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2巻
2-3
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とはいえ、アポイントメントは取り忘れたものの、綾子は猪野商事と仕事をしている別会社の社員。受付に着いた時に、会議に必要なサンプルを届けにきた旨は告げているし、現にもう一人の受付嬢は丁寧に対応してくれた。
なのに、綾子の前に立ちはだかるこの受付嬢は、はなから綾子を仕事相手だとは思っていないらしい。受付嬢は、さらにとんでもない言葉を続けた。
「専務だけではなく、今度は社長にまで取り入るつもり? あなた、うちの会社に入り込みたいだけじゃないんですか?」
「……は?」
「オフィスを間借りしなければいけないような小さな会社より、自社ビルを持っている大会社の方が、ずっと魅力的ですものね」
一瞬、綾子は彼女の発した言葉の意味が分からなかった。
やがて、それがMon favoriを、ひいてはこのビルにテナントとして入っている全ての会社を見下す言葉だと気づく。
とたんに、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
綾子は奈江から預かったサンプルの詰まった箱と、彼女の心がこもった小さな紙袋をしっかり抱え直す。そして受付嬢をまっすぐ見据えて、口を開いた。
「私は、今の会社で雇っていただけたことにとても感謝しています。モン・ファヴォリの社員を名乗れることを誇りに思います。失礼ですが、御社にも、御社の社員であるあなたにも、劣っているとは思っていません」
綾子が言い返してくるとは思っていなかったのか、受付嬢は少し驚いた後、顔を強張らせた。
それにかまわず、綾子は続ける。
「確かに、社会人として、私はまだまだ誰にも敵わないかもしれません。でも、大きな会社に勤めていらっしゃるというだけで、誰かを羨ましく思ったりしません!」
自分が社会人として未熟だから、仕事をする上で相手にされないことはあるかもしれない、と綾子は思う。
しかし、受付嬢が言ったような理不尽な理由でMon favoriを貶められては、さすがに黙っていられなかった。
Mon favoriの人々とともに働ける毎日は、綾子にとってかけがえのないものだ。そこで得た縁や経験の素晴らしさは、猪野商事という大会社が相手であろうと、比べられるものではない。
「与えられた仕事には、責任を持ちたいと思っています。今日は、弊社の部長の指示で御社にお邪魔しました。それだけです」
綾子は必死に怒りを抑え、極力冷静な言葉を選んだ。
受付嬢に対してひどく腹を立ててはいても、Mon favoriの社員として猪野商事を訪れているという自覚が、綾子の激情を戒めていた。
一方、妙な選民意識に取りつかれていた受付嬢は、綾子の毅然とした態度に一瞬怯んだ。
しかし、すぐさま逆上したように声を荒らげる。
「偉そうに言わないでちょうだい!」
十四階のフロアには、せわしなく人の行き交う気配がある。
ところが、この階段を利用する社員は、普段からほとんどいないらしい。受付嬢の苛立った声は、感情の高ぶりに比例してますます大きくなったが、それに気づく者はいなかった。
見下していた相手に反論されて腹が立ったのか、受付嬢は目を吊り上げた。
物凄い形相で、綾子を睨みつけている。
「そもそも、あなたなんか専務の隣には似合わないわ! 一緒にいたって、専務に何のメリットがあるっていうのよ!」
「――っ!」
彼女の叫び声を聞いたとたん、綾子は言葉を失った。
綾子自身、洗練された大人の男性である忍に、子供っぽい自分が釣り合っているとは思っていない。受付嬢の言葉は、綾子の胸にぐさりと突き刺さった。
明らかに怯んだ様子の綾子を見て、受付嬢は「そら見たことか」とでも言うように口の端を上げた。ところが――
「いい加減にしたら?」
綾子の背後――下の階段の方から、凛とした女性の声が響いた。
突然現れた第三者に驚き、綾子と受付嬢は声のした方に顔を向ける。そこにいたのは……
「や、山本さん……?」
猪野商事専務秘書である山本麻衣子だった。
フランスからの帰国は今日の午後と聞いていたが、予定より早く到着したようだ。
「お疲れ様です、里谷さん」
山本はヒールをカツカツ鳴らして階段を上ってくると、まだ十四階の非常扉近くに立っていた綾子の隣に並んだ。そして左手の中指で眼鏡を押し上げ、気まずそうに自分を見下ろしている受付嬢を見据えて言った。
「あなた、我が社の顔としてお客様に接するのが仕事でしょう。それなのに、そのお客様を人気のない場所に連れ込んでいちゃもんをつけるなんて、何を考えているんですか?」
どうやら山本は、綾子と受付嬢のやりとりを聞いていたらしい。
専務秘書より受付嬢の方が立場が弱いのか、はたまた山本の方が社歴が長いのか。山本を前にした受付嬢に、先ほどのような威勢はなくなってしまった。
「受付は、あなたにとって都合のいい人間とそうでない人間を振り分ける場所じゃない。何を勘違いしているんです?」
受付嬢の顔は、みるみる青くなっていく。
山本はそれにかまうことなく、隣で立ち尽くしている綾子に顔を向けて「どちらへ?」と尋ねた。
綾子は慌ててサンプルが入った箱を掲げ、「社長室へ」と答える。
すると山本は頷き、再び受付嬢へと向き直った。
「つまり、里谷さんは社長のお客様。社長のお客様に暴言を吐くということは、社長に喧嘩を売っているのと同じです。そんなことすら人に言われないと分からないなんて、社会人失格ですね」
今度は受付嬢が言葉を失う。さらに彼女の目には、涙が浮かんだ。
