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第一章 皇妃候補から外れた公爵令嬢
第三話 公爵令嬢の自立
しおりを挟む時計の短針は、いつの間にか九を指している。
完全に日が落ちると、とたんに雨脚が強まった。
皇帝執務室での仕事を一通り終え、ルドヴィークにサインをもらうだけの書類をまとめて、ソフィリアは再び私室に戻ってくる。
窓辺のテーブルの上では、スミレが作ってくれた誕生日祝いのケーキがその帰りを待っていた。
六等分されていたケーキのうち二切れは、午後のお茶の時間にソフィリアがスミレと食べ、甘い物に目がない父とその側近にも一切れずつ進呈したので、残るはあと二切れ。
スミレはルドヴィークにも食べさせてやってほしいと言っていたが、いまだ彼が戻る気配はない。
(きっと、今日はお戻りにならないわ……)
ソフィリアはそう思いつつも、ちらちらと窓の外を気にしていた。
『だって、今日はソフィの誕生日だもん。ルドは帰ってくるよ』
そう自信満々に言い切ったスミレの声が耳から離れず、どうにも落ち着かないのだ。
やがて居ても立っても居られなくなったソフィリアは、大判のタオルを抱えて私室を後にする。
そうして、王城の玄関へと向かう途中、一階の廊下でとある人物と出会した。
「こんばんは、閣下。お疲れ様でございます」
「おや、ソフィリア。こんばんは」
廊下の向こうから歩いてきたのは、宰相クロヴィス・オル・リュネブルク。
ルドヴィークの腹違いの兄であり、リュネブルク公爵家の現当主でもある彼は、帝都の南西に大きな屋敷をかまえている。
にもかかわらず、忙しくて毎日帰っていられないとのことで、王宮に部屋を得て妻と共に暮らしていた。
そんなクロヴィスも、ようやくこの日の仕事を終え、その夫婦の私室に戻るところのようだ。
対照的に、これからどこかに向かおうとするソフィリアに、彼は首を傾げた。
「ソフィリアももう仕事は終わったのでしょう? こんな時間にどうしました?」
「あの……陛下のお戻りの予定が、今日だったものですから」
「ああ、パトラーシュを訪問して予定が狂うのは、いつものことですね」
「はい……」
クロヴィスもパトラーシュ皇帝のおせっかいはよく知っている。
そのため、弟皇帝が予定通りに帰ってこなくても心配している様子はなかった。
眼鏡を指で押し上げながら、宰相閣下は空を見上げて肩を竦める。
雨は、ひどくなる一方だった。
「どちらにしろ、こんな天気ですから、あちらで足止めを食らっていますよ。ルドがいくら帰ると言い張っても、ジョルトが止めるでしょうしね」
「そう……ですよね……」
今回、護衛としてルドヴィークの外遊に随行しているのは、グラディアトリア最強と名高い騎士団長ジョルト・クル・オルセオロ。オルセオロ公爵家の当主であり、先帝ヴィオラントを数多の刃から守り抜いた男だ。
また同じく騎士団から、第一隊の隊長カーティスとソフィリアの弟ユリウスも騎乗にて随行していた。
グラディアトリアより西にあるパトラーシュは、天気が先に崩れ始める。
こちらで夕刻に雨が降り始めたのだから、あちらではもう昼過ぎには雨雲が厚くなっていたはずだ。
そんな空を見れば、賢明な騎士団長はパトラーシュでの滞在を翌日まで延ばすに違いない。
つまり、やはり本日中にルドヴィークが帰城することはありえないのだ。
けれども……
「ですが、閣下。スミレが、きっと陛下は今日帰っていらっしゃると言うんです」
「はあ、まったく……あのちび義姉上はまた、根拠もなくそんなことを言ったんですか?」
「でも、スミレが言うと本当にそうなるような気がするから、不思議ですね」
「ああ、そうでした。あなたも熱心なスミレ信者でしたねぇ。うちのルリと一緒で……」
クロヴィスがやれやれとため息をついて口にしたルリとは、彼の妻――つまりリュネブルク公爵夫人の名である。
現在も母后陛下の侍女を務めるルリは、かつてスミレが結んだ縁によってクロヴィスと知り合い、恋に落ちて結婚した。
