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1巻
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しおりを挟むプロローグ
リティシアは、窓の外を眺めた。壮麗な行列がこの城へと近づいてきている。あの中のどこかに隣国ローザニアの王がいるはず。
リティシアの暮らすファルティナとローザニアは、リティシアが生まれた頃から幾度となく領土をめぐって戦争を繰り返していた。その度に停戦条約を結んでは破棄してきたのだが、両国の間で今度こそ停戦を確たるものとすることが決められたのはつい先月のこと。
ファルティナは北方に位置するため、冬の間は海が荒れて船を出せなくなる。南のローザニアの港から陸路で荷を運ばなければならないのだが、当然、他国の領土内を通行するためには相応の対価を支払わなければならない。
交易路の確保はリティシアの父の悲願であったのだが、その夢は潰えてしまったようなものだった。戦争はファルティナ側の敗北に近い形で終わっており、さらには勝者であるローザニア側から婚姻による両国の関係強化という申し出があったからだ。
この国境近くの小さなアウスレーン城までリティシアがやってきたのは、ローザニア国王との顔合わせのためだった。リティシア、もしくは姉のヘルミーナがローザニア国王に嫁ぐことになる。
停戦の条件としては悪くはないのだろう、とリティシアは思う。
戦争の結果を考えるとこちらから異議を申し立てることなどできないし、どちらの王女が嫁いでも生まれた子どもは大国の跡継ぎだ。それに大国ローザニアとの同盟によって、ファルティナは周辺の同じような小国より一歩先に出ることができる。
それでも――と、リティシアはひっそりとため息をこぼす。二人の娘のうちどちらかを選べと言われた者は全て、ヘルミーナの手を取るだろう。
妹であるリティシアの目から見ても、ヘルミーナは美しかった。背はすらりと高く、女性らしい豊かな曲線を描く身体の持ち主で、一つ一つの動作が優雅だ。艶やかな黒い髪に、情熱的な光を放つ黒い瞳。紅を載せなくても鮮やかな唇。その場に居合わせた誰もが目を奪われるだろう。
それにひきかえ、とリティシアは惨めな気持ちで自分の身体を見下ろす。身長だけは姉と同じくらいあるのだが、手足ばかりがひょろひょろと伸びて、肉付きが悪いというより全体的に身体が薄い。
自分では顔立ちは悪くないと思うものの、美女というほどではなく、顔の中央で居心地悪そうな光を放っている灰色の目ばかりが目立つ。半端に明るい茶色の髪も昔から大嫌いだ。
何をしても姉にはかなわない。刺繍も、乗馬も、ダンスも。各国の情勢を分析できるほど頭がいいわけでもなく、気の利いた会話で周囲を楽しませることもできない。生まれて十八年でリティシアはそのことを悟りきっていた。父も政治向きの話は姉にしかしない。
一つだけリティシアが姉より上手にできることがあるが、それは花嫁選びにおいて彼女を優位にしてくれるほどのものではない。
条約を締結するための儀式が終わったら、いよいよ隣国の王との対面となる。
リティシアは目を閉じた。今夜さえ乗りきれば――隣国の王が姉の手を取るのを見届けたなら――それさえ終わってしまえば、日常に戻ることができる。
早く夜になればいい。嫌なことを済ませてしまえば――
リティシアは窓の外の太陽に向かい、早く沈んでくれるようにと祈った。
騎士たちの鎧が太陽の光を反射して、鮮やかに煌く。レーナルトは、自分の兵士たちを見回して満足げに微笑んだ。きっちりと隊列を組んで進む彼らの鎧や兜はどれも見事なまでに輝いていて、戦争を終えたばかりとは思えない。
レーナルト自身も騎乗して隊列の中央あたりを悠然と進んでいる。二十四歳を迎えたばかり、大国ローザニアの若き国王だ。