その様子を目の当たりにした綾子は、「も、もうそのくらいで……」とおろおろしながら山本を宥めにかかる。山本はそんな綾子を見てため息をつくと、すっかり俯いてしまった受付嬢をなおも厳しい目で見据えた。
「お客様は、私が責任を持って社長室へご案内します。あなたには任せられませんから」
有無を言わさぬ声が、非常階段に響く。
返事すらできない受付嬢を押しのけ、山本は綾子を促して階段を上り始めた。
「や、山本さん、あの……」
「……あなたは、まったく。どうして人気のない場所に連れ込まれているんですか? エレベーターを使わないなんて、何かおかしいと思いません?」
階段を上りながら、山本は呆れたような顔を綾子に向ける。それでも、眼鏡の奥の瞳には受付嬢に向けていた鋭さはなく、綾子はほっと肩の力を抜いた。
「お、思いましたけど、何か事情があるのかなって……。それに、二階分くらいなら階段で上っても大したことないかと」
そこまで言って、綾子はふと気になったことを山本に尋ねた。
「そういえば、山本さんはどうしてあそこに?」
「私、エレベーターの閉塞感が大嫌いなんです。だから、できる限り階段を使っています」
綾子は目を丸くし、感心したように答えた。
「健康的でいいですね」
山本は、かなりの閉所恐怖症だった。はからずも知ってしまった彼女の弱点だが、綾子はやや的外れな返答をして、それを見事にスルーした。
二人は、そのまま並んで階段を上りきる。そして最上階のフロアへ足を踏み出そうとした時、山本は綾子の肩にそっと手をかけて口を開いた。
「さっき……彼女が言ったことですけど」
「え?」
「あなたに専務の隣は似合わないとか、あなたと付き合って何のメリットがあるのか、とか」
「あ……」
蒸し返された話題に、トゲが突き刺さったままだった胸の奥が疼いた。
しかし山本が続けた言葉は、その痛みを拭い去るものだった。
「もしまた誰かにあんなことを言われても、堂々と胸を張っていらしてください」
「え?」
きょとんとする綾子をじっと見つめ、山本は続ける。
「専務はもともと有能な方でしたけれど、あなたと出会ってから、以前よりもいっそう精力的に仕事に取り組まれるようになりました。さっきの彼女の言葉を借りるなら、それこそ、あなたが専務と我が社にもたらしたメリットでしょう」
「そ、そんな……」
「あなたのおかげで、専務の仕事の効率は随分と上がりました。さっさと仕事を終わらせて、あなたと一緒に過ごしたいからでしょうね」
山本はくすりと笑ってそう言った。
「山本さん……」
初めて顔を合わせた時、山本の対応はひどく事務的で、綾子に好意的ではないように感じられた。しかし彼女はただ感情が表に出ないだけで、実際は面倒見がよく優しい女性だった。
「もっと、自信をお持ちください。専務は他の誰でもない、あなたに動かされているんです」
綾子を安心させるように、そして励ますように、山本は目を細めて言った。
その理知的な瞳から伝わってくる優しさに、綾子はふと気づく。
(山本さんって、お姉ちゃんみたい……)
姉の蔦子が綾子に向ける、温かな眼差し。
それとよく似たものを山本の視線から感じ取り、綾子はほっと心が解けていくように思えた。
同時に、これから姉に忍を紹介しようという時に、こんなに自信を持てず、不安定でいてはいけないと感じた。忍は綾子を誰よりも想ってくれているのだから、彼に釣り合うかどうかなんて悩む必要はないだろう。
綾子は、自分より背の高い山本を見上げて微笑んだ。
「山本さん、ありがとうございます。それから、おかえりなさい」
「はい、ただいま戻りました。――あ、そうだわ里谷さん。これ、お土産」
「え? 私にですか?」
「あなたへのお土産をゆっくり選ぶ時間がなかったからって、専務に頼まれていたんです」
「わあ、わざわざすみません!」
綾子が山本から受け取った紙袋の口からは、先の尖った何かが突き出ていた。
ラッピングされてはいるが、店のロゴが印字されただけの半透明のシートに包まれていたので、その土産が何かはすぐに分かった。
「山本さん……あの……」
「……お土産を選ぶのって、とても難しいんですね」
綾子はこの時初めて、山本の困ったような顔を見た。
その後、綾子は猪野商事の社長室を訪ねて、洋とその秘書・川村の歓迎を受けた。
洋はせっかくだからお茶でもどうかと誘ってくれたが、綾子はそれを丁重に断り退室した。
社長室に案内してもらった時、山本からも専務室に立ち寄っていかないかと誘われたが断った。
奈江に頼まれたサンプルは、確かに洋に届けた。
それに、奈江が用意した誕生日プレゼントを受け取り、洋の顔が嬉しそうに綻んだのも見届けた。
綾子の果たすべき役目は済んだのだ。
これ以上、仕事と関係のないことで猪野商事に長居すれば、それこそ公私混同。
受付嬢相手に、偉そうに啖呵を切った意味がなくなってしまう。
綾子は社長室を出ると、すぐさまエレベーターに飛び乗って十四階に下りた。
先ほどの受付嬢と顔を合わせるのは気まずかったが、綾子はペコリと頭を下げて目が合わないようにしつつ、足早に受付の前を通り過ぎた。
だからその時、受付嬢の方も青い顔をして目を逸らしていたことに、綾子は気がつかなかった。
***
その日の終業後。
昨夜の宣言通り定時で仕事を終えた忍と、綾子はビルの地下駐車場で待ち合わせた。
昼前に彼から一通メールが届いたが、受付嬢とのことについては触れられていなかった。
だから綾子は、山本は忍に何も話さなかったのだと思い、少しほっとしていた。
受付嬢の理不尽な態度や言葉は、後から思い出してもやはり腹立たしい。
しかし、綾子は自分の言葉でちゃんと反論できた。忍とのことについては言葉に詰まったが、山本のフォローのおかげで心も軽くなった。