おかげで、ソフィリア同様にスミレに対して特別な思い入れがあるらしく、彼女を実の妹のように大切に思っている。
とはいえ実際は、クロヴィスはヴィオラントの同腹の弟であることから、彼らと婚姻関係にあるスミレとルリの間柄は義理の姉妹となり、この場合前者が姉で後者が妹。
そのため、スミレは年上のクロヴィスやルリに対しても、ことあるごとに姉ぶって見せる。
もちろんそれは、皇帝家の末っ子にあたるルドヴィークの前でも変わらない。
〝ちっちゃな義姉上〟には、誰も彼も敵わないのだ。
呆れたようなため息をつきつつも、そんなスミレと戯れるルリの姿を思い浮かべたのか、クロヴィスの表情が目に見えて柔らかくなった。
ちなみにこの日、ソフィリアはリュネブルク公爵夫妻から昼食のお誘いをいただき、ルリの手料理でもって誕生日を祝ってもらっている。
そんな楽しい一時を思い出しつつ、ソフィリアはタオルを抱え直して言った。
「帰っていらっしゃらないかもしれませんが……少しだけ、待ってみます」
「そうですか。ですが、あまり遅くならないようになさい。明日の仕事に響かないように」
「はい、閣下。おやすみなさいませ」
「おやすみ、ソフィリア」
王城の正面には庭園が広がっており、その真ん中を突っ切るように城門までまっすぐに道が設けられている。
ソフィリアは屋根のある玄関の柱に凭れ、しとしとと降り続く雨を眺めていた。
雨で濡れて濃くなった土の匂いが、辺りを覆っている。
己を次期皇妃と思い込んでいた時には、ほとんど嗅ぐこともなかった匂いだ。
革の靴の先にじんわりと染みる冷えた空気と、じっとりと重い湿気の気配さえ、あの頃のソフィリアには縁遠いものだった。
綺麗なものだけ見て、綺麗なものだけで身を堅め、それが当たり前だと思い込んでいたあの頃のソフィリアはひどく幼く、そして無知であった。
スミレと文通を続けていた一年間、ソフィリアは己の生き方を模索した。
それまで、半ば義務のように感じて参加していたサロンにも顔を出さなくなった。
綺麗に着飾り、甘いお菓子が並んだテーブルを囲んで、探り合うのは見えもしない互いの腹の中。
そんな無意味なやりとりが、ソフィリアは本当はずっと好きではなかったのだ。
やがて、ダンスの教師に暇を出し、ドレスを新調しろとしつこい仕立て屋にも会わなくなった。
そうして出来た時間を、ソフィリアは学ぶことに当てていく。
彼女は元来、勉強が好きだった。
ところが古い侯爵家であるコルチネット家出身の母は、それをよしとしなかった。
彼女は、皇妃となる娘に必要なのは政治や歴史を学ぶことではなく、皇帝を魅了する気品と美しさであると考えていたため、ソフィリアが一般教養以上のことを学ぼうとすると眉を顰めたのだ。
そんな母だが、事件を起こして以来、口もきいてくれなくなった。
ソフィリアはそれが悲しかったものの、母の干渉がなくなったおかげで自由に使える時間が増えていく。
また、仕事にかまけて家庭を蔑ろにしたことを反省した父ロートリアス公爵が、こまめに家に帰ってきてソフィリアとじっくり向かい合ってくれるようになったのも大きい。
いつも遠く他人のように感じていた父は、先帝陛下からも現皇帝陛下からも信頼される、尊敬すべき人だった。
そんな父は、国政について深く学びたいと打ち明けた娘に、王城の図書館に通うことを勧める。
図書館の責任者である司書長は、かつては皇子や皇女相手に教鞭を執っていた人物で、ソフィリアにとってもよい教師になると考えたのだ。
かくして、父に引っ付いて王城に通い詰め、司書長の手伝いをしながら夢中で勉強をする日々が始まる。
そうして、事件から一年後。
スミレとの再会を果たしたソフィリアは、その数日後には文官の試験を受けることを許された。
それに見事合格した彼女を、まず最初に部下として起用してくれたのが、何を隠そう先ほどすれ違った宰相クロヴィスだ。
そこにはおそらく、スミレや父の口添えがあっただろう。
ソフィリアが師事した司書長が推薦してくれたことも大きいに違いない。
しかし、いくら親しい者に頼まれたとしても、仕事に対しては誰よりも厳しい鬼宰相が使えない人間を側に置くはずがない。
