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1巻

1-2

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 それでも結局、訳あって兄王フランクの謀殺計画に加担したから、ルチアはこうして流刑となった。
 ただ、毒杯を渡したとはいっても、フランクはそもそもそれに口を付けていないので無事だ。
 しくも当時、国王の護衛に当たっていて謀略を暴いた国軍少将オリバー・レンブラントは、レンブラント公爵の孫でありルチアの婚約者だった。
 その後、婚約は解消されたので、ルチアの存在が国王を救った英雄である彼の出世をさまたげることはないだろう。
 首謀者であるレンブラント公爵は、計画が露呈した時点で国外逃亡を図ったようだが、すぐに捕まり、ルチアと同等かそれ以上の重い罰が下されたはずだ。彼の最終目標は、フランクを殺してルチアを女王に押し上げることだった。
 そして、レンブラント公爵と結託して暗躍していた乳母うばは、ルチアが拘束こうそくされたと知って早々に毒をあおったと聞いている。
 何にしろ、赤子の頃からルチアの耳元に代わる代わる呪詛じゅそを吹き付けていた彼らは、もう側にいない。
 王女としての地位も名誉も財産も何もかもを失ったが、その代わりにルチアは今世で初めて自由を得たのだ。

「薄情だと思われるかもしれませんが、記憶にない母や兄が恋しかったことなんて一度もありませんでした。それなのに、周囲はこぞって私を薄幸の王女に仕立て上げ、可哀想だと哀れむばかり」

 流刑に処されたのは、ルチアにとってはある意味計画通りだった。
 もともと国王謀殺が未遂で終わったことと、王族は死刑にならないという慣例から、国外追放が妥当だろうと考えていたのだ。
 十八年間王女をしてきた身ではあるが、一般人として生きた前世の記憶があるおかげで、ルチアはどこに追いやられてもやっていけそうな自信があった。

「他人に哀れまれたまま人生を終えるなんて真っ平ご免ですよ。私は、可哀想なんかじゃない。そのことを証明するためにも、この島で生きられるだけ生きるつもりなんです」

 それには、今目の前にいるフィンの助けが必要だ。
 そう確信したルチアは彼に向き直り、かしこまって告げる。

「どうぞ、よしなに」
「いいだろう。お前の命、俺が預かった」

 フィンは力強く即答した。
 ルチアの生い立ちを聞かされても、彼の表情には哀れみの色など一切浮かんでいない。
 おかげで、ルチアは少しだけ清々すがすがしい気持ちになった。



   第二章 流刑地一日目深夜から、二日目にかけて


「……何かしら?」

 夜もけた頃のことだ。
 ミシ、ミシ、と建物がきしむ音で、ルチアは目を覚ました。
 ツリーハウスの隅にはハンモックの寝床が一つあって、彼女はその上で横になっている。
 今世ではもちろん、前世でだってハンモックで眠った経験はなかったのだが、疲れていたのか寝心地の善し悪しを確かめる間もなく眠ってしまったようだ。
 ルチアにハンモックを譲ったフィンの方は、とうを編んだ敷物の上に直接寝転がっている。
 夜のジャングルの光源は、空に輝く月だけだ。
 ただし今宵こよいは新月間近のため、月の光は到底灯りの代わりにはならず、ルチアの目の前もほぼ真っ暗だった。
 ミシ、ミシ、という音はいまだに聞こえている。
 慣れないハンモックの上で何とかバランスをとりつつ上体を起こしたルチアは、目をらして辺りを見回した。

「……っ‼」

 直後、上げそうになった悲鳴を必死に呑み込む。
 風通しを良くするために開けっ放しにしている窓。その向こうから、爛々らんらんと輝く大きな目が二つ、ツリーハウスの中をじっと覗き込んでいたのだ。
 その目がゆっくりとしばたたいてルチアを捉えた瞬間、まるで金縛りにあったかのように全身が動かなくなる。
 辛うじて自由が利く口を動かし、呑み込んだばかりの悲鳴を上げようとした、その時だった。

