアを振り返って、いや、と首を横に振る。
「昨夜、ルリの手を煩わせたことについては、本人も好きでやったことだから気にするなと言われた」
「そうでございましたか」
「フランのお節介を上手く躱せなかったこと関しては……散々馬鹿にされたがな」
「まあ……」
なるほど、それでご機嫌斜めなのか、とソフィリアは納得しそうになる。
しかし、ルドヴィークの話は終わってはいなかった。
「……さっき連中」
「え?」
「ソフィは、あんな者達の話にいちいち耳を貸す必要なんかないんだ」
「あら」
両目をぱちくりさせるソフィリアの前で、ルドヴィークは宙を睨みつけるようにして続ける。
「日がな一日、茶を飲んで喋くっているだけ者達に、国のために尽くしているお前が煩わされるのは、我慢ならん」
「まあまあ……」
どうやらルドヴィークは、さっきの令嬢達が扇の裏でソフィリアを嘲笑ったと見抜いていたようだ。
それが、彼が機嫌を損ねたそもそもの原因らしい。
まるで、不貞腐れた子供のようなルドヴィークの表情に、ソフィリアは堪らずくすりと笑う。
それを見て、余計にむっとしたような顔になった彼に、ソフィリアは笑みを浮かべたまま言った。
「ご心配なく、陛下。あの方達に何を言われようと、何と思われようと、私は平気です。だって今の私を、陛下がちゃんと認めてくださっていますもの。そんな私の誇りを、他の誰かが貶めることなどできましょうか」
「ソフィ……」
先ほどの令嬢達の態度がまったく気にならない、と言えば嘘になるかもしれない。
しかしソフィリアは、かつては自分も彼女達と同じような人間であったことを自覚していた。
貴族の娘として生まれ、蝶よ花よと育てられた。高価な衣服で身を飾り、使用人にかしづかれる毎日を当たり前だと思い込んでいたのだ。
けれども安定や贅沢と引き換えに、貴族の娘達は親や夫が敷いた軌道の上をただただ従順に進んでいく生き方しか許されない。だから彼女達は、せめてその道行きが人よりも優れたものであることを願い、必死に自尊心を満たそうとするのだ。
そんな令嬢達の気持ちは、もしかしたらルドヴィークには一生理解できないかもしれない。
しかしソフィリアは、八年前のスミレとのことがなければ、彼女達と同じように母親が敷いた軌道の上を淡々と歩いていくだけの人生だっただろう。
あの時、軌道を外れたことは、ソフィリアの人生にとって大きな事故であった。
けれど、それによって彼女の世界は無限に広がり、ただのロートリアス公爵令嬢では出会えなかったであろう幸せを得たのだ。
もはやソフィリアは、優雅なお茶会にも、先ほどの令嬢達のようなきらびやかなドレスにも、何の魅力も感じなくなっていた。
逆に、窮屈な生き方にしがみついている彼女達を、少し気の毒に感じるほどだ。
にもかかわらず、ルドヴィークはなおも不貞腐れた顔のまま。
「ソフィが舐められては、私が面白くない。ソフィもソフィだぞ。連中の誘いを断る時にはっきり言ってやればよかったんだ」
「あら?」
「〝これから母后陛下のお茶会に招待されているのに、お前達とまずい茶など飲むはずがないだろう〟ってな」
「まっ、陛下ったら。お言葉が過ぎますわよ」
ついには吐き捨てるように言うのを、ソフィリアは苦笑を浮かべて諌める。
とはいえルドヴィークの言う通り、ソフィリアは彼とともに母后陛下の私室に呼ばれていた。
さっきの令嬢達ならば喉から手が出るほど欲しがるであろう招待を、ソフィリアは受けているわけだ。
けれども、それをわざわざ彼女達の前で口にして煽るのは本意ではない。
そんなソフィリアを、ルドヴィークはじっと見つめて続けた。
「連中の飾り立てたドレスよりも、私はソフィの今の格好の方がずっと上品で好きだ。髪留めはまたと見ないものであるし、スカーフも洗練されていると思う。何より、どれもお前に似合っている」
「へ、陛下……」
まるで口説くような言葉を平然と並べ立てるルドヴィークに、さしものソフィリアもたじたじとする。
とはいえ、彼はただ率直な意見を述べたに過ぎず、そこに他意はないようだ。
ソフィリアは、ルドヴィークに掴まれていない方の手を胸に当て、一つ深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
そうして、スカーフを留めたペリドットのブローチをそっと掌で包み込み、側にある青い瞳を見返して言った。
「母后陛下のお茶会にお呼ばれしていることはともかくとして――このブローチを陛下にいただいたことは、自慢してやればよかったですわ」
それを聞いたルドヴィークの眉間から、やっと皺が消えた。
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