「太陽王」と称されるのは、彼の治世が安定していて、国が富んでいるからという理由だけではない。兜の代わりに頭を覆うのは豪華な黄金の髪。瞳の色は恵み豊かなローザニアの海にたとえられる青。整った顔に魅せられる女性も多いが、その手は剣をふるうことを十二分に知っている。
国を出て二ヶ月――その間に国境を侵したファルティナ兵を追い払い、休戦条約を結ぶところまでこぎつけた。条約さえ結んでしまえば、ようやく国に帰ることができる。
レーナルトの脳裏に、黒い髪と美しい肢体を持つ女の姿が浮かぶ。
「イーヴァ……」
口からこぼれ落ちた名は、彼の想い人のもの。彼の求婚を受け入れず、姿を消した幼なじみ。異母弟のウェルナーも彼女を追って姿を消した。
半年もの間探し回り、ようやく見つけ出した二人に、
「隣国の姫を娶ることにした」
と告げたのは、二人の間に割り込む余地がないことをまざまざと見せつけられたからだ。
それからレーナルトはそのまま戦場に駆けつけ、陣頭指揮をとった。
停戦の条件は、小国であるファルティナにとっては相当厳しいであろう額の賠償金。それに、当初は予定になかった王女との結婚の一条を加えた。こうでもしなければ、あの二人は戻ってきてはくれないだろうから。
異母弟との間には、何年も前から確執があった。いや、彼と自分との間に、というよりは、周りを取り囲む貴族たちの間にだ。二人ともそんなことは望んでいなかったというのに――
最近になってようやくまた兄弟らしくなれたのだから、彼には愛する人と幸せに暮らしてもらいたい。
自分には愛など必要ない。彼が生涯愛するのは一人だけで――それなりの身分があるのなら結婚するのは誰だってかまわない。
それでも――と彼はまだ見ぬ未来の花嫁に誓う。
愛することはできない分、慈しむことを。
涙に濡れた生活を送らせるつもりはなかった。
第一章
レーナルトたちは条約締結の場であるアウスレーン城へと入った。
「ようこそおいでくださいました」
ファルティナ国王、マーリオ自らレーナルトを出迎える。一人の息子と二人の娘を持つ彼は、レーナルトより三十ほど年長だ。
「……よろしくお願いいたします」
年長者への最低限の敬意を失わぬよう、細心の注意を払いながらレーナルトは返す。
「さっそく条約の締結でよろしいですかな?」
敗者とも思えぬ尊大さを滲ませながら、マーリオはレーナルトを奥へと案内する。
急いで支度を調えたのであろう。条約の締結の場として用意された広間は、必要以上に飾りつけられていた。手前には磨き抜かれたテーブルがしつらえられている。
毛足の長い絨毯を踏みつけ、レーナルトはテーブルに近づいた。
マーリオと向かい合ってテーブルに着き、条約の内容を記した書類にサインする。己がマーリオの娘のうちいずれかを娶るという条項が追記されているのを、しっかりと確認しながら。
「二人の娘いずれも、年齢的には陛下に釣り合うと思うのですが」
マーリオが説明を始める。姉が二十、妹が十八。妹姫はあと二週間で十九になるのだという。
「姉のヘルミーナは親の目から見てもなかなか才気煥発な娘ですが、妹のリティシアの方は内気でして……」
暗に姉を選べとマーリオは勧めているようだった。
どちらでもよい、とレーナルトは心の中でつぶやく。御しやすい方がいいとは思う。どうせ政略結婚なのだし、下手に気位が高ければ相手をするのが面倒になる。
マーリオの話を聞く限りでは、妹の方がよさそうか。いずれにしても、当人たちを見定めてからのことだ。この件は彼に選択がゆだねられているのだから。
鏡を見直してリティシアは、今日何度目かのため息を吐き出す。鏡を見れば見るほど美人になれるのであれば、何百回でも見直すのに。
「お美しいですよ」
生まれた時から付いている乳母はそう言ってくれるが、それがお世辞と気休めが半々のものであることに、何年も前からリティシアは気づいていた。
