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1巻
1-3
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一息に彼に近づいてヘルミーナはたずねる。その瞬間、彼女は扇を彼の喉元に突きつけていた。
――それが短剣であればいいと願っているかのように。
「もちろん。泣かせるようなことはしない。絶対に――わたしが彼女の盾となり庇護しよう」
扇を突きつけたまま、ヘルミーナは彼から視線をそらそうとはしない。長い沈黙が続いた。それからヘルミーナはふっと息を吐き出して、扇を持った手を下ろし、うつむいた。
「わたくしの婚姻が決まったら、リティシアは宰相の息子――彼女を愛している人に嫁ぐことになっていました。本人も知らない内々の約束事でしたけれども。彼女を愛する人のもとで、穏やかな生活を送らせる……それは父の希望でもありました。どうか……リティシアを幸せにしてやってくださいませ」
何と答えたらいいのだろう。レーナルトは考え込み、そしてようやく言葉をひねり出す。あまりにも凡庸な言葉だったけれど。
「わたしを信じてほしい。あなたが心配するようなことはしないと誓う」
再び長い沈黙が辺りの空気を支配する。それからヘルミーナは数歩後退して彼から離れた。
「……信じますわ、あなたを。失礼なことを申し上げました。申し訳ありません」
彼に向かって頭を下げる動作は、しなやかで優雅だった。どこかぎこちない妹姫とは雲泥の差だ。彼とともに供の待つ場所へ戻りながら、ヘルミーナは「妹にこのことは言わないでください」と彼に口止めするのを忘れなかった。
* * *
母、姉と言葉をかわし、最後に父に頭を下げてリティシアは用意されている馬車に乗り込んだ。床を離れることを許されていない兄には、城を出る前に挨拶をしてきた。
「手紙を書くよ」
そう言ってアルベルトは頭を撫でてくれた。リティシアも、
「すぐにお返事を書くわ。だからたくさんお手紙くださいね」
そう笑って彼のいる寝室から出てきた。兄に次に会えるのは何年先のことだろう。もう一生会えないかもしれない。
ゆっくりと動き始めた馬車にはリティシアの他に二人の侍女が乗り込んでいた。今までずっとリティシアに仕えてきた侍女たちだ。
年かさの方をゲルダ、若い方をリュシカという。ゲルダはリティシアの母親ほどの年齢だ。薄い青の瞳が時折鋭い光を放つが、それ以外はいたって平凡な容姿の持ち主だ。
リュシカはリティシアより三歳年下だ。リティシアは最初別の者を連れていくつもりだったのだが、本人がローザニア行きを強く希望した。落ち着きが足りないとゲルダにたびたび叱られるが、愛嬌のある顔立ちは可愛らしい。ローザニアに行ったら、王宮騎士と結婚するつもりなのだそうだ。
「夢みたいですわ。リティシア様がローザニアに嫁ぐことになるなんて」
馬車で待っていたリュシカははしゃいでいた。
今まで王宮内では明らかにヘルミーナの方が重要視されていた。同じ王女でありながら、届けられる贈り物もヘルミーナの方が数が多く、また高級な品だった。
だが婚約が決まったとたん、リティシアのところへも山のように贈り物が届けられ、リュシカは今まで軽んじられてきた鬱憤を晴らすかのようにリティシアに代わってそれらを開封し、あれやこれやと品定めしながら一週間を過ごしたのである。
ローザニアの都ローウィーナまでは十日以上馬車の旅が続く。その間ずっとリュシカのおしゃべりにつき合わなければならないのだろうかと思うと憂鬱になる。王宮内で軽んじられてきたリティシアに、誠心誠意仕えてきてくれたのはありがたいと思っているのだけれど。
「口を閉じなさい、リュシカ」
ゲルダはぴしゃりとリュシカに言う。
「リティシア様を、おまえのおしゃべりでわずらわせてはいけません」
とたんにつまらなそうな顔になって、リュシカは口を閉じる。ゲルダがリュシカを叱責してくれたのはありがたかった。静かになった馬車の中、リティシアは座席に頭をもたせかけて目を閉じる。
できることなら、一人になりたかった。
早朝に出発し、一度休憩を取ることになったのは午前も半ばという頃だった。馬を休ませ、兵士たちも休憩をとる。
侍女たちは、馬車が止まるのと同時に飛び降りるようにして地面に敷物を敷き、そこにリティシアを座らせていた。リティシアは思いきり背をそらせた。
「いい気持ちね。こうしているのは」
「本当に。雨にならなくてようございました」
ゲルダが同意した。
今日は天気がよくて暖かい。馬車の座席は贅沢にクッションが敷きつめられていて乗り心地がいいのだが、それでも窮屈であることは否定できない。靴も脱ぎ、押し込められていた足の指を自由にしてやる。
しばらくして、出立のふれが出される。彼女たちが無事に乗り込んだのを確認して、再び馬車は動き始めた。
その後一度軽食のために馬車を止め、何回かの休息を挟んで国境を越え、夕方には予定していたローザニア国内の中継地に到着することができた。早朝に城を出たのは、夕方までに国境を越えるためだったのだそうだ。
「そろそろ今夜泊まるところに着くそうですよ」
ゲルダに静かに揺さぶられて、リティシアは目を開けた。
「……あら、もう着いたの?」
何度か馬車から降りた以外は、ずっとうとうとしっぱなしだったのだ。それほど時間がたったようには感じられない。馬車が向かおうとしているのは、立派な屋敷だった。このあたりを治める貴族の住まいなのだろう。
「リティシア様は、あのお屋敷にお泊まりになるそうですよ」
速度を落とした馬車は、ほとんど音をたてずに屋敷の前で停まった。
兵士たちは天幕を張って野営の支度に勤しんでいた。大きな屋敷とはいえ、さすがに全員を泊めるだけの広さはないようだ。
屋敷の主人だという大柄な男が、満面の笑みを浮かべて一行を出迎えた。
