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   第一章 流刑地一日目、午後


 生命が無限に転生を繰り返す様子を車輪の回転にたとえて輪廻りんねという。
 宗教的あるいは哲学的な考えだが、自分は誰それの生まれ変わりで、前世の記憶を持っていると主張する人間は少なくない。
 とはいえ、せっかく前世から持ち越したというその記憶を、今世で上手く立ち回るために活かせる者は、はたしてどれほどいるのだろうか。
 少なくとも、彼女――ルチア・リーデントはだめだった。
 だから今こうして、濃密な緑に支配された世界を掻き分け、前へ前へと進んでいる。
 その頭上を天蓋てんがいのようにおおうシダの葉の隙間から、西に傾きかけた太陽の光が差し込む。
 南国の太陽は色素の薄い瞳には強過ぎて、彼女は銀色の前髪の下で薄青の目をまぶしげに細めた。
 鬱蒼うっそうとしたジャングルに、ビスクドールみたいにか弱そうな姿は不釣合いでしかない。いかにも深窓の令嬢といった雰囲気だが、その身にまとうのは飾り気のない黒いワンピースと、日除け代わりに頭から被せられた男物のシャツだけだ。
 とはいえ、ルチアが現状をうれえている様子はない。
 それどころか、すぐ横の木のみきへ絡み付くつるにルビーのように真っ赤な実を見つけたとたん、ぱっと顔を輝かせた。ルチアはシャツの下から手を伸ばし、その果実を採ろうとしたのだが……

「――やめておけ、死ぬぞ」

 下からぴしゃりと告げられ、慌てて手を引っ込める。
 そろりと下を見たところ、声の主の青い瞳と視線がかち合って、やめておけ、と重ねて首を横に振られてしまった。

「採ってはだめですか?」
「だめだな。背中で人に死なれたくはないので、諦めてくれ」

 相手はルチアよりも幾分年上に見える若い男で、甘い甘い蜂蜜色の髪と健康的な小麦色の肌をした美形である。
 ルチアは現在、その男に負ぶわれた状態で、草木がしげるジャングルの中を進んでいた。
 広い背中は安定感があり、彼女の尻を支える腕も筋肉質でたくましい。
 とはいえ相手は父でも兄でもなく、幼子のように運ばれるのはルチアにとって本意ではなかった。ぶっちゃけ、照れくさい。
 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、男は言い聞かせるみたいに告げる。

「それはヘビノチという名の猛毒の実だ。口に入れたら最後、舌も食道も胃もただれて水さえ飲めなくなる」
「ヘビノチ……〝蛇の血〟ですか。それは物騒ですね、覚えておきます」

 聞き分けのいい振りをしながらも、ルチアはがっかりしていた。
 ぎゅっと寄り集まった小さな粒の中には赤い果汁がパンパンに詰まっていて、彼女の古い記憶――前世でんだ木イチゴそっくりであるにもかかわらず、食べられないというのだ。
 そう、生まれてこの方、誰にも打ち明けたことはないのだが、ルチアには前世の記憶があった。
 ただそれは完璧ではなく、随分と虫食いがある。例えば前世での自分や家族の名前なんかはまったく覚えていないし、どういう最期を迎えたのかも定かではない。
 しかしながら思考や情緒、価値観などといったものは今世に持ち越しているようで、現在十八歳のルチアは実際の年齢や見た目に反して、かなり人生を達観していた。
 見た目詐欺さぎはなはだしいヘビノチから視線を逸らし、ふうと物憂ものうげなため息を吐いた彼女に、下から伸びてきた手が別の木の枝にぶら下がっていた黄色い実を捥いで渡してくれる。
 ヘビノチと形状はそっくりだが、こちらはヘビノミツといって口にしても問題がないらしい。
 男に礼を言い、嬉々としてそれを口に含んだルチアだったが――次の瞬間、顔をしかめて叫んだ。

「――すっっっぱい! わわわ、すっぱいですよ⁉」
「はは、食えるとは言ったが美味うまいとは言ってないだろう?」
「でも、すっぱいって教えてくれてもよかったと思います! あああ、すっぱーい! これの名前が〝蛇の蜜〟って……詐欺さぎですかっ‼」
「そのすっぱいのがいいんだぞ。そいつに含まれる酸はミネラルの吸収を助けるから、熱中症予防になる。ここの気候に慣れていないお前にはちょうどいいだろう。まあ、普通は甘味を加えてジャムにして食うんだがな」