だから自分もそれにふさわしい装いをする。目立ちすぎず地味すぎず。華やかな夜会に出る時にリティシアが望むのはそれだけしかない。
「あら、まだ支度できていないの?」
ノックもせずに入ってきたのは、姉のヘルミーナだった。もう夜会に出席する準備を完璧に整えている。
黒い髪に映える鮮烈な赤いドレス。結い上げた髪に金の鎖と、ドレスの共布で作られた赤いリボンを絡ませ、金のティアラを飾っている。細心の注意を払って散らされた後れ毛は、念入りにカールされていた。
「今日の主役はお姉様でしょ? わたしはこれから支度しても十分間に合うもの」
薄い笑みを浮かべてリティシアは姉を見やる。今日のヘルミーナは、本当に華やかだった。会場の男性全てが彼女に目を奪われることだろう。
「あなたずいぶん地味なのね」
用意されていたリティシアの衣装に目をとめて、ヘルミーナはリティシアを見た。ヘルミーナ自身なら選ぶことのない、大人しい印象のデザインだ。
「今から頑張って美しくなるのであればそうするけれど。そういうわけにもいかないし、これで十分だわ」
苦笑混じりにリティシアは返す。
「何を言っているのよ、あなただってそんなに悪いわけじゃないのよ?」
ヘルミーナの言葉は、全てを持つ者特有の鷹揚さをはらんでいた。リティシアは瞳に浮かんだであろう感情を隠すように、素早く視線を床に落とす。
「せっかくレーナルト様がいらっしゃるというのに。もう少し気を配ったらどうなの?」
――彼女には永遠にわからない――
リティシアは苦々しい思いを顔に出さないように、唇をきつく結んで表情を殺した。姉には理解できるはずもないのだ。リティシアの気持ちなど。
身支度を手伝うと言い張る姉を追い返すわけにもいかず、リティシアは用意していたドレスに身体を押し込んだ。
「あなたの腰、どうしたらそんなに細いままでいられるのかしら。羨ましいわね」
「お姉様が羨ましいと思うところが、一つくらいあってもいいでしょう?」
目立たないように、の一点で選んだドレスは薄い青。スカートは裾に行くに従って少しずつ色が濃くなり、一番下のあたりは濃い青になる。スカートはパニエなどで思いきり膨らませるのが最近の流行だが、あえてそれはしない。
化粧は控えめに。十八ならばそれで十分に足りる。髪はきっちりと結い上げて、銀のティアラを載せ、耳の上にドレスの裾と同じ濃い青色の花を飾る。ティアラと右手中指につけた指輪以外に、装身具はつけなかった。真珠を中央にはめ込んだシンプルな指輪は、祖母の形見だ。装身具としての値打ちという点では、おそらくそれほどのものではない。
「やっぱり地味すぎるんじゃないの?」
妹の頭にティアラを載せたヘルミーナは、不満そうな声をあげた。
「いいのよ、お姉様の引き立て役だもの」
いつの間にか姉妹の間には役割分担ができていた。人の注目を浴びるのはヘルミーナ。それを後ろからそっと見守るのがリティシア。姉妹の間でもお互いそれを当然と見なしていて、姉、妹どちらも今の会話を不自然なものと考えていない。
「ローザニアの王妃になるのってどんな気分なのかしらね?」
「なってみればわかるでしょう? ……それより、そろそろお部屋に戻らなくてよろしいの?」
慇懃にリティシアはヘルミーナを外へと追い出した。
「失礼な方ですね!」
リティシアの気持ちの代弁とばかりに乳母が頬を膨らませた。
「失礼も何も、まともな審美眼を持ち合わせた方なら、お姉様を選ぶのではないの?」
周囲の視線が自分を素通りしてヘルミーナに注がれるのは慣れっこだ。大国の王妃の座は彼女にこそふさわしい。実際父も、リティシアは国内の貴族に縁づけるのだと決めているらしい。宰相の息子や、大臣の息子などが候補にあげられているとの噂も耳に入ってくる。