「ようこそおいでくださいました。オーウェンと申します」
主は自らリティシアたちを中に招き入れた。未来の夫はもう中に入ってしまったらしく、姿は見えない。そのことにリティシアは少しがっかりした。
オーウェンはリティシアを立派な部屋へと案内する。侍女たちには続き部屋が与えられた。
「なにぶん田舎なもので、何かとご不自由をおかけするかとは思いますが……一晩のことですので」
主の言葉は、謙遜なのだろうか。部屋に置かれた天蓋つきのベッドは十分寝心地がよさそうだし、長椅子も低めのテーブルもどれもがよく吟味されたものであることがわかる。ここに並んでいる品は、ファルティナの王宮の家具よりも上質かもしれない。
「とんでもありません。こんなによくしていただいて……」
リティシアの言葉に、オーウェンは満足そうに目を細めた。
「あの……陛下は?」
「夕食の時にお会いになれると思いますよ」
リティシアはオーウェンが退室するのを見送った。それから茶色の旅装を脱ぎ捨てて、ゲルダが衣装箱から取り出した淡い桃色のドレスに袖を通す。
「宝石はどうなさいますか?」
「必要ないわ。髪だけ結い直してちょうだい」
リュシカが後ろに回って、慣れた手つきで髪に櫛を通し始める。リティシアは、鏡の中の自分を見つめた。大国の妃としてふさわしいだろうか――付いている侍女二人に確認するわけにもいかない。彼女たちはふさわしいと誉めちぎるだろうから。
それでも、リュシカが髪を整えてくれればましになるとリティシアは思う――いや、そう思いたいという方が正解だ。
夕食の席もすばらしいものだった。贅をつくしたというよりは、あえて田舎風を強調した料理がテーブルに載せられる。リティシアが軽く口をつけただけの酒も、上質の品だった。
オーウェンはリティシアに美しいと何度も繰り返した。お世辞であることがわかっていてもリティシアが不快感を覚えなかったのは、彼の落ちついた話し方のおかげだろうか。しかしリティシアは終始強張った笑みを口元にはりつけ、レーナルトとオーウェンの会話を邪魔しないよう、話をふられた時のみ口を開くようにしていた。
最後の一口を口に運びながら、リティシアはレーナルトの方をうかがった。
あの舞踏会の夜から、彼と二人で話をする機会はなかった。なぜ姉ではなくリティシアを選んだのだろう。それをまだ確認できていない。
夕食を終えて部屋に戻れば、後はすることもなかった。別室で夕食をとったゲルダとリュシカに、就寝の支度を手伝ってもらう。
夕食のためのドレスから夜着へと着替え、リティシアは二人を下がらせた。まだベッドに入るには早いような気がする。そのまま窓の側に腰を下ろした。
こんな日がこれから一週間以上続く。大きく息をついて、リティシアは椅子の上で行儀悪く膝を抱え込む。
もう旅を終わりにしたいような気がする。昼間は馬車に揺られて、夜は知らない人と顔を合わせて食事をして。世話になるのだから食事の席に出るくらいは最低限の礼儀なのだが、どうしても緊張の糸を解くことができない。
どうして自分はこうなのだろう。情けなさにリティシアはきゅっと手を握りしめる。
姉ならどれだけ笑顔をふりまいてもこんな風にぐったりすることはないはず。自分は姉のようになれない。今日だって、オーウェンとうまく話すことはできなかった。
明日もまた知らない人の屋敷に世話になって、笑顔をふりまかなければならない。愛想よくしなければならないことくらいわかっている。
大きくため息をついた時だった。静かなノックの音がする。リティシアは扉を開けた。
「……入っても?」
レーナルトに問われ、リティシアは身を引いた。扉の隙間からするりと彼が入り込んでくる。夜着しか着ていないことを思い出して、リティシアは焦りながら椅子にかけてあったガウンを取ろうとした。
「必要ない」
「……でも」
ガウンを取ろうとした手首をつかまれて、リティシアは動揺した。身体の線が浮き出る薄い夜着しか着ておらず、あまりにも無防備だ。そのまま手首を引っ張られ、勢いでリティシアはレーナルトの胸にぶつかった。
「姫」
レーナルトの声が、甘く耳をくすぐる。
「あ、あのっ」
リティシアのささやかな抵抗にはかまわず、もう片方の手が背中に回される。家族以外の異性に抱きしめられたことなどないリティシアは、自分の身体が震えるのを感じていた。
どうすればいい? この場合、どうするのが正解なのだろう。思わず視線が天蓋つきのベッドに向けられる。
もし、――今あの場に連れていかれたら。
「……姫」
抱きしめたリティシアにレーナルトはもう一度声をかけた。リティシアは緊張を隠すことができなかった。顔がかあっと熱くなってくらくらする。
「……あなたの嫌がることはしないから。だからそんなに怯えないでほしい」
レーナルトは片手を伸ばして椅子の背にかけられていたリティシアのガウンを取る。それが細い肩にかけられると、彼女は急いで胸元をかき合わせた。
「その……気が急いて……本当に申し訳ない」
謝罪の言葉にリティシアは首をかしげる。なぜ、彼はここに来たのだろう。
「ずっとあなたと話す時間がなかったから――少しだけ――寝る前に話をしようと思っただけなんだ」
レーナルトは笑顔を見せた。その言葉にリティシアはほっと胸をなでおろした。これなら、うまくやっていけるのかもしれない。彼も同じ思いを持っていてくれたのなら。
「でも、あなたを目の前にしたら、自制がきかなくなった」
もう一度リティシアを引き寄せ、顎を持ち上げた。リティシアが拒む間もなく、唇が重ねられる。
初めての口づけはリティシアの思考を奪い去った。求められるがままに、何度もレーナルトの唇を受け入れる。ようやく唇が解放されたと思ったら、頭を彼の胸に押しつけられた。
「……離していただくわけには……?」
小声でリティシアはたずねる。彼の全身の体温を感じさせるこの体勢が落ち着かない。