昼間の出来事は、綾子の中ではすでに完結していた。
ところが、忍にとっては違ったようだ。一足先に車内で待っていた彼は、綾子の顔を見るなりドアを開けて、助手席に引っ張り込んだ。
運転席から身を乗り出した忍に、苦しいくらい力強く抱き締められる。
綾子は忍の腕の中で、両目をぱちくりさせた。
「山本さんに聞いたよ。今日はうちの受付に、嫌な思いをさせられたんだってね」
「あ、いえ……」
「猪野商事の人間として、俺も君に謝らなければならない」
忍はそう言うと、件の受付嬢の処遇について語った。
彼女は実はこれまでにも、いくつか問題を起こしていたらしい。個人的な理由で客人を贔屓したり、立場の弱い相手には不躾な態度を取ったりと、叩けば次々と埃が出てきた。
猪野商事の名を笠に着て、終業後も随分派手に立ち回っていたとのこと。
彼女は、ひとまず受付から外されることになった。
ただし、他の部署に配属したところで、どの社員も彼女が受付嬢であったことを知っている。
問題を起こして異動させられた、と噂にならないわけがない。
最終的に彼女は会社を辞めることになるだろう、と忍は言った。
何だか自分のせいで彼女が失職するみたいで、綾子は少々後味が悪かった。
「私、別にもう気にしてないんですけど……」
「でも、彼女の行為は社会人として許されることじゃない。それは分かるだろう?」
「は、はい……」
「何より――俺が許せない」
忍は吐き捨てるようにそう言うと、鋭い目で宙を睨んだ。綾子は、戸惑った表情を浮かべて首を竦める。すると忍は優しい眼差しを綾子に向けて、彼女の頬を撫でた。
「山本さんがね、綾子の対応を随分と褒めていたよ。モン・ファヴォリを貶めようとした受付嬢に対し、怯まず冷静に反論する姿はとても頼もしかったって」
「や、山本さんがっ?」
「あの人、自分にも他人にも厳しいから、誰かを褒めることなんて滅多にないんだよ」
「そ、そうなんですか? でも山本さん、忍ちゃんのことも褒めてましたよ。有能な方だって」
「へえ……それは光栄だね」
忍はそう言って笑うと、綾子の身体を再びキュッと抱き締めた。
「自分の働く会社に誇りを持てるって、素晴らしいことだと思うよ。俺はモン・ファヴォリの社長の孫として、素直に嬉しい」
忍に褒められ、綾子は照れ笑いを浮かべる。自分の行動を正しかったと言ってもらえて、とにかく嬉しかった。
忍は綾子の柔らかな頬に手を添え、蕩けるような笑みを浮かべて言った。
「綾子が、モン・ファヴォリの社員でよかった。綾子と出会えてよかった」
「忍ちゃん」
「この想い、ちゃんと綾子のお姉さん達にも伝えたいと思うよ」
忍の心からの言葉に、綾子はこくりと頷いた。
3
食材を買うためスーパーに立ち寄った後、午後七時半には忍のマンションに到着した。
綾子は、夕食の用意をする忍を手伝った。
あまり役に立っていない自覚はあったが、何かしていないと落ち着かない。
いよいよ今夜、電話越しとはいえ姉に忍を紹介するのだ。
忍は平静な様子だが、綾子は緊張を隠せなかった。
夕食を取り入浴も済ませると、二人は姉に電話するまでの間、リビングで過ごすことにした。
綾子はソファに腰を下ろすと、あるものの存在を思い出して自分のバッグをあさった。
そうして、出てきたのは……
「忍ちゃん、これ……」
「うわっ、何? その見覚えのある物体……」
珈琲を淹れていた忍は、あからさまに顔を顰める。
綾子がバッグから取り出して見せたのは、クリスタルでできたエッフェル塔の置物だった。
昼間、山本から渡されたフランス土産である。
数週間前に海外出張から戻った奈江も、同じような物を忍に買ってきた。
「もっとこう、綾子に似合うアクセサリーとか香水とか……期待してたんだけど……」
しかしそのクリスタルの置物こそ、自分が山本に委任した綾子への土産だと聞き、忍は深々とため息をついた。
一方、綾子の方は満更でもなかった。
リビングのガラステーブルの上に置くと、エッフェル塔の置物はなかなかこの部屋にマッチしているように見えたからだ。綾子のこぢんまりとした家よりも、忍の家の広いリビングの方が高級感があり、クリスタルの輝きも引き立つ。
「忍ちゃん、せっかくだから、この部屋に飾らせてもらっていいですか?」
綾子が尋ねると、忍は「うん?」と片眉を上げた。そして、すぐに顔を綻ばせる。
「いいよ。綾子のものならどんどん置いて。何なら綾子の部屋の中身全部、うちに移動させてもいい」
「え?」
「まあそれは、おいおい実行に移していくとして……」
きょとんとする綾子に意味深な言葉をかけると、忍は珈琲のカップを二つガラステーブルの上に置いた。そして壁掛け時計を見上げ、「そろそろか」と呟く。
忍は壁際の小さなデスクの上からノートパソコンを持ってきて、綾子の隣に腰を下ろした。ガラステーブルにノートパソコンを置き、電源を入れる。
綾子は、彼が持ち帰った仕事をする気なのだと思った。だから、邪魔をしないようにと少し身体を離そうとしたのだが、さっと肩を抱かれて反対に引き寄せられてしまう。
「忍ちゃん、あの……?」
「綾子がパソコンの前にいてくれなきゃ意味がないんだ」
忍はそう言って珈琲を一口飲むと、何やらノートパソコンを操作した。
綾子も会社でパソコンを使うが、データ入力や仕事のメールのやりとり、インターネットでの検索以外、馴染みがない。
目の前のディスプレイには、何かのウィンドウが表示されていた。
忍がIDらしきものを打ち込んでしばらくすると、そのウィンドウに人の姿が映し出される。
カップを片手に寄り添う、おじいさんとおばあさんだ。
彫りの深い顔立ちと鮮やかな瞳の色は、どう見ても外国人。