リティシアは相手に高望みはしていなかった。誰でもいい。兄ではなく、姉でもなく、リティシアという存在に目をとめてくれる人であればいい。
リティシアが生きているのは、息のつまりそうな暗い世界だった。親の期待は、兄と姉に注がれ、自分はおまけ。同じ女性なのに、一つ年を取るたびに痛感させられる姉との差。
しかたがない――自分は出来がよくないのだから。
諦めが色を濃くするのに反比例するかのように、世界が色を失っていく。今では全てが灰色だ。
リティシア自身を見てくれる人に出会うことができれば、この灰色の世界に別れを告げることができる。そう思うようになったのはいつからだろう。
「リティシア様だって、お美しいですよ。そりゃあの方ほど派手ではないでしょうけれど」
長々としゃべり続けていた乳母は、その一言でようやく言葉をおさめたのだった。
* * *
条約締結の儀式が終了した後、レーナルトはようやく未来の王妃候補と引き合わされることになった。
いったん与えられた部屋へと下がり、舞踏会へ出席するための礼服へと着替える。
書類に署名をした広間が今度は宴の場となる。レーナルトが退室している間に、広間は素早くそれにふさわしい装いに変えられていた。
未来の国王たる長男のアルベルトは、先日の戦闘で負傷したため出席しないという。
命に別状はなく、重い後遺症も残らないだろうと言われているが、今後数週間はベッドで過ごすことになるだろう。それを聞いたレーナルトは見舞いの品を手配させた。
城内の女性は華やかに着飾っていた。廊下を進む彼に気づくと、端に寄って頭を垂れる。彼が遠ざかった後、後ろの方でひそひそとささやき合う気配がする。
彼女たちの反応は、自国にいる時と同じようなものだった。「太陽王」「ローザニアの勇」。賞賛を浴びることには慣れている。
マーリオに連れられて、レーナルトは広間に入場した。二人の王の到着を待っていた王妃のティーリスが、レーナルトの側に歩み寄る。
夫よりは数歳若いだろう。小柄ではあるが、その存在感は広間に集まっている女性たちの中でも際だっていた。若かった頃はその美しさで知られていたというが、適齢期の娘が二人いる今でも、その容色はさほど衰えてはいないのかもしれない。
彼女はレーナルトに赤いドレスを身につけた娘を指し示す。
「あれがヘルミーナです」
背筋をまっすぐに伸ばして立っている第一王女は、確かにたいそう美しい女性だった。
きらめく黒い瞳が自信満々にレーナルトを正面から見すえている。その彼女に艶やかな微笑みを向けられて、レーナルトは思わず目をそらした。
似すぎている。
顔立ちには似たところなど一つもないのに、雰囲気が彼にあの人を思い出させてしまう。
「その後ろにいるのが妹のリティシアです」
彼女は姉から一歩下がるように立っていた。どこか自信なさげに見える。
大きな灰色の瞳が落ち着きなくふらふらと室内をさ迷い、最後にレーナルトに向けられたとたん伏せられた。姉の華やかな衣装とは対照的に大人しいドレスをまとっている。清楚と言えば聞こえはいいが、若い娘には地味すぎる。しかしそれが逆にレーナルトの目をとらえた。
二人は父親であるマーリオの言葉をじっと待っていた。
「このたび両国の間に停戦の条約が締結され――」
娘たちをちらりと見て、マーリオは話し始める。予想に反して彼の演説は、早々に終えられた。
「それでは両国の末永い繁栄を祈願して――」
乾杯の言葉に皆、手にしたグラスをかかげた。レーナルトは、飲み干したグラスをテーブルに置き、マーリオとその娘たちの方へと進んでいった。
「姫君たちに、ダンスを申し込んでもよろしいでしょうか?」
レーナルトの言葉に満面の笑みを浮かべて、マーリオは了承の意を表す。
「ヘルミーナ。お相手していただきなさい」
彼の前に押し出されたのは第一王女だった。優雅な仕草で彼女はレーナルトの前に立つ。押しつけがましい赤が目に痛い。視界を一色に染めあげる、鮮烈な赤。