「こうしているのは不愉快?」
「……いえ、そういうわけでは」
リティシアは小さな声をあげた。レーナルトの指が背中を這っている。その感覚は嫌なものではなかったけれど、知らない世界へと押し出されるような予感を抱かせた。
「本当にあなたは可愛らしいね」
身をよじったリティシアを見て、レーナルトは笑った。リティシアの頬が紅潮する。
国に残してきた乳母や仕えてくれる侍女たちがくれる褒め言葉は、お世辞にしか感じられなかったのに。彼の口から出るとどうしてこんなにも甘美なのだろう。彼と瞳を合わせることができなかった。今見たら、きっと彼の青にとらわれてしまう。
「わたしたちには、時間が必要だ。もっと……互いを知る時間が」
レーナルトの言葉に、リティシアの心は軽くなった。彼とならきっといい夫婦になることができる。リティシアはただ、彼を信じてついていけばいい。
「おやすみ、姫。よい夢を」
最後にリティシアの額に唇をあてて、レーナルトは部屋を去る。それを見送って、リティシアは、
「おやすみなさいませ」
とつぶやいた。
* * *
キスの余韻は、リティシアの夢の中にまで忍び込んできた。眠りに落ちれば唇に触れた感触が鮮やかに夢の中で再現される。そのたびにリティシアは目を覚ますことになり、そうして何度か眠っては起き、を繰り返すうちにいつの間にか朝を迎えていた。
身支度を終えて外に出たリティシアは驚いた。どこで調達してきたのか馬車が二台に増えている。侍女二人はやや簡素な馬車へと案内され、昨日の馬車にはリティシア一人が乗り込むことになった。
一人になりたいとリティシアが望んでいたのを、レーナルトが気づいてくれたのだろうか。リュシカもゲルダも悪い人間ではないし、リティシアを気づかってくれているのは知っている。けれどそれと、ずっとリュシカのおしゃべりを聞かされるのとは別問題だ。
昨日はそこまで頭が回らなかったが、今日は馬車の中で読むための本も荷物から取り出しておいた。高尚な内容というわけではないが、少なくともこれを読んでいる間は時間をつぶすことができる。
馬車の周囲が慌ただしくなり始めた。
「失礼する」
何があったのかとリティシアが腰を浮かせかけた時、有無を言わせない口調とともに馬車の扉が開かれた。
「レーナルト様」
リティシアは座席の上で、彼から遠ざかるようにそっと身体の位置をずらす。
ここでレーナルトと二人きりになるのならば、侍女たちと一緒の方がはるかにいい、などと口にできるはずもない。黙って彼が馬車に乗り込んでくるのを見守るしかなかった。レーナルトはリティシアの向かい側の席に腰を下ろすと、彼女を見つめた。
「今日はずっと馬車で移動なさるのですか?」
「そのつもりだ――ご迷惑かな?」
「……いえ」
レーナルトの視線に耐えかねたように、リティシアは身をすくませた。迷惑などと言えるはずもない。なるべく彼から遠ざかろうと、対角線上の席に移動する。片方の手で胸に本を抱きかかえ、もう片方の手は皺になるほどに強くスカートを握りしめていた。
「……姫」
レーナルトは手を伸ばし、スカートを握りしめるリティシアの手を取る。リティシアは一瞬手を引きかけたが、意志の力でそれを抑えこんだ。それに気づいたのかレーナルトは優しく声をかけてくる。
「わたしたちには、互いを知る時間が必要だと昨夜言ったはずだ。馬車で話をする時間は貴重なものだと思う。しかしあなたが望むのならば、すぐにでも馬車を降りよう」
その言葉が終わる前に馬車が動き始める。
「……供の者が……」
手を取られたままリティシアはうつむき、胸に抱えていた本を力なく膝の上に置く。
「侍女たちが、気にしますから」
レーナルトの前では二人とも顔に出すはずはない。しかし、後になればリティシアに「結婚前に二人きりで長時間過ごすなどとんでもない」と言ってくるのは目に見えている。
昨晩だって隣の部屋で聞き耳をたてていたはずだ。レーナルトがもう少し長く部屋にいたなら、今朝はゲルダにがみがみ叱られていただろう。
そんなリティシアの気持ちを知ることのないレーナルトは、つかんだ手を強く引いた。リティシアは彼の胸へと倒れこむ。膝から本が滑り落ちた。
「わたしたちは、夫婦になるというのに何をはばからなくてはならないのか?」
「ですから……」
夫婦になる前に、二人きりになるというのが問題なのだ。まだ近づかない方がいい。
そっと身を離そうとすると、ふいに抱きしめられる。逃げる隙などなかった。あっという間に唇が奪われる。
数度、探るように触れてきた。それだけで力が抜けて、彼の腕に身体を預けてしまう。
油断してほんの少しだけ開いていた唇から、彼が入り込んできた。瞬間、身体が強張った。逃げ回る舌が強引に絡めとられる。
リティシアは最初はおどおどと、それから少しずつ大胆に応じ始める。耐えかねて小さな声がもれたが、それも彼の唇に吸い取られる。レーナルトの手が背中を上下に撫でた。その動きに呼応して、肩が跳ね上がった。
「……だめ、……だめ……です……」
彼の胸を押し返そうとしているリティシアの声音に非難の色を感じ取ったのか、ようやくレーナルトは彼女を解放した。
そそくさと席に戻ったリティシアは、乱れた髪を撫でつけ、レーナルトから視線をそらした。今の行為で床に落としてしまった本をレーナルトが拾ってくれる。それを受け取りながら、リティシアは顔をうつむけた。
今の自分の反応を思い出すと、顔が熱くなる。レーナルトはどう思ったのだろう。今まで王女教育の一環として夫婦の間のことについてはそれなりに教えられてきたが、さすがに実地で学んではいない。乳母が言うには、そういった時でも声をあげたり息を乱したりせず、動かずにじっとしていなければならないらしい。今のリティシアにはそれを守る余裕はなかった。
はしたない娘だとは思われなかっただろうか?