写真かと思って綾子が首を傾げると、彼らはにこりと微笑んで口を開いた。
「Bonjour!」
ボンジュールは、綾子も知っている。フランス語の「こんにちは」だ。
綾子は慌てて忍を見上げた。
「Bonjour」
忍はパソコンに向かって挨拶を返すと、戸惑う綾子に微笑んで告げた。
「マダム・ドルトーとムッシュ・ドルトーだよ」
「えっ……!?」
「綾子に会わせるって、約束してたもんでね」
ウィンドウに映る二人の老人は、忍が先日フランスで契約を取りつけた、カルトナージュ職人のマダム・ドルトーとその夫であった。
カメラのついているパソコンがあれば、インターネット回線を利用して、世界中どこにいてもビデオ通話ができる。
綾子と忍がいる日本は、午後十時を回ったところ。
一方フランスは、サマータイムなので午後三時過ぎ。
パソコンのディスプレイ上で、老夫婦は午後のお茶を楽しんでいた。
「ぼ、ぼんじゅーる」
忍はTシャツにズボンという部屋着姿だが、綾子はパジャマ姿なので少し恥ずかしい。おずおずと拙い挨拶をする彼女に、画面の中のマダム・ドルトーは笑顔で何か言った。
「Elle est très mignonne!」
英語の成績もそれほど振るわなかった綾子は、もちろんフランス語なんて分からない。
分からないなりにも、へらりと愛想笑いを返していると、隣から忍が通訳してくれた。
「綾子のこと、めちゃくちゃ可愛いって」
「め、めるし、ぼく」
綾子は慌てて礼を言った。
彼女の知っている他のフランス語は、こんばんはを意味する「ぼんそわー」くらいである。
「忍ちゃん、フランス語を話せるんですね。すごい」
「山本さんほど流暢じゃあないけどね」
綾子の素直な賞賛に苦笑すると、忍は彼女の肩をもう一度抱き直してディスプレイに向かう。
「Elle est ma fiancée」
忍は綾子を「僕の婚約者です」とドルトー夫妻に紹介した。
日本でも使われるフィアンセという単語は、もともとフランス語。
綾子も、それが婚約者を意味することくらい知っている。ところが日本語とは違うアクセントのせいで、綾子はその単語がフィアンセだと気がつかなかった。
言葉が分からない綾子は、自分に話が振られると、忍に通訳をしてもらった。
難攻不落の職人と聞いていたので、どんな気難しいおばあさんかと思っていたが、マダム・ドルトーは終始笑顔を絶やさない穏やかな人だった。
おかげでしばらく接しているうちに、綾子も自然な笑顔を返せるようになっていた。
遠く海を隔てたビデオ通話は、その日は一時間ほどで終了。
通話を終える直前、忍は綾子には分からない言葉をすらすらと発した。
それに対し、ドルトー夫妻は瞳を輝かせ、口を揃えて言った。
「Bonne chance!」
綾子の耳に「ボンヌシャンス」と聞こえたそのフランス語は、「頑張って」や「幸運を祈る」を意味する。忍にそう説明してもらった綾子は、ドルトー夫妻が何故そう言ったのだろうかと首を傾げた。
そんな彼女を見て、忍はすっかり冷めた珈琲を飲み干し、ひとつ息を吐いてから言った。
「俺だってね、それなりに緊張してるんだよ」
「え?」
「綾子のお姉さんとのファーストコンタクト。マダム・ドルトーとの会話で、いいウォーミングアップをさせてもらったよ」
「あ……」
「ついでに、励まされてしまったね」
忍は先ほど、フランス語で「これから綾子の家族と大切な話をする」と言ったらしい。そこでドルトー夫妻は、「頑張って!」と忍を応援したのだ。
「じゃあ、そろそろ電話しようか。――お姉さんに」
そう告げた忍の視線の先で、時計の針はちょうど午後十一時を指していた。
***
綾子は、忍の自宅の固定電話から実家に電話を掛けた。
ところが、誰も電話に出ない。
もうしばらくしてから掛け直そうと思った時、ようやく電話が繋がった。
受話器を取ったのは、今年米寿を迎える祖父である。
「――えっ……火事!?」
のんびりとした口調で祖父が発した物騒な言葉に、綾子は眉を顰めた。
今から二時間ほど前、近所の民家で火の手が上がり、大騒ぎになっていたのだそうだ。
姉の蔦子と次兄の虎太郎は、地域の消防団員として現場に向かったらしい。
火事があったという家には、腰の曲がった老夫婦が二人で暮らしている。幼い頃、彼らに随分と可愛がってもらった綾子は、その身を案じた。
幸い隣の住人が焦げ臭いとすぐに気づき、素早く老夫婦を避難させたおかげで、二人とも火傷一つ負わずに済んだという。
加えて、消防団員にも消防職員にも被害が出なかったと聞き、綾子は心底ほっとした。
ただし、蔦子はまだしばらく家に帰ってこられないだろう。
彼女は現在、消防団長を務めているのだ。事後処理にはまだ時間がかかるはず。
せっかく忍に時間を作ってもらったところ申し訳ないが、蔦子と彼の電話越しの挨拶は日を改めなければならないだろう。仕方なく、綾子はそのまま電話を切ろうとしたのだが……
「あ、ちょっと待ってねえ、アヤちゃん」
相変わらずのんびりとした口調で彼女を引き止めた祖父は、誰かに電話を代わった。
「――綾子か?」
「あ……ケイタロー兄ちゃん!?」
祖父から受話器を受け取ったのは、綾子の上の兄――里谷鯨太郎だった。
綾子は鯨太郎に頼まれて、忍に電話を代わった。
そしてソファの隣に座っている彼を、そっと見つめる。
鯨太郎は、忍と同じ三十二歳。里谷自動車整備工場を営業部長として支えている。
少し神経質なところがあり、綾子に対する過保護さでは姉の蔦子にもひけをとらない。
そんな鯨太郎は、まず蔦子が忍の電話に出られなかったことを詫びたようだった。
「いいえ、不測の事態ですし、どうぞお気になさらず」
忍がそう答えると、すぐに次の日曜日の話になったらしい。忍は挨拶にうかがいたい旨を伝えた。