「では、一曲、お願いいたします」
レーナルトはうやうやしく、ヘルミーナの手を取った。
「一曲、二曲踊っただけでわかりますの? わたくしと妹、どちらを選べばよいのか」
軽やかにターンしながらヘルミーナは問う。情熱的な光をたたえた黒い瞳には、レーナルトしか映っていなかった。
「そうですね。一生のことですから、慎重に選びたいと思いますよ」
何人もの女性の心をとらえてきた笑みをひらめかせながら、レーナルトは返す。ヘルミーナも例外ではないようで、それまで浮かべていた勝ち気そうな表情を消し、頬を赤らめた。
「わたくし、父の補佐もしていますの。きっとお力になれますわ」
熱っぽい声で、ヘルミーナは自分を売り込みにかかる。レーナルトは瞳の奥に感情を隠したまま王女を見下ろした。
「実際に政治の場で経験を積まれているのですね?」
「……当然ですわ。王の娘ですもの」
大きな瞳が輝きを強くする。レーナルトは心の中で、彼女ではだめだとつぶやいた。
最後のステップと同時に、ヘルミーナを王のもとへと返す。返されるとすぐ、彼女は待ちかまえていたどこかの貴族の息子にさらわれていった。
確かに彼女に心惹かれる者は多いのだろう。彼女を腕の中におさめている間も、いくつもの突き刺さりそうな視線を感じた。以前ならレーナルトも彼女を魅力的だと思ったに違いない。
レーナルトはもう一人の王女を探し始めた。人々が楽しそうに行き交う広間の端、布張りの長椅子に彼女は腰をおろしていた。その目はくるくる回っている人々を追いかけている。
所在ないといった様子で座っている第二王女を誘うと、彼女はとまどったような瞳でレーナルトを見上げてくる。
「本当にわたくしでよろしいのですか?」
「わたしでは相手は務まりませんか?」
明るい口調を作ってレーナルトは問い返す。色白の顔にさっと赤い色がのぼった。
「そ……そんな、ただ、思ったのです。姉の方がいいのではないかと」
「なぜ?」
「……姉の方がふさわしいと……皆さんそうおっしゃいますわ」
「皆は皆、わたしはわたしだ」
相手に有無を言わせぬ強引さで、レーナルトはリティシアの隣に座り込んだ。長椅子の端へ寄って距離を取ろうとする彼女の手をつかむ。
「一曲も、お相手いただけないというのは、あまりにもひどい」
「……そんな……そんなつもりはありませんわ」
レーナルトに取られた手は、緊張なのか怯えなのか小さく震えていた。
「では、一曲」
「……次の曲でよろしければ」
最終的に、諦めたようにリティシアはうなずいた。その曲が終わるまで、レーナルトはリティシアの手を離そうとはしなかった。
次の曲が始まり、二人は広間に滑り出る。広間中に驚きの声がさざ波のように広がった。
抱き寄せてみれば、彼女は姉姫と同じくらい背が高かった。腰はすんなりと細い。ダンスの腕は、姉ほどではないが下手と言うほどでもなかった。顔をうつむけているため、レーナルトの方から彼女の表情をうかがうことはできない。
「あなたも、お父上の補佐を?」
彼女をターンさせながら、レーナルトはたずねた。くるりと回って彼の腕の中に戻ってきたリティシアは、彼の方を見ようとしないまま「いいえ」とだけ返す。
「……出来がよくありませんから」
そうつけ足された声は小さかった。レーナルトは彼女の顔を見てみたくなった。
「……もう一曲、お相手願えますか?」
「……わたくしが?」
ずっとうつむいたままだった顔が、ようやくレーナルトの視界に入ってくる。大きな灰色の瞳がとまどいの色をさらに濃くした。
「あの、姉の方が……」
正面から見返すと、彼女の顔にまた赤い色がのぼる。
「わたしは、あなたと踊りたい」
瞳が潤んだように見えた。
「……はい、喜んで……」
妙に庇護欲をそそられる娘だと、レーナルトはよりいっそうリティシアを引き寄せた。