 ひどい! すっぱい! と叫んでルチアが男の肩をバシバシと叩くが、彼は少しもこたえた様子がない。それどころか、はははっと声を上げて笑うものだから、悔しくなったルチアは顎の下にある彼の蜂蜜色の髪をぐしゃぐしゃに掻き回してやった。


 とまあこんな風に、随分と打ち解けているように見えるルチアと男だが、実のところ小一時間前に出会ったばかりという間柄だ。
 ルチアが彼について知っていることといえば、フィンという名前と、この鬱蒼うっそうとしたジャングルを抜けるには彼の存在が不可欠だということくらいである。
 フィンは頭をボサボサにされても構わず笑っていたが、やがてまたかたわらの木に片手を伸ばし、今度は赤紫色をした小さな実をんだ。

「そら、口直しにこれをやるから機嫌を直せ。あまり背中で暴れてくれるな」
「今度のはすっぱくないですか? いくら無害でも、辛いのとか渋いのとかも嫌ですよ?」
「心配しなくても、こいつは甘くて美味うまいぞ。味は俺が保証する」
「本当に本当なんですね? もしも嘘だったら、髪の毛を全部むしりますからね⁉」

 ルチアはおそるおそる赤紫色の実を受け取ると、目の前にかざしてまじまじと眺めてみた。形状はブルーベリーに近い。
 この実はヘビノメと呼ばれていると聞いて、また蛇にちなんだ名前なのかと警戒を強めたものの、それが発する甘酸あまずっぱい香りに自然と喉が鳴った。
 誘惑にあらがえず、ちびりと前歯でかじってみる。すると、硬めの皮がぷしゅりと弾け、中からどっと果汁が溢れ出した。

「あ、甘い! 本当に甘い……」

 フィンの言葉に嘘はなかった。あまりの美味おいしさに顔を輝かせたルチアは、実をまるごと口に含んで咀嚼そしゃくする。
 そして今さっき自分が乱したフィンの蜂蜜色の髪を、褒めるみたいに撫でて整えた。

「よしよし、機嫌は直ったな。王女殿下の口に合ったようで何よりだ」
「あら、私はもう、王女なんかじゃないですよ」

 ヘビノメの実をごくんと呑み込んだルチアはフィンの言葉を否定する。それから、太陽の香りがする彼の頭に顎を載せて、何でもないことのように告げた。

「――今の私は、一国の王を殺害しようとした重罪人ですもの」


 ここは南の海の果てに浮かぶ絶海の孤島、ヴォアラ島。
 ルチアは今から十八年前、この島よりずっと北に位置する大陸内地の君主制国家リーデント王国にて、前王の長女として生をけた。
 ところがこのたび、腹違いの兄である現国王フランク・リーデントの謀殺計画に加担し、毒杯を渡したことで流罪るざいを言い渡され、このヴォアラ島にやってきたのだ。
 島の周辺には無数の岩礁がんしょうが突き出ている。そのため、ルチアを護送してきた大型帆船はんせんは沖に留まり、彼女は一人小舟に乗り換えさせられた。海流の影響だろうか、ぎ手がいなくても小舟はすいすいと島に向かって流れた。
 そうして、ルチアが砂浜に到着するのを見届けると、大型帆船はんせんは船首を返して去っていってしまったのだ。
 ヴォアラ島の白い砂浜の奥には鬱蒼うっそうとしたジャングルが広がっていて、文明を拒んで久しく見える。
 過去、幾人もの罪人がこの島に送られた。リーデント王国のみならず、大陸のありとあらゆる国々がヴォアラ島を流刑地として利用してきたのだ。
 流刑者の多くは王侯貴族出身の政治家や文化人。それまで何不自由なく暮らしていた人間を、着の身着のまま僻地へきちに放り出すなんて、死ねと言うのと同義だろう。
 現在、大陸のほとんどの国では死刑が廃止されているが、一瞬で首を落とされるのと、未開の地に置き去りにされて孤独に死を待つのとでは、一体どちらの刑が重いのか。
 そんなことを考えながら、ルチアはしばらくの間、遠のいていく大型帆船はんせんを見送っていた。
 そして、いよいよその影が水平線の向こうに消えようという頃のことである。