「――落ち着け、大丈夫だ。あれが襲ってくることはない」

 そう耳元にささやく声と共にぐっと肩を抱かれ、ルチアはびくりと身体を震わせる。
 いつの間にか起き上がっていたフィンが、自分の身体を盾にして、窓の向こうの目からルチアを隠した。
 フィンの陰に庇われたルチアは、自分の身体の硬直が解けていることに気付き、おそるおそる彼の肩越しに窓の方を見た。
 大きな二つの目はぱちくりぱちくりとしきりにしばたたきながら、いまだツリーハウスの中を覗き込んでいるが、フィンの言う通り襲ってくるような気配はない。
 やがて、眺めていることに飽きたのか、二つの目が消え、代わりに何やら極太の注連縄しめなわみたいなものが窓をおおった。
 ツリーハウスがミシミシと音を立てているのは、それが周囲に巻き付いているせいらしい。
 よくよく目をらすと、淡く白く発光するその表面にびっしりとうろこえているのが見えて、ルチアははっとした。

「もしかして、あれ……蛇、ですか?」
「ああ、そうだ。この島に人間が住み着くずっと前から生息していた大蛇だ――いや、大蛇だったもの、と言った方がいいか」

 フィンにしては歯切れの悪い言い方に、ルチアは首を傾げる。
 そうこうしている間に、ずっと響いていたミシミシという音が、ふいに止まった。

「……どうやら、ここを離れたようだな」
「えっ? 本当に何もしてこないまま?」

 窓の方を注視するフィンの肩越しに身を乗り出そうとした拍子に、ルチアはバランスを崩してハンモックから転げ落ちそうになる。しかし、すかさずフィンに抱き留められて事なきを得た。彼はルチアを抱いたまま窓辺に寄る。
 フィンにしがみついたルチアは、おそるおそる窓から外を見遣った。
 新月間近の闇の中、ほんのりと白く光る長い長い身体をくねらせて、それはジャングルの奥へと静かに消えていく。
 完全にその姿が見えなくなると、ルチアは知らず知らず詰めていた息を吐き出す。
 フィンがなだめるように彼女の背をぽんぽんと叩いてから口を開いた。

「あれは、かつてこの島を支配した大蛇だ。しかしその肉体はとうの昔に滅び、今のあれはさまよう霊体でしかない」
「霊体って……つまり、あれは大蛇の幽霊ということですか?」

 生まれ変わったこの世界と、前世の世界は、異なる世界にあるとルチアは考えている。そのどちらにおいても、彼女はこれまで幽霊なんて摩訶不思議まかふしぎな存在と出会ったことがなかった。
 それなのに、いきなりUMAめいた大蛇に遭遇したかと思ったら、それは幽霊であるというのだ。

「あの通り基本的には無害だが、遭遇して気持ちのいいものではあるまい。夜のジャングルにはよほどのことがない限り足を踏み入れないことをお勧めする」

 フィンはそう告げると、窓から離れてさっきまで寝転がっていた場所まで戻った。
 かと思ったら、ルチアを抱いたまま器用にハンモックに上がって横になってしまう。
 ルチアはフィンの隣に転がされ、気が付けば彼の左の脇の下にすっぽりと収まっていた。

「あの……添い寝をしていただくような年ではないんですが……」
「言っただろう。今のお前は幼子と変わらんと。随分驚いたみたいだな。心臓がバクバク言っている」
「心臓……私の?」
「あれがここに現れる可能性があることを、あらかじめ話しておくべきだったな。すまなかった」

 フィンに言われて、ルチアは自分の心臓が早鐘を打っていることを自覚する。何事も客観的に見過ぎる弊害へいがいか、彼女は自分の感情に対する認識にうとかった。
 フィンの大きなてのひらが、ルチアの鼓動をなだめるようにゆっくりと背中を撫でてくれる。
 彼のそんなところ――前世で言うパーソナルスペースの狭さに戸惑わないわけでもない。
 けれども、意外にも自分以外の人間の体温が側にあることにほっとした。十八年間過ごした祖国を放逐ほうちくされて、心細いという気持ちがどこかにあったのかもしれない。
 されるがままの彼女の髪を手櫛てぐしきながら、フィンが再び口を開いた。

