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1巻

1-3

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「彼も、とっさのことで気が動転したんじゃないでしょうか。おかげで私が悪役だと周囲に知らしめられたので好都合でした」
「そもそも婚約者は黒幕である大叔父おおおじの孫だと言ったな? 大叔父おおおじがよからぬことをたくらんでいると、そいつがまったく知らなかったというのか?」
「彼が兄上様に心酔しているのは有名でしたからね。大叔父おおおじも、彼を仲間に引き入れるのは諦めていました。兄上様が亡くなりさえすれば、私にだけ忠誠心を向けるようになるだろうと考えていたようです」

 ルチアの婚約者オリバーは、白い肌に金色の髪と緑色の瞳をした――まさに、前世で言うところの白馬に乗った王子様のイメージそのままな好青年だった。
 前世の意識を引きるルチアにとって婚約も他人事のようだったが、彼個人に関しては人間的に気に入っていた。彼が兄王の優秀さを正しく理解し、深く尊敬しているのを知っていたのだ。
 だからこそルチアは、事件後早々に婚約を解消されたことに傷付くどころか、自分の存在がオリバーの今後の出世をさまたげる心配がなくなったことにほっとした。
 彼には、自分のことなど早く忘れて、別の女性と幸せになってほしいと願ってさえいる。
 ルチアの全ての行動は、元はといえば何もかも自分のためにやったことなのだ。
 兄王を罪悪感から解放してやりたいと言ったが、ルチアの方も自分の存在が彼の負い目となっているという罪悪感から解放されたかった。
 十八年間過ごした祖国に二度と戻れないことや、確かに血を分けた兄であるフランクとの永遠の別れに何も感じないと言えば嘘になる。
 しかし、お互いの心の平穏を得るためには、これがベストだったのだ。
 兄王も最終的にはその結論に至ったから、ルチアをこうして新天地へと送り出したのだと、彼女は思っている。
 しかし、フィンはそうではないらしい。
 彼は険しい顔をしたままルチアの前に腰を落とし、帽子のつばに隠れていた彼女の顔を見上げて口を開いた。

「兄上や婚約者が――リーデント王国がお前を捨てるというのなら、俺がもらう」
「え……?」

 フィンは一方的に宣言すると、がばりとルチアを抱き上げて歩き出す。
 彼女にペースを合わせていた時とは一転、脚の長さを活かしてずんずんと大股で進んでいく。
 高速で後ろへ流れていく景色に目が回りそうになったルチアは、とっさに目の前の首筋に両腕を回してしがみついた。
 自然と間近で向かい合うことになったフィンの瞳に真っ直ぐ見つめられ、ドキリと胸が高鳴る。
 今世を客観的に見過ぎるあまり自分の感情にうとかった彼女でも、この時一瞬、自分がフィンの強い瞳にせられたことを自覚した。

「百日が過ぎても、この島で確実に生き残れる方法を教えてやろうか?」
「え? は、はい……」

 ジュリエッタの持ってきた『無人島で百日間生き残る方法』のタイトルを踏まえて言われているのはすぐに分かった。ルチアが勢いに押されるように頷くと、フィンはにやりと唇の端を吊り上げて続ける。

「俺の伴侶となることだ」
「はあ……はん、りょ……伴侶⁉」

 唐突な話にルチアが面食らった、その時だった。
 突然、一面の緑におおわれていた視界がぱっと開ける。
 そうして目に飛び込んできた光景に、ルチアは思わずあっと声を上げていた。

「ここは……」

 未開のジャングルの先は、急な下り坂になっていた。
 ばち状にへこんだ盆地の中央には湖沼こしょうが見え、その周囲には区画された田畑が広がっており、それを世話する人々の姿もある。
 一方、対面には凸凹でこぼこした岩石の地層がそびえ立ち、クリーム色の岩肌を削って住居が作られていた。それはまるで……

(洞窟ホテルみたい――)

 そんな感想を抱いたルチアの頭の中で、唐突に、カチリと音を立ててパズルのピースがまるような感覚があった。
 とたん、一気によみがえってきたのは、これまで曖昧あいまいだった前世の最期の記憶――