生真面目な鯨太郎は、おそらく「歓迎する」と告げたのだろう。
忍は「そうですか。ありがとうございます」と言いつつ、綾子に向かって微笑んだ。
なのに、綾子の前に立ちはだかるこの受付嬢は、はなから綾子を仕事相手だとは思っていないらしい。受付嬢は、さらにとんでもない言葉を続けた。
「専務だけではなく、今度は社長にまで取り入るつもり? あなた、うちの会社に入り込みたいだけじゃないんですか?」
「……は?」
「オフィスを間借りしなければいけないような小さな会社より、自社ビルを持っている大会社の方が、ずっと魅力的ですものね」
一瞬、綾子は彼女の発した言葉の意味が分からなかった。
やがて、それがMon favoriを、ひいてはこのビルにテナントとして入っている全ての会社を見下す言葉だと気づく。
とたんに、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
綾子は奈江から預かったサンプルの詰まった箱と、彼女の心がこもった小さな紙袋をしっかり抱え直す。そして受付嬢をまっすぐ見据えて、口を開いた。
「私は、今の会社で雇っていただけたことにとても感謝しています。モン・ファヴォリの社員を名乗れることを誇りに思います。失礼ですが、御社にも、御社の社員であるあなたにも、劣っているとは思っていません」
綾子が言い返してくるとは思っていなかったのか、受付嬢は少し驚いた後、顔を強張らせた。
それにかまわず、綾子は続ける。
「確かに、社会人として、私はまだまだ誰にも敵わないかもしれません。でも、大きな会社に勤めていらっしゃるというだけで、誰かを羨ましく思ったりしません!」
自分が社会人として未熟だから、仕事をする上で相手にされないことはあるかもしれない、と綾子は思う。
しかし、受付嬢が言ったような理不尽な理由でMon favoriを貶められては、さすがに黙っていられなかった。
Mon favoriの人々とともに働ける毎日は、綾子にとってかけがえのないものだ。そこで得た縁や経験の素晴らしさは、猪野商事という大会社が相手であろうと、比べられるものではない。
「与えられた仕事には、責任を持ちたいと思っています。今日は、弊社の部長の指示で御社にお邪魔しました。それだけです」
綾子は必死に怒りを抑え、極力冷静な言葉を選んだ。
受付嬢に対してひどく腹を立ててはいても、Mon favoriの社員として猪野商事を訪れているという自覚が、綾子の激情を戒めていた。
一方、妙な選民意識に取りつかれていた受付嬢は、綾子の毅然とした態度に一瞬怯んだ。
しかし、すぐさま逆上したように声を荒らげる。
「偉そうに言わないでちょうだい!」
十四階のフロアには、せわしなく人の行き交う気配がある。
ところが、この階段を利用する社員は、普段からほとんどいないらしい。受付嬢の苛立った声は、感情の高ぶりに比例してますます大きくなったが、それに気づく者はいなかった。
見下していた相手に反論されて腹が立ったのか、受付嬢は目を吊り上げた。
物凄い形相で、綾子を睨みつけている。
「そもそも、あなたなんか専務の隣には似合わないわ! 一緒にいたって、専務に何のメリットがあるっていうのよ!」
「――っ!」
彼女の叫び声を聞いたとたん、綾子は言葉を失った。
綾子自身、洗練された大人の男性である忍に、子供っぽい自分が釣り合っているとは思っていない。受付嬢の言葉は、綾子の胸にぐさりと突き刺さった。
明らかに怯んだ様子の綾子を見て、受付嬢は「そら見たことか」とでも言うように口の端を上げた。ところが――
「いい加減にしたら?」
綾子の背後――下の階段の方から、凛とした女性の声が響いた。
突然現れた第三者に驚き、綾子と受付嬢は声のした方に顔を向ける。そこにいたのは……
「や、山本さん……?」
猪野商事専務秘書である山本麻衣子だった。
フランスからの帰国は今日の午後と聞いていたが、予定より早く到着したようだ。
「お疲れ様です、里谷さん」
山本はヒールをカツカツ鳴らして階段を上ってくると、まだ十四階の非常扉近くに立っていた綾子の隣に並んだ。そして左手の中指で眼鏡を押し上げ、気まずそうに自分を見下ろしている受付嬢を見据えて言った。
「あなた、我が社の顔としてお客様に接するのが仕事でしょう。それなのに、そのお客様を人気のない場所に連れ込んでいちゃもんをつけるなんて、何を考えているんですか?」
どうやら山本は、綾子と受付嬢のやりとりを聞いていたらしい。
専務秘書より受付嬢の方が立場が弱いのか、はたまた山本の方が社歴が長いのか。山本を前にした受付嬢に、先ほどのような威勢はなくなってしまった。
「受付は、あなたにとって都合のいい人間とそうでない人間を振り分ける場所じゃない。何を勘違いしているんです?」
受付嬢の顔は、みるみる青くなっていく。
山本はそれにかまうことなく、隣で立ち尽くしている綾子に顔を向けて「どちらへ?」と尋ねた。
綾子は慌ててサンプルが入った箱を掲げ、「社長室へ」と答える。
すると山本は頷き、再び受付嬢へと向き直った。
「つまり、里谷さんは社長のお客様。社長のお客様に暴言を吐くということは、社長に喧嘩を売っているのと同じです。そんなことすら人に言われないと分からないなんて、社会人失格ですね」
今度は受付嬢が言葉を失う。さらに彼女の目には、涙が浮かんだ。
その様子を目の当たりにした綾子は、「も、もうそのくらいで……」とおろおろしながら山本を宥めにかかる。山本はそんな綾子を見てため息をつくと、すっかり俯いてしまった受付嬢をなおも厳しい目で見据えた。
「お客様は、私が責任を持って社長室へご案内します。あなたには任せられませんから」