「ヴォアラ島はな、かつては本当に無人島だったらしい。大陸から送られてきた流刑者はすぐにあの大蛇の腹に収まっていたからだ。この島はあれの巣であり狩り場――そして、流刑者を送る者達にとっては手っ取り早い処刑場だった」

 寝物語にしては随分殺伐とした話題だ。
 けれども、自身も流刑者であるルチアにとっては決して無関係な話ではない。時代が時代なら、彼女もあの大蛇の餌になっていたのだから。
 大蛇のことを、人は〝ヴォアラ〟と呼ぶらしい。
 ヴォアラが支配していたからこの島がヴォアラ島と名付けられたのか、それともヴォアラ島に住む大蛇だからヴォアラと呼ばれるようになったのかは定かではないという。
 相変わらずルチアの髪を手慰てなぐさみにするみたいに指先できつつ、フィンは話を続ける。

「転機が訪れたのは、三百年ほど前のことだ。この島に初めて、流刑者の一人が住み着いた。――それが、俺の先祖だ」
「つまり、あなたのご先祖様はヴォアラに食べられずに済んだってことですよね? 戦ったんですか?」

 ヴォアラの巣であり狩り場でもある場所で生き残れたということは、もしかしてフィンの先祖は大蛇に勝ったのだろうか。
 ルチアがわくわくしてそう問うと、フィンは呆れた顔をして「そんなわけがないだろう」とあっさり否定した。

「あんな大蛇にちっぽけな人間が一人で立ち向かって勝てると思うか? やつの死因は自然死らしい。あんなにでかくなるまでの間、どれほどの長い年月を生きてきたのかは知らないが、おそらく寿命だったんだろうな」

 フィンの先祖は、ある意味強運の持ち主だったと言えよう。
 彼がヴォアラ島に到着する直前にヴォアラは寿命を迎えたようで、フィンの先祖は食い殺されずに済んだばかりか、その遺骸でもって飢えをしのぐことができたのだ。

「ということは、あなたのご先祖様は大蛇を口にしたってことですよね?」
「まあ、そうなるな」
「幽霊になったら、もう食材にはできないんでしょうか?」
「……は?」

 ルチアの質問は予想外だったのだろう。フィンは青い目をまん丸にして腕の中の彼女を見る。

「……あれに遭遇して、食えるかいなかを問題にしたのはお前が初めてだぞ」
「あら、蛇の肉を食用にしている民族は少なくないですよ? 下手物げてものに分類されるほどではないと思いますけれど」
「お前が見た目にそぐわないことばかり言うものだから、違和感が凄まじいんだが」
「人を見かけで判断するなんて愚の骨頂です」

 ルチアはツンとしてそう返しつつも、一方ではフィンの言葉に同意する気持ちもあった。
 とかく、今世の彼女の器はよくできていて、精巧な人形のように可憐だった。
 別に自惚うぬぼれているわけではなく、客観的な印象である。なまじ前世の人格が残り過ぎているために、ルチアにとって今世の身体はどうしても借り物めいて思えるのだ。
 銀色の髪や薄青色の瞳といった、周囲にはかなげな印象を与える色素の薄いパーツは、亡き母から受け継いだものらしい。母は見た目を裏切らぬ物静かな性格で、その命まではかなく散らしてしまったが、ルチアに彼女の二の舞を演じるつもりは毛頭ない。
 何なら、母譲りの恵まれた見た目を利用して、したたかに生きてやろうという気概さえあった。

「ああ、やっぱりさっきの子、幽霊にしておくのは勿体もったいないです。あの大きさで実体でしたら、しばらく食糧の心配をしなくて済みますのに」
「お前……本気であれを食ってもいいと思っているのか?」

 すかさず頷いたルチアに、フィンは何とも言えない顔をする。
 そんな彼に、実は蛇料理を食べた経験があると告げれば、いったいどんな反応をするものか。
 ただしそれは前世の話で、蛇は蛇でもウミヘビを調理した沖縄のイラブー汁のこと。琉球王国では国賓こくひんを持て成すのにも使われたという立派な宮廷料理だ。
 うろこが付いたまま燻製くんせいされて黒くなった胴体が、ぶつ切りで放り込まれたスープを思い出していたルチアは、どういう表情をしていたのだろうか。
 フィンは初めて可哀想なものを見るような目をすると、彼女の頭をよしよしと撫でながら言った。