(そうだ、私……洞窟ホテルに泊まる予定だったんだ……カッパドキアの……)

 彼女はその時、親日国としても有名なトルコ共和国を目指していた。
 アジアとヨーロッパの中間――東西世界が出会うエキゾチックなかの国には、世界遺産にも登録された遺跡が数多く存在する。中でも不思議な形の岩が連なるカッパドキアは、それを利用したホテルが魅力の一大観光スポットである。
 そんな異国の神秘的で優雅な空間に憧れて、前世のルチアは一週間の休みを取って飛行機に乗ったのだ。きっかけは他にもあったような気がするが、あいにく今は思い出せない。
 飛行機の隣の席には、旅の相棒である幼馴染おさななじみが座っていた。
 空の旅の途中、突然機体が大きく揺れ出し乱気流に巻き込まれたことを悟ったが、すべもなかった。あちらこちらから悲鳴が上がり、手荷物が飛び交う中で、前世のルチアがとっさに握ったのは幼馴染おさななじみの手。
 震えながらも強く握り返してくれた彼女の手に、意識が暗転するその時まで――みずからが絶命する瞬間まで必死にすがった。
 そんな感覚が、当時感じた恐怖まで引き連れてまざまざとよみがえってくる。
 この時、前世の幼馴染おさななじみの手のぬくもりと共に、数日前の別れの際に握り合ったジュリエッタの手のぬくもりを思い出したのは何故だろうか。どちらも離し難かったという共通点はあるにしろ、不思議なことだ。
 とにかく、ルチアの頭の中は混乱し、心臓がバクバクと激しく打っていた。
 しかしフィンは、目の前の光景を凝視して口を閉ざした彼女が、今まさに前世の幕引きの瞬間に意識を飛ばしているなんて知るよしもない。
 彼はルチアの震える身体をしかと両手で抱き直し、その耳元に彼女の今世の新たな幕開けを宣言した。


「ようこそ、流刑者の集落へ。――俺が、ここの現在のおさだ」



   第三章 流刑地二日目、午後


 ジャングルを抜けるとすぐ、植物のつるが絡み付いて緑のトンネルみたいになったスロープがあった。フィンによれば、これこそが昨夜幽霊となってルチア達の前に現れたあの大蛇ヴォアラの遺骨だという。
 長身の彼が立って歩いても天井となっている背骨までまだ距離があるのだから、かの大蛇が如何いかに巨大でとんでもない怪物であったのかがよく分かった。
 ヴォアラは最期、水を飲もうとしていたのか、長い胴の骨は盆地の中央にある湖沼こしょうふちまで伸び、頭蓋骨はそのほとりに立つ大木の側にまるで守り神のように鎮座ちんざしている。
 周囲に広がる田畑では、フィン同様シンプルなシャツとズボン、革でできたサンダルをいた男達が手桶で水やりをしていた。
 フィンよりも幾らか年嵩としかさで働き盛りの年齢に見える彼らは、ヴォアラの遺骨のスロープから現れた二人に気付いて作業の手を止めたが、無闇に声をかけてくる様子はない。
 フィンも彼らの前を素通りし、ヴォアラの頭蓋骨が寄り添う大木――その木蔭こかげに置かれた安楽椅子の前へとルチアを連れていった。
 安楽椅子には、高齢の女性がゆったりと背もたれに身体を預けて座っている。

「彼女がこの集落の最長老――最初に挨拶あいさつすべき相手だ」

 フィンはそうこっそりルチアに耳打ちしてから、老婆に話しかけた。

「おばあ、ただいま」
「おや……フィンかい、お帰り。浜はどうだったね?」
「浜は相変わらずだったよ。でも、掛人かかりゅうどを一人連れて帰ってきた」
「そうかいそうかい……どぉれ、新しい子。よく顔を見せておくれ」