有無を言わさぬ声が、非常階段に響く。
返事すらできない受付嬢を押しのけ、山本は綾子を促して階段を上り始めた。
「や、山本さん、あの……」
「……あなたは、まったく。どうして人気のない場所に連れ込まれているんですか? エレベーターを使わないなんて、何かおかしいと思いません?」
階段を上りながら、山本は呆れたような顔を綾子に向ける。それでも、眼鏡の奥の瞳には受付嬢に向けていた鋭さはなく、綾子はほっと肩の力を抜いた。
「お、思いましたけど、何か事情があるのかなって……。それに、二階分くらいなら階段で上っても大したことないかと」
そこまで言って、綾子はふと気になったことを山本に尋ねた。
「そういえば、山本さんはどうしてあそこに?」
「私、エレベーターの閉塞感が大嫌いなんです。だから、できる限り階段を使っています」
綾子は目を丸くし、感心したように答えた。
「健康的でいいですね」
山本は、かなりの閉所恐怖症だった。はからずも知ってしまった彼女の弱点だが、綾子はやや的外れな返答をして、それを見事にスルーした。
二人は、そのまま並んで階段を上りきる。そして最上階のフロアへ足を踏み出そうとした時、山本は綾子の肩にそっと手をかけて口を開いた。
「さっき……彼女が言ったことですけど」
「え?」
「あなたに専務の隣は似合わないとか、あなたと付き合って何のメリットがあるのか、とか」
「あ……」
蒸し返された話題に、トゲが突き刺さったままだった胸の奥が疼いた。
しかし山本が続けた言葉は、その痛みを拭い去るものだった。
「もしまた誰かにあんなことを言われても、堂々と胸を張っていらしてください」
「え?」
きょとんとする綾子をじっと見つめ、山本は続ける。
「専務はもともと有能な方でしたけれど、あなたと出会ってから、以前よりもいっそう精力的に仕事に取り組まれるようになりました。さっきの彼女の言葉を借りるなら、それこそ、あなたが専務と我が社にもたらしたメリットでしょう」
「そ、そんな……」
「あなたのおかげで、専務の仕事の効率は随分と上がりました。さっさと仕事を終わらせて、あなたと一緒に過ごしたいからでしょうね」
山本はくすりと笑ってそう言った。
「山本さん……」
初めて顔を合わせた時、山本の対応はひどく事務的で、綾子に好意的ではないように感じられた。しかし彼女はただ感情が表に出ないだけで、実際は面倒見がよく優しい女性だった。
「もっと、自信をお持ちください。専務は他の誰でもない、あなたに動かされているんです」
綾子を安心させるように、そして励ますように、山本は目を細めて言った。
その理知的な瞳から伝わってくる優しさに、綾子はふと気づく。
(山本さんって、お姉ちゃんみたい……)
姉の蔦子が綾子に向ける、温かな眼差し。
それとよく似たものを山本の視線から感じ取り、綾子はほっと心が解けていくように思えた。
同時に、これから姉に忍を紹介しようという時に、こんなに自信を持てず、不安定でいてはいけないと感じた。忍は綾子を誰よりも想ってくれているのだから、彼に釣り合うかどうかなんて悩む必要はないだろう。
綾子は、自分より背の高い山本を見上げて微笑んだ。
「山本さん、ありがとうございます。それから、おかえりなさい」
「はい、ただいま戻りました。――あ、そうだわ里谷さん。これ、お土産」
「え? 私にですか?」
「あなたへのお土産をゆっくり選ぶ時間がなかったからって、専務に頼まれていたんです」
「わあ、わざわざすみません!」
綾子が山本から受け取った紙袋の口からは、先の尖った何かが突き出ていた。
ラッピングされてはいるが、店のロゴが印字されただけの半透明のシートに包まれていたので、その土産が何かはすぐに分かった。
「山本さん……あの……」
「……お土産を選ぶのって、とても難しいんですね」
綾子はこの時初めて、山本の困ったような顔を見た。
その後、綾子は猪野商事の社長室を訪ねて、洋とその秘書・川村の歓迎を受けた。
洋はせっかくだからお茶でもどうかと誘ってくれたが、綾子はそれを丁重に断り退室した。
社長室に案内してもらった時、山本からも専務室に立ち寄っていかないかと誘われたが断った。
奈江に頼まれたサンプルは、確かに洋に届けた。
それに、奈江が用意した誕生日プレゼントを受け取り、洋の顔が嬉しそうに綻んだのも見届けた。
綾子の果たすべき役目は済んだのだ。
これ以上、仕事と関係のないことで猪野商事に長居すれば、それこそ公私混同。
受付嬢相手に、偉そうに啖呵を切った意味がなくなってしまう。
綾子は社長室を出ると、すぐさまエレベーターに飛び乗って十四階に下りた。
先ほどの受付嬢と顔を合わせるのは気まずかったが、綾子はペコリと頭を下げて目が合わないようにしつつ、足早に受付の前を通り過ぎた。
だからその時、受付嬢の方も青い顔をして目を逸らしていたことに、綾子は気がつかなかった。
***
その日の終業後。
昨夜の宣言通り定時で仕事を終えた忍と、綾子はビルの地下駐車場で待ち合わせた。
昼前に彼から一通メールが届いたが、受付嬢とのことについては触れられていなかった。
だから綾子は、山本は忍に何も話さなかったのだと思い、少しほっとしていた。
受付嬢の理不尽な態度や言葉は、後から思い出してもやはり腹立たしい。
しかし、綾子は自分の言葉でちゃんと反論できた。忍とのことについては言葉に詰まったが、山本のフォローのおかげで心も軽くなった。
昼間の出来事は、綾子の中ではすでに完結していた。
ところが、忍にとっては違ったようだ。一足先に車内で待っていた彼は、綾子の顔を見るなりドアを開けて、助手席に引っ張り込んだ。
運転席から身を乗り出した忍に、苦しいくらい力強く抱き締められる。
