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番外編
初めてのバレンタイン
しおりを挟む「そういえば、専務。さきほど、里谷さんをお見かけしました」
珈琲のカップを差し出しながらそう思い出したように口を開いたのは、猪野商事専務秘書の山本麻衣子だった。
「――え、綾子を? どこで?」
半ば書類を睨みつけていた忍は、慌てて顔を上げて問い返した。
「今日はお昼を外でいただいたんです。大通りを少し行ったところにあるファッションビル――ほら、あの森野インテリアの隣の……」
「……森野インテリア?」
山本が綾子を見かけたというビルの隣が、かつて酔った彼女をお持ち帰りしようとした男が勤める森野インテリアだと聞いて、忍は眉を顰めた。
もしまた二人が接触するようなことがあってはと、心配になったのだ。
しかし、山本はそんな彼の曇った表情などまったく気にせず話を続けた。
「三階にあるイタリアンが最高でして。特にワインが……」
「堂々と昼間っから飲酒を告白しないでよ。で、綾子もそこでランチしてたの?」
「いえ。その一階フロアの大きな輸入食品店で、今フェアをやっていまして」
「フェア?」
何の? と聞きかけて、忍はすぐに「ああ」と頷いた。
この日は三連休を控えた金曜日。
来週の半ばには乙女達の一大イベント、バレンタインデーが控えている。
「綾子、チョコ買ってたのか」
「はい。営業の女性の方とご一緒でしたよ」
「ふうん……」
忍は気のない風な返事をしながらも、内心ほっとしていた。
山本の言う女性というのは、綾子を妹のように可愛がっている先輩営業の一人だろう。
Mon favoriにおいては、忍は綾子の恋人として正式に認知されているので、万が一ばったりと例の男と綾子が鉢合わせしたとしても、先輩営業がうまく取り成してくれるに違いない。
「お二人でたくさん買っていらっしゃいましたから、おそらく取り引き先や会社の男性陣に配るチョコでしょうね」
「ああ、なるほど。モン・ファボリはそういうのあるんだね」
社長を含めてたったの七名のMon favoriはともかく、大きな会社では社内でのチョコレートの配布は禁止されている所も少なくない。
猪野商事では個人的に贈り合うことにまでは口を出さないが、忍のような幹部クラスの役職の者は基本的に社員からのチョコレートを受け取らないことにしている。
「あの中に専務へのチョコもあるのかと思うと、ついつい顔が緩んでしまいたいへん困りました」
「は?」
「それを受け取る専務の顔を思い浮かべると、面白おかしくて横っ腹が痛くなりました」
「なに、それ……」
忍は、片手で口を抑えてぷっと吹き出す山本に呆れた顔を向けながら、珈琲を一口飲んだ。
けれど、綾子がどんな顔をして自分にチョコレートを差し出すのだろうかと考え始めると、秘書に笑うなとも言えなくなった。
「専務。ニヤニヤしていないで、仕事なさってください」
「……山本さんがネタ振ったんだろ」
忍は切り替えの早い秘書に文句を言いながら、再び書類を睨みつけた。
せっかくの週末なのに、今日はこの書類のせいで綾子と夕食にも行けないのだ。
そうでなくても、忍は来週の週明けから週末まで海外出張の予定が入っている。
また綾子と会えない日が続くのだと思うと、正直気が滅入る。
ただし、前回の海外出張の際に言葉が足りずすれ違い、お互いに寂しい想いをした教訓から、今回は出張前の三連休を一緒に過ごす計画を立てていた。
土日を使って一泊二日の温泉旅行をし、最後の休日は忍の家でのんびり過ごすことになっている。
そのためにも、忍はこの書類に関する仕事を何としてでも今日中に片付けなければならなかった。
学生時代は教室の廊下にチョコレートを渡す女子の列ができただとか、チョコレートが詰め込まれ過ぎて下駄箱が溢れたとかいうベタな伝説を持つ忍だが、猪野商事では社内での配布が禁止されているおかげで、対応に困るほどチョコレートをもらうことはなくなった。
ただし、取引先の女性の重役から贈られた時などは、さすがに無闇矢鱈と断るわけにもいかず、一応受け取ってはホワイトデーのお返しを秘書に丸投げしてきた。
さらに困るのが、社内規定に抵触しないためにと、ビルの外で待ち伏せしてチョコレートを渡してくる女子社員達への対応だった。
今年はバレンタイン当日は海外出張中で留守であるし、最後のチャンスともいえる今日は忍は遅くまで残業だったので、そういう女子達の突撃をかわせるものだと高を括っていたが、甘かった。