身の置きどころがなくなったように感じられて、膝に視線を落とす。うつむいてスカートをいじりまわしているリティシアに、レーナルトは声をかけた。
「姫、恋をしたことはあるか?」
「恋……ですか」
誰かを好きになったことなんてない。
昔コンラートに抱いた想いは、恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎるものだった。また自覚し始めるのと同時に、殺すしかなかった気持ちだった。リティシアの視線が、膝の上をさ迷って横たえた本のタイトルにとまる。『竜騎士の詩』と書かれた金文字を人差し指でそっとなぞった。
「ある」と答えられればいいのだろうけれど――
「残念ながらと……言うしかありません。宮中の素敵な男性は皆、姉を崇拝しておりましたので」
ヘルミーナを取り巻く男性たちの目には、リティシアなど映ってはいなかった。
もしそのうちの誰かに嫁ぐことになっていたら、彼らはリティシアを大切に扱ってくれただろうか。それともリティシアを家に残して、宮中では変わらず姉を見つめ続けただろうか。
「レーナルト様は、恋をしたことはおありですの?」
きっとあるだろう。そう確信しながら、リティシアは同じ問いを返す。リティシアより年上なのだし、彼に惹かれる女性がいなかったなんて考えられない。
その質問を、すぐにリティシアは後悔することになった。レーナルトの表情が変わる。リティシアが見たこともないような、甘い痛みをともなった微笑へと。
「……ある」
「そう……ですか……」
リティシアの胸が痛む。いくら彼女がそういうことには疎いとはいえ、レーナルトの表情が何を意味しているのかくらいはわかった。彼の心の中には、まだその相手が住み着いている。きっと素晴らしい女性だったのだろう。彼にこんな顔をさせるくらいなのだから。
自分で傷を抉りながら、リティシアはさらに問いを重ねる。聞けば聞くほど苦しくなるだけだとわかっているのに。
「どんな方……でしたの?」
「そうだね。聡明で、自分のことより先に人のことを考える女性だったよ」
自分とは正反対の女性のようだ――とリティシアは思った。彼の心の中にリティシアの入り込む余地はないのだろう。愛されることなんて望んでいない……それは望んではいけないことだ。
それにしても彼は過去形で彼女のことを語っている。亡くなったのだろうかとリティシアが黙り込んでいるうちに、レーナルトがまた口を開いた。
「神殿で巫女を務めている彼女に求婚したのだが、断られてしまってね――宮中では皆知っている話だ。あなたの耳にも入ることがあるかもしれない。だから先に話しておこうと思った」
そんな顔をしないでくださいと口からこぼれそうになる。リティシアを想って、彼がそんな顔をすることはないと嫌でもわかってしまったから。
「けれど、もう終わった話だ。彼女は弟と結婚することになっている。いずれ会う機会もあるだろう」
そう言って、レーナルトはその話題をうち切った。
「それより、わたしたちの話をしよう。わたしはあなたのことをもっと知りたいし、あなたにわたしのことを知ってほしいとも思っている」
笑顔を作らなくては。リティシアは顔の筋肉を総動員して、なんとか笑みを作る。
愛がなくても、いい夫婦にはなれるはずだ。大丈夫。やっていける。愛されなくてもいい。せめて妻として必要とされるようになりたい。そうでなければ、姉の後ろに隠れていた頃と変わらない。
「そちらに行っても?」
レーナルトがリティシアの隣の座席を指す。リティシアは迷うことなくそれを受け入れた。
「わたしと弟は、母が違っていてね――」
隣に座ると同時にレーナルトは話し始める。リティシアもそのことは知っていた。
レーナルトの母親は、今はローザニアの支配下におかれている隣国の王女だった。嫁いだ直後に自国は権力争いで混乱し、後ろ盾を失ってしまったのだという。弟の母親、つまりレーナルトの父親の寵姫は、ローザニアの有力貴族の娘だった。後ろ盾のないレーナルトの母親は王妃の地位こそ取り上げられなかったものの、いてもいなくても大差ない扱いを受けていた。
レーナルトの母が亡くなり、その喪が明けるとすぐに寵姫が王妃になったのだという。だから長男であるレーナルトより、次男のウェルナーを次の王にと推す貴族も多かった。そういった王位争いを避けるために、弟の方は神殿に入って神官となったのだそうだ。
ゆっくりとレーナルトの手が、リティシアの手に重ねられる。リティシアは、今度はその手を引こうとはしなかった。
「その本は?」
彼はリティシアの膝の上に載せられた本を見てたずねた。
「……陛下がお読みになるようなものではありませんわ」
リティシアは、そっと本をひっくり返した。何度も読み返している本だった。内容は完全に覚えてしまっている。
「そうかもしれないが、教えてほしい。国に戻ったら、あなたが好きそうな物語を図書室からあなたの部屋へ運ばせよう」
リティシアがどんな物語を好もうと、彼なら笑い飛ばすことはないだろう。
「……ありきたりの物語です、レーナルト様。王女と――彼女に仕えている騎士が恋に落ちるんです」
どれほど焦がれても焦がれても。身分の違う二人は結ばれることはできない。王女を残し、騎士は旅に出る――彼女を娶ることを許されるだけの手柄をあげるために。
「それで?」
レーナルトは先をうながした。
「騎士は人々を苦しめている竜を倒して、竜騎士と呼ばれるようになるんです」
王女を手に入れるために、騎士は幾多の苦難を乗り越えなければならなかった。それこそ命を賭けて。
「……竜を倒した騎士は、無事に王女と結ばれました」
めでたし、めでたし、とリティシアは話を終える。
「確かに、女性が好きそうな物語だね」
微笑ましげに見つめてきたレーナルトは再び問いを投げかけた。
「……それで、その物語に登場する王女と騎士の名前は?」