 ヴォアラ島の人々がそのまま〝島人しまびと〟というのに対し、〝掛人かかりゅうど〟とはルチアのようにヴォアラ島に送られてきたばかりの流刑者を指す呼び名らしい。しばらくは島人しまびとの助けがないと生きていけないので、基本は居候いそうろう食客しょっかく扱いになるとのことだ。
 集落のおさの役目にはそんな掛人かかりゅうどの保護も含まれているため、フィンは島に流れ着いた者がいないかどうか、数日おきにあの砂浜まで足を運ぶのだとか。
 ちょうどその見回りの日時にヴォアラ島に到着し、早々にフィンに拾われた昨日のルチアは相当運がいいと言える。そうでなければ、数日は一人ぼっちでサバイバル生活をしなければならないところだった。
 安楽椅子に座ったまま手招きする老婆に応え、ルチアは帽子を脱いで彼女の前に腰を落とす。
 すると、老婆の手がゆっくりと伸びてきて、幼子をいつくしむみたいにルチアの頭を撫でてくれた。
 それによって思い起こされたのは、前世の祖母の優しい手だ。今世においては、父方の祖父母はすでに亡く、母方の祖父母もレンブラント公爵に頭が上がらなくてほとんどルチアに関わることがなかった。

「初めまして、奥様。ルチアと申します。海の向こうから参りました」

 懐かしさを覚えながらルチアがにっこりとして挨拶あいさつをすると、老婆もしわくちゃの顔をさらにしわだらけにして笑顔を作る。それから、ルチアの頬を両手でそっと包み込み、殊更ことさら優しい声で言った。

「こんな遠いところまでよく来たねぇ。わしのことはおばあちゃんと呼んでおくれ」
「はい、おばあさま」
「可愛い子だねぇ、フィン。大事にしておあげ」
「分かったよ、おばあ」

 ルチアに帽子を被せ直した老婆が、彼女の手を取ってフィンに預ける。
 その直後、ルチアはフィンがこの老婆を最初に挨拶あいさつすべき相手と言った意味を知ることとなった。

「うわぁあ! やったなあ、フィン! 女の子じゃないかっ‼」
「随分若いなあ。年は幾つだい?」
「歓迎会! 歓迎会をしようっ‼」

 それまでルチア達を遠巻きにしていた人々が、わあっと寄ってきて一斉に話しかけ始めたのだ。
 いきなり大勢に囲まれて面食らうルチアを庇いつつ、フィンは呆れた顔をして口を開く。

「みんな、落ち着いてくれ。彼女は島の環境にも気候にも慣れないまま、昨夜はジャングルで過ごしたんだ。ひとまず休ませ、歓迎会は夕食を兼ねて夜にり行おう」

 フィンはこの集落のおさだというが、あくまで集団のまとめ役といった立ち位置で、島人しまびとの中で優位に立っているという雰囲気ではなかった。
 島の外から来た余所者よそものに最初に話しかけるのは、おさであるフィンを除けば最長老の老婆でなければならず、彼女に認められてようやく仲間入りすることを許されるらしい。
 まずは年上の者を立てる、前世で日本人だったルチアにはある意味馴染なじみ深い年功序列社会のようだ。

「基本、おばあは来る者拒まずだ。ただ、島人しまびとの四半は彼女の血族だから印象を良くしておくに越したことはない」
「心得ました」

 フィンの耳打ちにルチアはこくこくと頷く。長いものに巻かれるのは、前世でも今世でも得意だった。

「なあ、新入りのお嬢さん。どこの国の生まれだい?」

 周囲を取り囲んだ人々の中から、そんな質問が飛ぶ。
 リーデント王国です、とルチアが答えた、その時だった。

「――リーデント⁉ ちょ、ちょちょ、ちょっと! それ本当なのっ⁉」

 突然、人垣の向こうから頓狂とんきょうな男の声が上がる。
 続いて、ガンガンガンと何やら固いものを打ち鳴らすような音が響き、その場にいた人々が一斉に音の出所を振り返った。
 人垣が割れて声の主の姿がルチアの視界にも入る。
 亜麻色あまいろの髪をした若い男が、クリーム色の岩肌の窓から上半身を乗り出して、左手に持った大きなフライパンを右手に握ったフライ返しでガンガン叩いていた。
 そのけたたましい音に、フィンが眉をひそめる。