「猪野専務、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です」
「あの……これ、よろしければ……」
秘書の山本を先に帰し、自宅に帰っていた綾子の声を電話越しに聞いてやる気を奮い起こした忍が、全ての仕事を終えてようやく専務室を出たのが午後十時半。
部署によってはまだちらほらと人が残っていたが、ほとんどのフロアはすでに灯りも消され、十四階の受付にももう誰もいなかった。
それなのに、会社を出た忍が猪野商事の社員とおぼしき女性から声をかけられたのは、これで五人目だ。
一人目は十四階のエレベーターホール、二人目と三人目はそれを下りた一階のエレベーターホール。
そして四人目がビルのエントランスで、地下の駐車場に回る手前で飛び出してきたのがこの五人目だった。
二月も半ばのこんな寒い夜。
わざわざ自分にチョコレートを渡すためだけに何時間も待っていたのかと思うと、忍は彼女達の熱意に頭が下がる思いだったが、だからと言ってその想いを受け取ることはできない。
「ありがとう。せっかくだけど、それはもらえない」
忍がそう言うと、五人が五人とも「見返りは求めないから、気持ちだけでも受け取ってほしい」と訴えた。
来るもの拒まずなところのあった以前の忍なら、こういうきっかけで大人の関係が始まったかもしれなかった。
しかし、もう綾子と出会う前の彼とは違うのだ。
チョコレートを受け取ってもらおうと必死な女子社員達に対し、忍は笑顔でこう言った。
「ごめんね。今付き合っている彼女からしか、もらわないことにしているんだ」
それを聞いた女子社員達のがっかりした表情は、ある意味新鮮だった。
だが、もちろん忍がそれに心動かされることはない。
それどころか、社員をこの寒空の下で待たせてしまったという、専務として少しくらいは感じていた申し訳なさも、愛車の運転席に腰を下ろして携帯電話を開いたとたん、綺麗さっぱり消え失せた。
綾子から、メールが一通届いていたのだ。
『遅くまでお仕事お疲れ様です。気をつけて帰ってくださいね。おやすみなさい』
絵文字も飾り気もないが、綾子らしい素直なメールが愛おしい。
たとえそれが定型的な文章であろうとも、彼女が心から忍を想って一文字一文字打ってくれたと、疑うべくも無い。
秘書の山本にチョコレートを買っている場面を目撃された綾子は、おそらく明日からの三連休の内に忍にそれをプレゼントしてくれることだろう。
綾子がくれるものなら、さっきの女子社員達が差し出した有名ブランドの高級チョコレートなんかじゃなくても大歓迎。
それこそ、スーパーで売っている百円でおつりが来るようなものでも充分だ。
バレンタインチョコを楽しみに思うのなんて初めてのことで、忍は少しばかり照れくさく感じながら綾子にメールの返事を打った。
翌朝、一泊分の荷物を後部座席に積んだ忍は、綾子を迎えにマンションまでやってきた。
すでにエントランスで待っていた彼女は、見慣れた車を見つけたとたん、尻尾を振って懐く子犬のように一目散に駆けてきた。
そんな姿がまたたまらなく可愛くて、ついついだらしなく顔を緩めて迎えた忍だったが、助手席に乗り込んだ綾子の手を見たとたん顔を強張らせた。
「――綾子!? それっ……指、どうしたのっ!」
「あ……あの、昨夜ちょっと包丁で……」
「包丁っ!?」
「は、はい……」
綾子の左手には、五本ある指すべてにそれぞれ絆創膏が貼られていた。
いったいどうやったら、そんなふうにもれなく怪我ができるのかと問いただしたくなるほどだ。
綾子の不器用さを知っていた忍は、彼女の自宅に包丁などという危険なアイテムを置かせていたことを激しく後悔した。
そして、この旅行から戻ったら、まずそれを没収すべしと心に固く誓った。
一方、綾子は難しい顔をして黙り込んだ忍に首を傾げながら、絆創膏を貼った手でかばんから何かを取り出し、彼の前にそっと差し出した。
「あの、忍ちゃん。これ……」
「ん?」
「少し早いですけど……バレンタインの日、会えないでしょうから」
忍の期待通り、やはり綾子は先にバレンタインのチョコレートをくれた。
彼が頬を緩めて「ありがとう」とそれを受け取ると、綾子はもじもじしながら俯いて言った。
「あんまりうまくできてなくて、恥ずかしいんですけど……」
「――えっ……?」
ということは、まさかの手作り!?