そう、物語のことを話す間、リティシアは二人のことをずっと王女と騎士と言い表していた。だからレーナルトは二人の名前を知らない。
「……リティシア。リティシア姫と……コンラートです」
リティシアは小声で言った。最初にこの物語を好きになったのは、主人公に愛される王女の名前が自分と同じだったから。同じ名前の王女に自分を重ねて読んでいた時期もあった。何度も読んで覚えてしまった物語なのに、今でも読み返せば波乱万丈の二人の運命にハラハラドキドキさせられてしまう。むろん竜騎士と同じ名を持つコンラートにはそんなことを言えるはずもなくて、ひたすら自分の胸にしまいこんでいたのだけれど。
――それが短剣であればいいと願っているかのように。
「もちろん。泣かせるようなことはしない。絶対に――わたしが彼女の盾となり庇護しよう」
扇を突きつけたまま、ヘルミーナは彼から視線をそらそうとはしない。長い沈黙が続いた。それからヘルミーナはふっと息を吐き出して、扇を持った手を下ろし、うつむいた。
「わたくしの婚姻が決まったら、リティシアは宰相の息子――彼女を愛している人に嫁ぐことになっていました。本人も知らない内々の約束事でしたけれども。彼女を愛する人のもとで、穏やかな生活を送らせる……それは父の希望でもありました。どうか……リティシアを幸せにしてやってくださいませ」
何と答えたらいいのだろう。レーナルトは考え込み、そしてようやく言葉をひねり出す。あまりにも凡庸な言葉だったけれど。
「わたしを信じてほしい。あなたが心配するようなことはしないと誓う」
再び長い沈黙が辺りの空気を支配する。それからヘルミーナは数歩後退して彼から離れた。
「……信じますわ、あなたを。失礼なことを申し上げました。申し訳ありません」
彼に向かって頭を下げる動作は、しなやかで優雅だった。どこかぎこちない妹姫とは雲泥の差だ。彼とともに供の待つ場所へ戻りながら、ヘルミーナは「妹にこのことは言わないでください」と彼に口止めするのを忘れなかった。
* * *
母、姉と言葉をかわし、最後に父に頭を下げてリティシアは用意されている馬車に乗り込んだ。床を離れることを許されていない兄には、城を出る前に挨拶をしてきた。
「手紙を書くよ」
そう言ってアルベルトは頭を撫でてくれた。リティシアも、
「すぐにお返事を書くわ。だからたくさんお手紙くださいね」
そう笑って彼のいる寝室から出てきた。兄に次に会えるのは何年先のことだろう。もう一生会えないかもしれない。
ゆっくりと動き始めた馬車にはリティシアの他に二人の侍女が乗り込んでいた。今までずっとリティシアに仕えてきた侍女たちだ。
年かさの方をゲルダ、若い方をリュシカという。ゲルダはリティシアの母親ほどの年齢だ。薄い青の瞳が時折鋭い光を放つが、それ以外はいたって平凡な容姿の持ち主だ。
リュシカはリティシアより三歳年下だ。リティシアは最初別の者を連れていくつもりだったのだが、本人がローザニア行きを強く希望した。落ち着きが足りないとゲルダにたびたび叱られるが、愛嬌のある顔立ちは可愛らしい。ローザニアに行ったら、王宮騎士と結婚するつもりなのだそうだ。
「夢みたいですわ。リティシア様がローザニアに嫁ぐことになるなんて」
馬車で待っていたリュシカははしゃいでいた。
今まで王宮内では明らかにヘルミーナの方が重要視されていた。同じ王女でありながら、届けられる贈り物もヘルミーナの方が数が多く、また高級な品だった。
だが婚約が決まったとたん、リティシアのところへも山のように贈り物が届けられ、リュシカは今まで軽んじられてきた鬱憤を晴らすかのようにリティシアに代わってそれらを開封し、あれやこれやと品定めしながら一週間を過ごしたのである。
ローザニアの都ローウィーナまでは十日以上馬車の旅が続く。その間ずっとリュシカのおしゃべりにつき合わなければならないのだろうかと思うと憂鬱になる。王宮内で軽んじられてきたリティシアに、誠心誠意仕えてきてくれたのはありがたいと思っているのだけれど。
「口を閉じなさい、リュシカ」
ゲルダはぴしゃりとリュシカに言う。
「リティシア様を、おまえのおしゃべりでわずらわせてはいけません」
とたんにつまらなそうな顔になって、リュシカは口を閉じる。ゲルダがリュシカを叱責してくれたのはありがたかった。静かになった馬車の中、リティシアは座席に頭をもたせかけて目を閉じる。
できることなら、一人になりたかった。
早朝に出発し、一度休憩を取ることになったのは午前も半ばという頃だった。馬を休ませ、兵士たちも休憩をとる。
侍女たちは、馬車が止まるのと同時に飛び降りるようにして地面に敷物を敷き、そこにリティシアを座らせていた。リティシアは思いきり背をそらせた。
「いい気持ちね。こうしているのは」
「本当に。雨にならなくてようございました」
ゲルダが同意した。
今日は天気がよくて暖かい。馬車の座席は贅沢にクッションが敷きつめられていて乗り心地がいいのだが、それでも窮屈であることは否定できない。靴も脱ぎ、押し込められていた足の指を自由にしてやる。
しばらくして、出立のふれが出される。彼女たちが無事に乗り込んだのを確認して、再び馬車は動き始めた。
その後一度軽食のために馬車を止め、何回かの休息を挟んで国境を越え、夕方には予定していたローザニア国内の中継地に到着することができた。早朝に城を出たのは、夕方までに国境を越えるためだったのだそうだ。
「そろそろ今夜泊まるところに着くそうですよ」
ゲルダに静かに揺さぶられて、リティシアは目を開けた。
「……あら、もう着いたの?」
何度か馬車から降りた以外は、ずっとうとうとしっぱなしだったのだ。それほど時間がたったようには感じられない。馬車が向かおうとしているのは、立派な屋敷だった。このあたりを治める貴族の住まいなのだろう。
「リティシア様は、あのお屋敷にお泊まりになるそうですよ」
速度を落とした馬車は、ほとんど音をたてずに屋敷の前で停まった。