「明日、集落に戻ったら存分に美味うまいものを食わせてやるからな」


 ********


 朝は、何ごともなくやってきた。
 大蛇ヴォアラの幽霊が再びツリーハウスに現れることもなく、ルチアはハンモックの上で穏やかに目を覚ます。
 開けっ放しの窓からは、朝日がハンモックの真下まで差し込んでいて、ツリーハウスの中の気温も夜に比べてぐっと上がっている。
 汗で首筋に貼り付いた髪を掻き上げつつ寝返りをうったルチアは、ここでやっと、昨夜一緒に眠ったはずの存在がいなくなっていることに気付いた。

「……フィン?」

 急に不安になり慌てて上体を起こすも、くバランスを崩して床に転がり落ちてしまう。

「……っ、いたた……」

 ドタンッと盛大な音が響いた割には、下に敷いたとうの敷物のおかげか、ハンモックの高さがそれほどでもなかったおかげか、肉体的ダメージは少ない。
 一方で、自身の運動神経のなさを自覚して、精神的には多大なダメージを負った。
 思い返せば生まれてこの方、ルチアはろくに走った経験もない。
 アウトドア派だった前世と比べ、王女という型にはめられた今世の、なんと窮屈だったことか。
 とうの敷物の上に投げ出された両の足はなまちろく、転んだ拍子にぶつけたのか右の肘がヒリヒリする。そんな自身の軟弱な姿にルチアがため息を吐いていると、バタンと大きな音を立てて扉が開いた。

「――おい、すごい音がしたが何があった? 大丈夫か⁉」

 そう言って、ツリーハウスの中に飛び込んできたのはフィンだ。
 彼はそのまま、ペタンと床の上に座り込んでいるルチアの側に駆け寄り片膝をつく。
 そんな彼の顔を見上げ、ルチアは今度は安堵あんどのため息を吐いた。

「眠っている間に置いていかれてしまったのかと思いました……」
「今朝になって置いていくくらいなら、最初から拾ってこないさ。なんだ、俺がいないことに慌ててハンモックから落ちたのか?」
「黙っていなくなるからいけないんです。だから、私がドジを踏んだのもあなたのせいです」
「それは失礼をした、王女殿下。どうか、お許しを……肘は、軽い打身といったところか。まあ、大事がないようで重畳ちょうじょう

 ルチアの八つ当たりを軽く受け流しつつ、彼女の右肘を検分してフィンもほっと息を吐く。
 彼はどうやらジャングルで朝食を物色してきたらしく、小脇に抱えたとうの籠には何かの実がいっぱいに詰まっていた。
 そのうちの幾つかは、昨日ルチアが彼の背中に負ぶわれながら口にしたヘビノメだ。
 小振りなそれらに交ざって、ちょうどルチアのこぶしほどの大きさの丸い実もある。
 フィンが赤黒くて固いうろこ状の表皮をくと、中には乳白色にゅうはくしょくをした弾力のある果肉が詰まっていた。香り豊かで濃厚な甘味とほどよい酸味があり、ルチアが前世で口にしたことのあるライチとそっくりだ。
 しかし、フィンがそれを〝ヘビノキモ〟と呼んだため、ルチアはうんざりとした表情になる。

「また蛇にちなんだ名前……もしかして、果物達の名前の由来になってる蛇って、昨夜見たあの大蛇の幽霊ですか?」
「だろうな。大陸からやってきた俺の先祖にとって、この島で自生する植物はどれもこれも未知のものだったから、最も存在感のあったヴォアラにちなんで適当に名前を付けたんだろう」
「蜜と目と肝は平気なのに、血だけ猛毒だなんてややこしい。せめて、食べられるものとそうでないものをはっきり区別できる名前にすべきです」
「その意見はもっともだが、先祖も生き残るのに必死で細かい気遣いはできなかったんじゃないか。大目に見てやってくれ」