「開けてもいい?」
てっきり買ったチョコレートを渡されるのだと思っていた忍が慌てて尋ねると、綾子は助手席で縮こまったまま小さく頷いた。
逸る気持ちを必死に抑え、忍は箱を飾っていたリボンと包装紙を丁寧に外しにかかる。
ようやく表れた箱の蓋を持ち上げると、中にはハート形のアルミカップに入ったチョコレートが六個、行儀よく並んでいた。
「綾子……これ、自分で作ったの?」
「は、はい。昨日の夜、咲和子さんに付き合ってもらって……」
咲和子とはMon favoriの営業で、忍の秘書である山本が昨日綾子と一緒にいるところを目撃した人物だ。
どうやら、山本が見た時彼女達が買っていたのは義理チョコで、本命用は一緒に手作りする約束になっていたようだ。
昨夜定時に上がった二人は、綾子のマンションで夕食をとりつつチョコレートを作ったらしい。
「咲和子さんに、不器用過ぎるっていっぱい怒られちゃいました。一人の時は包丁持っちゃ駄目だって……」
「うん、そうだね。その気持ち、すごく分かる」
製菓用チョコレートと一緒に指も刻みそうになる綾子に、咲和子がどれだけ肝を潰したことか。
忍はその時の光景が目に浮かぶようで、心の中で「お疲れ様」と咲和子に労いの声をかけた。
しかし何はともあれ、思いがけず綾子の手作りチョコレートを手に入れた忍は、頬が緩むのを止められそうにない。
いささかチープな見た目ながら、手作り感溢れるハート達がとにかく愛おしい。
しかも、それが綾子が生まれて初めて作ったバレンタンチョコだと聞かされれば、なおのこと。
「学生時代に友達と集まって作ったりはしなかったの? 女の子達って、友チョコとかいうのも交換したりするだろう?」
「友チョコ交換しましたし、チョコを作るのに友達と集まったりもしたんですが……」
友人達が不器用代表のような綾子に任せたのは、型に流し入れ終えたチョコレートにアラザンやカラースプレーのトッピングなどという簡単な作業だけ。
チョコレートを包丁で細かく刻んだり、それを湯煎で溶かしたりする作業は、彼女の場合即怪我と火傷に直結するのだ。
危ないので関わらせられないと、綾子はいつも見学させられてばかりだった。
それを聞いた忍は、心の中で綾子の友人達の賢明な判断をたたえた。
「来年はきっともっと練習して、もっと豪華にしますね。生チョコとか、トリュフとか……」
忍の心の内など知らず、綾子はそう意気込む。
忍はそれを微笑ましく眺めながら、彼女が来年のバレンタイン用のチョコレートを作るのは、自分のマンションのキッチンであればいいのにと思った。
リビングに広がる甘いチョコレートの香りと、カウンターの向こうに溢れる綾子の甘い笑顔。
それを思い浮かべると、忍の胸は幸せでいっぱいになった。
「ボンボンとか、フォンダンショコラとか……」
一方、“難易度の高いチョコレート菓子”を上げ連ねていた綾子の話は、いつの間にか自分が食べたいお菓子へと移行している。
それに気づいた忍はくすりと笑うと、「じゃあ、明後日はうちで一緒に何か作ろうか」と提案し、顔を輝かせてこっくりと頷いた綾子の頬にちょんとキスをした。
ようやくお互いにシートベルトを締め、車が走り出す。
綾子のバレンタインチョコは蓋を開けたまま彼女の膝に置かれ、片道二時間のドライブの間にすべて忍の胃袋へと収まってしまった。
そして――
ハートのアルミカップ達の下に、そっと隠されていた小さな封筒。
忍がそれを見つけたのは、目的の温泉宿に着いてすぐのことだった。
「……綾子、これって……」
封筒の中には、鍵が一つ。
綾子のマンションの合鍵だった。
それを知った忍はもう居ても立ってもいられず、部屋の鍵を閉めに走る余裕もないまま綾子を畳の上に押し倒し、チョコよりも甘いその唇を貪った。
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