兵士たちは天幕を張って野営の支度に勤しんでいた。大きな屋敷とはいえ、さすがに全員を泊めるだけの広さはないようだ。
屋敷の主人だという大柄な男が、満面の笑みを浮かべて一行を出迎えた。
「ようこそおいでくださいました。オーウェンと申します」
主は自らリティシアたちを中に招き入れた。未来の夫はもう中に入ってしまったらしく、姿は見えない。そのことにリティシアは少しがっかりした。
オーウェンはリティシアを立派な部屋へと案内する。侍女たちには続き部屋が与えられた。
「なにぶん田舎なもので、何かとご不自由をおかけするかとは思いますが……一晩のことですので」
主の言葉は、謙遜なのだろうか。部屋に置かれた天蓋つきのベッドは十分寝心地がよさそうだし、長椅子も低めのテーブルもどれもがよく吟味されたものであることがわかる。ここに並んでいる品は、ファルティナの王宮の家具よりも上質かもしれない。
「とんでもありません。こんなによくしていただいて……」
リティシアの言葉に、オーウェンは満足そうに目を細めた。
「あの……陛下は?」
「夕食の時にお会いになれると思いますよ」
リティシアはオーウェンが退室するのを見送った。それから茶色の旅装を脱ぎ捨てて、ゲルダが衣装箱から取り出した淡い桃色のドレスに袖を通す。
「宝石はどうなさいますか?」
「必要ないわ。髪だけ結い直してちょうだい」
リュシカが後ろに回って、慣れた手つきで髪に櫛を通し始める。リティシアは、鏡の中の自分を見つめた。大国の妃としてふさわしいだろうか――付いている侍女二人に確認するわけにもいかない。彼女たちはふさわしいと誉めちぎるだろうから。
それでも、リュシカが髪を整えてくれればましになるとリティシアは思う――いや、そう思いたいという方が正解だ。
夕食の席もすばらしいものだった。贅をつくしたというよりは、あえて田舎風を強調した料理がテーブルに載せられる。リティシアが軽く口をつけただけの酒も、上質の品だった。
オーウェンはリティシアに美しいと何度も繰り返した。お世辞であることがわかっていてもリティシアが不快感を覚えなかったのは、彼の落ちついた話し方のおかげだろうか。しかしリティシアは終始強張った笑みを口元にはりつけ、レーナルトとオーウェンの会話を邪魔しないよう、話をふられた時のみ口を開くようにしていた。
最後の一口を口に運びながら、リティシアはレーナルトの方をうかがった。
あの舞踏会の夜から、彼と二人で話をする機会はなかった。なぜ姉ではなくリティシアを選んだのだろう。それをまだ確認できていない。
夕食を終えて部屋に戻れば、後はすることもなかった。別室で夕食をとったゲルダとリュシカに、就寝の支度を手伝ってもらう。
夕食のためのドレスから夜着へと着替え、リティシアは二人を下がらせた。まだベッドに入るには早いような気がする。そのまま窓の側に腰を下ろした。
こんな日がこれから一週間以上続く。大きく息をついて、リティシアは椅子の上で行儀悪く膝を抱え込む。
もう旅を終わりにしたいような気がする。昼間は馬車に揺られて、夜は知らない人と顔を合わせて食事をして。世話になるのだから食事の席に出るくらいは最低限の礼儀なのだが、どうしても緊張の糸を解くことができない。
どうして自分はこうなのだろう。情けなさにリティシアはきゅっと手を握りしめる。
姉ならどれだけ笑顔をふりまいてもこんな風にぐったりすることはないはず。自分は姉のようになれない。今日だって、オーウェンとうまく話すことはできなかった。
明日もまた知らない人の屋敷に世話になって、笑顔をふりまかなければならない。愛想よくしなければならないことくらいわかっている。
大きくため息をついた時だった。静かなノックの音がする。リティシアは扉を開けた。
「……入っても?」
レーナルトに問われ、リティシアは身を引いた。扉の隙間からするりと彼が入り込んでくる。夜着しか着ていないことを思い出して、リティシアは焦りながら椅子にかけてあったガウンを取ろうとした。
「必要ない」
「……でも」
ガウンを取ろうとした手首をつかまれて、リティシアは動揺した。身体の線が浮き出る薄い夜着しか着ておらず、あまりにも無防備だ。そのまま手首を引っ張られ、勢いでリティシアはレーナルトの胸にぶつかった。
「姫」
レーナルトの声が、甘く耳をくすぐる。
「あ、あのっ」
リティシアのささやかな抵抗にはかまわず、もう片方の手が背中に回される。家族以外の異性に抱きしめられたことなどないリティシアは、自分の身体が震えるのを感じていた。
どうすればいい? この場合、どうするのが正解なのだろう。思わず視線が天蓋つきのベッドに向けられる。
もし、――今あの場に連れていかれたら。
「……姫」
抱きしめたリティシアにレーナルトはもう一度声をかけた。リティシアは緊張を隠すことができなかった。顔がかあっと熱くなってくらくらする。
「……あなたの嫌がることはしないから。だからそんなに怯えないでほしい」
レーナルトは片手を伸ばして椅子の背にかけられていたリティシアのガウンを取る。それが細い肩にかけられると、彼女は急いで胸元をかき合わせた。
「その……気が急いて……本当に申し訳ない」
謝罪の言葉にリティシアは首をかしげる。なぜ、彼はここに来たのだろう。
「ずっとあなたと話す時間がなかったから――少しだけ――寝る前に話をしようと思っただけなんだ」
レーナルトは笑顔を見せた。その言葉にリティシアはほっと胸をなでおろした。これなら、うまくやっていけるのかもしれない。彼も同じ思いを持っていてくれたのなら。
「でも、あなたを目の前にしたら、自制がきかなくなった」
もう一度リティシアを引き寄せ、顎を持ち上げた。リティシアが拒む間もなく、唇が重ねられる。
初めての口づけはリティシアの思考を奪い去った。求められるがままに、何度もレーナルトの唇を受け入れる。ようやく唇が解放されたと思ったら、頭を彼の胸に押しつけられた。
「……離していただくわけには……?」