「うるさいぞ、マルクス」
「フィン、お願いだよ! 僕にその子を紹介してっ‼」
「言われなくても、後で全員に紹介する」
「それ絶対? 絶対だよね⁉」

 マルクスと呼ばれた男は、その後もフィンに何度も念を押して、くどいと一喝されていた。
 言動は女々めめしいが、がたいは大きく、案外凛々りりしい顔つきをしている。
 マルクスはコックということなので、彼の腕の立派な筋肉は重いフライパンを振り続けた結果付いたものだろうか。
 そもそも彼がフライパンとフライ返し持参で窓から顔を出したのは、集落中の人々に昼食ができたことを知らせるためだったそうだ。
 ヴォアラ島には現在、百九十九人が生活しているという。
 その内訳は、十八歳未満の未成年が六十九人、十八歳から六十四歳が百二十人、六十五歳以上が十人。
 ルチアが加わることでちょうど二百人になる島人しまびとは、この島の生態系トップに君臨していた、かの大蛇が死んだ三百年前以降にやってきた流刑者とその末裔まつえいだ。
 流刑になるまで何不自由ない生活を送っていた彼らの祖先にとって、未開の地での毎日は苦難の連続だっただろうが、ヴォアラ島に自生する果実などの豊かな食糧と温暖な気候が救いとなった。
 また、多種多様な国々から流刑者が集まり混血が進んだことも、この島に人間が根付けた所以ゆえんである。異なる血族の間に生まれた子供は遺伝的多様性を持ち、これにより環境の変化に適応して生き残る可能性が高まったのだ。
 外見的特徴は、ルチアが見慣れた祖国の人々と大差はない。
 というのも、大陸に住まう人間の大半は同一の民族を起源としており、元々大陸出身の祖先を持つ現在のヴォアラ島の人々とリーデント王国の人々とは人種的に大きな違いがないからだ。
 島には流通貨幣は存在せず、基本的には衣食住全てを共有する。労働は全島人しまびとの義務であり、一つの大きな家族のように助け合って暮らしているとか。
 朝食は各自でとるが、昼食と夕食はマルクスのようなコックが用意するため、おおよそ二百人が一堂に会するらしい。
 みんなー、ごはんだよーと、フライパンをガンガン叩いて昼食を知らせるマルクスの声が、周囲の岩肌に反響して辺り一面に広がっていく。すると、あちらこちらから島人しまびとが現れ、マルクスが身を乗り出した窓の隣の扉にぞろぞろと列をなして向かい始めた。

「フィンもそっちの子も、ご飯食べるでしょ? ああでも、リーデントの子が来るって知ってたら、急いでメニューを変更したのにっ!」

 マルクスが何故リーデント王国にこだわるのかはともかくとして、ルチアのことは歓迎してくれているようだ。
 その好意に甘えてさっそく相伴しょうばんあずかりたいのは山々だが、昨日散々潮風に吹かれた髪がきしんでいるルチアは、そのまま食卓に着くのが少々はばかられる。
 すると、昼食に向かうべく迎えに来た孫の手を借りて安楽椅子から立ち上がったおばあが、ルチアの銀髪を撫でつつフィンを呼んだ。

「先に風呂に入れておあげ。せっかくの綺麗な髪が潮でいたんでしまっては可哀想よ」
「分かった、おばあ。そういうわけだから、マルクス。俺と彼女は後で食うから、先に昼食を始めていてくれ」
「りょーかい! じゃあ、また後でね。僕のお姫様!」
「お前のじゃない」

 フィンはおばあの言葉に二つ返事で頷き、マルクス相手には呆れた顔を見せる。
 おばあに礼を言ってから、フィンにうながされて食堂の入り口とは別の扉へ歩き始めたルチアは、窓より顔を出して昼食の献立を発表するマルクスを見ながら首を傾げた。

「あの方は、どうしてあんなにリーデント王国にこだわっているんですか?」
「マルクスはひいひいじいさんが流刑者でな。何でも、王権争いに敗れて失脚したリーデント王国の王子だったそうだ」
「年代的に、私の高祖父のご兄弟でしょうか。マルクスさんと私は遠い親戚ということになりますね」
「そうなるな」