クロヴィスも、ある程度ソフィリアの実力を買ってくれたのだと思っていいだろう。
ソフィリアはこの起用を機に、ロートリアス公爵家を出て王宮で暮らし始める。
その決断に、母は案の定激怒したが、幸い父の方は賛成してくれた。
文官の質素なワンピースに合わせるスカーフを、今でも時折贈ってくれるのも父だ。
お洒落に疎い父が、年頃の娘に似合うものをと頭を悩ませている姿を想像して、ソフィリアは微笑ましい気持ちになる。
とはいえ、使用人にかしづかれて蝶よ花よと育った公爵令嬢の一人暮らしは、そう容易なことではなかった。
簡単な化粧も一人でしたことがなく、部屋の掃除やベッドメイクなどといった雑用にも不慣れ。
そんなソフィリアを助けてくれたのは、クロヴィスの妻となったルリだった。
自立しようと奮闘するソフィリアを好ましく思った母后陛下が、自分の侍女であるルリを遣わしてくれたのだ。
慎ましく穏やかな性格のルリとは、同い年であったこと、またお互いスミレに特別な思い入れがあったことで、たちまち意気投合。
ロートリアス公爵家の娘ということで、当初は近隣の部屋の住む侍女達からは遠巻きにされたものの、ルリが橋渡しをしてくれたおかげで打ち解けるのにもそう時間はかからなかった。
こうして数多の優しさに支えられ、ソフィリアは新しい人生へと自らの足で踏み出す。
泣く子も黙る鬼宰相の下で期待以上の働きをした彼女は、五年後、その推薦を得てついに皇帝執務室付きとなった。
今から二年前のことだ。
「――ソフィリア様?」
「あら、ダリス。お疲れ様です」
雨を眺めながら過去に想いを馳せていたソフィリアに、そっと声をかけてきたのは騎士団の制服をまとった青年だった。
ダリスはロートリアス公爵家とは遠縁に当たる下級貴族の出で、同じ年に生まれたソフィリアの従者となるべく育てられた。
八年前のスミレ誘拐事件の実行犯であり、あの時唯一意識を保っていたがために、ヴィオラントの怒りに直に晒された人物でもある。
彼もソフィリア同様罪には問われなかったが、ぬるま湯のような環境に甘え驕っていた自身に気付き、その後騎士団に志願。現在は、オルセオロ公爵夫人であり皇姉でもある騎士団副長ミリアニスの補佐官として、後進の育成に力を注いでいる。
また私生活においてはつい先日、王城で働く侍女との五年越しの恋を実らせ結婚式を挙げたばかり。
その式に古くからの友人として出席したソフィリアには今朝、ダリスとその新妻からも誕生日祝いが届けられていた。
「今朝は、素敵な花束をどうもありがとう。執務机の上に飾って、仕事をしながらじっくり堪能させてもらったわ。奥様にも、よろしくお伝えしてちょうだいね」
「そう言っていただけると光栄です。妻も、喜びます」
八年前に比べて随分と雰囲気が柔らかくなったダリスは、ソフィリアの言葉に微笑んで頷いた。
しかし、彼女がタオルを抱えているのに目を留めると、とたんに首を捻る。
「それで、ソフィリア様はこんな時間にいかがなさいましたか?」
「陛下のお帰りをね、待っているんです」
「陛下の? いや、ですが、この天気では……」
ダリスはソフィリアの傍らに立ち、戸惑った顔をして空を見上げた。
こんな雨の中、こんな時間に、ルドヴィークが帰ってくるのは難しいだろう。
先ほど出会したクロヴィス同様、ダリスがそう言わんとしているのが痛いほど分かったソフィリアは、そうね、と小さく頷く。
それでも、どうしてもこの場を離れ難くて、腕に抱えたタオルをぎゅっと抱き締めながら呟いた。
「きっと、今日はお帰りにはならないだろうけれど……もう少しだけ待ちたいんです」
ダリスは、今夜は夜勤らしい。
ソフィリアの側で灯るランプの油が十分なのを確認した彼は、先ほどのクロヴィス同様、あまり遅くならないように、と忠告する。
そうして巡回任務に戻る直前、ソフィリアを慈しむみたいな笑みを浮かべて言った。
「ソフィリア様、お誕生日おめでとうございます。どうぞ、良い一年をお過ごしください」
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