『そこのお前、遭難者か? それとも――大陸からの流刑者か?』

 ガサガサと木々を掻き分けてジャングルの奥から現れ、いきなり問うてきたのが、今まさに彼女を背負って歩いているフィンだった。

『流刑者ですけど……ええっと、あなたは……人間ですか?』
『随分な質問だな。人間以外の何に見える?』

 この第一島人しまびと発見に、ルチアは喜ぶよりもまず驚いた。というのも、ヴォアラ島は無人島だと勝手に思い込んでいたからだ。
 きらびやかな王宮の奥に大事に仕舞われてきた自他共に認める箱入り娘だが、無人島でたった一人サバイバル生活をして、生きられるだけ生きてやろうと決意を固めていた手前、突然の住民登場には少々拍子抜けした。
 もちろん、最初はルチアも警戒したのだ。相手は男性で、しかもルチアなど小指の先でひねり潰せてしまえそうなほどたくましい。
 思わずじりじりと後退あとずさった彼女に小さくため息を吐いたフィンは、害意はないと主張するためか両のてのひらを広げてみせた。

『とりあえず、砂浜から離れることをお勧めする。そこは日差しがきつかろう。お前、帽子も何も被ってこなかったのか?』
『日差し? ……そういえば、何となくヒリヒリします』

 ルチアは銀髪に薄青の瞳、肌は透けるように白い。日照時間が短く太陽の光が弱いリーデント王国では問題なかったが、それとは対極の状況にあるヴォアラ島では確かに辛いものがある。
 おそらく、護送中に付けられていた世話役は、この強い日差しを見越して彼女に黒いワンピースを着せたのだろう。しかし帽子までは頭が回らなかったのか、無防備だった頭皮や鼻の頭がわずかに痛んだ。
 無意識に鼻の頭をこすろうとした彼女の手を、さっと伸びてきたフィンの手が掴む。
 大きくて、骨張っていて、小麦色で、そして温かな手だ。

『よせ、こすれば皮がける。後で真水で冷やしてやるから、少しだけ我慢してくれ』

 ルチアを強引に引き寄せたフィンは、みずからのシャツを脱いで彼女の頭に載せた。これが、ルチアが男物のシャツを被るに至った顛末てんまつである。
 初対面の相手から与えられた親切に戸惑うルチアは、このまま彼に従っていいものか迷ったが……

『満潮になれば砂浜全てが海水にかるぞ。もう一度言うが、砂浜から離れることをお勧めする』
『離れます』

 砂浜を離れるということはすなわち、ジャングルに踏み込むということだ。
 ジャングルを行くには土地勘があるフィンの案内は不可欠で、ルチアは必然的に彼と行動を共にすることとなった。
 ところが、少しも進まないうちにルチアの歩みが止まる。慣れない獣道で早々に靴擦くつずれを起こしてしまったのだ。とたんに消沈する彼女に、フィンはさっとしゃがんで背中を向けた。

『ほら、負ぶされ』
『でも……』
『背負われるのが嫌だと言うなら、抱いていくが? こんな場所で日暮れを迎えるのはご免だからな』
『……失礼します』

 こうしてルチアは観念し、全面的にフィンを頼ることにした。
 現在は、もはや彼を警戒するのも馬鹿らしく、自分とは違ってたくましい背中にすっかり身を任せている。
 そんな二人の頭上を突然大きな影が横切り、しげったシダの葉を揺らして止まった。
 赤、青、黄色と原色をまとったやたらと派手な見た目の、これぞ南国といった感じの大きな鳥が、ギャーギャーと耳障りな声で鳴き出す。
 その声につられるように周囲を見回したルチアは、フィンの肩をぺちぺちと叩いて問うた。

「ねえ、フィン。あの鳥は食べられますか?」
「食えんこともないが、捕まえるのは至難のわざだぞ」
「じゃあ、あっちの枝にいるトカゲは? あれは美味おいしいですか?」
「あれは……俺も食ったことがないので知らん。というか……もしかして腹が減っているのか?」

 顔だけ振り返ってそう問うフィンに、ルチアはいいえと首を横に振る。

「今は特には。でも無人島では、食べられるものを食べられる時に食べておかなければ生き残れないんでしょう?」
「そもそも、ここは無人島ではないんだがな。誰かがそう言っていたか?」
「本に書いてありました。祖国で拘留こうりゅうされている間はとにかく暇だったので、幼馴染おさななじみのジュリエッタがいろいろ差し入れてくれたんですけれど、その中で唯一実用的だった本です。確か、『無人島で百日間生き残る方法』とかいう題名の……」
「その題名通りだとすれば、結局は百日間の生存しか保証されないみたいだが?」