 ルチアが一般教養として教わった歴史によれば、百年程前まではあちこちの国々で外戦や内戦が相次ぎ、大陸中が混沌こんとんとしていたという。リーデント王国も例にれず、玉座をかけて王族が兄弟間で対立することも少なくなかった。マルクスの高祖父は、そんな時代の当事者なのだろう。

「島の娘と結婚し、大勢の子供と孫に恵まれて百歳まで生きたが、死の間際まで祖国に帰りたがっていたらしい。一族の間ではひいひいじいさんの王子時代の話が語り継がれていて、マルクスは小さい時からリーデント王国に憧れていたみたいだ」

 四角くくり抜いた岩肌に、木の扉が取り付けられている。それをくぐると、中はまるで迷路のようだった。両側の壁も天井も床も、全てクリーム色をした岩だ。
 ルチアはそっと壁に手を触れ、凝灰岩ぎょうかいがんならカッパドキアの洞窟住居と一緒だなと思いながら、前を歩くフィンの背中に問いかける。

「私や、マルクスさんのひいひいおじいさまのような流刑者本人はともかくとして、ここに来て代を重ねた子孫の方達は、島を出て別の場所に移住したりしないんですか?」

 それこそ、マルクスがリーデント王国に憧れているというならば、大陸を目指して船をぎ出してもいいものなのに。
 しかし、フィンは無理だと言う。何故、とルチアが問いを重ねると、彼は淡々と事実を告げた。

「一度ヴォアラ島に入った人間は、一部の例外を除いて島の外に――厳密に言えば沖に出ることができない」
「えっと……それは、海流の影響で不可能とか、そういう意味ですか?」

 ルチアの質問に、フィンは緩く首を横に振り、実に恐ろしい言葉を口にした。

「死んで三百年経った今でも、この島はヴォアラの縄張りなんだ。やつにしてみれば、ここに入った人間は全て自分の餌という認識になる」
「え、餌……? でも、今はもう幽霊だから、捕食しないんですよね?」
「食えようが食えまいが、やつは一度自分のものだと認識した生き物を逃したくない。その結果、もしこの島の領海から沖へ出ようとすれば波が起こって浜に戻されるか、最悪船を引っくり返されて溺れ死ぬことになる」
「ええー……」

 一度ふところに入れた者は手放したくないし、無理矢理逃げようとするなら殺す――なんて、どんなヤンデレキャラだ。ヴォアラの執着に引きつつ、ルチアはふと気になったことを尋ねる。

「では、一部の例外というのは?」

 ヴォアラによって餌認定されてしまった人間は、二度と生きてヴォアラ島を出ることができないが、フィンは〝一部の例外を除いて〟と前置きをしていた。
 裏を返せば、その一部の例外はヴォアラ島からの脱出が可能だということではなかろうか。
 いったいそれは誰だと問うルチアに、立ち止まったフィンが振り返って答えた。

「この島に最初に住み着いた人間の血族――つまり、俺の一族だ」


 ********


 風呂は、洞窟の地下にもうけられていた。
 脱衣所の手前で男女に分かれるシステムは、日本の銭湯を彷彿ほうふつとさせる。
 さすがに女湯の扉をくぐることができないフィンは、ルチアを一人で風呂に入らせていいものかと随分迷っていた。
 彼にとってルチアは、リーデント王国の箱入り王女という認識しかないのだから、当然と言えば当然だろう。王侯貴族の入浴には世話係が付くのが常識で、実際ルチアも今世では生まれてこの方一人きりで風呂に入ったことがなかった。

「リーデントの入浴事情には詳しくないが、おそらくはここの湯の方が断然温度が高いはず。あまり長湯をするんじゃないぞ」
「ええ、ええ、分かっております。大丈夫ですよ」
「……やっぱり昼食が終わるのを待って、おばあに一緒に入ってもらった方がいいんじゃないか?」
「大丈夫ですってば。行って参ります」