綾子は忍の腕の中で、両目をぱちくりさせた。
「山本さんに聞いたよ。今日はうちの受付に、嫌な思いをさせられたんだってね」
「あ、いえ……」
「猪野商事の人間として、俺も君に謝らなければならない」
忍はそう言うと、件の受付嬢の処遇について語った。
彼女は実はこれまでにも、いくつか問題を起こしていたらしい。個人的な理由で客人を贔屓したり、立場の弱い相手には不躾な態度を取ったりと、叩けば次々と埃が出てきた。
猪野商事の名を笠に着て、終業後も随分派手に立ち回っていたとのこと。
彼女は、ひとまず受付から外されることになった。
ただし、他の部署に配属したところで、どの社員も彼女が受付嬢であったことを知っている。
問題を起こして異動させられた、と噂にならないわけがない。
最終的に彼女は会社を辞めることになるだろう、と忍は言った。
何だか自分のせいで彼女が失職するみたいで、綾子は少々後味が悪かった。
「私、別にもう気にしてないんですけど……」
「でも、彼女の行為は社会人として許されることじゃない。それは分かるだろう?」
「は、はい……」
「何より――俺が許せない」
忍は吐き捨てるようにそう言うと、鋭い目で宙を睨んだ。綾子は、戸惑った表情を浮かべて首を竦める。すると忍は優しい眼差しを綾子に向けて、彼女の頬を撫でた。
「山本さんがね、綾子の対応を随分と褒めていたよ。モン・ファヴォリを貶めようとした受付嬢に対し、怯まず冷静に反論する姿はとても頼もしかったって」
「や、山本さんがっ?」
「あの人、自分にも他人にも厳しいから、誰かを褒めることなんて滅多にないんだよ」
「そ、そうなんですか? でも山本さん、忍ちゃんのことも褒めてましたよ。有能な方だって」
「へえ……それは光栄だね」
忍はそう言って笑うと、綾子の身体を再びキュッと抱き締めた。
「自分の働く会社に誇りを持てるって、素晴らしいことだと思うよ。俺はモン・ファヴォリの社長の孫として、素直に嬉しい」
忍に褒められ、綾子は照れ笑いを浮かべる。自分の行動を正しかったと言ってもらえて、とにかく嬉しかった。
忍は綾子の柔らかな頬に手を添え、蕩けるような笑みを浮かべて言った。
「綾子が、モン・ファヴォリの社員でよかった。綾子と出会えてよかった」
「忍ちゃん」
「この想い、ちゃんと綾子のお姉さん達にも伝えたいと思うよ」
忍の心からの言葉に、綾子はこくりと頷いた。
3
食材を買うためスーパーに立ち寄った後、午後七時半には忍のマンションに到着した。
綾子は、夕食の用意をする忍を手伝った。
あまり役に立っていない自覚はあったが、何かしていないと落ち着かない。
いよいよ今夜、電話越しとはいえ姉に忍を紹介するのだ。
忍は平静な様子だが、綾子は緊張を隠せなかった。
夕食を取り入浴も済ませると、二人は姉に電話するまでの間、リビングで過ごすことにした。
綾子はソファに腰を下ろすと、あるものの存在を思い出して自分のバッグをあさった。
そうして、出てきたのは……
「忍ちゃん、これ……」
「うわっ、何? その見覚えのある物体……」
珈琲を淹れていた忍は、あからさまに顔を顰める。
綾子がバッグから取り出して見せたのは、クリスタルでできたエッフェル塔の置物だった。
昼間、山本から渡されたフランス土産である。
数週間前に海外出張から戻った奈江も、同じような物を忍に買ってきた。
「もっとこう、綾子に似合うアクセサリーとか香水とか……期待してたんだけど……」
しかしそのクリスタルの置物こそ、自分が山本に委任した綾子への土産だと聞き、忍は深々とため息をついた。
一方、綾子の方は満更でもなかった。
リビングのガラステーブルの上に置くと、エッフェル塔の置物はなかなかこの部屋にマッチしているように見えたからだ。綾子のこぢんまりとした家よりも、忍の家の広いリビングの方が高級感があり、クリスタルの輝きも引き立つ。
「忍ちゃん、せっかくだから、この部屋に飾らせてもらっていいですか?」
綾子が尋ねると、忍は「うん?」と片眉を上げた。そして、すぐに顔を綻ばせる。
「いいよ。綾子のものならどんどん置いて。何なら綾子の部屋の中身全部、うちに移動させてもいい」
「え?」
「まあそれは、おいおい実行に移していくとして……」
きょとんとする綾子に意味深な言葉をかけると、忍は珈琲のカップを二つガラステーブルの上に置いた。そして壁掛け時計を見上げ、「そろそろか」と呟く。
忍は壁際の小さなデスクの上からノートパソコンを持ってきて、綾子の隣に腰を下ろした。ガラステーブルにノートパソコンを置き、電源を入れる。
綾子は、彼が持ち帰った仕事をする気なのだと思った。だから、邪魔をしないようにと少し身体を離そうとしたのだが、さっと肩を抱かれて反対に引き寄せられてしまう。
「忍ちゃん、あの……?」
「綾子がパソコンの前にいてくれなきゃ意味がないんだ」
忍はそう言って珈琲を一口飲むと、何やらノートパソコンを操作した。
綾子も会社でパソコンを使うが、データ入力や仕事のメールのやりとり、インターネットでの検索以外、馴染みがない。
目の前のディスプレイには、何かのウィンドウが表示されていた。
忍がIDらしきものを打ち込んでしばらくすると、そのウィンドウに人の姿が映し出される。
カップを片手に寄り添う、おじいさんとおばあさんだ。
彫りの深い顔立ちと鮮やかな瞳の色は、どう見ても外国人。
写真かと思って綾子が首を傾げると、彼らはにこりと微笑んで口を開いた。
「Bonjour!」
ボンジュールは、綾子も知っている。フランス語の「こんにちは」だ。
綾子は慌てて忍を見上げた。
「Bonjour」
忍はパソコンに向かって挨拶を返すと、戸惑う綾子に微笑んで告げた。