 リーデント王国の重鎮アマルド公爵家の令嬢ジュリエッタはルチアと同い年で、お互い赤子の頃からの付き合いだ。
 あぶあぶと擦り寄ってきた赤子のジュリエッタを見た時、ルチアは不思議と初めて会った気がしなかった。何か運命的なものを感じ、好感度は最初から最高だったように思う。
 彼女は常に前向きで陽の気に満ち溢れていて、陰鬱いんうつとした王宮の中で唯一、ルチアが一緒にいて明るい気分になれる貴重な相手となった。
 そんなジュリエッタがくだんの本を抱えてきた時は、ルチアだってフィンと同じ感想を抱いたが、それを口にすることはなかった。
 何故なら、彼女がルチアの行く末を心から案じてくれていたのは明白で、『百一日目以降はどうすればいいのよ』なんて無粋な指摘をしてその厚意に水を差したくはなかったのだ。

「いいんです。ジュリエッタに他意はなかったはずですもの。もしも無人島に何でも一つだけ持っていっていいと言われれば迷わず彼女を選ぶくらい、私にとって大事な子なんです」
「箱入り娘が箱入り娘を連れてきたところで、お互いに足手まといにしかならないと思うがな」
「あらま、分かってないですね。ジュリエッタは存在すること自体に意味があるんですよ? 彼女と一緒なら、きっとどんなところでだって面白おかしく生きていけそうな……ええ、そんな気がしたんですけれど……」
「……おい? どうした?」

 ふいに言葉を切ったルチアの顔を、首だけ振り返ったフィンが気遣わしげに覗き込む。
 偶然にも彼の瞳が幼馴染おさななじみのそれと同じ色をしているのに気付き、ルチアは苦笑を浮かべて続けた。

「結局は、こんなに遠くへ来ちゃいましたし……ジュリエッタの方も、私がリーデント王国をつ前日に他国へとついでいってしまいました」

 ジュリエッタの夫となるのは友好国マーチェス皇国の皇弟で、もちろん親が決めた政略結婚だ。貴族の娘に生まれた以上、面識もない相手にとつぐことを殊更ことさら嘆いている様子はなかったジュリエッタも、ルチアとの別れには滂沱ぼうだの涙を流していた。
 今世の別れになると知りつつ、またね、なんて言葉を交わした自分達は、傍目はためにはさぞ滑稽こっけいに映っただろう。

「……寂しいのか」
「寂しい……でも、仕方がないんです。ジュリエッタは公爵令嬢として与えられた役目をまっとうし、私はそれを見送ることしかできなかった……」

 ジュリエッタがいなくなったとたんに、ルチアの世界は色褪いろあせてしまった。
 もともと前世の記憶があるせいで、今世をどこか他人事みたいに感じていたこともあり、ルチアは生への執着が薄い。
 しかし、だからといって、世をはかなんでみずから命を絶つような真似はしなかった。
 ジュリエッタの厚意に報いるためにも、せめて百日間は流刑先で生き延びる覚悟でルチアはここまで来た。食べられるものは食べられる時に食べるし、頼れる人は頼れるだけ頼るつもりだ。
 そうして、いつか今世を終えれば、また記憶を持ったまま別の人間に転生するということもあり得るかもしれない。一度あることは二度あると言うのだから。
 とにかく、今世のルチアは生まれながらに不幸を背負わされていたので、願わくは次の人生に期待したいところだった。