 ルチアには前世の記憶という強い味方がある。
 心配そうなフィンを振り切って、彼女はさっさと女湯の扉をくぐった。
 集落の人間は全員自由に利用できるというだけあって、洗い場も湯船も広大である。
 ルチアが前世の最期に向かっていたトルコではハマムと呼ばれる公衆浴場が有名だが、それは湯にかるよりもサウナが主流であった。ここの風呂は古代ローマ帝国で発展したテルマエに近い。
 リーデント王国では、バスタブに湯を張ってリネンのお風呂着をまとったままの入浴だった。
 猫足のバスタブは可愛いばかりで足を伸ばすのがやっとの大きさだったし、香油や花弁を散らした優雅な湯より、果実を丸ごとゴロゴロ浮かべた冬至とうじ柚子湯ゆずゆの方がルチアは恋しい。
 ちょうど昼食時ということもあって、脱衣場にも洗い場にも人っ子一人いなかった。
 貸し切り状態の大浴場にテンションが上がったルチアは、鼻歌まじりに身体と髪を洗うと、意気揚々いきようようと湯船に飛び込む。
 地下から温泉が湧いているらしく、湯船の湯は源泉掛け流しで、常に清潔さと温度が保たれているという。
 熱めの湯加減に、ルチアの口から「あー、極楽極楽」なんて言葉がれた、その時だった。

「――ここの湯が気に入ったか?」
「うえっ……⁉」

 突然、聞こえてきた女の声に、誰もいないと思い込んでいたルチアはびくっと身体を震わせる。
 慌てて辺りを見回すと、白い湯煙の向こうに声の主であろう人影を見つけた。
 貸し切りだと勘違いして一人はしゃぐ姿を目撃されていたことが、顔から火が出るほど恥ずかしい。とはいえ、まずは新参者である自分から挨拶あいさつするのが筋だろう、とルチアは平静をよそおって口を開いた。

「初めまして、私は……」

 ところがルチアの声は、相手が湯の中で立ち上がったザバリという音に掻き消されてしまう。
 そのままザブザブと湯を掻き分けて、こちらに近づいてくる気配がする。
 大浴場は地下にあるため窓がなく、湯気ゆげが充満して視界は良好とは言い難かった。
 そんな中、ついに湯煙の向こうから現れた相手の全貌に、ルチアの口から自然と言葉が零れる。

「め、女神様……」

 真っ白い陶器めいた肌に薄紅を引いたみたいに色が載っているのは湯にかっていたせいだろう。緩く波打つ蜂蜜色の髪は濡れ、肉感的な身体の線を強調するようにゆったりと肌に貼り付いている。
 気怠けだるげな目元もぽってりとした唇もあでやかで、繊細な指先で髪を耳にかける仕草までもが魅惑的。
 一片も恥じるところはなしとばかりに堂々と裸体をさらした彼女は、それはそれは美しい人だった。
 畏怖いふすら覚える美を目にして、ルチアは思わず顔の前で両手を合わせて「なんまんだー」と呟く。
 それを見た暫定女神様は、赤い唇を弓なりにして、ふふ、と妖艶ようえんに微笑んだ。

「そなた、新入りだな。フィンが連れて帰ったか。苦しゅうない、名を名乗れ」
「は、はい……あの、リーデント王国から参りました、ルチアと申します」
「ほう、リーデントとは……遠路遥々はるばるよくぞ参った」
「恐れ入ります」

 とてつもなく偉そうな物言いだが、それを不満に感じさせない圧倒的な存在感に、ルチアはその場に平伏したい心地になる。
 相手はその後、カミーユと名乗った。暫定女神様は女神ではなく、ちゃんと人間の女性だったようだ。
 さらには、みずからもルチア同様に流刑者としてヴォアラ島に送られた元王女で、その祖国がロートランド王国であるという。それを聞いた瞬間、ルチアは彼女の事情を察した。
 ロートランド王国はリーデント王国より少し南に位置する国で、現在はロートランド連邦国と称している。今から二十五年前にクーデターが起こって王政が崩壊したのだ。
 退位を間近に控えていた国王と王妃は自害し、軍と民衆によって島流しにされた王太女が、カミーユだった。


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