 不平を並べつつもきっちり果実を腹に収めたルチアに苦笑しながら、フィンが差し出してきたのは彼女の黒いパンプスだった。
 昨日海水にかった上に砂浜を歩いたことで砂まみれになっていたのを、ツリーハウスのたもとに流れる小川ですすいで一晩乾かしていたのだ。
 靴擦くつずれを起こしていたルチアのかかとも、ツリーハウスの備蓄品を用いてフィンが手当てをした。
 彼が巻いてくれた布がクッションになって、今日は自力で歩けそうだ。
 ようやくツリーハウスから下り、小川で顔を洗ってすっきりとしたルチアの頭に、フィンはこちらも備蓄品らしいつばの広い麦わら帽子を載せて言う。

「日がのぼり切って暑くなる前に集落へ着きたい。そろそろ出発するぞ」

 こうして、ルチアの流刑地二日目は、ジャングルのまっただ中から始まった。
 濃密な緑に支配された世界を、フィンの後に付いてひたすら進む。
 早朝の日差しは昼間のそれよりも幾分優しい。昨日頭から被っていたシャツはフィンに返したが、つばの広い帽子のおかげで肌を焼かれる感覚はなかった。

「集落に住んでいるのは、ヴォアラが死んだ後でこの島に送られてきて生き残った流刑者の子孫なんですか?」
「大半はそうだ。しかし近年もまれに、新たに流れてきた者が集落に加わることがある。お前のようにな」
「私が言うのもなんですが……よそ者を簡単に受け入れていいんですか? 流されてくるのは罪人なのに?」
「自分が受け入れてもらえるか、心配しているのか?」

 育ち過ぎて自重に耐えられなくなったのか、大きなシダの葉が地面に倒れ込んで道を塞いでいた。
 それを端にけて道を作りつつ、フィンが続ける。

「ここに送られてくるのは基本的に政治犯だ。中には明らかに冤罪えんざいの者やめられて失脚した者もいる。島の人間に害をなすような凶悪犯は、ここには来ないさ」
「私は冤罪えんざいでもめられたわけでもない――毒杯と知りながら兄上様にそれを差し出した正真正銘の罪人です。それでも、受け入れてもらえるのでしょうか?」

 ルチアがそう呟いたとたん、フィンは立ち止まって振り返り、彼女をじっと見つめた。
 そして、どうにもに落ちないんだが、と口を開く。

「昨日聞いた話では、お前はもともと兄上をうとんじていたわけではなく、むしろ好意的だった。それなのに、いったいどうして大叔父おおおじ乳母うばの謀略に乗って兄上を手にかけようとする事態になったんだ?」

 道案内役が立ち止まってしまうと前には進めない。必然的にルチアも足を止め、彼の質問に答えることになった。

大叔父おおおじ乳母うばは当初、兄上様に毒杯を渡す役目を、一族の妾腹の侍女に負わせようとしていました。兄上様の殺害が失敗しても成功しても、彼女が全ての罪を被って断罪されるという算段で」
「……なるほど、その侍女はていのいい捨て駒か」

 苦虫を噛み潰したような顔をするフィンに、ルチアは肩を竦めて頷く。
 一族の中で立場の弱かった侍女は、レンブラント公爵の理不尽な命令にそむく勇気もない様子だった。ただ、レンブラント公爵や乳母うばにとっては捨て駒でしかなくても、ルチアはくだんの侍女を気に入っていた。幼馴染おさななじみのジュリエッタと会う時はいつも笑顔で給仕についてくれて、時には一緒にお茶を飲むこともあったのだ。
 死刑が廃止されたのは罪人が特権階級の場合に限ったことで、後ろ盾のない侍女が国王謀殺をたくらんだとなれば弁明の余地もなく処刑という可能性もあり、ルチアは到底黙っていられなかった。
 それに、侍女が用意した杯には兄王が好む赤ワインが入っていたのに対し、ルチアが差し出した杯に入っていたのは彼が苦手なスパークリングワインだった。
 さらには、最初から毒を仕込んだワインボトルを持たされていた侍女とは違い、ルチアは第三者の視線――その時、兄王の護衛についていたみずからの婚約者オリバーの視線があるのを確認してから、杯に直接毒を入れている。
 正義感の強いオリバーは必ずやルチアの凶行を阻止してくれると信じていたし、実際彼がそうしたことで兄王が毒杯を受け取ることもなかったのだ。