 ルチアは前世でも女として生まれ、〝日本〟という島国の、ごくごく一般的な家庭に育った。
 ジュリエッタみたいに唯一無二と言える大親友な幼馴染おさななじみもいたし、恋もした。
 休日には家にいる日の方が少ないくらいのアウトドア派で旅行が趣味。日本を飛び出していろんな国に行ったが、同行者はもっぱら恋人ではなく幼馴染おさななじみだった。
 前世がどういう最期であったのかは、とんと思い出せない。そのため、ぱっと目を覚ましたらいつの間にか新しい命に生まれ変わっていて心底驚いたし、自分が置かれている状況がまったく理解できなくて戸惑った。意識は成熟した大人のままなのに、身体は生まれたばかりの赤子になっているのだから無理もなかっただろう。
 当初、ルチアはパニックにおちいって散々泣きわめいたが、そもそも赤子が泣くのは普通のことなので誰にも不審がられることはなかった。
 しばらくして落ち着いてくると、彼女は現状を把握しようとした。
 といっても、生まれて間もない赤子なので、視界は不鮮明だし、しゃべれるはずもないので誰かに状況を尋ねることもできない。
 仕方なく耳をそばだててみたものの、今度は言葉そのものが理解できないことに気付いた。
 どうやら自分は日本とは違う国に生まれ変わったらしい。
 そう悟ったルチアは開き直り、再び周囲を注意深く観察し始めた。
 会話の内容が理解できなくても、声の調子や雰囲気で何となくその人の心情を想像することは可能だ。
 ルチアはやがて、自分の周囲が何やら大きな悲しみと絶望に包まれていることを知った。

「私が生まれて十日後のことです。二人の兄達が乗った馬車が事故に遭い、一人が――私と母を同じくする兄が亡くなりました。彼は第一王子で、八歳ですでに立太子していたそうです」
「なるほど。第一王子が幼くして亡くなったために、第二王子だったお前の腹違いの兄上がリーデント王国の国王として立つことになったんだな」

 自分の生い立ちを説明するルチアを背負ってジャングルの中を進んでいたフィンの足は、日が落ち始めたことを理由に停止した。
 夜のジャングルは方向が分かりにくいばかりか、夜行性の動物と接触する危険もあるため、安全な場所で朝を待つべきだと彼が言う。
 そうしてルチアが連れてこられたのは、ジャングルの中を流れる小川のほとりに立った、一本の大きなマンゴーの木に作り付けられたツリーハウスだった。
 頑丈なマンゴーの木の上、青々としげった葉っぱに埋もれるようにして木組みの小屋が載っている。
 小屋の内部は、十畳ほどの大きさだった。
 床にはとうを編んだ敷物が敷かれ、板張りの天井は虫除けなのかいぶしたみたいに黒くなっている。
 入り口とは別に窓が一つ開いていて、ここから木にったマンゴーの実に手が届くという合理的な設計だった。
 日本だと、フルーツキャップを被せて綺麗な箱に詰めれば一個三千円はしそうな立派な実だが、ここでは取り放題だ。ルチアが嬉々としてぎ取った実は、フィンがナイフで器用に皮をいて切り分けてくれた。
 とたんに鼻腔びこうへ届いた芳醇ほうじゅんな香りに自然と笑みが零れる。しかし、そんなルチアが続けるのは、楽しい話では決してなかった。

「兄の死の報せを受けた衝撃で、もともと私の出産で体調を崩していた母の心臓まで止まりました。私は同じ日に、母と兄の両方を失うことになったんです」

 その日、前リーデント国王は、側妃と二人の王子を連れて森へ狩りをしに出かけていた。
 正妃と側妃の関係は案外良好で、母親違いの王子達も実の兄弟のように仲が良かったという。
 ところが目的地に辿り着く直前で一行を乗せた馬車が暴走して横転。車窓から外に投げ出された第一王子が亡くなった。
 一方で、第二王子は無事だった。同乗していた彼の母である側妃が身をていして庇ったからだ。
 これが後に、大きな物議をかもすことになった。

「大方、自分が産んだ第二王子だけ守って、正妃が産んだ第一王子の方は見殺しにした、とでも世間が騒いだんだろう」
「ご明察です。上の兄が亡くなったことで、必然的に王位継承権は下の兄に移りましたから、余計に。それどころか、最初から王太子を謀殺するつもりで馬車に乗せたんじゃないかと疑う者までおりました」
「実際、その可能性はまったくないと言えたのか?」
「そもそも馬車が暴走したのは、手綱たづなの操作を誤ったからなんです。その時の御者ぎょしゃが側妃の息のかかった者ならば可能性はあったかもしれませんが――手綱たづなを握っていたのは、父ですもの」

 つまりは、前リーデント国王の不注意により馬車は暴走し、その結果、第一王子が亡くなったのだ。責められるとしたら、それは事故を起こした前リーデント国王だろう。
 側妃はむしろ、一人でも王子を守ったことを称賛されてしかるべき。それなのに、生き残った母子に世間の目は冷たかった。
 正妃と第一王子を失ったショックで前リーデント国王まで心をんでしまい、第二王子は早々に立太子して玉座を譲られることになる。だが、当初は大臣達ばかりか侍女や侍従までもが陰口を叩いた。