首から肩にかけての線はすっきりしているのに、妙にそそる色香があった。そこに唇を落としたら、彼女はどんな反応を返してくるだろう。ふとそんな思いにとらわれる。
リティシアを腕におさめ、広間を横切りながら姉の方をうかがうと、あからさまではないものの、いらついているように見えた。
彼女と踊ったのは一曲。リティシアとは二曲目。このまま三曲目もリティシアと踊れば、あの自信満々な王女の表情を崩すことができるのだろうか。
「姫」
レーナルトは、リティシアの耳元でささやく。
「今夜は、他の者と踊らないでいてもらえませんか?」
「え、でも……」
リティシアの視線が、別の男性と踊っている姉姫の方へと向けられた。
彼女はそのまま沈黙してしまい、返事をしようとしない。レーナルトは言葉を重ねた。
「いいですか? わたしはあなたと踊りたい。あなたの姉上ではなく」
「……はい、ありがとうございます」
ようやくリティシアは笑みらしきものを見せた。そこにはどこか怯えの色が含まれているように、彼には思えた。
「普段はあまり踊らないので――身体が熱くなってしまったようです」
三曲踊った後、テラスへ出たいという彼女の願いをレーナルトは笑顔で受け入れる。室内からテラスへ一歩踏み出すと、冷たい外気が一瞬にして彼女の身体の熱を取り去ったようだった。
「何か飲むものでも?」
「いえ――」
リティシアはまた顔を伏せる。その顎を持ち上げて表情をうかがいたい衝動を、レーナルトはなんとか押しとどめた。
「取ってきましょう。わたしも喉が渇きました」
リティシアをその場に残し、レーナルトは大股に室内へ入っていく。
その後ろ姿を見送りながら、リティシアはそっと息を吐き出した。信じられないような幸せな時間だった。「太陽王」とまで呼ばれる素晴らしい男性と三曲も踊ることができた。しかもこの後のダンスもずっと彼に予約されている。
手すりにもたれて空を見上げる。大きな丸い月がかかっていた。
一緒にダンスを踊った彼は、たくましかった。白に金銀で刺繍を施したあの衣装もよく似合っていた。それにあの瞳。温かくて、どこまでも青く澄んでいて。夢に見ていた王子様がそのまま姿を現したようだった。
彼はリティシアを選んでくれるつもりなのだろうか?
ありえない期待にすがってしまいそうになる。
考えてみたこともなかった。絶対に姉が選ばれるものと思いこんでいたから。彼がリティシアを選んでくれるなら――選んでくれたなら――人生はどれだけ変わるのだろう。
今まで考えてもみなかった可能性に胸が高鳴る。姉の陰に隠れるだけの生活ではない。夫となる人は、きっと正面からリティシアを見てくれることだろう。たとえ政略結婚だとしても――一度妻にした以上、無視することはできないはず。そこに愛はなかったとしても。
リティシアを一人の人間として見てくれさえすれば、それだけで国を出てもいいと思える。いつか愛し、愛される関係になればもっといいとも思うけれど、それはきっと高望みだ。
中に入っていったレーナルトはなかなか戻ってこなかった。手すりにもたれたままのリティシアは、淡い期待を追い払おうとするように頭をふった。
「リティシア様!」
名前を呼ばれる。予期していたのとは違う声に、リティシアはその主を求めてきょろきょろと見回した。
「下ですよ、下」
そう声をかけられ、リティシアは手すりからその人物を見下ろす。
「コンラート!」
リティシアは笑みをこぼした。下から手をふっているのは、リティシアとヘルミーナの幼なじみの騎士。リティシアも手を振り返す。
「舞踏会はどうですか?」
「最高よ!」
彼女は笑う。他の誰にも見せたことのないような、華やかな笑顔で。
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