「つまりお前は、兄上が絶対に口を付けないと確信した上で、毒杯を差し出したということか?」
「当然です。兄上様が死んでしまっては、元も子もありませんもの。あの方は、リーデント王国になくてはならない方です」

 ルチアがあっけらかんと言ってのけるとフィンはますますいぶかしげな顔になり、彼女の両肩をぐっと掴んで詰め寄った。

「何故だ。ただ、大叔父おおおじ乳母うばたくらみを告発するだけでよかったんじゃないのか。どうしてわざわざ、みずから罪人になるような真似をしたんだ」

 フィンと同じことを、兄王も思ったのだろう。彼も今のフィンのようにルチアの肩を強く掴んで、どうしてこんなことを、と泣きそうな顔をして叫んでいた。
 その時は「女王になってみたかったんです」なんてうそぶいたものの、祖国から遠く離れた今となっては、わざわざ誤魔化す必要もない。
 ルチアは苦笑を浮かべて言った。

「私という罪悪感の象徴から、いい加減、兄上様を解放して差し上げたかったんです」

 生まれてすぐに母も兄も亡くしたルチアを哀れんだのは世間の人々だけではなく、運良く事故から生還した兄王フランクも同じだった。
 レンブラント公爵や乳母うばが良い顔をしなかったため、それほど濃密に接する機会があったわけではないが、彼はルチアをたった一人の妹として大切にしてくれたのだ。
 一方で、事故の際に腹違いの兄を救えなかったこと、そのせいで正妃も亡くなってしまったこと――その結果、ルチアが生母の顔も同腹の兄の顔も知らないという事実に、兄王フランクはずっと罪悪感を抱いていた。

「本当なら上の兄がリーデント国王になっていたのに。どうしてあの事故で死んだのが、自分じゃなくて彼だったのか。生き残ったのが上の兄なら王妃は死なず、妹も彼らに囲まれて幸せに暮らしていたんじゃないか――兄上様は、私を見るたびに後悔にさいなまれていらっしゃいました」

 そんな優しくて繊細な兄王フランクが気の毒で、そしていとしくてならなかった。
 だからルチアは、薄幸の王女に対する哀れみよりも、実の妹にまで命を狙われる孤独な賢王に同情する世間の声が大きくなるように、みずからが罪人に成り下がった末にリーデント王国から消えようと考えた。
 その結果――いや成果が、今回の流刑だったのだ。
 ルチアとしては思った通りにことが運んだと言える。計画は大成功だと胸を張りたい気分だった。
 しかし、フィンは何故か難しい顔をしたまま、うなるみたいに言った。

「本来の下手人となるはずだった侍女は、自分が庇われたことを分かっているはずだ。それなのに、名乗り出てお前を擁護ようごしなかったのか」
「彼女はやっと大叔父おおおじからもレンブラント家からも解放されたんです。余計なことは言わなくていいんですよ」
「兄上も兄上だ。お前が茶番を演じていることを見抜けなかったはずはあるまい。それなのに、何故流刑の執行を止められなかったのか」
「私は、多くの人の目がある場面で現行犯として捕まりました。いくら本気で兄上様を害する気がなかったとしても、実際に毒杯を差し出している時点でどうあっても罪はまぬがれません。兄上様が刑の執行を止める理由は、何もないんです」

 ルチアが淡々と答えれば答えるほど、フィンの表情は険しくなっていく。
 彼みたいな第三者の目には、ルチアの行動は独り善がりで、彼女が流刑者となることを止められなかった祖国の面々はさぞ薄情に見えるのだろう。
 今やフィンの手は、ルチアの肩を痛くなるほどの力で掴んでいた。

「最も納得できないのは、婚約者とやらの所業だ。そいつは何故、周囲にそうと分からないようにお前の行動を阻止しなかった。公認の仲ならば、国王の前ででもお前に話しかけることができただろう」


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