「マダム・ドルトーとムッシュ・ドルトーだよ」
「えっ……!?」
「綾子に会わせるって、約束してたもんでね」
ウィンドウに映る二人の老人は、忍が先日フランスで契約を取りつけた、カルトナージュ職人のマダム・ドルトーとその夫であった。
カメラのついているパソコンがあれば、インターネット回線を利用して、世界中どこにいてもビデオ通話ができる。
綾子と忍がいる日本は、午後十時を回ったところ。
一方フランスは、サマータイムなので午後三時過ぎ。
パソコンのディスプレイ上で、老夫婦は午後のお茶を楽しんでいた。
「ぼ、ぼんじゅーる」
忍はTシャツにズボンという部屋着姿だが、綾子はパジャマ姿なので少し恥ずかしい。おずおずと拙い挨拶をする彼女に、画面の中のマダム・ドルトーは笑顔で何か言った。
「Elle est très mignonne!」
英語の成績もそれほど振るわなかった綾子は、もちろんフランス語なんて分からない。
分からないなりにも、へらりと愛想笑いを返していると、隣から忍が通訳してくれた。
「綾子のこと、めちゃくちゃ可愛いって」
「め、めるし、ぼく」
綾子は慌てて礼を言った。
彼女の知っている他のフランス語は、こんばんはを意味する「ぼんそわー」くらいである。
「忍ちゃん、フランス語を話せるんですね。すごい」
「山本さんほど流暢じゃあないけどね」
綾子の素直な賞賛に苦笑すると、忍は彼女の肩をもう一度抱き直してディスプレイに向かう。
「Elle est ma fiancée」
忍は綾子を「僕の婚約者です」とドルトー夫妻に紹介した。
日本でも使われるフィアンセという単語は、もともとフランス語。
綾子も、それが婚約者を意味することくらい知っている。ところが日本語とは違うアクセントのせいで、綾子はその単語がフィアンセだと気がつかなかった。
言葉が分からない綾子は、自分に話が振られると、忍に通訳をしてもらった。
難攻不落の職人と聞いていたので、どんな気難しいおばあさんかと思っていたが、マダム・ドルトーは終始笑顔を絶やさない穏やかな人だった。
おかげでしばらく接しているうちに、綾子も自然な笑顔を返せるようになっていた。
遠く海を隔てたビデオ通話は、その日は一時間ほどで終了。
通話を終える直前、忍は綾子には分からない言葉をすらすらと発した。
それに対し、ドルトー夫妻は瞳を輝かせ、口を揃えて言った。
「Bonne chance!」
綾子の耳に「ボンヌシャンス」と聞こえたそのフランス語は、「頑張って」や「幸運を祈る」を意味する。忍にそう説明してもらった綾子は、ドルトー夫妻が何故そう言ったのだろうかと首を傾げた。
そんな彼女を見て、忍はすっかり冷めた珈琲を飲み干し、ひとつ息を吐いてから言った。
「俺だってね、それなりに緊張してるんだよ」
「え?」
「綾子のお姉さんとのファーストコンタクト。マダム・ドルトーとの会話で、いいウォーミングアップをさせてもらったよ」
「あ……」
「ついでに、励まされてしまったね」
忍は先ほど、フランス語で「これから綾子の家族と大切な話をする」と言ったらしい。そこでドルトー夫妻は、「頑張って!」と忍を応援したのだ。
「じゃあ、そろそろ電話しようか。――お姉さんに」
そう告げた忍の視線の先で、時計の針はちょうど午後十一時を指していた。
***
綾子は、忍の自宅の固定電話から実家に電話を掛けた。
ところが、誰も電話に出ない。
もうしばらくしてから掛け直そうと思った時、ようやく電話が繋がった。
受話器を取ったのは、今年米寿を迎える祖父である。
「――えっ……火事!?」
のんびりとした口調で祖父が発した物騒な言葉に、綾子は眉を顰めた。
今から二時間ほど前、近所の民家で火の手が上がり、大騒ぎになっていたのだそうだ。
姉の蔦子と次兄の虎太郎は、地域の消防団員として現場に向かったらしい。
火事があったという家には、腰の曲がった老夫婦が二人で暮らしている。幼い頃、彼らに随分と可愛がってもらった綾子は、その身を案じた。
幸い隣の住人が焦げ臭いとすぐに気づき、素早く老夫婦を避難させたおかげで、二人とも火傷一つ負わずに済んだという。
加えて、消防団員にも消防職員にも被害が出なかったと聞き、綾子は心底ほっとした。
ただし、蔦子はまだしばらく家に帰ってこられないだろう。
彼女は現在、消防団長を務めているのだ。事後処理にはまだ時間がかかるはず。
せっかく忍に時間を作ってもらったところ申し訳ないが、蔦子と彼の電話越しの挨拶は日を改めなければならないだろう。仕方なく、綾子はそのまま電話を切ろうとしたのだが……
「あ、ちょっと待ってねえ、アヤちゃん」
相変わらずのんびりとした口調で彼女を引き止めた祖父は、誰かに電話を代わった。
「――綾子か?」
「あ……ケイタロー兄ちゃん!?」
祖父から受話器を受け取ったのは、綾子の上の兄――里谷鯨太郎だった。
綾子は鯨太郎に頼まれて、忍に電話を代わった。
そしてソファの隣に座っている彼を、そっと見つめる。
鯨太郎は、忍と同じ三十二歳。里谷自動車整備工場を営業部長として支えている。
少し神経質なところがあり、綾子に対する過保護さでは姉の蔦子にもひけをとらない。
そんな鯨太郎は、まず蔦子が忍の電話に出られなかったことを詫びたようだった。
「いいえ、不測の事態ですし、どうぞお気になさらず」
忍がそう答えると、すぐに次の日曜日の話になったらしい。忍は挨拶にうかがいたい旨を伝えた。
生真面目な鯨太郎は、おそらく「歓迎する」と告げたのだろう。
忍は「そうですか。ありがとうございます」と言いつつ、綾子に向かって微笑んだ。
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