小声でリティシアはたずねる。彼の全身の体温を感じさせるこの体勢が落ち着かない。
「こうしているのは不愉快?」
「……いえ、そういうわけでは」
リティシアは小さな声をあげた。レーナルトの指が背中を這っている。その感覚は嫌なものではなかったけれど、知らない世界へと押し出されるような予感を抱かせた。
「本当にあなたは可愛らしいね」
身をよじったリティシアを見て、レーナルトは笑った。リティシアの頬が紅潮する。
国に残してきた乳母や仕えてくれる侍女たちがくれる褒め言葉は、お世辞にしか感じられなかったのに。彼の口から出るとどうしてこんなにも甘美なのだろう。彼と瞳を合わせることができなかった。今見たら、きっと彼の青にとらわれてしまう。
「わたしたちには、時間が必要だ。もっと……互いを知る時間が」
レーナルトの言葉に、リティシアの心は軽くなった。彼とならきっといい夫婦になることができる。リティシアはただ、彼を信じてついていけばいい。
「おやすみ、姫。よい夢を」
最後にリティシアの額に唇をあてて、レーナルトは部屋を去る。それを見送って、リティシアは、
「おやすみなさいませ」
とつぶやいた。
* * *
キスの余韻は、リティシアの夢の中にまで忍び込んできた。眠りに落ちれば唇に触れた感触が鮮やかに夢の中で再現される。そのたびにリティシアは目を覚ますことになり、そうして何度か眠っては起き、を繰り返すうちにいつの間にか朝を迎えていた。
身支度を終えて外に出たリティシアは驚いた。どこで調達してきたのか馬車が二台に増えている。侍女二人はやや簡素な馬車へと案内され、昨日の馬車にはリティシア一人が乗り込むことになった。
一人になりたいとリティシアが望んでいたのを、レーナルトが気づいてくれたのだろうか。リュシカもゲルダも悪い人間ではないし、リティシアを気づかってくれているのは知っている。けれどそれと、ずっとリュシカのおしゃべりを聞かされるのとは別問題だ。
昨日はそこまで頭が回らなかったが、今日は馬車の中で読むための本も荷物から取り出しておいた。高尚な内容というわけではないが、少なくともこれを読んでいる間は時間をつぶすことができる。
馬車の周囲が慌ただしくなり始めた。
「失礼する」
何があったのかとリティシアが腰を浮かせかけた時、有無を言わせない口調とともに馬車の扉が開かれた。
「レーナルト様」
リティシアは座席の上で、彼から遠ざかるようにそっと身体の位置をずらす。
ここでレーナルトと二人きりになるのならば、侍女たちと一緒の方がはるかにいい、などと口にできるはずもない。黙って彼が馬車に乗り込んでくるのを見守るしかなかった。レーナルトはリティシアの向かい側の席に腰を下ろすと、彼女を見つめた。
「今日はずっと馬車で移動なさるのですか?」
「そのつもりだ――ご迷惑かな?」
「……いえ」
レーナルトの視線に耐えかねたように、リティシアは身をすくませた。迷惑などと言えるはずもない。なるべく彼から遠ざかろうと、対角線上の席に移動する。片方の手で胸に本を抱きかかえ、もう片方の手は皺になるほどに強くスカートを握りしめていた。
「……姫」
レーナルトは手を伸ばし、スカートを握りしめるリティシアの手を取る。リティシアは一瞬手を引きかけたが、意志の力でそれを抑えこんだ。それに気づいたのかレーナルトは優しく声をかけてくる。
「わたしたちには、互いを知る時間が必要だと昨夜言ったはずだ。馬車で話をする時間は貴重なものだと思う。しかしあなたが望むのならば、すぐにでも馬車を降りよう」
その言葉が終わる前に馬車が動き始める。
「……供の者が……」
手を取られたままリティシアはうつむき、胸に抱えていた本を力なく膝の上に置く。
「侍女たちが、気にしますから」
レーナルトの前では二人とも顔に出すはずはない。しかし、後になればリティシアに「結婚前に二人きりで長時間過ごすなどとんでもない」と言ってくるのは目に見えている。
昨晩だって隣の部屋で聞き耳をたてていたはずだ。レーナルトがもう少し長く部屋にいたなら、今朝はゲルダにがみがみ叱られていただろう。
そんなリティシアの気持ちを知ることのないレーナルトは、つかんだ手を強く引いた。リティシアは彼の胸へと倒れこむ。膝から本が滑り落ちた。
「わたしたちは、夫婦になるというのに何をはばからなくてはならないのか?」
「ですから……」
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そっと身を離そうとすると、ふいに抱きしめられる。逃げる隙などなかった。あっという間に唇が奪われる。
数度、探るように触れてきた。それだけで力が抜けて、彼の腕に身体を預けてしまう。
油断してほんの少しだけ開いていた唇から、彼が入り込んできた。瞬間、身体が強張った。逃げ回る舌が強引に絡めとられる。
リティシアは最初はおどおどと、それから少しずつ大胆に応じ始める。耐えかねて小さな声がもれたが、それも彼の唇に吸い取られる。レーナルトの手が背中を上下に撫でた。その動きに呼応して、肩が跳ね上がった。
「……だめ、……だめ……です……」
彼の胸を押し返そうとしているリティシアの声音に非難の色を感じ取ったのか、ようやくレーナルトは彼女を解放した。
そそくさと席に戻ったリティシアは、乱れた髪を撫でつけ、レーナルトから視線をそらした。今の行為で床に落としてしまった本をレーナルトが拾ってくれる。それを受け取りながら、リティシアは顔をうつむけた。
今の自分の反応を思い出すと、顔が熱くなる。レーナルトはどう思ったのだろう。今まで王女教育の一環として夫婦の間のことについてはそれなりに教えられてきたが、さすがに実地で学んではいない。乳母が言うには、そういった時でも声をあげたり息を乱したりせず、動かずにじっとしていなければならないらしい。今のリティシアにはそれを守る余裕はなかった。
はしたない娘だとは思われなかっただろうか?