「きっと、兄上様は針のむしろに座らされているも同然の心地だったと思います。幸い、優秀な側近の助けで立派に国王を務められ、今では国民の多くが賢王とたたえるようになりましたが……」

 兄王の苦労に思いを馳せつつ浮かない顔でそう告げたルチアの口元に、切り分けられたマンゴーの実が差し出される。皮をいて手が果汁まみれになったついでだと、フィンが手ずから食べさせてくれるらしい。
 常識的に考えれば、出会ったばかりの異性にしてもらうことではない。さしものルチアも照れくさいのだが……

「いいから口を開けろ。王女殿下は他人に世話されることくらい慣れているだろう?」
「さすがに、食べ物を口まで運んでもらったのはほんの幼い頃だけです」
「なら、幼い子供に戻ったつもりで食べさせられていればいい。どうせこの島に来たばかりの今のお前は、右も左も分からない幼子と変わらん」
「……いただきます」

 フィンにく論破され、ルチアはしぶしぶ従う。
 ところが、口に含んだ瞬間広がったマンゴーの濃厚な甘味に、彼女の頬は意思に反してふにゃりとほころんだ。
 それに満足げな顔をしたフィンが問う。

「腹違いの兄上に対して随分と肯定的なんだな。それに、結果的には同腹の兄上を庇わなかった側妃にも思うところはないのか?」
「上の兄の記憶はまったくありませんから、正直な話、私にとって兄上様は下の兄だけですもの。王太后様だって、上の兄を庇わなかったんじゃなくて、状況的に庇えなかったんです」

 ルチアの二人の兄達は、もともと正反対の性格をしていたという。
 あの事故の際も、第二王子が大人しく座席に着いていたのに対し、活発な第一王子はいくら側妃が注意しようとも言うことを聞かず、窓から身を乗り出していたらしい。
 後に、前リーデント国王と共に御者ぎょしゃ台に座っていた侍従がそう証言したおかげで、側妃を批難する声もだんだんと収まっていった。
 ただし、どうあっても現国王フランク・リーデントを認めたくないやからもいたのだ。
 その筆頭が、正妃を輩出したレンブラント公爵家の当主――ルチアにとっては大叔父おおおじに当たる人物と、ルチアの母の乳姉妹であり亡くなった第一王子とルチアの乳母うばを務めた人物だった。
 レンブラント公爵家は、ルチアの親友ジュリエッタの生家であるアマルド公爵家と並ぶ、リーデント王国の名家中の名家である。
 一族の血を引いた王子が国王となる夢を断たれたレンブラント公爵は、代わりに立ったフランクをひどくねたんでいた。
 また、息子も同然だった第一王子を失い、それによって実の妹のように可愛がっていた正妃まで亡くした乳母うばの悲しみは凄まじく、その感情は怨嗟えんさとなってフランクとその母に向けられたのだ。
 そして、ルチアはそんなレンブラント公爵と乳母うばの恨み言を子守唄代わりにして育った。
 そこまで聞いたフィンが、マンゴーの果汁に塗れまみたナイフを布でぬぐいつつ、感心したように言う。

「その環境にあって、よくお前は兄上や王太后を恨まずにいられたものだな」

 今更ながら、曲がりなりにも一国の王女として生をけたルチアは、これまで〝お前〟なんて呼ばれ方をしたことがなかった。
 ただし、一般人だった前世の記憶があるおかげで、フィンの物言いに戸惑うことも、ましてや気分を害することもない。
 レンブラント公爵や乳母うばに関してもそうだった。
 フランクとその母への恨み言を散々聞かされて育ったのだから、普通だったらルチアもそれに多大な影響を受けて兄達を恨んでもおかしくなかっただろう。同腹の兄や生母のかたき、と強い憎悪を植え付けられていたかもしれない。
 けれども、赤子の時点で前世の記憶があり、精神年齢はすでに成人に達していたのが幸いした。

大叔父おおおじ乳母うばの話と、周囲の話とを冷静に聞き比べてみれば、どちらが間違ったことを言っているのかは明白でしたもの。理不尽な恨みや憎しみを向けられる兄上様と王太后様は、本当にお気の毒でした」


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