身の置きどころがなくなったように感じられて、膝に視線を落とす。うつむいてスカートをいじりまわしているリティシアに、レーナルトは声をかけた。
「姫、恋をしたことはあるか?」
「恋……ですか」
誰かを好きになったことなんてない。
昔コンラートに抱いた想いは、恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎるものだった。また自覚し始めるのと同時に、殺すしかなかった気持ちだった。リティシアの視線が、膝の上をさ迷って横たえた本のタイトルにとまる。『竜騎士の詩』と書かれた金文字を人差し指でそっとなぞった。
「ある」と答えられればいいのだろうけれど――
「残念ながらと……言うしかありません。宮中の素敵な男性は皆、姉を崇拝しておりましたので」
ヘルミーナを取り巻く男性たちの目には、リティシアなど映ってはいなかった。
もしそのうちの誰かに嫁ぐことになっていたら、彼らはリティシアを大切に扱ってくれただろうか。それともリティシアを家に残して、宮中では変わらず姉を見つめ続けただろうか。
「レーナルト様は、恋をしたことはおありですの?」
きっとあるだろう。そう確信しながら、リティシアは同じ問いを返す。リティシアより年上なのだし、彼に惹かれる女性がいなかったなんて考えられない。
その質問を、すぐにリティシアは後悔することになった。レーナルトの表情が変わる。リティシアが見たこともないような、甘い痛みをともなった微笑へと。
「……ある」
「そう……ですか……」
リティシアの胸が痛む。いくら彼女がそういうことには疎いとはいえ、レーナルトの表情が何を意味しているのかくらいはわかった。彼の心の中には、まだその相手が住み着いている。きっと素晴らしい女性だったのだろう。彼にこんな顔をさせるくらいなのだから。
自分で傷を抉りながら、リティシアはさらに問いを重ねる。聞けば聞くほど苦しくなるだけだとわかっているのに。
「どんな方……でしたの?」
「そうだね。聡明で、自分のことより先に人のことを考える女性だったよ」
自分とは正反対の女性のようだ――とリティシアは思った。彼の心の中にリティシアの入り込む余地はないのだろう。愛されることなんて望んでいない……それは望んではいけないことだ。
それにしても彼は過去形で彼女のことを語っている。亡くなったのだろうかとリティシアが黙り込んでいるうちに、レーナルトがまた口を開いた。
「神殿で巫女を務めている彼女に求婚したのだが、断られてしまってね――宮中では皆知っている話だ。あなたの耳にも入ることがあるかもしれない。だから先に話しておこうと思った」
そんな顔をしないでくださいと口からこぼれそうになる。リティシアを想って、彼がそんな顔をすることはないと嫌でもわかってしまったから。
「けれど、もう終わった話だ。彼女は弟と結婚することになっている。いずれ会う機会もあるだろう」
そう言って、レーナルトはその話題をうち切った。
「それより、わたしたちの話をしよう。わたしはあなたのことをもっと知りたいし、あなたにわたしのことを知ってほしいとも思っている」
笑顔を作らなくては。リティシアは顔の筋肉を総動員して、なんとか笑みを作る。
愛がなくても、いい夫婦にはなれるはずだ。大丈夫。やっていける。愛されなくてもいい。せめて妻として必要とされるようになりたい。そうでなければ、姉の後ろに隠れていた頃と変わらない。
「そちらに行っても?」
レーナルトがリティシアの隣の座席を指す。リティシアは迷うことなくそれを受け入れた。
「わたしと弟は、母が違っていてね――」
隣に座ると同時にレーナルトは話し始める。リティシアもそのことは知っていた。
レーナルトの母親は、今はローザニアの支配下におかれている隣国の王女だった。嫁いだ直後に自国は権力争いで混乱し、後ろ盾を失ってしまったのだという。弟の母親、つまりレーナルトの父親の寵姫は、ローザニアの有力貴族の娘だった。後ろ盾のないレーナルトの母親は王妃の地位こそ取り上げられなかったものの、いてもいなくても大差ない扱いを受けていた。
レーナルトの母が亡くなり、その喪が明けるとすぐに寵姫が王妃になったのだという。だから長男であるレーナルトより、次男のウェルナーを次の王にと推す貴族も多かった。そういった王位争いを避けるために、弟の方は神殿に入って神官となったのだそうだ。
ゆっくりとレーナルトの手が、リティシアの手に重ねられる。リティシアは、今度はその手を引こうとはしなかった。
「その本は?」
彼はリティシアの膝の上に載せられた本を見てたずねた。
「……陛下がお読みになるようなものではありませんわ」
リティシアは、そっと本をひっくり返した。何度も読み返している本だった。内容は完全に覚えてしまっている。
「そうかもしれないが、教えてほしい。国に戻ったら、あなたが好きそうな物語を図書室からあなたの部屋へ運ばせよう」
リティシアがどんな物語を好もうと、彼なら笑い飛ばすことはないだろう。
「……ありきたりの物語です、レーナルト様。王女と――彼女に仕えている騎士が恋に落ちるんです」
どれほど焦がれても焦がれても。身分の違う二人は結ばれることはできない。王女を残し、騎士は旅に出る――彼女を娶ることを許されるだけの手柄をあげるために。
「それで?」
レーナルトは先をうながした。
「騎士は人々を苦しめている竜を倒して、竜騎士と呼ばれるようになるんです」
王女を手に入れるために、騎士は幾多の苦難を乗り越えなければならなかった。それこそ命を賭けて。
「……竜を倒した騎士は、無事に王女と結ばれました」
めでたし、めでたし、とリティシアは話を終える。
「確かに、女性が好きそうな物語だね」
微笑ましげに見つめてきたレーナルトは再び問いを投げかけた。
「……それで、その物語に登場する王女と騎士の名前は?」
そう、物語のことを話す間、リティシアは二人のことをずっと王女と騎士と言い表していた。だからレーナルトは二人の名前を知らない。
「……リティシア。リティシア姫と……コンラートです」
リティシアは小声で言った。最初にこの物語を好きになったのは、主人公に愛される王女の名前が自分と同じだったから。同じ名前の王女に自分を重ねて読んでいた時期もあった。何度も読んで覚えてしまった物語なのに、今でも読み返せば波乱万丈の二人の運命にハラハラドキドキさせられてしまう。むろん竜騎士と同じ名を持つコンラートにはそんなことを言えるはずもなくて、ひたすら自分の胸にしまいこんでいたのだけれど。
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